子供達が産まれる前、初めての妊娠をした時に、産んであげられなかった子供が居ます。 お腹に居た時、本当に嬉しくて幸せで楽しみでした。 しかし、現在の主人の両親に強く反対され、結局殺してしまったのです。 決断をしてしまったのは私ですが、その時『どんなに歳を取り、認知症になったとしても、この子を殺してしまう事は決して忘れない、私もあなた(主人)の家族も私は一生この事については怨んで生きて行く。』と言った事を今でもはっきりと覚えています。 12年過ぎ、子供にも恵まれましたが、どうしてもその時の子供が不憫でなりません。 子供達の姿を見れば見る程、『産んで居たら…』と何処か思ってしまいます。 せめて戒名と小さな仏壇を誂えてあげたいのです。 しかし、私の嫁ぎ先に相談してみたら『そんな事しなくていい。』と一蹴され、主人も心で思っているなら良いじゃん。 と言われました。 私1人だけの判断で、子供の戒名と仏壇を揃えてあげる事は可能でしょうか? 私の最期の望みは、もし、その時の水子が 河辺に居て、あの世に行けないのであれば、私が代わりそこに残ってでも成仏して欲しいのです。 もう一人、確かに居た子を死ぬまで忘れたく無いのです。
出産は拷問なのに。 子供はいらないのに。 男は身勝手過ぎる! 夫は押し倒したあと、俺も子育て手伝うから一人ぐらい生んでよー、と言ったのです。 ふざけるな、手伝うってなんだ、子育ては男女両方やること。 手伝うということは子育てのメインは私ということになる。 女は子育てマシーンじゃないし、子供を生む機械でもない。 私の仕事のキャリアと命を奪う行為を平気でする夫。 本当に信じられない。 今週末に警察へ相談する予定です。 以前ここで質問したら、子作りを拒否するのは男にとって無い物ねだりだと言われました。 黙って犯されないといけないんですか?
儲かること関係なしに、 貧乏だろうが、世のため人のためにお坊さんをやっている方は、本当にほとけさまのような存在です。しかし、ふつうに仕事をして、もっと収入を得たくはならないのですか? それとも、やっぱり、お坊さんという仕事をしたくて、やっておられるのですか?趣味みたいなものですか?
死んだらどうなるのでしょう? 最近そんなことを考えて怖くなる時があります。 私は仏教が好きなのですが、実際自分が死んだらどうなるのか不安になって怖くなる時があります。 何もしないと死後はどうなるのか? 修行をしたら死後は変わるのか? 死後にお坊さんにお経をよんでもらったらどうなるのか? とても不安です。
私は恐がりの癖に暇な時間怪談話などの朗読動画をよく聞いていました。 ある日聴いた内容が目が見えない霊なのでその霊知ってる人間だけを探し殺しにくると言った内容でした。 その朗読を載せた人は次は自分のばんだと思い少しでも生存率をあげるためにのせたと言っていていつその霊が私の前に来るのかと思うと怖くて怖くてたまらないのです。 成人までに髪伸ばしたら?と親に言われたのですが、その霊は後ろ髪をのばしてると掴まれるといったことで女なので剃ることはできないのでショートカットです。 聴かなければよかったと後悔しても遅いしどうすればよいのでしょうか。 本当に、霊が殺しにくるなどのことはあるのでしょうか? ここ毎日そのことが怖くて怖くてずっと考えてしまいます。
私は仏教徒ではありません。しかし、1つの生きる智慧としての仏教に興味をもち、色々と小さな脳ミソを使い調べてきました。 それで思ったのが、仏教は私に「生きることは思い通りにならないことばっかだけど、残念ながら諦めるしかないよ」と言ってるのではないか?ということです。 私のような若造でもこれは理解できます。うまくいくことよりもうまくいかないことの方が圧倒的に多いですし、楽しいことより辛いことの方がたくさんあります。 そこで私の中に「ならば、生まれさえしなければいいのでは?」「辛いと分かってるのになぜ子どもを産むのか?」という疑問が生まれました。 言うなれば、辛い世界に「送り込んだ」親は加害者、「勝手に送り込まれた」子供は被害者という構図です。 そこで質問なのですが ・この考えは正しいのか間違っているのか ・間違っているなら、どう違ってるか ・正しいなら、なぜ人間は子どもを産むのか 教えていただきたいと思います。
母に言われた言葉が、ずっと私を苦しめています。「妹は与える人だけど、あんたは奪う人だね」その言葉を聞いてから、友人からプレゼントをもらったりしたとき、奪ってしまっていると、相手は私のせいで貧しくなってしまうんじゃないかと、心配と申し訳なさと、悲しさで泣いてしまいます。 現在就活中で、できるか不安になって、母に相談に乗ってもらい、頼ってしまっているときも、あんたは頼るだけで、こっちに気を遣わないと言われ、また私は奪うだけの存在なんだなとおもいました。 人に好意でプレゼントをもらったり、母から仕送りの食材を送ってもらったとき、私は返せるものが何があるだろうと悩み、素直に喜べなくなりました。 私が何が返せるかわからない今、人に相談したり、頼ることが申し訳なくなり、全部自分で抱えるしかないと考えるようになりました。 最初に書かせていただいた、私は奪う子だからという言葉が、思い出すたびに苦しいです。どうしたら、与える人になれますか?
