私は死ぬのが怖くてたまらないのです。病気にも神経質で、ちょっと具合が悪いところがあると、がんとか恐ろしい病気ではないかと、すぐ病院に行ってしまいます。始終死のことを心配していて不安になり、こんなに苦しいなら死んだほうがまし、と矛盾した考えに陥ってしまいます。死んだほうがまし、と考えるのなら、死ぬことは本当は怖くないのかなと、自分の気持ちがわからなくなります。精神的な病気を持っているので、そのせいかもしれませんが、こんな私に、心が平穏になるような、アドバイスを頂けたらと思います。どうしたら、死が怖くなくなるでしょうか?主人は死があまり怖くないといいます。50歳にもなると、死の恐怖は落ち着くと聞きます。それともみんな死が怖いのでしょうか?どうぞよろしくお願いいたします。
介護の職場について早13年…。 こういう仕事ですので、 終末期や急変等で亡くなる方を 看取る事があります。 自分は、他の職員からすると、 看取ってきた回数は多いほうだと感じています。 今月に入って、夜勤中に 急変の方がお一人、終末期の方をお二人看取ってきました。まれにみる多さだと感じています。 自分としては、人が亡くなる事は悲しい事ですが、最期の時、家族でもない自分を選んで頂いたと感謝しています。 先日、亡くなった方を見送り、職員が出勤して来た際に「また◯◯君の夜勤の時?」と数人から言われ、とてもショックを受けてしまいました。 あたかも、自分が夜勤の時に、不幸な事が起きていると言われてるようで…。 人が亡くなる事って、そんなに悪い事でしょうか? よろしければ、お聞かせ下さい。 宜しくお願いします。
先日愛猫の「ひめ」が14歳で天国に旅立ってしまいました。 肺に水が溜まっていたらしく、死ぬ間際も呼吸困難で呼吸ができなくなり、相当苦しい思いをしたと思います。 もっとああしておけばよかった、もっと可愛がってあげたらなど後悔が尽きません。 まず、 ・かかりつけの動物病院に行ったが主な原因がわからず、薬をもらったが一向に元気にならなかったので、その時にセカンドオピニオンで違う動物病院に連れて行けば元気になっていいたかもしれない。 ・毎週日曜日に動物病院に連れて行っていて、その前日、土曜日に猫の様態が悪くなり、日曜日の病院に連れていく1時間前に亡くなった。 土曜日にでも全然連れていけたのに日曜日じゃないとダメという謎の認識があり、土曜日に連れて行っていたらまだ死ななかったんじゃないか もっといろんな食べ物やいろんなおもちゃで遊んであげたらと後悔しています。亡くなってしまった今後悔しても遅いですが亡くなった猫のことを思うと涙が止まりません。 「死」というものがこんなにも重く、自分が猫に沢山支えられてきていたことを心の底から実感しています。 死んでしまったひめへの後悔はどうすればいいでしょうか、
仏教徒の人も嫌なことがあったらもう解脱とか仏道がどうだとかどうでもよくなりますよね?この世界から早くいなくなりたいと思うはずです。 例えばわけわからない人からいきなり家族全員、生皮を剥ぐなどをされて足や手を少しずつ切られて殺害されて自分も下半身不随になって犯人は捕まらずの時にこれも仏になるための道とか言えますか?縁起だとか言えますか?。 輪廻転成を信じていて死が怖くないのなら、そういった悪い事をした人への恨みなんかもなくなるのではないか?と思いましたがどうなのでしょうか。 結局人生捉え方の問題ではなく辛いもんは辛くて運が悪い人は悪く世の中理由もなく不平等で世界はクソだと認めれば楽になりませんか? 仏陀でもいきなり知らない人から下半身不随にされたらキレますよ。 例えば今は仏教を利用して何故か儲けてると思いますが仏教で赤字になったりとかしたら今のような有難い言葉は言えませんよね?