自分はこのままじゃ駄目だと一昨年の年末以来ずっと悩み続けてきました。年齢相応にしっかりした人間にならなくちゃ、と思い続けてきました。hasunohaでも二回程相談に乗って貰いました。 今の私は何も前進していません。人の話や本の内容が頭を素通りしていきます。自分に自信が無いから行動を起こす事ができないんです。変わった事といえば自分の部屋が以前より片付いたくらいです。 相談に乗ってくれたお坊さま達には申し訳ない気持ちで一杯です。私のような人間はギリギリまで追い込まれないと変わることも自分を褒めてやることもできないのでしょうか?
お坊様方の親身な解答を見て、私も質問させて頂くことにしました。 まず、私個人は幼い頃から、育児放棄、虐待、などを受け、今となって考えれば躾らしい躾を受けずに、成人しました。 成人してからは色々ありましたが、結婚もし、毎日食事もでき、子どもはできませんでしたが、小さいながらも、それなりの幸せを手に入れました。 そこには、友人知人などの助け、そして自分自身の努力も多少あったと思います。 昨年、老後に備えて、借金をして教育支援業で起業いたしました。 教育支援業を選んだ理由は、幼い頃自分は辛い思いをしてきた。 だから、少しでも同じような思いをしている子どもがいたら、助けてあげたいという気持ちからです。 しかし業績は一向に伸びず、生活をする資金も無い、借金も返せない状況になってきました。 もう、すぐにでも畳まなければならない状態です。 そうなった原因は、起業に対する私の勉強不足が一番だと思いますが、それ以外にも、不思議な出来事が多々あります。 例えば、「死」をイメージさせるような、不可解な現象が起きたり。 知人のアドバイスを素直に実行しても、周りが不思議に思うほど反応が無かったり。 アルバイトをして、なんとか凌ごうと思っても、全て面接で落ちたり。 何をやっても、良くなる気配がありません。 私の父も、事業で失敗し、親戚一同夜逃げするような事態を起こしました。 その後も2回ほど起業しましたが、いずれも失敗し、最近では金銭トラブルで離婚するとかの騒ぎになっております。 弟も、数年前…数百万の借金を作り、当時私が弁護士費用とか工面しましたが、結果がわからぬまま、行方不明になりました。 話は少しずれますが、父は私達が成人してから、籍を婿養子という形に直しております。 私も子どもがいません。 弟も、結婚はしておりませんので、やはり子どもはいません。 従兄弟も結婚していなかったり、子どもができなかったりで、 結果的には、次の世代に「血」を残すことすらできなくなっております。 こうなってくると、因果とかしか思えなくなり、正直…生きていく意味さえ無いように感じてきます。 ぜひ、解決の糸口になるような助言を頂ければ、幸いです。 長文失礼いたしました。
お忙しいところ恐縮でございます。 先日、以下の質問をさせていただき、新たな疑問が生じたため、また質問をさせて頂くことに致しました。 → 「他人を苦しめる人が得をするのは何故でしょうか?」 http://hasunoha.jp/questions/17603 先の質問にて、仏教における因果についてご教示いただきました。 私の身に今まで起きてきたことは、それほど多くの方が経験する訳では無いことばかりです。 (主観的にも客観的にも)決して良いとは言えないことが続いております。 立つことも話すことも出来ない頃から、ずっとです。 (プロフィールに一部記載しておりますが、記載していないことも多々ございます。 ) これは、私自身が生まれたときから悪い原因を作り続けたからなのでしょうか? 正直なところ、自分では、こんなに堕ち続けるほどに何が悪いことをした覚えはございません。 お忙しい中恐れ入りますが、ご回答を頂けますと幸いです。
本当に悟っているという状態はどのようなものなのでしょうか? 最近亡くなっている方の声がわかったり、その方の前世がわかったりすることがあります。 そして自分の前世もわかったりするのですが、その中にお釈迦様という人がいるそうなのです。 その方が言うには、このように前世や亡くなった方の声が聞こえることを悟りと言うらしく。 お坊さんは亡くなった方の言葉を伝えるためにお葬式をしているのでしょうか? 残念ながら僕は今までそういうお坊さんと出会った事がありません。 成仏していないのに葬式が終わったり、成仏しているのに何度も法事をしたり、それは何の意味があるのか僕には理解出来ません。 この声が聞こえるというのは僕の想像が作り出しているのでしょうか? それとも本当の声なのでしょうか? 悟りの状態がわかるお坊さんは今日本にいますか? 是非お話ししてみたいのでご紹介下さい。
