お世話になりますm( )m 以前から気になっていたのですが 殺人事件や事故や震災などで 何も悪くない人が亡くなり続けています とても辛いです よく「 運命なのよ 」とか いう人もいます それは「 運命なのでしょうか?? 」 以前、知り合いの方ですが 生まれた時から死ぬまでは 実はもう決まっているという事を 言っている方もおられました そうなのでしょうか?? また、平気で人を苦しめた人は 報いを受けるべきだと思うのですが そうゆう人は天罰と言いますか 地獄といいますか 何かそうゆう目に合うのでしょうか? よろしくお願い致しますm( )m
先日祖母が亡くなりました。 三親等内で初めて看取った家族でした。小さい頃から毎日家に来てお風呂に入れてくれたり、公園に散歩に連れて行ってくれたり、アルバムを見るのが好きな私に何度も1枚1枚説明してくれたり、お札でお年玉をもらうと親に回収されるから小銭でほしいと小さい頃に頼んだら成人しても小銭で1万円分くれたり、たくさん思い出があって私も大好きな人でした。 急に亡くなってしまいましたが、お見舞いに行くことは出来てお話もできて気持ちの整理が着いた状態で見送れたと思います。 でも今もふと、祖母が極楽へ行ったらどのような姿で過ごすのか考えてしまいます。亡くなった時の姿でいるのでしょうか?そうであれば私が年老いて亡くなったら私だと気づいて貰えないかもしれません。それとも自分がいたいと思う姿でいるのでしょうか?そうであればきっと私が知ってるよりも若い頃の姿になる祖母に私が気づけないかもしれません。 そのようなことを考えると、私が今死ねれば祖母に確実に気づいてもらえるのにな、とも思ってしまいます。 どのように解釈すればいいのかお教え頂きたいです。
このサイトに出会い、死のことを考える(死の恐怖を考える)のを少しずつですがやめることができた者です。 お坊さんのありがたいお言葉をいただき、今を全力で生きることに集中しています。 ただ、一つもやもやしたものがあります。 子供を産むことです。(男なので産むは適当ではないかもしれませんが便宜上) 近い将来、結婚する予定であり、これまでは漠然と子供も欲しいなあなんて思っていました。 ただ、改めて死のことなどを考えた時、自分の子供にその恐怖や苦しみを与えることになるのだと気づき、子供を産むことは酷いことではないかと思い始めました。 仮に子供が死というものを考えず、前向きに人生を過ごしてくれたとしても、最後は辛く悲しい死という結末を迎えます。 いつか死ぬ存在を自らが産み出すのは、恐ろしいことではないか、そう感じて仕方がありません。 極論、人類繁栄の放棄につながるので危険な考えだとは思うのですが、やはり個人という存在に目を向けた時、上記の考えが捨てられません。何かよい発想の転換はないでしょうか。
いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
父が自死して、1年。自死という事情と、コロナもあり、一周忌はやらないことになりました。 私の気持ちは沈み、普通の死じゃなかったから、、と言ったら、じゃなに?普通の死ってなに?事故は普通の死じゃないの?自死も? その考えおかしくない?と言われました。 わたしは、父の事思い出す度、つらくて、踏ん張ってきました。 ダンナが怒るのは正当ですか?
私自身精神疾患により、希死念慮に悩まされています。 ただ、幼少期に母親を病気で亡くしているので自傷、または自分から死へ向かうことは母に申し訳なくてできません。 (錯乱状態になったりした場合はわかりませんが。まずそうはならない疾患です) 長患いの中で、とても澄んだ心を持つ友達ができました。 彼女は自分だけを責めて、病気のせいなのに「こんなこともできない自分はダメだ」との思いを抱えて自ら旅立ちました。 私個人の考えでは彼女は自殺というより「病死」だと考えています。 身体的疾患での死は仕方ないととらえられますがやはり自死というのは公にするには憚れることもあるようで私が彼女の死を知ったのは旅立ってから3か月ほど後のことで、もちろんお葬式にもいっておりませんし、ご両親が特殊な宗教をなさっている関係からお墓参りもさせてもらえません。 「霊能者」というような人は「自殺した霊魂は救いがない」とか「ずっと真っ暗闇をさまようだけ」などと言う人が多いようです。 そんなのひどすぎる。あんなに苦しんだ挙句、誰も責めず自分だけを責めて、精神疾患による考え方の歪み・・あまりこの言葉使いたくありませんが・・もあっていってしまいました、あんなに苦しんだのにまだ苦しまねばならないなんて・・・ 自らいのちを絶つということをよしとしているわけではないのです。 ただ、精神疾患(心の病気≠精神疾患)によりこのような結果になった方々にも救いはないのでしょうか。 もう一度申し上げますが、彼女が生きていた頃を知っている私は 彼女のことは今でも「病死」ととらえています。
どうして安楽死はあまり認められないのですか? そりゃ生きれるに越した事はありませんが、死を選ぶ人はもうどうしようもなく生きるのが辛い‥疲れた人だと思います。 無理に生かして、その人が犯罪に走ったりするよりかはよっぽど良いと思います。安楽死施設みたいなのが出来たら良いと考えています。 お金さえ積めば、誰でも自由に生涯にピリオドをうつことができる素晴らしいものになると考えています。反対する人って、どういった理由で反対するのでしょうか? 高齢者も変に長く行き過ぎて認知症とかになる恐怖もなく、自由に安らかな終わりを迎える事が出来て良いとは思うのですが…。 幸せな人は、自由に生きれば良いし、そうじゃない人は自由に死ぬ事ができるなんて、とても素晴らしい事だと思います。 お坊さんはどう思いますか?