結局は利益があるからそういうことをいってるだけなのではないかと思ってしまいます。 どこかで人生は時間だけが平等だと聞きました。 私はそう思いません、使う時間が違うし、搾取される人はその時間を使えないし、植物人間の人や解離性人格障害の人はそもそも時間が消費されない。 結局平等なものなんてないのではないか? 有難いとか今に感謝するとかって結局当たり前に貰えてる人からしたらくだらない事ですよね。ビルゲイツが毎日パンの一欠片に感謝するとも思いません。 圧倒的に恵まれてる人からしたら当たり前に得ているものなので改めて感謝する意味もなく感謝したからと幸福があがるわけでもないです。 なのに苦しんでる人や貧困な人は何故か感謝してないから苦しんでいると言われます。 いや違うでしょ、アフリカの人は感謝してるけど苦しいもんは苦しいでしょ。結局は世の中ただただ恵まれた人が得するようにできていて感謝しなくても幸福です。 また仏教徒の方に人間に生まれた事を後悔するというと、動物に生まれるよりマシとかいってきます。いやいや動物に生まれた方がマシでしょう。 こういう質問をみて意味不明なモノが羅列して頭がこんがらがると思います 世の中はそれ程までに意味不明に複雑な苦しみが沢山あります それを仏教は人それぞれの回答があるといいますがそんなアバウトなモノでしかないなら仏教である必要はあるのかと思います
私は、いつも頭の中に家族がいつ死んでもおかしくないと考えており、死ぬかもしれない死ぬかもしれないと強迫観念が回っています。特に次男の食事を作る時、洗剤の洗い残しで毒になり、次男を死なせてしまうのではないか?火に近づけたセーターを次男の部屋にしまう時、セーターが後から燃え出して、次男の部屋が火事になってしまうのではないか?と、本当にばかばかしいことばかり心配してしまいます。長男にはそれほどないのですが、死のことを心配しているのは同じです。どうしたら、この苦しみから逃れることができるのでしょうか?よろしくお願いいたします。
ひと月前に17年間連れ添った愛猫を亡くしました。 愛猫は私にとって宝であり、人生において重要なファクターでした。あの子が私の心を作り、生きる方向を示してくれたと言っても過言ではありません。あの子は常に、私の中にも他者を慈しむ心があるのだという事を思い出させてくれました。 動物は極楽へは行かないし仏にもならないと言いますが、本当でしょうか?あの子はどこに行ってしまったのでしょうか。 あの子がどこへ行き何になったとしても、私のそばにいてくれると信じています。
医療福祉の仕事をしています 仕事柄お看取りの場も幾度となく経験してきました。 また お看取りの場には立ち会わなくても「また明日」が通用しない方々と多数接してきました。 通夜葬儀に参列する機会も同年代異職種の友人達よりは遥かに多い現状です。 いつからとも無く、どれ程深く関わっていた方であっても「死」という状態に接した時悲しい、寂しいという感情を失ったような気がします。 同僚等は通夜葬儀で涙を流して遺族の方と話をしています。 私にはそれが全く出来ないのです。 仕事で関わった方に対してだけなのかとも思っていましたが、親族のその場でも全く悲しい寂しいという感覚が沸かなくなっていた自分がいました。 居なくなること、いなくなったことに対して虚無感喪失感はそれとなく覚えるのですが、何故だか感情が何一つ湧いてこないのです。 感情が無くなったのか、それとも「死」というものに慣れすぎたのか。 通夜葬儀の場に行くたび、泣くことの出来ない自分に嫌気がさします。 こんな私でも仏前に手を合わせる資格はあるのでしょうか
