夢と希望がなくなり 生きる望みがなくなった時 人は死を選ぶべきでしょうか 生きるとはなんですか 人生の修行ですか だとしたらなのん為の修行ですか
初めて質問させて頂きます、よろしくお願いします。 平成24年、12月9日に三人兄弟の末の弟が自殺しました。 二十歳でした。 遺書から察するに、母親が居ない寂しさ(平成15年に癌で他界)と、精神病だったみたいです。 僕と末の弟は10歳離れていて、小さい頃はおむつを代えたり散歩に連れていったりして、兄弟なんだけど半分子供みたいな感覚でした。 事があった直後は色々忙しくて考える暇も無かったのですが、今は悲しみと悔しさ、色んな感情がわき出してきて、とても辛いです。 なぜ、止めることが出来なかったのか。 そんな事ばかり考えてしまいます。 せめてもの願いですが、もし死後の世界があって、僕が死んだら母と三男に再び再会することが出来るのか。 それだけが知りたいです。 そして、自ら命を絶った弟が、ちゃんと天国で母と会えて、向こうで幸せに暮らせているのか、苦しい思いをしていないか。 それだけが知りたいです。 僕は三男の死後、僕も死んだら天国で母と三男に会えるように出来るだけ徳を積もうと思って生きています。 どうが、回答頂けたら嬉しいです。
私は、数年前に仕事でのストレスから鬱病を患ってしまい、その仕事も辞めて暫くは家で休養しておりました。 その際、仕事を辞めてしまったので勿論収入も無く貯めたいたお金も携帯料金等で使用したため無くなってしまいました。 其処で、今回私が後悔して仕方ないのが… 鬱病を患って休養していると言っても、収入が無くなってしまい、携帯料金等の支払いが出来ない時に…私は黙って祖母や母親の貴金属を売ってしまい、其で携帯料金等を支払ってしまいました。 その事を話せず仕舞いになってしまって、祖母は亡くなってしまいました。 未だに、祖母や母親にこの事を話せていない事に後悔してばかりです。。 私は、この先…どうしたら良いでしょうか?
昨年、私は30歳で3人目の子供を出産しました。 それから数ヶ月経ち… 幸せなはずなのに毎日死について考えてしまい苦しくなります。 『今は皆で笑っているけど、いつかは永遠の別れが来る』 『死んだら夫のことも子供達のことも楽しかった思い出も全て消えてなくなる』 『子供達も私のように死に恐怖感を持ち苦しむ時がくるのかな』 『いつかは死んでしまうのに何で産まれてきたのだろう』 と、常に頭の中にあり、夫や子供達の無邪気な顔を見ると、悲しくなります。 どうしたらこれからも前向きに生きていけますか? もともと、パニック障害があり、数年前から心療内科に定期的に通っていたのでその事を話すとろくに話も聞いてもらえず薬を大量に出されただけでした。 (授乳中なので薬は飲んでません) 私はおかしいのでしょうか? それとも、産後に不安定になっているだけなのでしょうか? 誰にも話せず、自分でもどうすれば良いのかわからなくなりこちらで相談させて頂きました。
こんにちは。初めて質問させていただきます。 じぶんは花屋に勤めているのですが、最近どうも、これは因果な商売だという気がしてなりません。 というのは、われわれは花を切ったり折ったり、娯楽として楽しんでおり、それはこのうえなく命を粗末にしていると思うのです。生きていくために仕方なくならまだしも……です。 故人にお花を供える文化もそうですが、花にしてみれば土から身を引き抜かれて、あとは枯れるのを待つばかり……などと考えてしまいます。 仏教の精進料理や、いま流行りのヴィーガンなどは、動物の命はちょうだいしません、かわりに植物を食べますと認識していますが、科学が発展し、植物も命のひとつであることを疑う人はいなくなりました。そうすると、「殺生はしない」という主義主張が植物のせいでおかしくなってくると思うのです。 道徳や倫理は人間本意で作られていて、それを動物や虫にまで広げたのが仏教の教えにあるという印象です。とても心の優しい 宗教だと思います。そこへ、植物が入り込んできたら、いったいどうなるのだろう……という疑問があります。 植物には神経が通っていない、よって痛みは感じないと聞きます。ですから正直あまり可哀想とは思いませんが、それでも自分が同じ立場になったら……ちょっと恐ろしいです。 いま現在、仏教に身を置く方々は、植物の命についてはどのようにお考えなのでしょうか。責めているのではなくて、単純に思想に興味があります。私自身は肉も食べれば、フラワーアレンジメントもします。ふと気になって、お尋ねさせていただく運びになりました。