相談を見て下さり、ありがとうございます。久しぶりに質問失礼します。 私は両親が離婚していて今は義父と実母、弟と犬2匹と暮らしています。 また実の両親は7年前に離婚・別居しており、1年前に今の義父と再婚しております。 私と弟は成り行きで母に着いてきてくれたのですが義父と再婚するまでは小さなアパートで貧しいながらも女手一つで育ててもらいました。義父と再婚してからは義父が新しく建てた家で暮らさせてもらっています。義父と母には感謝しかありません。 また実父も離婚した原因(不倫と聞いています)の張本人ではあるものの、親子の縁は切る事が出来ずたまにパソコンの操作などを教えて貰いに行っております。また、実父の父親(私の祖父)には特に可愛がってもらっていたのでそういう面でも親しくしています。それに加えて父方の実家がかなり続いているらしく(自慢になりますが私で12代目らしいです)墓を守らなければならないのですが、それを私が途絶えさせるのも罪悪感でいっぱいです。 まぁこんな感じで幸せに暮らせればよかったんですが、私も大学生になり将来のことを考えなければならなくなってきたのですが実父、実母、義父の3人の介護や仕送りのような補助などのことを考えるととても不安になります。 それに、わたしにもし子供が出来た時、実父側と実母・義父側のどちらにつくかを選ばなくてはならないかと思います。実母・義父を選べば実父側の今までを潰すことになりますし、実父を選べば実母や義父を裏切ることになってしまいます。今も生きている父方の祖母、母方の祖父母に相談してもお互い、自分の方を選んで欲しいということになってしまいます。 私は弱気ですしこんな事で悩んでしまうのですが、弟にはこんなに心苦しい重荷を課せたくありません。 長文になってしまい、申し訳ないのですが、お坊さん方からの「第三者」として、そして「仏教視点」でのアドバイスや心構えを教えて頂きたいです。
時々、「死ぬしかない」と強く思ってしまいます。 自殺をしたら天国へ行くことはできませんか。また、自殺者は成仏しない、死後も自殺を繰り返すというのは本当ですか。
3度目の質問です。 前回の質問を見て頂けると幸いです。 自分のしたことが受け入れられず。なぜあの時あのような決断をしてしまったのかずっと考えてしまいます。あの時は経済的にも他の事でも不安な事ばかり考えてムリだムリだとばかり考えてました。家族の為にお腹の子を犠牲にするつもりは全くなくて産めばなんとかなるさで産んでどうにもならなかったら?露頭に迷わせてしまったら?苦労させてしまうと思ってました。産み育てる勇気がなくて自分に言い聞かせていたのかもしれません。ホントは産みたいキモチもあったのに蓋をしていました。なぜ大切な命だって妊娠した時点で責任は生じているってあの時分からなかったのだろうと思います。ホルモンバランスが崩れていてつわりもあり1人で1週間で決断しろと言われた中ではそのような決断しかできませんでした。すべて言い訳です。自分が弱かったからです。誰でも中絶は駄目なことってわかるのに追い詰められたらどんなひどい事もできてしまうのかって自分はサイコパスなのかひどい人間なのかって思います。バチがあたるとか人一倍思う方なのに性格的にも絶対に耐えられないってなぜあの時わからなかったのでしょうか?結局失わなければ気付けなかったいい年して愚かで浅はかな人間だったんですよね。 今は失って傷ついてその後ずっと考えてきたからもっとああしていればこうしていればもっとポジティブに全力で頑張ればなんとかなったんじゃって分かるけどあの時は追い詰められていてそうするしかないってそうとしか考えられなかったんだと思います。 でも今のわたしはずっと自分を許せなくてずっと自分を責めてしまいます。 この事で私が心を病んで働けなくなったら家族が不幸になったらこの事はなんだったろうと思って今カウンセリングを受けたり安定剤を飲んだりして必死に生きています。 子供達に罪はないけど、私はこんな罪深い事をしておいて自分は生きる為に必死に薬飲んだりしているって何なんだろうって思ったりします。 自分で自分が分かりません。
