最近ことあるごとに怒りや傲慢さ、プライドの高さを感じうんざりしております こういうことがあるとまず頭の中に親だったり知人だったり他人の顔をした人間が私のとこにきて「あーしろこーしろ」「こうしなさいよー」 「こんなことをするなんてなんてひどい奴だ」 とかなんとか言ってきます そこで僕は「お前の悩みはお前のとこに帰れ。俺にふるな」と一喝したり蹴り飛ばしたりしております。 こういう煩悩と付き合いかたは間違っていますか?
私は、常に一人ぼっちです。親友ができた、と思っても、他の人にとられてしまったり、離れてしまいます。周りは、心を許せる友達同士で、羨ましいな…と思ってしまいます。 これまで人間関係がゴタゴタしていくのを経験しているので、一人ぼっちでも、楽は楽ですが…。やはり寂しいです。 気にせず、過ごして行くためにどうすればいいですか? 教えて下さい。
私は1ヶ月以内に自殺を予定しています。 きっと皆様、様々な方の死と向き合ってきた方々ですから自殺など良くないと、してはならないとお思いになるかと思います。 それなのに、どれだけ説得されても、どのような言葉をかけていただいても私は死を選んでしまうと思います。 そこで、世の中で悪とされている自殺をした人の来世はどうなるのか教えていただきたいです。 魂は彷徨い続けるといいますが、来世はないのでしょうか?仮にあったとして、自殺した人の来世は最悪なものになるのでしょうか? 私はこの世の誰も恨んでいません。感謝ばかりです。関わってくださってきた人、環境に感謝しかありません。それでも悪霊になってしまうのでしょうか? お葬式をしてもらえるかわからないのですが、お葬式をしてもらえずとも、誰に私の死体が見つからなくても成仏はできるのでしょうか? これらを教えていただけたら幸いです。 稚拙な文で申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。
今年の3月に三女が亡くなりました。2014年12月に病気がわかり即入院生活がはじまりました。1年3ヶ月の闘病の甲斐もなく天国へ旅立ってしまいました。 病気がわかる前体調不良の兆候がありその都度病院へは行っていたのですが、当時次女の素行が悪く次女にばかり構っていた為この大病に気づくのが遅れてしまったのではないか、もっと早く大きな病院へ連れついってあげれたらと後悔ばかり。 亡くなるまでの入院生活も後悔ばかり。 今は毎日涙ばかり何も手につかず、生きる意味をなくしてしまい、毎日ただ時間が過ぎている感じです。 なんでこんなことになってしまったのか。 生きていれば4月から高校生だった娘の制服姿を想うと涙しかでません。 この先どう過ごしたらいいのか。
相談させていただきます。愛犬が先日、私の誕生日に亡くなりました。 私たち夫婦には永く子宝に授かれず。子供は諦めようと決めて、飼うことに なった家族です。 しかしほどなく奇跡的に子宝と新しい家族にはもったいないくらいの家まで 購入し、家族仲良く夢のような時間でした。親族も私たち夫婦も彼(愛犬)がこの福をもたらしてくれたのだと信じてやまないほどでした。 愛犬はわが一族の中でも、(犬)というよりその愛嬌からも初孫のように可愛いがってもらいました。私たち家族も(犬)ではなく、(長男)だとしか思えない そんな存在でした。 ここ数年、私の人生でも最大の転機というか不運が重なる出来事が次々あり正直、やっと乗り越えられるかと希望が持てるような状況になったのですが、それと前後して愛犬が急に体調を崩し、あっという間に亡くなりました。私の誕生日に。 今思えば苦しい時期もお互い慈愛の眼差しを絶やさず共に生き、これからというタイミングでなぜ(その日)を選んで逝ってしまったのか? これからたくさん恩返しをしたかったのに。 彼(愛犬)が何を言いたかったのかと。日々悩み答えが見つかりません。
こういう悩みの質問をすると、道はあるとか、足元を見てないだけとか、もっと考えれば良いとか。そういう事を言われる方が腐るほどいますがその程度のことで解決できるような悩みやトラブルしか抱えてないだけだと思いました。 私がいくら仏教を知り、色んな物事を調べて、どうにかしようと毎日365日、私の運命にあがなおうとしましたが人生変わりません。 私の過去の選択ミスが影響して今私がいくら頑張ろうがどうにもなりません。 1番大事なことは、選択だと思います。 どれだけ身体を気を使っても、交通事故に遭い半身不随になれば一生後悔します。 そして後から気を使っても、後から考えを取り入れて勉強しても半身不随前の生活の方が苦しみは少ないです。 全ては選択です。 私も半身不随のように選択ミスから死ぬほど苦しんでいます。 そして現在進行系で苦しみ、これからずーっと苦しむ事が容易に想像できます。 どんなに考えて、どんなに悟ろうと選択ミスをする前の人生、半身不随になる前の人生のほうが幸福だろうと思う。 だからもはや術はないのではないか、もう今苦悩を抱えている人は一生苦しむしかないのではないか。 半身不随になった後に仏教をいくらしても何も変わりません半身不随になるような事故に合わず仏教を勉強しない人生のほうがいいと思います。 どうすればいいの? 死ぬしかないんじゃねえか。 突発的に勢いで死ぬしかないんじゃないか。 だっていくら何をしても解決方法ないもん。 ただただ運が悪かった、どうしようもない。 半身不随になった人に生きてれば幸福とか言える? ※半身不随は比喩。