閲覧ありがとうございます 結婚してる方を見るとやるせない気持ちになります 他の人の幸福を祝福できるならまだしも、羨むだけでは何にもならないのでこんな気持ちになりたくないです。 趣味で、知り合った人や尊敬している人が結婚してる・子供がいるなど聞くととてもやるせない気持ちになります。 しばらくすれば気にせず交流出来るし、元から知っていた人が結婚する分にはこんな気持ちにはなりません。 自分が結婚できるか 好きな人ができるか その人が私を好きになってくれるのか 思いが通じたとしてもやっていけるのか そういう自信がないところが全部が趣味の場で生き生きと活動して、なおかつ私が得られるか不安なものを持ってる人に 嫉妬という形で出ていると思うのですがこんな気持ちになりたくないです。 以前いただいたアドバイスも含めて努力もしていますが、やっぱりこう、好きなものを目の前にしたとき 関係のないことでマイナスの気持ちになってしまうのが辛いです。 どうこの気持ちと向き合っていけばよいでしょうか?
こんにちは、初めまして 僕は死ぬのが怖いです。だから救い的なものを求めて、ずっと浄土真宗の聴聞をしてきました。けれどもなかなか信心が頂けません。 ひょんなことから、坐禅で悟りを開いた方と知り合い、在家でも修行すれば悟りを開けるということを知りました。 しかし、禅で悟ったらどうなるのかがよくわかりません。初期仏教であれば、輪廻からの解脱が「救い」だったんでしょうが、僕を含めてほとんどの日本人は輪廻を信じていないと思います。一休さんが、死後は無いと言ったという話を聞いたことがありますし、どこかの老師が死にとうないと言いながら死んでいったという話も聞いたことがあります。 若くして死んでいった母親にも会いたいし、自分も死ぬのが怖い、という思いで浄土真宗を聴聞してきましたが、先程書いたように信心がなかなか頂けません 坐禅をして悟りを開くと、どういった救いがあるのでしょうか?少し不遜かもしれませんが、凡夫の僕から見れば悟った人も死ぬので、救いではないんじゃないかと思ってしまいます 長文失礼しました
どうすれば心は静寂に平安になるのでしょうか お考え聞かせてください。 あともう一つ。 悟りとはどうゆうことですか 具体的に教えて頂けましたら、幸いです。 宜しくお願いいたします。
私は身近な方々が病気になられたり亡くなられたことで「死」と「生」について思い悩み、信仰に安らぎを求めて自分なりに仏教を学び始めました。 人は亡くなると仏様のいらっしゃるお浄土に再び生まれるという教えは非常に素晴らしいと思ったのですが、元々ほぼ無宗教だったもので「信じたいけど、本当はどうなのだろうか?」と不謹慎にも思ってしまい、他宗教の教えを始め科学的に検証されている例(臨死体験・輪廻転生など)から少々怪しげなスピリチュアル方面まで調べに調べた結果、「信じたい部分はあるけど信じたくない部分もある…どうしよう…」とパニックになってしまいました。 浄土・天国はある、どんな人もそこに導かれる、神仏や先祖の加護はあるなどと言われれば安心し、〇〇だと・〇〇しないと地獄行き(または因果を背負って転生)、この世は仮想、死んだら無などと言われれば「怖い!嫌だ!嘘に決まってる!」とノイローゼ気味に怯えてしまう始末です。 元々思い込みやすい性格で、起こってもいないことや分からないことについて過剰に不安になってしまうほど精神的に揺らぎやすいです。 自分でも大変馬鹿馬鹿しいと思っていますが真剣に悩んでいます。 なんとかしてこんな不安定な自分を変えたいと思い質問させて頂きました。 どうかお坊様方のお知恵をお貸し下さい。
こんにちは。 とても前に自死を考えるほど悩み苦しんでいたときhasunohaを知り本当に救われ、またそれから仏教的な考え方が好きになり浅はかではありますが自分なりに勉強しております。 お坊さまなど皆、お釈迦さまのように悟りを得るために日々考え、生き、修行なされてると思いますが、それで、自分が考えれば考えるほど思うには、この世で悟りを得たのは釈尊のみで(仏陀の一人とも書かれているので他にもいらっしゃるのでしょうか…)人間がいくら考え修行しても悟りの境地になど到達できるはずもなく、それではなんのために修行し生きると言うことになるので、太古に実際に悟りを得た人が一人だけいるという憧れや目標のために仏教者がつくりだした偶像なのではないかと思ってしまいます。ゴータマ・シッタールダという人物はいらっしゃったかも知れませんが。お釈迦さまが言われたとされる言葉なとば大変好きなのですが、全て弟子から弟子へと言い継がれて文献になったのは亡くなって何百年も後だとお聞きしますし。 お坊さまにこんな事をきくのはいけない事だとは思いますがどう思われますか?