7年前に亡くなったペット(犬)と自分の心についての御相談です。 ミルクは16歳で亡くなりました。 元々、動物が好きで、ミルクが小さい頃からとても可愛いがっていましました。 お互い深く心が通じあっていたと思います。 時が過ぎて、ミルクが亡くなる2年位前、私自身が病気になり入院をしました。 退院後は、しばらく朦朧とした感じもありましたが、日に日に身体は元気になりました。ただ、同時期に家族の死や悲しい事が重なり精神的に辛い時期でもありました。 そんな時になんとなく気晴らし読んだ昭和の漫画が非常に残酷な描写で動物を虐めるようなシーンもあり、ショックを受けると共に私の中に漫画の内容がすっと入ってしまったようになりました。 漫画のせいにして言い訳になりますが、それから暫く、漫画の登場人物達のような残酷な自分になる事を抑える事が出来ず、近くにいるあんなに可愛いがっていたミルクに酷い事をしてしまいました。 今も思い出す度に申し訳ない気持ちと恐ろしさで胸が苦しくなります。 動物を虐待する人に強い憤りを感じていた自分がそんな事をするなんて自分自身も信用できず、ミルクも信頼していた私の突然の変化にどれだけ悲しかったかと思います。 私が徐々に元に戻っても、ミルクが前のように心の奥底から打ち解ける事はなくなったように感じました。 16歳で老衰し亡くなりましが、本当は、もっと無邪気に元気に長生きしたと思います。とても性格の良い子でした。 最後亡くなる直前に私の頬を舐めてくれ、一瞬、かつての関係に戻った気がしました。自分のした事に後悔の気持ちでいっぱいになりました。 私は今も動物が大好きで、みんなに幸せになって欲しいと思います。そして、動物と一緒にいる時に私も深い幸せを感じます。 ですが、一方、あれ以降そのような行為をした事はありませんが、自分に深い闇がある事を知り、前のようになってしまったらどうしようと不安になります。自分が怖いです。 そして、わたしが言う資格はありませんが、ミルクのように、無防備なペット達が悲しい思いをしていると思うと辛いです。 自分が悪魔になりそうな時、どう立ち向かえばよいでしょうか。 そして、ミルクにどう償えばよいのでしょうか。
亡くなった悪友は51歳という若さで単独事故で亡くなりました。 「関係性」 相手には家庭もあり、愛人も数人居るような元気な方でした。愛人ではないが、時間が合えば出かけたり体の関係もあり遊んだりしていた仲でした。 私が再婚して連絡回数が減り1年に3回程になっていた。 何故か久々に連絡を取りたくなりめ連絡先したが返事が無くて、共通の友人に連絡とりたいと話しして伝えておくね!と翌日亡くなりました。 「デジャブ」 そして葬式準備していたら、ふと自分が喪服を着る自分の夢を思い出した。 この姿、手に持っているもの同じでした。この断片的な夢は数カ月前見た夢で何か記憶に残る動物が出ており、目が冷めた後夢占いで調べたので記憶にかすかに残ってました。 その夢占いには、「試練、大切な人が亡くなる」と言う書いてありましたがそんな事あるはずないとスルーした事がありました。 この出来事が気になり調べていたら ここの仏教の教えをしることになり楽になりましたが、仏教の教えではあり得ないが 私の様な出来事があると、この人の運命は決まっていたんじゃないかと思いました。 私が経験したデジャブのような事は 「なぜ、ひとも特定して事故死する事を見れなかったんだ、」など悔みました。 だか、ここの悟りを読んで 私に対して「試練」がくるよと教えててくれただけでもありがたいと思えるようになりました。 「疑問」 この出来事はデジャブと言うのか、守護霊さんか何かが教えてくれたのでしょうか? この方は、亡くなる運命が決まっていたんじゃないかと思えましたがどう思われますか?
