初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。
先日プライベートでたびたび心が乱れたことがきっかけで、ご縁があり禅宗(臨済宗)に関心を抱くようになりました。 説法を拝聴したり書籍を読んだりしていますが、そこで疑問を抱いたのは、お寺などでお願い事をしても良いのか、ということです。 仏教においては求不得苦という苦しみがありますが、何かを熱心に求めたり望んだりし、それが叶うように願うことは、お釈迦様の考えに反してはいないでしょうか? 以前、お寺でお願いごとをしたときに、疑問を抱きました。 回答よろしくお願い申し上げます。
最近死ぬことがとても怖いです。今私は20代でまだまだ先の人生があると周りに言われます。死ぬ時よりも死んだ後無になるのだと思うと怖くてたまらなくなり涙が出てきます。今は祖父母も両親も夫も健在で幸せな生活を送ることができています。だからこそこの幸せがいつか無になることが怖いです。また、時間には逆らえないので祖父母、両親が先に亡くなるのだと思いますが、自分が死んでから会えますか?お母さんは必ず迎えにくると約束してくれました。夫も死ぬからといって離れ離れにはならないし、ずっと一緒だと言ってくれています。ただ、死んだら怖いとか迎えにきてくれるとか、そのようなことも思うことすらできなくなくなるのでしょうか。意識が無くなり、思いや感情や記憶も全て無くなってしまうのでしょうか。怖くて仕方ありません。自分が数十年前はこの世に存在しなかったというのも不思議でなりません。死んでも幸せな時間が続くという保証があればきっと怖くなくなるのだと思いますが、そんなことは誰にも分からないし、だからこそ怖いという思いが無くなりません。これまで亡くなってこられた方々も生前にこのような気持ちを持ちながら生活し、気づかないうちに亡くなっていたのでしょうか。文章がまとまらずすみません。辛く、怖いです。
何もかもやる気が出ず前へと進む勇気が持てません。何をモチベーションにすれば良いのでしょうか? 社会人6年目になります。会社で評価もさらず社内の取りまとめ役などに尽力しているのにも関わらず感謝もされず何のために頑張っているのだろうと思います。 自分より遅く入社した方が昇進し自分は平社員のまま。嫉妬と憎しみが込み上げます。 将来特にこれがしたいといった明確な希望もなく前へ進む事ができません。 転職した先も同じなのではと考えたりこのまま歳とって死んでいくのかなと考えたり。 自分から好かれに行くことも出来ず、会社でも空気のような存在になっています。 どのようにして過ごすことが良いのでしょうか? よろしくお願いします。
無門関 第7則に「趙州洗鉢」という公案があります。 ホームページで読み解かれていることは以下のような内容です。 ・日々の勤めを励むべき ・「当たり前を当たり前に、今を生ききる」 ・平凡に生きることが禅 ・食事と食器を洗うことは、不即不離の関係になると申せましょう。今さら申すまでもありませんが、日常生活を大切にすること、つまり、凡事を徹底することにあると思います。 修行僧が悟る機縁となるべき「公案」を一般人の生活指導のように説いていられる感があります。質問した僧が体得したことと一般人が体得すべきことが分けられていないように感じられます。 問いは答えだとよく言われます。以下の2つ質問いたします。 1.趙州和尚の真意はどこにあるのか 2.修行僧は何に気づいたのか お答えいただければ幸いです。
霊や霊能者は実在すると思まいすか? 現在の科学では あることも証明できない ないことも証明できない と聞いています 私は科学では証明できない能力がある人が存在するとは思っています。 たとえば”雲を消す男”が実在するようです 動画サイトに出ています。 https://www.youtube.com/watch?v=Pd3BfbCFwzU これは私も30年ぐらい前にテレビで見ました 当時はGC技術もそんなにな進歩していなかったと思いますし 心霊現象や超常現象を真っ向から否定する大槻義彦氏が立ち合いをしている中での出来事なので、CGによる編集や番組制作会社の創作ではないと思います。 (創作、捏造なら大槻氏が訴訟を起こすでしょう) また同じころ、別の番組で霊能力者を名乗る外国人が 生放送番組で登場し その年の日本の セリーグ・プロ野球優勝チームを予言して的中させたことがあります。 10年以上優勝から遠ざかり、シーズン前の前評判も高くないチームの優勝を 開幕前に断言。そして半年後に本当に優勝して的中させたのを見ています。 手品や八百長などあり得ない話です。 このようなものを見ると 現在の科学では証明できない 特殊能力を持った人は 実在するのでは?と考えています。 では 実際に 霊が見えたり、霊の声を聴いたりする 霊能者もあってもおかしくないのかな?と思います。 実際のところどうなのでしょうか?