私は、いつも頭の中に家族がいつ死んでもおかしくないと考えており、死ぬかもしれない死ぬかもしれないと強迫観念が回っています。特に次男の食事を作る時、洗剤の洗い残しで毒になり、次男を死なせてしまうのではないか?火に近づけたセーターを次男の部屋にしまう時、セーターが後から燃え出して、次男の部屋が火事になってしまうのではないか?と、本当にばかばかしいことばかり心配してしまいます。長男にはそれほどないのですが、死のことを心配しているのは同じです。どうしたら、この苦しみから逃れることができるのでしょうか?よろしくお願いいたします。
こんにちは。よくある質問ですみません。 長いこと死にたいという気持ちがなくなりません。 長い間、死にたいと思っているせいか、死ぬことへのハードルが年々下がっています。 死ぬことはいつでもできるから、とりあえず現状維持しようと思っていても、死ぬことへの欲求に負けそうになります。 私の調べですが、気楽に自殺するのに必要な金額は3万円です。 「月3万は自分の好きなことに使う。生きるためにお金を使ったのだから今月は生きよう。」という消極的な生き方をしています。 大抵嫌なことがあるから、しんどいことがあるから、自分が恥ずかしいからなど、死にたい理由は私自身の中に、私自身の弱さによると思います。 今回は、バイト先からもう信用できませんと言われたからです。 もともとしたくない苦手な仕事です。断れない状況だったので仕方なく引き受けました。 正直、最初から信用してくれてない感じがあって辛かったけれども、やれるだけやりました。 でもダメでした。 バイトもうやめればいいじゃんと自分でも思います。 死ぬこと以外の解決方法はいつだってあります。 でも、死ぬことへのハードルの低さが、今後も色んな問題がでてくるんだから死ぬのもいいんじゃない?と囁いてきます。 自分自身が死にたいという気持ちを否定してしまいたいわけじゃありません。これはたぶんどうしようもないからです。 実際に死んでしまおうとするのをなんとか止めたいんです。 私自身、死にたいのと同じくらい本当は生きたいのだと思います。 どうしたら、苦しくても死ぬことへ逃げずに生きられますか。 教えてください。
上の子の発達障害のサポート、下の子の入園、同居での義父母との関係性、職探し、季節の変わり目と一気に色んな変化があり、精神面での調子を悪くしてしまい精神科に通っております。 はじめの頃はお薬を毎日決まった分飲んでいればとても調子が良かったのですが、日常とイレギュラーな事があった時(学校行事など)、前もって分かっていたはずなのに自分にとっては大きなストレスとなっていたようで、その出来事の前後に悪夢を見たり眠れなかったり、気晴らしのつもりで出掛けた先でパニック発作を起こしてしまいました。 その都度お医者さまに相談をしてお薬を追加してもらってはいるのですが、パニック発作や強い不安感を持っている時間はとても辛く、耐え難いものでいっそこのまま死んでしまいたいと思い、死に場所を探し回ったり、とにかく手首を切りたいと思ってしまいます。 発作が落ち着きなんとか日常生活に戻ると死にたい気持ちは消えるのですが、少し油断するとまたあの恐ろしい時間がやってくるのではないかと思ってしまったり、耐えきれず突発的に自殺行為を起こしてしまうのではと思います。 自殺は、後に遺された人たちをどれだけ苦しめ悲しませる事なのかということは分かっています。 だけれど今の自分の精神状態が正常ではないので死にたいと思うときに何かしでかしてしまうのではないかと不安でたまりません。 仏様は何と仰るのか分からないのですが、神様は乗り越えられない人にはそういった難しい試練は与えないと聞きます。それが本当だとしたら、私は自分のこういう体質を試練として乗り越えて自殺という形で投げ出すことはせず、生涯を全うすることができるということなのでしょうか?