「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。
去年7月に6年一緒に住んでいた彼氏が自殺しました。亡くなってから、毎日逢いたくて、寂しくて、日々泣いていました。 彼氏は、成仏したのか、まだ側に居てくれてるのかなぁ。とか色々考え、死後の世界の事や魂について知りたくて、何冊も本を読みました。でも、自殺した人の魂について書いてる本は、ほとんどなく、病死や年老いて亡くなった魂についての本が多いんです。何か、自殺した人の魂について書いてる本があれば、教えてもらえないでしょうか?自分でも、何をしたいか分からないんですが、そういう本を読んでると、彼氏を近くに感じれて安心するんです。何か、良い本があれば、教えてください。
(編集部より。回答者を指名した質問はできません。質問を修正しています。) 私は、8歳で義父から性的虐待を受け続け、母からは そんな私を「気持ち悪い」と言われ、実父からは、助けを求めた時に「おまえなど関係ない」と言われました。 あるお坊様が、「ご両親には、生まれてきたこと、今生きてることを感謝しなければいけない」と話しておられました。 そんな両親にでも感謝しなくてはいけないのでしょうか? 生まれてきたことを喜ばないといけないのですか? 怨んでも憎んでも苦しい、私の人生を殺した加害者でしかありません。 妹には先立たれてしまい、ついて行きたい気持ちでいっぱいです。 血縁の方が同じ目に合われていても、それでも感謝しなさいと教えられるのでしょうか? 生まれてきたことを後悔しています。
新築の現在の家に住み始めて1年半。悪いことばかり続いています。 はじめは家の設計ミスが発覚したり出入り業者に床に傷をつけられたり、子どもが何針か縫うケガをしたりと小さなことが多かったのですが、今は一歳の子どもが慢性疾患で毎日苦しんでおり、それにより夫婦の意見のすれ違いが増え、上の子も荒れてしまい、離婚の話も出ており、両家両親とも不仲に。これ以外にも書ききれないことがたくさんあります。 神社で調べてもらうと、地相家相に加え、引っ越した時期と方位が最悪だったとのこと。全て断ちきるためには時期と方位を選び再度引っ越すのが一番とのことですが、せっかく建てたマイホーム、正直手放したくありませんし、手放すのは厳しいです。 もともとはとても幸せな家族でした。現在の家に住み始め、いろいろなことが起こり、子どもの病気が発覚し、ひどくなってしまい、特にそのあたりから急に家と家族が崩壊の一路をたどっています。もとの仲良しで幸せだった家族と生活に戻りたいです。幸いなことにこれは家族全員同じ考えです。 毎日何のために生きているのか分かりません。子どもたちがいるから死ぬことはできない、それだけです。辛くて辛くて、将来の希望どころか明日も何も見えません。一体どうしたらもとの家族と生活に戻れるのでしょうか。お坊さんのお考えをお聞かせください。
SNSにて 『死んで償える罪などない 死んで癒える苦しみも悲しみもない 自死は罪と苦しみと悲しみを増やす最悪の選択 だから、生きて償い、生きて癒される事だけが、人の唯一無二の道』 という投稿がありました。 その方はヒーラーさんです。 やはり自死にはそれだけの重い罪が着せられるものなのでしょうか? 49日もやっと過ぎ、死を受け入れられてきた矢先で目に止まってしまったのでまた色々と考えてしまい始めました。 ※信仰先は真言宗です
ふと思うのですが、因果応報とは本当にあるものなのでしょうか。。 嫌なことをされた思い出がよぎるたび、正直、バチでも当たれ、とか、同じような目にあえばいいのに、とか思ってしまいます。 でもきっと、私だけが恨みにまみれて、相手は何もなく普通に生きてると思います。 それか、同じような目に仮にあったとしても、私に知る機会はありません。 私だって主人に出会ってからは確かに幸せだけれど、 失ったものを考えると、悔しくて悔しくて仕方ありません。 過去の他の方の質問で、バチあたれ!と思うのは良くないと知りました。 確かに、そう思った矢先に石につまずくようなこともありますし、よくないみたいです。 踏んだり蹴ったりです。 もちろん仕返しはできません。できたとしても、私の主義に反します。 じゃあ、どういう心構えでいるのが良いのでしょうか。 恨みがつらく、解決に自殺を考えることが時々あるのです。(今はありません)