ご縁欲しさに神社仏閣に参拝している者です。 それだけに満足出来ず家でもネットや書籍による独学、或いはお寺のお話会イベント(?)で得た知識で祝詞やお経を唱えたりしています。 …はい唱えているだけなんです、仏教の戒律は守っていません。かつては戒律を守る為、このサイトを熟読したり、実際に質問をさせてもらったり、僧伽を探し回ったり、本気で出家を考えたりしてました。 十善戒、…どころか五戒すら守れない、なかでも「邪淫」「飲酒」「瞋恚」「妄語」どうしてもコレらを抑える事が出来ませんでした。 全て過去の“あやまち”やトラウマ、自身の力の無さからくる今の自分の境遇に激しい怒りを覚えたり、酒を飲みながらノリノリで真言を唱えたり、お経を唱え終えたら邪淫を始めたり、邪淫の後にお経をしたり… いつもがいつもこうではありませんが、こんなバチ当りな日があります。 もっと正直に書くと私は“悟り”になど興味が無く、全ては神仏とのご縁が欲しいから参拝、真言お経をしているだけなんです。 当然大乗の仏教、他者の救済にもあまり興味なく自分や家族にさえ幸があれば他者などどうでもいいとさえ思っています。 しかしそんな私にもバチなど当たらず、それどころか神仏から驚くべきご縁を頂いたり、望み通り幸を頂いたりしています。 …そんなんだから【今のままで良いか】とさえ思い始めたりしています。 仏教には厳格な戒律や崇高な思想がありますね、それが真言やお経の中でも書かれていたりしますよね。「○○に帰依したてまつる」「衆生と共に○○」みたいな。 仏教の戒律は“約束”なんて軽々しいものでない、中でも真言を唱え心に描く仏様には“誓願”とまで言いますね。 “悟り”を拓く気など無いのに、衆生を救済する気など無いのに、ただ仏様が好きだからって理由で、お経や真言をする自分が好きだからって理由で仏様を欺き心地の良い疑城胎宮の中で“仏教ごっこ”を楽しむのか… それとも…?どうすればいいですか? 私のようなロクでなしでも今こそが真剣に人生、そして仏教を考える上で一種の“ターニングポイント”のように感じられたので質問させてもらいました。 興奮故に支離滅裂で読みにくかったらすみません。 仏様に直接教えて頂き、直接罰を与えて頂けたら一番ラクなんですが…私自身ハッキリとモノを言われないと分からない者なのでよろしくお願いします。
僕は、数年前まで、とある掲示板サイトで固定のハンドルネームをつけて書き込みをしていました。 敵が多い人間関係の鬱憤を晴らすように、毎日のように口喧嘩や自分語りを繰り返し、かといって気が晴れるわけでもなく、ムカムカしながらパソコンの前でキーボードを叩きつけている日々でした。 そんなことを繰り返すうちに、掲示板の数万人の利用者のヘイトを溜め続け、ついには過去の書き込みから特定をされてしまいました。 当時の僕は馬鹿で、炎上を収めようと弁護士を雇ったのですが、さらに燃え広がる一方で、嫌がらせはどんどん過熱していきました。 一連の騒動は僕を離れて熱を増しており、お世話になった弁護士の方のK先生が嫌がらせのあまり若年性痴呆症を患ったり、僕を名乗るSNSアカウントが多数の人に口汚い罵りをしていたり、今羽ばたき始めたという段階のアイドルユニットを大炎上に巻き込んだりしています。 家族はもちろん、近所の方々、通っていた大学、さらには大御所の公認会計士さんから老舗の芸能事務所にまで多大な迷惑をかけてしまっている現状です。 僕への嫌がらせで家族がノイローゼにかかりかけているので、せめて離れて暮らしてやりたいのですが、自分の貯金もなく、嫌がらせへの対策の使うお金で家計はどんどん圧迫されていっています。 今はどこの就活先でも顔を知られてしまっていて、どうにも自立する術がありません。 自分がやってきたことは許されることではないし、償っても償いきれないと言うことは分かっています。 しかし、これからの人生、増えていく罪を全てを背負っていくしかないのでしょうか? 気がつくとピンサロに向かって足が動いていて、自分から逃げる日々です。 どうすればいいのか分かりません。押しつぶされそうです。助けてください。