私たちの中に、前世の記憶が残っていることがあるのでしょうか? 私は小学生の頃から、8月6日広島原爆の日が来ると悲しくてたまらなくなります。広島原爆と川の風景…が頭に浮かぶと、知らないはずなのに、とにかく悲しく、悔しい思いが溢れます。 平和学習がきっかけで想像しているだけと思ってきました。生き抜かれた方々がいらっしゃるのに、実際の記憶のない自分が「なんとなく思い浮かぶ場面がある」のだとは、失礼な事と思いますので、人様に言えたことではありません。ただ、一人で思い続け、悲しくて苦しくて痛くて重たくて、悔しくてたまらないのです。 毎年、この季節には気持ちが重く、「もう落ちませんように」と考え眠れないことが幼いころたくさんありました。中学時代には原爆に関する一人劇をする機会があり、取り組むうちに本当に髪が全て抜けてしまい、そのまま治らず今に至ります。 あれもこれも結び付けるべき事柄とは思っていません。 もう大人になり、強烈に感じる物事の一つとして、この日があるのであれば、ただ心から祈ろうと思うようになりました。毎年泣きながらお祈りしています。 現実には関係がないのに、苦しくてどうしようもないもの…仏様、ご先祖様は私にどのように生きなさいとおっしゃるのでしょうか?
今日は(12/8)父の命日です もう亡くなって丸8年です あちらの世界でも頑張り屋の父は沢山の修行を積んでいると思います でもなぜ亡くなった日が命の日なんですか? 命が消えた日だからですか? どうぞ無知な私に教えてください
私の彼氏が今月から1年半修行に行きます。 彼は私より1歳年上で大学も同じでお互い一人暮らしの家が近かったので、お付き合いを始めてから1ヶ月で彼の家に転がり込むようになり、そこから今月の頭まで約2年半同棲していました。そして、今コロナの感染拡大防止のために修行前2週間は自宅待機をしてから、直接保護者の車で修行するお寺まで送ってもらうという流れのようで、つい数日前に同棲を解消し彼は実家に戻り、私は新しい場所で一人暮らしを始めています。 彼とは今までお付き合いしてきた人とは違い、生活や付き合っていく上での価値観がとても合っていて、今までの同棲生活が本当に毎日楽しいものでした。ですので、なおさら私の性格がとても寂しがりやということもあり、同棲解消まで2人で沢山泣いて本当に辛かったです。しかし、同棲解消するまでは彼がしばらく隣にいない状態で一人暮らしすることに不安しかなく本当に心配でしたが、いざ一人暮らしが始まってみると、なんとかなっているもので少し安心はしているのですが、今は同棲はしていなくても暇な時にはずっと彼と電話をしたりLINEしたりしていてそんなに寂しくなくても、やはり修行に行ってしまったら最初の100日間は文通もできないですしましてや携帯も使えず何も連絡が取れなくなってしまうのがとても不安です。 1年半は長いようであっという間な気がします。今は寂しくてしょうがありませんが、彼に頼りっきりだった私自身の弱さを彼の修行期間中に自分も修行する気持ちで自立できるように、彼が修行から帰ってきた時に素敵な女性になれているように頑張りたいと思います。 ここからいくつか質問させて頂きたいのですが、まず修行期間中100日が過ぎたら、文通以外に面会や電話などもできるのでしょうか?ちなみに總持寺です。 また、1年半修行すると煩悩は完全に無くなってしまうのでしょうか?彼は結構煩悩にまみれているので、それが全部無くなってしまったら寂しいと思ってしまいます、、 そして、彼の修行が終わったら結婚しようと2人で言っているのですが、お寺に嫁ぐ上でやはりお嫁さんは性格などどのようにあるべきでしょうか? 文章を書きながら自分を鼓舞してしまっていたので、気づけばとても長文になってしまいました。長々としていますが回答して頂けたらとても嬉しいですし励みになります。よろしくお願いいたします。