僕は今、大学4年の学生です。 卒業研究、就職活動、足りない単位の取得など、やらなければならないことがあるのに目を背けてしまう。 僕はずっと嫌いなこと、嫌なこと、辛いこと、めんどくさいこと、それら全部から逃げてきました。逃げ続けてしまったのです。 だから今の僕は逃げることしかできない人間になってしまいました。もう直すこともできないでしょう。 考えることは目の前の楽をすることばかり。明日でいいや、いつかやろう、誰かがやってくれる、僕には無理そうだからいいや、そうやって嫌なことから目を逸らす。 頭を使う勉強が嫌い、知らない人と会うのはめんどくさい、話をするのも億劫。 今嫌で嫌で仕方がない壁がある。就活と言う名の遥かな壁が。 皆スーツを着て、皆就活セミナーを受けて、皆決まった書き方をしなければいけない履歴書をもって、皆企業説明会を受けて、皆面接して、死刑宣告を待つ。 あぁ、吐き気がする。 なんだってこんなめんどくさいことをしなくちゃ働くことすらままならないのか。 どれだけ努力したって働きたい場所に就職できるとも限らないのに、全てから逃げてきた僕にこれ以上耐え難いものは無い。 もし仮に就職できたとする。無理だ、こんな僕に仕事なんかできやしない。 人を沢山見てきた人事部の人はきっと僕のこういった部分を見透かすのだろう。もうその目で見ないでください。 僕は社会不適合者だ、生ゴミだ。 生きている価値は無い。だからと言って死ぬような勇気もない。 僕はどうしたらいい? こうして誰かに吐露すれば楽になるだろうと考えた、やっぱり考えることは楽をすることだけだ。 こうして質問することでまた嫌なことから目を背ける隙を作っている。 本当に、醜い、弱い心。
無理心中したら一緒に死んだ相手と一緒にいれますか? 一緒にいれない場合はその相手はどこに行って私はどこにいくのでしょうか。 死後の世界を教えてください。
こん〇〇わ! 日蓮さんの言葉で、真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊、という言葉がありますが、他の教えを批判するのはどうなのだろうかと思います。 日蓮さんは、虚空蔵求聞持法をして、法華一乗の教えにたどり着いたという話を聞いたことがあります… お世話になった比叡山は全て兼学できるお山であるのに否定をする、お釈迦さんに失礼ではないのでしょうか?、日蓮宗の法華懺法法要の奉送は大日経から来ているという話を聞きました。 律国賊、 戒律を守る人たちに対して国を壊すというのはどういうことでしょうか? はっきり言って理解不能です。 さらに龍神の娘が男に変かわって成仏したという法華経の下り。女性の私は現世での成仏は不可能ですか? 来世は男に生まれないといけないのでしょうか? 皆さまどう思われてるのでしょうか。
新しい年が始まりました。hasunohaに、おられるお寺様方にも。今年もたくさんの幸せがありますように。 よろしくお願いします。 私の友人は、とても精神状態が悪く、死にたい。頻繁に口にします。 死んではならない理由。 どうして死んではならないのかを、上手く説明する事ができませんでした。 私も一番うつ病が酷かった時は、同じように毎日死ぬ事ばかりを考えてきました。 今でも咄嗟に消えてしまいたい。と思う事が、あるのも正直、事実ではあります。 でも、自分を作り上げている、数えられない程の細胞の一つ一つ。日々全身を巡る血も。 地球に、人の小さなはじまりが発生した時から、今日の自分が、お腹に宿り、細胞分裂、生まれて、大人になった、今まで。 人になるものの発生からスタートして、今の自分まで、たくさんの、生死生死を繰り返し、自分まで繋がった。物凄く怖い程に深く壮大な歴史。意識はしないけれど、本当ならば、物凄い事なんですよね。 自分の体をつくる全ての細胞の一つ一つに、数えられない位前から繋がってきたご先祖様たちの、数えられない人数の血が、自分にも入ってるんだと思うように最近なりました。 自分一人の体で生きている気はするけれど、全ての細胞一つ一つにに、全てのご先祖様が宿っていると思えています。 友人にもそのように伝えました。 お寺様方は、自殺がダメな理由、死んではならない理由。 どう考えますか?どう思われますか? 苦しむ友人に、どうしたら、伝えられるでしょうか? そして、時々、間違ってしまいそうになる私に。 命をどう伝えてくださいますか?