怖いこと 自分の命が有限なんだと 毎日ふとした時に感じられて 今在る私がいつかバラバラになるのだと思ったら 怖くて怖くて仕方がない。 目の前の現実世界が 崩壊していく様な気がして そうなるとそれ以上耐えられなくて 思考も動作も停止して、 背中が冷たくなるようです。 動物のひた向きに生きる姿は、 尊敬に値するものだと思ってます。 一生懸命生きている、 素晴らしい存在です。 しかし最近、 某福祉施設内で個人的に可愛がっていた老犬が 恐らく病気で死んだことや、 道の途中で事故にあったらしい猫の死体を見たことで、 死というものは誰にも容赦なく 愛しい存在でさえ突然命を奪っていくのだ、という 現実に向き合わされました。 それが翻って、 私にもいつかその番が、と思ったら 怖くなりました。 この世界から、 ある日消えて無くなるという現実が 急に見えたのです。 私は既にいい大人ですが、 昔から体が弱く気も小さく 器量が悪くて会話も下手で、 他人から嫌われて暴言暴力に遭うことも多いので、 明日がくることは恐怖でしかなく、 自殺を考えることも多いのですが。 現実の「死」はあまりに残酷で心で 受け止めることができない。 犬は病気で苦しかったのでは? 猫の遺体は酷い怪我をしていたので、 想像つかないほどの痛みの中で、 亡くなったのかと思うと、 本当に本当にかわいそうで、 そのような「死」が重過ぎるのに、 死の世界は実は日常と隣り合わせであり、 怖いという感情に襲われます。 仏教ではこういう問題には どのように考えますか? いつか必ず死ぬ運命を どのように受け止めたらよいですか? 動物に執着し過ぎるのは 良くないという意見は 人間の都合しか考えてないと思いますので、 ご遠慮頂けますか? 地球上で今もたくさんの家畜が 人間の為に犠牲になっていると思うと 暗澹たる気持ちになります。
つい最近、とても可愛いがっていた12才くらいの猫が亡くなってしまいました。 数週間前にお尻にケガをしていたのですが、元気に歩いていたので、大丈夫かな、と思ってました。 でも、本当はかなりひどいケガだったみたいで(毛で隠れて外見からはよく見えなかったのですが)、病院に連れていったときは手遅れで、2日前に亡くなってしまいました。 動物はケガをしたり体調が悪くても元気なフリをして隠す性質があるようで、わたしが猫の様子がおかしい、と思ったときはかなり悪化していたようです。 最初にケガに気がついたときに病院で見てもらえば、もっと長く生きていたと思います。 収入が入るのが、少し先だったので病院に連れてくのは、お金が入ってからにしようと思い、猫も元気に見えたので、すぐに病院に行かなかったのです。 僅かなお金を惜しんだばかりに、とても可愛くて賢かった猫を早く亡くしてしまいました。 それから、ずっと後悔と寂しさで泣いてばかりで仕事もろくにできません。 どうしたら、元気になれるでしょうか。
9月後半に、大好きだった13歳の愛犬が亡くなりました。 私は離職中でしばらく家にいる時間も多く、ほとんどの時間を共に過ごす事ができたので、神様からの最後の素晴らしい時間だったと思っています。愛犬にもたくさんの愛を教えてもらい、本当に出会えて良かった、愛おしい思い出をたくさんくれた、と寂しさはもちろんありますが愛犬の死を受け止めています。 動物はみんな虹の橋に行くといった詩を知りました。そこでのんびり楽しく過ごせている、いつか飼い主が来るまで待っている、という詩でした。 死を受け止めて、その光景を微笑ましく想像する前向きな気持ちと、どうしても涙が出てしまう気持ちがあります。 それは、愛犬は私達家族の元で幸せだったのか?楽しかったのか?という事です。 愛犬が幸せだったなら、これ以上の幸せはありません。 私は幸せだよ、本当に大好きだよ、と心で伝えれば、虹の橋にいる愛犬の魂に気持ちは届きますか?