質問失礼いたします。 行く先先で虐待、人間関係、ブラック企業と色々ご縁が続く私でございます。 代わらず嫌な出来事は多く目の前にあり、 夕飯の支度をしながら 疲れたな、死んでやろうか。 などと思うこともありますが、 まあそれも無駄だな、と思いながらなんとかストレス回避をしながら楽しみをみつけて毎日過ごしています。 過去のトラウマはだいぶ歳のせいか痛みを覚えてくる事は減り、まるで他人の事のようになってはいますが、周りを助ける経験や知識として生かす事が出来るようになってきています。 そんな最近の趣味が、 人と議論することや、 思考実験的な小説を書く事なのですが、 仏門を題材に小説を書きたく思い、 悟りと諦め、 または悟りとは何なのか、が気になっているのですが、説法頂くことは可能でしょうか? 仏門が目指すところは、 楽しく生きて死ぬための基本的な知恵だと思っています。 本を読んだりしてはいるのですが、 お恥ずかしながら、今回書こうとしているのは家が寺の為そのまま住職を引き継ぎ、 まだ自分の目指すものの先が見えず悟りとは何かと悩むおそらく浄土真宗の僧侶の話です。 (浄土で救われるなら、生きて頑張る必要はないのでは?ととんだ浅はかな考えを持っている、若い住職です。) 寺を訪れにくる人たちの過去の虐待経験や家庭の問題を受け身で聴き、俗世を憂う話です。 お坊様達は、痛みだらけの世の中をどうかんがえていますか? 痛みばかりでも、人生捨てたもんじゃない、と思いますか? できれば、このような経験を自分がした事がある、というお坊様のお話もきければと思います。 過去の事は過去、自分も他人も許し前を向く、というようなことをしてみても、やはり古傷はいたいです。 悩みではなく質問になってしまい申し訳ありません。 宜しくお願い致します。
こんばんは。いつもお世話になっております。 ゆーりです。いつもいつも、質問ばかりで、お礼の返信が出来なくて申し訳ありません。時間を作り必ず、お礼申し上げます。 さて、本日は、自分磨きの方向性について質問させて頂きます。 2ヶ月半くらい前でしょうか? 私は、ここで強くなるにはどうしたらよいか?を質問させて頂きました。ぜひご一読ください。 私は、今、○○さんに思いを伝えるために自分磨きをしています。 持論ですが、自分磨き(自己啓発)というと、ネットなどによく書いてありますように、外見をお金を掛けて変える様な内容をよく目にします。 人は見た目が9割とは、よく言いますがそれでは私は○○さんには届かないのでしょうか? 私には、本当のかっこよさ、強さというものは、内面から滲み出てくる人徳ではないかと思われてなりません。 私は内面を磨きは、辛い道を選ぶ。つまり今できる努力、すべき努力を逃げずにするということだと思います。 私は、今、大学院に向けての受験勉強、教員採用試験の勉強、野球、TOEICの勉強、と四足の草鞋を履いております。 これを乗り越えれば、自分は間違いなく一皮むけると思います。 私は、大学では追試だらけ、野球は(大学から始めたということを差し引いても)下手くそです。 ですから、大学院・教採合格、野球でレギュラー奪取出来たとしたら、間違いなく一生自分を誇れると思います。 また、これらのおかげで、今の自分は、色々な勉強をし、読み物を読み、野球といった努力のおかげで色々な人や物と出会い、内面も、ものすごく成長している気がします。 しかし、これは紛れもなく自分の為でありこの気持ちは相手に届くのでしょうか? もちろん、自分の為にしている努力ですから、相手に届かないかもしれません。