学校で懇談(話し合い)の時に意見が言えなかったり、友達に本音が伝えられません。今日こそは、と思ってもなかなか言うことができません。 本当は伝えたいんです。自分の気持ちとか意見とか。でもその後の周りの反応や態度にビビってる自分がいるみたいです。「あいつ、何言ってんの?」「言ってる割には〇〇だよな」とか言われるとすごいショックだし、学校に居づらくなりそうです。 だから傍観者みたいに黙ったまま懇談の時間を過ごしているわけなんですが…こんな僕に、というか意見を言う勇気はどうしたらでるのでしょうか?自分の意志が足りないのでしょうか?自分を変えたいです
先日、修学旅行の際に京都の妙心寺大本山にて座禅体験をさせていただきました。 その際に住職さんが「毎日するといいよ」というような事を仰っていました。 毎日する事で内面だけではなく外面等でも変わった事はありましたか? また、座禅をする際に警策は必要不可欠なのでしょうか? 残念ながら警策は持っていませんし、叩ける人もいません。
「お金」のことで、生きづらさを感じています。 お金は安定して得ることはできているのに 貯金が減るのが怖いです。 何より、どんなときも 「効率よく仕えているか?」 「コスパがいいか?」 を考えてしまいます。 先日は、知り合いが誘ってくれた旅行へ行きましたが、「私だったら、もっと安い旅館を見つけられるのに…」「お酒を飲まないのに、なんで皆と同じ額を払うの?」と思ってしまい、何で来たんだろう…と後悔して、「そんなに高額ではない!」と頭では分かっているのに、なぜか心がザワザワして、心から旅行を楽しむことができませんでした。 通販サイトで何か物を買っても、後から数十円安く販売されているのを見ると、「なんで最初に、こっちを見つけられなかったんだ!」と激しく後悔してしまいます。 将来に対しての不安があるのか、 なんなのか自分でも分かりませんが… お金に対しての執着を手放して、 もっと楽しくお金を使えるようになって、 ストレスなく生きられるようになりたいです。 どうしたら、いいのでしょうか? よろしくお願いいたします。
先日は質問に回答いただきありがとうございました。 先日の質問で、自傷行為について質問させていただきました。 そのきっかけが、高校生の頃に感じた自己嫌悪なのですが、それを感じた1番のきっかけが、幽霊が見えることによるものです。 ここで幽霊が見える、と言って、どんな回答をもらうか怖いのですが.. 自分自身も、中学生のときからはっきりと見えたり聞こえたりして、高校生の時に他人にそのことを話してしまったときに、幻覚という言葉、精神異常者という言葉を投げかけられ、その時のことが大きなきっかけとなり、自傷行為が始まりました。 むかしは精神病だと診断されたのがいやでした。 でも、今は、病院に通い、科学的な視点から病気なのだと言われていることが、自分はおかしくないと言われているように思えて安心しています(表現が難しいですが) このようなことをお坊さんにお尋ねするのはおかしいかもしれませんが、病気と霊感って何が違うのでしょうか。 追記ですが、私の病気は一生治らないものと言われています。寛解はするそうですが、薬を服用しつづけることになると思うと言われました。