お忙しい中申し訳ありません。よろしくお願いします。 小学3年生の長女が、自分の名前について悩んでいます。最初は、友達にからかわれたのをきっかけで気にするようになり、ある言葉を聞くと気になってしまい、自分でもやめたいが気にしてしまって辛いようです。 名前は夫婦で名付けましたが、出産後、周りやネットの反応に過敏になってしまい、これで良かったのか私も悩んだ時期がありましたが、子どもの成長に助けられ、そんなことを忘れるほど幸せに暮らしてきました。 しかし、最近、弟が寝静まると相談してくるようになり、毎晩じっくり聞いていますが、相当悩んでしまっています。テレビやマンガでも楽しみたいのに気になると言います。 相談してくれたことは嬉しいし力になりたいのでじっくり聞いたり、名前の由来や家族みんなが幸せに呼んできたことを話したりしていますが、どう対処したらいいのか困っています。 また、大きくなったら乗り越えてくれるだろうか、これがきっかけでつまらない毎日を過ごしていくのだろうかと思うと不安で、 こんな名前やめればよかったとか、改名した方がいいのかと思ってしまうこともあります。 笑って済ませてしまうような性格なら良かったですが、長女は人一倍繊細で、真面目で、気が小さく遠慮がちなタイプです。 私もどちらかというと気にするタイプです。 夫は私には、親がしっかり自信を持つことが大事だと言い、 夫は長女には、大丈夫、と言い、あなたの名前を呼ぶと幸せだと答えました。長女も、親がつけてくれた大事な名前ということはわかっており、名前を変えたいとか、嫌だとは思っていないようですが、ただ、気にするのが辛く、なんでこんな名前にしたんだと思うこともあると言いました。 長い質問で恐縮ですが、今はどうすることもできず立ち止まっており、長女(と私)が少しでも楽になりたく、アドバイスいただけたら幸いです。
最近、身近な人の死に接する機会が増えました。 友人や親戚の訃報に接し、「やがて自分も死ぬのだ」と死について意識するようになりました。 しかし、理屈では「死から免れない」「生まれたものは必ず滅する」とわかるのですが、自分は「まだまだ死にたくない」という気持ちが沸々と湧いてきます。 事故にでもあわない限り、遅かれ早かれ必ず死の間際を迎えると思います。そのとき、自分はどうしているのか想像がつきません。 宗派によっても死生観がことなると思いますが、死をどのようにして受け入れていったらよいのかご教示賜りたいと存じます。 よろしくお願い申し上げます。 合掌
おはようございます。 今日は文化の日で、イジメが原因で中退させて貰いましたが母校では文化祭を催しています。実の妹も母校の出身なので必ず来ているので私は行きません。私がイジメに遭っている時はまだ妹も小さかったので話しませんでしたが二親は無視でした。有名校なので卒業して欲しかったんです。でも出来なくてもう、この時点で不名誉な子になったんだと思います。おまけに高卒止まり。妹は有名な大学2つ出ましたし。笑えます。 座間市の事件はその猟奇さが際立っていますが大抵の人は信じられない、遺体の一部と生活なんてetcと言っている人は沢山います。私もそう思いますが容疑者は想像し得ない闇を抱えているのでは?と思っています。私もイジメに遭って家族の中でも孤立してから闇を抱えていると思っています。誰かしらあるのでしょうが深ければ深いと厄介なものです。闇に潰されない様に私はお坊さま方や周りの人に助けられながら四苦八苦していますが、私はこの容疑者を非難する人達よりは、闇を持つ容疑者に近いと思っています。自分を律しないといけないなと思いました。どうかお坊様方お祈り下さい。お願いします。
以前から何回も妻のことで投稿しているMKです。妻の信仰の問題はまだ解決途上です。 妻は先祖供養ができていないから、先祖が助けを求めてきている。先祖に罪深い人がいて苦しんでいる。その重みが自分たちにのしかかってきていると言っています。 ただ、私としては先祖供養は先祖を救う云々というよりは、生きている私たちが自分を振り返るためにするものだと最近思うようになりました。恐れや不安で供養するのでは先祖も迷惑なような気がしますし、どのような先祖であったとしても今自分があるのは先祖のおかげという気持ちを忘れないために供養することに意味があるのでは思うようになりました。 仏教において先祖供養とは一体何のために行うのでしょう?教えていただけると有り難いです。
大変失礼な質問かもしれませんが、聞ける人がいないのでお願いします。嫌味でなく素直な疑問です。 仏は実際には助けてくれない(祈っても病気が治るわけではない)と言いますが、それならなぜお寺はお守りを売るんでしょうか? 私は子供の頃、神社仏閣で「病気平癒」とあるので「これで治してくれるんだ」と本気で信じていました。なので大変裏切られた思いをしたことがあります。 現在は「超常的な存在が良い人間を助けてくれる」という考えは本当の仏教ではない、あくまで学問という風潮ですが、ならなぜお守りを売ったり祈祷するんでしょう? 施餓鬼や戒名などで、なぜ「これで〇〇が良くなるよ」とするのですか。故人が対象だと、「故人には幸せでいてほしい」という感情を利用されているようで、複雑な気持ちになります。 お寺や宗派によって違いはあると思いますが、よければ教えてください。