自分のしている自分磨きをしてから・・・○○さんに告白するという事は物凄く遠回りです。 ですが、自分に今、出来る自分磨きというものは他に見つかりません。 漫才師になった時の為に、弱い奴を笑かしてやれるようなコントのネタを磨く、これくらいでしょうか。というのは、冗談にしても・・・ 私のしている自分磨きというもの自分磨きと呼べるのでしょうか? また自分のこれからしていくべき自分磨きというものは、いかなるべきでありましょうか? お伺いしたいと思います。お手数をおかげしますが、宜しくお願いします。
初めて投稿します。 「悟り」に関する質問です。 「悟った人」というのはいないと解釈しています。 何故ならそこに個人的なこととして捉える「個人」の消滅だと認識しているからです。 だとしたら、何故仏教の教え、というものが存在するのでしょうか? そもそも救われていない個人はいないし、救いが必要な人も、仏陀からしてみたら見えていないと思うんです。個人的な自由意志と選択があるのは幻想の中だけで。 お弟子さんが広めたんでしょうか? その教えには、個人の自由意志と選択の余地があることを説かれているのでしょうか? ほとんど知識がなく申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
世界の裏側ではいつも悲惨な戦争が起きてます もしもお坊様が目の前で愛する人が殺されてもそれは執着、煩悩、雑念と切り捨て 悟りを開く無の境地になれますか?
カクヨムなどの小説投稿サイトでムトウゲンジ名で人間の真理の考察しております。 とりあえず自分の行き着いた人間の真理が仏陀に近い事は理解しました。 仏陀もまだ甘いですがね。 そこで質問。 仏陀は死んだ後とかそんな事は教えてないよね? 人間が人間として生きる道を説いていた。 どう生きたら良いかを説いてました。 生きていくための道をですよ? なのに念仏唱えりゃアータラコータラ。 極楽だ浄土だ。 昔の高僧が栄養不足の睡眠不足でトリップした妄想を大事に残してこれが仏の教えとか仏陀をバカにしすぎてないですか?仏教全般。 仏陀が生きていたら仏教の信者に助走うつけて殴り付けるレベルまで落として仏陀の教えバカにしまくり。 本当にそれにすら気が付かないぐらい何も考えないのが修行なんですかね? 悟りの境地ぐらいあちこちの人がしてますよ。 アインシュタインから宮本武蔵、今はイチローと下手したら江頭2:50もね。 昔のシリアルキラーもしてた可能性高いのはいますね。 仏陀が半端な知識なため善人しかできないと思っただけで。 自分も到達しましたしね。 さて? 仏教なんぞしてると悟り開くのは無理なのになんで悟りだのなんだの言葉を使うか知りたい。
お坊様 仏教についてもうすこし深く知りたくて色々調べたのですが やはりわからないことがあってモヤモヤします なのでお答えください 仏教のテーマは苦しみから逃れて悟りの境地に行くことですよね でも釈迦様は菩薩に悟りとは何かを聞かれても何も答えなかったんですよね それをバックボーンに諸行無常とかそういう言葉が出てきてもなんか怪しいです それに四諦、八正道、中道など苦しみから逃れて悟りの道を歩もうとすることを意識すること自体が結局は五蘊無我になれないと思いますし 釈迦様が五蘊無我になって悟ったならそれは感覚器管すべて感じなくなって死んでるんじゃないですか? 生きてるんだとしたらその生きてる我はなんですか? 自分の我じゃなくて動物、人間、植物、全宇宙の我ですか?だとしたら我々みんなも悟らないと釈迦様も悟れないんじゃないですか 釈迦様だけが自分ひとりで悟って救われてるならそれはまだ自我から出られてないと思いますし 出ているならなんで菩薩に悟りとはなにかを聞かれても教えないのか それを答えないのは我があるからじゃないですか我がなかったらペラペラ喋ると思うんです それとも真理は言葉で表現しちゃダメなものなんですか?