私は、今の苦しみから輪廻からの苦しみの解放をどうやったら出来るのか?私なりに調べてみました。 そしたら、福音書というものに、人の命、生き物の命を愛しみ世の中のためになる事をして生きていけば、死後は栄光の身体を与えられて幸せに満たされると書いてありました。 つまり、もう生まれ変わる事もなく苦しむ必要のない世界に召されると言うことです。 ここで、質問ですが、人はこういった価値を見出し世のために善行を働いたら死後はもう苦しみから解放されているのでしょうか? 現世でどんなに世の為になる事をしても幸せを心から感じることが出来なくなった人間でも死後は幸せいっぱいの世界に召される事はありますか? お坊さん的観点からのご意見お待ちしてます。
こんにちは。お坊さんの妻帯について質問です。 よく日本のお坊さんの妻帯が「堕落」として批判されることが ありますが、妻帯は堕落と言えるほどの問題なのでしょうか? 日本仏教に限らず韓国やチベット、ネパールにもお坊さんの 妻帯を認める宗派はありますし、 タイでは「男性は一生に一度は出家する」という慣習に従って、 既婚者でも出家することが少なくないそうなので、 「妻帯」=「堕落」としてしまうのは早計ではないかと思います。
今日、自分の不注意でうちに来て3年目の文鳥を殺してしまいました。圧死でした。 疲れ果てて文鳥をカゴの中にいれずに眠ってしまいました。朝起きてやってしまったと思い、2羽の文鳥を探していると、そのうち1羽がどこにもおらず、呼びかけても反応がありません。まさかと思い身体を起こすと、布団の上にからだが潰れてボサボサになって亡くなってしまったその子がいました。どんなに辛く、苦しみながら亡くなっていったのかを考えると、本当にやりきれません。まだたったの3年弱しか生きていなかったのに、前日までは元気に可愛い声でさえずりを聞かせてくれていたのになどと、殺してしまったことに対しての罪悪感やその子に対する申し訳なさで心がいっぱいです。 精一杯の謝罪と、「見えなくなってもずっと大好きだからね。もう1羽の子や私たち家族がそっちに行くまで少し待っててね。」と声を掛けてあげることしかできません。その子が1番辛かった事は十分に分かっています。ですが、私自身の手で、可愛くて可愛くて仕方がない文鳥を殺してしまったことが本当に辛いです。もう戻っては来ないのに会いたくてたまりません。 私はこれからどのように生きていけば良いのでしょうか。あの子の命を奪っておいて、自分はこの先普通に笑ったり、喜んだり、何かを楽しんだりする事に大きな罪悪感があります。なにも考えられません。 もう1羽の子を大切に愛情を持ってこれからも過ごしていくこと、しっかり供養する事はもちろんですが、私はこの先どう生きていけば良いのでしょうか。
自宅のガレージにセキレイという鳥が巣を作り卵を産みました 人間の腰くらいの高さに巣があったので猫などに食べられはしないかと心配していましたが、しばらくして小鳥が何羽か生まれました ある日、なんとなく巣を見るとちょうど蛇が小鳥を食べている所でした 助けようかと思いましたが、自分が鳥を飼っているわけではないし、蛇も生きるために食べているのだし、どうしようかとしばらく見ていると私の家族がそれを見つけて早く蛇を殺さないと鳥が可哀想だと怒りました 殺すのは気が引けたので、棒で少しつついたら逃げて行きました しかし翌朝見ると鳥は全滅していました おそらく蛇がまたやってきて食べたのだと思います 蛇は悪だと家族は言いますが、私はどうしてもそうは思えません しかし鳥が死んでしまったので悪いことをしてしまったような気もします お坊さんなら同じような状況を見たらどうしますか?