介護の仕事をしています。 そして家では相棒の20歳の猫が弱っていく様を目のあたりのして、 人間も動物も歳をとり身体が思うように動かなくなり肉体的にも精神的にも痛く辛い思いをするように思います。 なぜかはわからないけれど命には寿命があって、皆いずれ死なねばならない。なのになぜ命は、わざわざ苦しみやすく出来ているのか、 脳ミソが、老いて寿命が近くなったら自動的に幸せホルモンのようななにか痛みを緩和させて穏やかになるような麻薬物質でも分泌すればよかったのに(そういうものがあるかもわかりませんが)、なぜそのように進化せず、やはり苦しみがちになるのだろうかと疑問に思っているのです。 また、相棒の猫は確かに20年いっしょに暮らしてきた家族だけれど、言葉を通してなにをしてほしいか、なにが食べたいかを迅速に伝えられない訳だから、きっとひとりぼっちで寂しくて、体も痛かろう、初めて老いて初めて死に向かうのに淋しかろうと、100%助けてあげられなくてすまなくて悲しくて眠れません。 やはり施設で暮らす高齢者の方々も寂しい思いで暮らしているだろうと思います。猫と比べるなと言われるかもしれませんが、同じように思ってしまいます。 道元禅師の生死の巻で、薪と灰の話、 前後裁断があったかと思いましたが、 今の私には死はやはり老いた先にあるもののように思えてなりません。身体の細胞ひとつひとつが活動できなくなった先にある死で、やはり苦しまずにはいられないんじゃないかと感じてしまいます。 あのお話だったか、生と滅にそれぞれ“さきありのちあり”とあった気もしますが、なにか私が今目の前にしているものの解釈のヒントになりそうなのに、いまいち理解ができません。 わかりにくい質問で申し訳ないのですが、ようは、なぜ命は苦しまなければいけないのか、なぜ苦しむのに生まれてくるのか、そしてそれをずっと繰り返してきたはずなのに、脳ミソが苦しみを除外するよう進化しなかったということはやはり必要があっての苦しみなのかしらと素人考えをしているわけです。かといって私の相棒の猫さんが死に向かって1人老いて苦しむのは切ない事です。。。それらが不思議で切なくてならないのです。 自然の摂理だから仕方がない事なのでしょうか?
酷い方法で殺したハムスターぽふちゃんの命日には朝昼晩と神社に行くつもりです 殺しておいて命日も普通に過ごすのは最低すぎるしダメなので 動物は畜生道なので悲華経を唱えないと成仏できないとハスノハで出てきました そうなのでしょうか 占いの方にも聞いて、天国にいると言われたのですが、もし唱えないと成仏できないならどうすればいいのでしょうか。 ごめんなさいと泣いたり喚いたりしながら何回も謝って、どうすればいいのか分からないでいます どなたか回答お願い致します 泣いてわめく日もあれば ぽふちゃんを殺したのにゲームをしたり人と笑ったりする自分も気持ち悪いです 本当にごめんなさい
以前、京都旅行で、哲学の道を友人と歩いていて、大豊神社で休みました。誰も居ず。社務所も開いておりませんでした。ネズミが神様だ。すごいね。と友人と話していました。最近たまたま大豊神社を検索したら、お札やお守りを授与していました。参拝する人が増えたのか、と嬉しくなり、郵送でお札を頂きました。 私はハムスターを長年飼っていて、大豊さまに亡くなったハムスターの供養をお願いしようと思いましたが、神道は死を穢れと言って嫌がるのではなかったか?と思い。ハムスターの供養をお願いすることをやめました。やはり亡くなった人や動物のご供養は、神様に頼むものではなく、仏様にお願いすることでしょうか?