恋愛、結婚、妊娠、出産、子育、経験してみたかった。欠けてる。経験が足りないと人間として欠けてますか。私は周りの人の気持ちがわからないだめな人間です。死んだらいいと思います。 リストカット、首つり、薬、確実に死ねる方法はありますか。死んだら極楽浄土でおばあちゃんと遊びます。
両親の声が頭の中でします。 私の見てる景色が見えるようです。 実家を飛び出してきました。 殴られてる感覚、頭や腕、腰をつねられたり、背中を押されたり。 言うなりにコントロールされてきたようです。 12年前も一回、家を飛び出してきました。 神仏を感じます。 未来の夫の見えない声に導かれて、 今、避難しています。 自然、物の声も聞こえます。 いきなり、整理できてしまい、 防御できず辛いです。 勉強や修行が必要とも感じていますが、 どうしたらいいものやら、悩んでいます。
子どもを産んでからホルモンバランスのせいか死ぬことが考えることが増え、老病死がとても怖くなりました。 最近ようやく落ち着いてきたとおもっていたのですが、終末時計や北朝鮮のニュースを見るたびに戦争や地球の滅亡が恐ろしくてたまらなくなります。 地球が滅亡することになればこどもの未来もなく、来世もなく、浄土も地獄もないのでないかと思うと生きている意味もわからなくなることさえあります。 今目の前にある子どもの笑顔を大切にするべきだと思っても青空の向こうからミサイルが降ってくるのでは、地震が起きてしまうのではと恐怖に囚われています。 心の待ち方を教えてください
あれから数ヶ月が経ち、自動車免許も取得し、小遣いも派遣のバイトで稼ぎ、たまには友人と遊び、浪人生とは言えなんとか落ち着いて過ごしていた長男ですが、真面目に通っているはずの予備校にあまり行っていない事がわかり、叱りました。 本人曰く、今更周りの人間にとやかく言われても劇的にやる気もでないので言わないでほしい、受験の結果が出た時にいくらでも聞くからと開き直っています。 やる気が全然出ないらしく、現実逃避で毎日暮らしていると言っています。 現状をなかなか見れず、焦りに比例してよく遊んでいます。 だまって見守るべきか叱るべきか迷っています。
昔は偉い人や身分の高い人のお墓は古墳だったりピラミッドだったりと大きかったり立派だったりします。 宗教によってはその価値観が違うと思いますが、仏教では、立派なお墓にすることで故人のメリットってあるのでしょうか? メリットって言葉は変ですが、例えば天国でも不自由なく暮らせるとか、天国で他の人よりちょっと有利になるとか。 先祖や故人を大切にする気持ちがあるからこそ、生きている人にとっては結構気になるところであります。
祖父が亡くなってから4ヶ月が経ちましたが、未だに祖父のことを考えるとつらくなります。 実家に行くたびに、そういえばあんなことあったな~とかよくこの椅子に座ってたな~とか思い出します。 祖父が亡くなってから、何回も夢の中にでてきます。元気だった頃の祖父です。 家族の中で祖父が夢に出てきたのは私だけみたいです。どうしてこんなに夢に出てきてくれるのでしょう。私が立ち直れていないからでしょうか。
浄土真宗の方におうかがいいたします。 私は浄土真宗某派の門徒で、すでに法名もいただいております。 代々の門徒の家に生まれ、お経と言えば正信偈でした。 しかしながら、阿弥陀如来の存在を確信することができません。 人間を超えた大いなる存在があり、それによって生かされているということはしばしば実感し、そうしたときは感謝の念が自ずとわいてきます。 しかし、それが阿弥陀如来だ、と言い切れるかというとそうは言えないのです。 必ずしも阿弥陀如来でなくてもいいのではないか、という気がします。 大いなる存在は感じることができても、「法蔵菩薩であられたとき・・・」「四十八願を立てられ・・・」「西方浄土におはします・・・」と物語が始まった途端に、あまりの非現実さに白けてしまうのです。 現在の文献学の認識では、浄土三部経はゴータマ・シッダッタ様が直接に語ったものではないというのが、定説だと思います。 キリスト教がキリスト教たり得るのは、預言者イエス・キリストに近侍し、その言動と奇瑞に直接に心を揺るがされた弟子たちの福音書があるからだ、と考えます。 阿弥陀如来は、誰が、どのようにして見出されたのでしょうか。 別の言い方をすれば、浄土三部経は、誰が、どのように阿弥陀如来の存在を感得して、編まれたのでしょうか。 誠に不躾な質問で恐縮ですが、私にとっては根源的な問題なのです。
座禅はどんなポーズでもできますか?