仏教では死ぬ瞬間の感覚をどのように捉えているのでしょうか? 死にたいわけではないのですが、幼い頃から希死念慮というか、死について考えることが多く、最近はコロナの影響で拍車がかかっています。 亡くなった方には聞けないし…。
今年で80歳になる母のことなのですが。 鬱で ずっと精神科の病院に 入院していたのですが 認知症になってしまい介護施設に入りました。 施設に入るにあたって いろいろ説明をしてくださってた時に もし万が一の時の延命治療は どうするかを聞かれました。 人間誰しも死は訪れるものですが 母の死について考えたくなかったので すっと考えないようにしていたのですが 考えないといけない時が来てしまったのだなと 思いました。 とはいえ余命宣告をされたわけでもないし 今は命が危ない状況ではないので どういう心持ちでいたらいいのか 自分でもわからずにいます。 母には元気でいてもらいたいし でも いつかは死を覚悟しなきゃいけない時が 来るのかと思うと母を失うのが怖いです。 どんな心持ちでいたらいいのでしょうか。
私は死に対して恐怖を感じてます。 自分が死んだ後どうなるのか魂はとか 色々考えてしまいます。 死後の世界はあるなんて、みなさん言いますが、私にはそれが分かりません。 死に対しての恐怖を取り除く事は 出来るのでしょうか? よろしくお願いします。
夫は突然死でした。 人は突然亡くなると自分が死んだことに気づかないと聞いたことがあります。 夫はきちんと死を理解して旅立つ準備が出来ているのでしょうか。 もし理解出来てないとすれば何をしてあげれば良いのでしょうか。
この前、臓器移植に関する資料を貰い、家族と考えてみました。 私は死ぬのが怖いです。なので、脳死でもそれを死とは考えられないし、親がそんな状況になっても絶対に死んだとは認めないし、できる限りの延命治療をすると思います。 しかし、臓器移植を待つ方の立場になって考えてみると、それはもう死んでいるのに等しいから、脳死状態でしか手に入らない心臓なんかを譲ってほしいと考えてしまいます。 どっちの立場に立って考えるのもつらくて、頭がいっぱいになってそれ以上考えることができません。死にたくないから、誰かの心臓として生き続けるのもいいし、もしかしたら脳死から回復するかもしれない万一の可能性を信じて、心臓が止まるまで待つのもいい。自分がどうしたらいいのか分かりません。 なんか、脳死とか、死についての捉え方を変えたら自分が納得できる選択肢を選べるのでしょうか。 仏教ではどう死や脳死について捉えているのか、教えてください。
本日、父が亡くなったと連絡がありました。自死でした。 父は単身赴任でした。 私はこの数ヶ月、精神的かなりダメージを受けていたのですが、今日更に父親が亡くなり、自分を責めることしかできず、どうしたら良いかわからないので、ご連絡させて頂きました。 父がストレスからパニックになってしまい、母にきつく言ったり、一日中電話をかけてくるので、きつく言ったりしていました。 単身赴任先では異変を察知しながらも、周りは助けを求めても聞いてくれない、眠れないと私の妹に話をしていたそうです。 私の妹もなんとか励まそうとしていましたが、多分、私達家族に迷惑かけてしまい、もうどうすることもできないと思ったのかもしれません。 父は鬱状態だったようで、全てを背負ってしまいました。 家族みんなが疲弊してしまい、父の言葉をちゃんと受け止められず、最悪の結果になってしまいました。 何で戻ってきなさいと言えなかったのか、何で大丈夫だからと言えなかったのか、本当に自分が馬鹿で自己中な人間だとしか思えません。 コロナで単身赴任先に行けなかったので、会うことも出来なかったです。 父は凄く苦しかったのだなと思うと涙が止まりません。父にそんな選択をさせてしまったこと、ただただ申し訳ない、罪の意識でいっぱいです。 恩返しも出来ず、何も出来なかったので、自分を責めるしかありません。 せめて成仏してほしい、苦しみから解放され、来世は幸せになって欲しいと思います。 自殺した人は成仏できないとか地獄に行くといわれますが、自分を犠牲にして他人に尽くしてきた父にこれ以上苦しみを与えないで欲しい。遺された私達はどう供養し、成仏させて天へ逝ってくれるのでしょうか。 せめてもの償いとして、父をおくり、祈りたいです。
人生とは?と聞かれたらどう答えますか? こちら40代男性ですが、この年代になるとある程度親しい人が亡くなったりすることがあり人生について考えることが非常に増えました。 先日も年の近い人が急に亡くなり何とも複雑な心境です。 人間ですから死ぬことは避けられませんがどう考えていけば良いか分からなくなってしまいました。 目の前のことを楽しめば良いという人もいますが時々虚しくなります。