死んだらどうなるのでしょうか。 地獄や天国に行くのでしょうか。 それとも、輪廻転生して、人間や、動物に生まれ変わるのでしょうか。 仏教的にはどうなんでしょうか。
夜中に仕事の帰りに、車で動物をひいてしまいました。恐らく、もうひかれて亡くなったであろうという動物の遺体をひいてしまったのだと思います。 怖くて確認できずに、あとで主人に行ってもらったところネコだったとのことでした。 生々しい話ですが、血や肉片などがタイヤなどについていました。 本当にネコさんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。どんなにつらかったかと思います。 自分は最低な人間です。罪の意識に苛まれています。 わたしは交通事故を何度もしており、また同じような事故を起こすのではないかという不安もこみあげてきました。 どうすればよいでしょうか。お寺か神社にネコさんの供養に行くことで救われますか、それとも車や自分のお祓いに行くべきでしょうか。うらまれたらどうしよう、家族にも何かあったらと不安で… 車は帰って水を流し、塩を撒きました。 対応の仕方もわからなくて… 質問も最低な内容で申し訳ないです。 せめてもの償いとして、遺体を道路管理のところに電話はさせていただきました。 どうかアドバイスを頂けると幸いです。
愛犬9歳半がとてもとても最後苦しみながら息を引き取りました 途中で見るのも辛く明日の朝は安楽死をさせてもらうつもりでしたのに間に合わなくて壮絶な闘いでした 腫瘍からくる心タンポナーデで獣医からも辛い死になるとは言われていましたが呼吸困難で想像以上の苦しみ方でした もう半日はやく決断し安楽死させてあげれば良かったと泣いて謝ることしかできませんでした どのように供養してあげるのが良いのですか
初めてこのサイトで質問をする中学生です。 私は幼い頃、意味もなく虫を殺してしまったことがあります。また、人からお借りしたものを無くしてしまったこともあります。そのことを深く後悔し、捕まえた虫は逃し、精一杯人に親切にするように心がけていますが、今も毎日歩くたびに、手を洗うたびに、息をするたびに、たくさんの微生物を殺し、食事のたびにたくさんの動物の命をいただいて生きています。人に悲しい思いをさせてしまうこともあります。 最近、こんな自分が世界一の悪人であるように思え、命を脅かされることもなく幸せに暮らしていることが心苦しくて仕方なくなりました。すると、死後に罰を受けないはずが無いと思い、何をしていても死の恐怖が頭から離れなくなってしまいました。今この瞬間も生き物を殺してしまっているのだと思うと、心臓がバクバクして、辛くてたまらなくなります。それでも、罰を受けたく無い、死にたくないと思ってしまいます。幸せを実感するたびに、申し訳なさと、死の恐怖で頭がいっぱいになります。自分勝手なことだとわかっていますが、死後もずっと今のように家族や友達と笑い合って、今のように平穏で幸せな暮らしをしたいと思ってしまいます。死によって今の幸せに終わりが来るのが怖いです。 私はやはり地獄へ行くのでしょうか。死んだら、もう二度と大切な人たちと暮らせないのでしょうか。めちゃくちゃな文章でごめんなさい。回答をいただけると幸いです。
初めて投稿します。 拙い文章ですが、どうぞ宜しくお願い致します。 先日競馬場に行く機会がありました。 その時偶然馬が、レース中に骨折し、直後に安楽死措置がとられました。 勿論幔幕は張られていましたが、一部始終を見てショックを受け、頭から離れなくなってしまいました。 同行者からは、馬は走れなくなると生きられないんだよと教えられ、自分でもインターネットで馬の安楽死措置について調べました。 実際に馬にかかわる仕事をしている方の意見を知り、馬にとっての骨折が人間のそれとは違い、命に関わる事なのだとも知り、「骨折しただけで殺すなんて!」と安易に言うことは、また違うのかなと思うようにもなりました。 しかしどうしても、競技馬として産まれなければもっと穏やかに暮らせたかもしれないのに…と消化しきれていない自分がいます。 無茶苦茶なことを言っているのは承知しています。 毎日魚もお肉も美味しいと思って食べているし、スーパーで売られているお肉の塊の背景を考えることもありません。可哀想ともあまり感じません。 私の知らないところで毎日沢山の動物が殺されているけれど、私は今回たまたま目の前で死をリアルに感じたから感情を動かされているのであって、それを知らなければ何とも思っていませんでした。 だからってベジタリアンになるのも違うと思います。 きっと大切なのは、その事実をきちんと受け止め、感謝することですよね。 私は今回の気持ちとどう向き合って、これから付き合っていけば良いのでしょうか。 まとまりのない文章で申し訳ございません。 是非教えていただきたいです。