いつもお世話になっております。 大変に唐突な質問でございますが、 仏教の世界では、障害者、無職者はまさに「障害」、「邪なる存在」なのでしょうか? * 以前にご質問した「お寺」での非礼行為に対する苦情を申し上げたのですが、依然、一部の職員さん(お坊さんは改心してくださった模様)が、いわゆる「客を見る」ような態度で接してきます。 他の寺務さんやお坊さんたちは普通なのに、その人たちの所作を見ると、「あぁ、もしかして本当は…」 と疑心暗鬼に陥ってしまいます。お護摩の時の願意の唱和?で、 「一心祈願、就職成就~!!」 と言われたり、祈祷後の短いお話も、嫌味にしか聞こえなくなるときがあります(苦情を述べる前に、私が書いた絵馬の内容を軽く引き合いに出された事がある) ちなみに宗派は新義真言宗です(「もしも」が恐いので、詳しい宗派はあえて書きません) * 私は発達障害を持っており、その影響の為か、時折ズレた行動に出てしまいます。それでも周囲に迷惑をかけないように心がけており、 就労支援にも通っているし、手帳の取得も考えています。 なので余計悲しいです。 素敵なご縁、素晴らしい教えのおかげで私自身の生活にも光が差し始め、祈りと感謝の喜びを噛み締めている所なのに…… 真実をお教えください、よろしくお願いを申し上げます。
いつも大変お世話になっております。 表題の通りなのですが… お坊様になられたきっかけ、 なろうと思われたわけなどあったらぜひお聞かせ願いたいです。 私自身は、ハスノハをキッカケに仏教に非常に関心がありますが、 お恥ずかしいことに厳しいだろう修行を乗り越えられる自信が全くありません…。 そこでお坊様方のお話をお伺いしたく思いました。 お忙しい中恐縮ですが、お教えいただけたら幸いです。
先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。
質問させて頂きます。 不思議な夢を見ました。最近、近親の者が亡くなり、悲しみに沈んでおりました。 しばらくしたある夜、夢の中に三叉仏と名乗る仏様がいらっしゃいましたが、何も仰せにならずにそのまま去って往かれました。仏教に詳しくないので、一体どういった仏様であろうかと、いろいろな仏教の本を読みましたが該当する仏様を探し当てることはできませんでした。 それからしばらくしますと、また、夢の中に仏様がいらっしゃいました。そして、『現在、過去、未来、すべての生命の幸福を祈りなさい、そうすれば、貴方に幸せが訪れますよ』と仰いました。1~2カ月くらい前の話です。 夢での話があってから、仕事の合間など、時間を見つけ、そういった祈りを行うようになりました。 昨日の夜も、そうやってお祈りしながら就寝致しておりますと、夢の中の空中庭園の様なところに仏様がいらっしゃいまして、『貴方の誓願は確かに聞き届けましたよ』と仰いました。 仏様に願いを聞いて貰いましたら、私の体は地面の上に立っておりました。しばらくすると、自分の体は、地面の上を飛ぶように走りだしました。地面の上には村の様な町の様な景色が広がっており、その間を、時速20km、40km、100 km、200kmと段々加速して飛んで行きました。 およそ200 kmになってもさらに加速し、音ぐらいの速さにまで加速しました。これ以上加速できないくらいになりますと空中に大きな白い光が現れまして、自分の体の中にこれまで味わったことがないような言葉では言い表せないような多幸感が全身を駆け巡りました。白い光は空半面を覆うぐらいの光になり、そこで目が覚めました。 この夢はいったい何なのでしょうか?これからどうすればいいのでしょうか?初めてこういった不思議な体験をして非常にびっくりしております。三叉仏とは一体どんな仏様なのか、実在の仏様なのか?教えて頂けませんでしょうか?宜しくお願い致します。私の家の宗派は真言宗です。
私の質問はお坊さんアンチのように思われるかもしれませんが、これからもお坊さんにはお世話になっていきたいと思っておりますので、不安を解消したく質問をさせていただきます お坊さんはお施主様の法事で何を思って、お経を読んでいるのですか? ただお経を読んで、法話をする作業になっているだけのような気がしてしまっています。 さらには「供養します」「供養してください」供養供養言いますけど、結局の所「供養」ってなんなのですか? 宗派問いません、この質問を見て逃げるような和尚様の言葉はいりません なんなら丁寧なお言葉で書かなくても大丈夫です!! お坊さんであっても一人の人間です、私も過度な期待はしておりません、実際に思っているお言葉をください!! ハスノハにいる和尚様方を信じております 誠に我儘で勝手ですがよろしくお願いいたします。
17年連れ添った猫を失い、次の猫も家に来て二ヶ月目に交通事故で失いました。その子はまだ1歳にもなっていませんでした。 なぜあの子達は死ななければならなかったのでしょうか。 なぜ私は失い続けるのでしょうか。 悲しみ以外、涙以外、私は全てを少しずつ失い続けます。 仏様、私はあまりにも愚かです。私には真理を悟ることができません。何もみることができません。 私は死者の出なかった家のカラシの種が欲しい。 あの子が死なずにすむなら、何度でも車の前に飛び出したい。 仏様、私は救済に値しません。もう疲れてしまいました。ただただ疲れてしまいました。