だとしたら言葉にした瞬間それは真理で無いなら諸行無常とか言う言葉も真理じゃないんじゃないかと思ってしまいます それとも言葉にしたものは完全には間違ってないけど半分真理なんですかね 色すなわち空のように 言葉にしない次元が完全に真理で言葉にする次元は半分シャバで半分真理 でもそうだとしても言葉にしない次元と言葉にする次元は既存の世界としてありますよね まるで色すなわち空のように そうしたら結局この世界なんて半分真理で半分シャバで 究極の悟りなんかないのかと思って もうこうなるといくら悟ったって究極の悟りを得られないなら この世の全てを作った全能なる神にひざまづいた方がいいんじゃないかと思いまして
仏教の初学者です。何卒よろしくお願い致します。 ①ブッダがナイフで刺されたら、どう反応されたでしょうか。 慈悲で相手を許されるかと思いますが、止血しようとしますか? 「生への執着」すら持たないのでしょうか。(想像で構いません) ②より良い生のため、「知足」と「向上心」をどう両立させるか? 以下の4パターンを考えてみました。 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい しかし、諸法無我を考えると混乱します。 異なる線引きが適切でしょうか? また、向上心は往々にして執着/煩悩に変わりそうですね。。 ③人間は「感覚」に「反応」して、喜んだり悲しんだりするかと。 A 感覚「喉が渇いた」etc. B 反応「不快だ」etc. 瞑想や修行で、A⇒Bの繋がりを弱めることは可能だと思います。 悟りとは、A⇒Bの繋がりが無くなる(=涅槃)との認識です。 そこで質問。悟ったら、生きてて楽しいのでしょうか? (批判する意図は全くありません) 一切皆苦を前提とした上で、喜んだり悲しんだり「いま」を味わうのが「生きる」とすると、悟ってどんな「いいこと」があるのでしょうか? (メタに考えると、一切皆苦から逃げたいという煩悩がある?) 或いは、煩悩と悟りの間でどうバランスを取られているのでしょうか? 長文失礼いたしました。 ピントがずれているかもですが、何卒宜しくお願い致します。
質問1 思考を挟まず「ただ感じるまま」でいる状態、つまり「その様であるものはその様である」という絶対安心の境地において、六根の「意」に対応する、リアルタイムで湧き流れるこの「法(思考・想像)」すらも「ただその様であるだけ」という認識なのですか? 質問2 禅宗では「自他の区別分別が無くなる」系の悟りエピソードをよく聞きますが、これはあくまで禅定が深まった状態なのではなく、悟りが完成した際に起こる心理的または精神的体験であり、まさにそのような体験・感覚こそが「悟りの本質」であり「悟りそのもの」であり「悟りの境地の証左」でもあるという認識でよろしいでしょうか? 御回答よろしくお願いします。
知識がないのでもし勘違いがあれば訂正して下さい。また仏教に悪意があるわけでもなく単純な疑問なので教えてください。 仏教の開祖であるブッダはある時妻子を捨てて、真理を探究する旅に出て苦難の末悟りを開いたのだと思いますが、出家して出て行ったブッダには妻や子がいたかと思います。現代的にはある意味妻子を放り出して勝手に出て行った感じだと思うのですが、そう言う方を開祖とする仏教という宗教が、「家族や祖先や人との縁を大事にしなさい」言うのになんとなくもやっとします。簡単に言うとやってることと言ってること違う?みたいな感じです。 仏教の教えを学んだお坊さまはそのようなことを疑問に思ったりしませんでしたか?それとも家族である妻子を放り出しても良いくらいの価値がある教えを見つけた人だからそれくらいは許されるとお思いでしょうか?