母親が終活を始めました 年齢的には50代前半で見た目もそこまで老けてもいません しかし心配性な人です 身の回りの整理や断捨離などもしているのでしょうが…私はどうやって向き合えばいいんでしょうか? 終活を始めた親と離れて暮らしているので顔を合わせることもありません 連絡を取っても基本的に連絡が返って来ることも少なく要件がある時くらいなものです いつかはいなくなる存在ですが急なことなので不安になったり寂しさ(歳を取ってるんだなという)もあります 長生きして欲しいと思っていますが私に何ができるのか後悔しないために何をしたらいいのか悩んでいるところです…
勤め先のブランドの宣伝のため、接客中に自分からスタイリング投稿しているので、フォローお願いいたしますとお願いすることもあります。 中には私の接客を気に入っていただいて、私が出勤していなければ日を改める方もいらっしゃいます。とても有難いことです。話を盛り上げる中で、自分の趣味やプライベートの話をすることもあり、お客様からプライベートの繋がりを求められることもあって、かなりグレーゾーンですが、集客、再来店していただけるのであればとプライベート用のSNSを交換したこともあります。 ここで私の悩みというより、後悔していることなのが、プライベートSNSをお伝えしてしまった方に中学生のお客様がいたことです。 若いお客様は趣味や遊びなどのお話を盛り上げるとニーズを引き出しやすく、接客の中で距離を詰める手段として使用しました。 すごく心を開いてくださり、お小遣いをもらって次は親ときて必ず購入すると嬉しそうにしてくださいました。 その流れで、友達同士で来店してくれていた子たちは「店員さん、プライベートSNSぜひ教えてください!趣味仲間として繋がるだけで構わないので!」 と言われて思わず固まってしまいました。 そのときは公式SNSではなくプライベートSNSを伝える方は大学生以上、と決めていたはずでした。しかし結果はその子達にプライベートSNSを教えてしまいました。 未成年と社会人より、集客と売上向上を優先してしまったのです。 交換した勤務後、プライベートSNSを確認してみると、その子達から「地方にイベント一緒にいこう」「店員さんが一緒なら大丈夫でしょ」「連絡先教えてください!」 などのメッセージが届いておりました。 社会人としてあるまじき行為をしてしまったと深く反省しております。 アラサーと中学生のSNSなんて、保護者の方はさぞご心配なさるだろうと。 いきなりの親密な連絡先交換はできないと 丁重に連絡先交換はお断りし、半年以上期間があきました。 ふとしたときにフォロワーを確認したところ、 その子達のアカウントが消えており、非公開となっていたことから 私の知らないところで保護者に注意を受けたか、とにかく私との繋がりを断たれていたことに最近気がつき、やはり社会人として、ブランド看板を背負い接客を仕事とするプロとして 無責任な行動を取ってしまったと深く後悔しております。
今まで何もしてきませんでした。何かを本気で好きになったことがありませんでした。 愛するものも、誇れるものもない。そして人生につまづいて心が砕け、私の中にあるのは嫉妬と憎しみと悲しみ、それだけです。 あ、もう一つありました。承認欲求。誰かに認められたい、必要とされたい気持ち。正直今はSNSの通知がくることにしか生きている実感が持てません。そして通知がない日は淋しくなります。誰も私なんか必要としていない、いてもいなくてもどっちでもいいんだと思います。 この人生、どこで間違ってしまったのか?と考えて、何度人生をリルートしても結局は「生まれてきたのがそもそもの間違いだった」というところに落ち着きます。全部私が悪いのです。 こんな時にはあるイメージが湧いてきます。 夜の橋(なぜかいつも橋です)の欄干に縄をくくりつけ、縄の輪を自分の首に通して飛び降りる。頚椎骨折で即死。 そうできたらどんなに楽だろうと思います。やってみようかとすら思います。いや、やりたいです。 私はすべてを台無しにしてしまう。いつもそうです。私のせいで私の人生すら台無しにしてしまいました。あるいは元々それは壊れていたのかもしれません。 こんな状態でどう生きればいいんでしょう。