最近、旦那に600万程の借金があることがわかりました。結婚して3年、2人の子供がいます。普段は子育てに協力的な夫、離婚は考えていません。ただ、この事を知っているのは私だけ。せめて旦那の両親には話したいところなのですが、旦那は嫌がります。他に相談できる人もいないので、1人でモヤモヤしてしまいます。旦那の両親に話すべきでしょうか。
昨晩、布団に入り輪廻転生について考え出したら、なんだかとても恐ろしくなって眠れませんでした。そんな夜明けにふと思ったのですが、仏教では「お盆にご先祖様が帰ってくる」と一般的に言われてますが、この考えと輪廻転生の仕組みは矛盾しませんか? 魂が分裂したり並行宇宙が存在するのか、それともこの質問は仏教におけるタブーなのでしょうか?
2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を ありがとうございました。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 ご教示頂ければ幸いです。 世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。 これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は なく、全て川のように流れていくものだと理解し ました。=無常・無我 →この理解で正しいでしょうか? 物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? この意味が正直、理解に苦しんでいます。 「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ だと、「からっぽ」のように感じます。 でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 しないと思います。 「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。 私の理解したことは、 全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 としての現れ方が異なる。 →物質、人、動物、植物・・等々 全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 エネルギーという表現が適切かわかりませんが。 物質には、質量というエネルギーがある。 生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。 このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。 物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。 自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。 ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも しれません。 ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。 以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。
仏教では、言われたこと、されたことは今はもうなく、過去のこと。目、耳、鼻、口、肌で感じるものが今。そうすれば苦しまない。 だったら虐待は? イジメは? 全て過去の雑音? 何をやられても、されても雑音なのですか? 幼いころから、そういう環境にいると人格形成されます。普段の生活の中で困っている事が、たくさんあります。 過去が雑音なら、今、この私というかたまりは幻です。 こんな質問をして、ごめんなさい。
50億年後、太陽の寿命は尽きると言われています。 現代科学では実現不可能な宇宙船でも造って 太陽系を脱出でもしない限り、 人類含め全ての生物は死滅します。 子孫を残して命のバトンを後世に繋げても、 偉業を達成して世の為、人の為に尽くしても、 太陽は終焉の際に膨張して地球を飲み込み、 生命の痕跡を全て消してしまいます。 それでも、人が生きていく事に価値はありますか?
先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。 中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。 先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。 ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか? そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。 先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
現代物理学には「ホログラフィック仮説」というものがあります。 これは、「私たちが実際に存在していると思っている宇宙も、実は宇宙の“境界(例えば宇宙の外縁)”にある二次元的な情報の投影である」というものです。 この仮説から、我々の物質世界は実はアカシックレコードにある情報が物質化されたものだと考えることができます。 また、過去から未来に流れる直線的な時間というのも実際には存在しておらず、情報が物質化されることによって、まるで時間軸に沿って物事が成立しているように感じられるのだと思います。 哲学者のベルクソンは、時間を「過去が現在に溶け込みながら未来を生み出す連続的生成」と考えました。 そして、世界の本体は「イマージュ」であり、それが外側に展開したものが「物質」、内側に沈潜したものが「記憶」であると考えました。 また、我々の「脳」は、思考を作り出しているのではなく、「純粋記憶=情報」の中から我々の行動に役立つものを選び取っていると考えました。 これらの議論から、私は肉体的な輪廻転生はないと思います。 アカシックレコードにある「純粋記憶=情報」が物質化されたのが我々の生きる世界であり、輪廻転生とは「純粋記憶が物質世界に現れること」を言うのだと思っています。 三島由紀夫は「未来からの輪廻転生も考えなければならない」と言いましたが、これは以上の議論を踏まえたことだと思われます。 また、私は仏教の無我の思想は正しいと思いますが、一方で人間の「魂」の存在も信じたいと思っています。 古代中国には「魂魄」という概念がありました。 「魂」は精神を支える陽の気で、死ぬと天に昇るとされました。 「魄」は肉体を支える陰の気で、死ぬと地に帰るとされました。 私の考えでは、「魂=宇宙」であり、アカシックレコードの情報から脳が選び取ったものを「魂」と考えれば、仏教の無我の思想と矛盾しないと思います。 (魄についてはよく分かりません。) さらに、「生命」についてはシュレディンガーが言ったように「負のエントロピーを食べる存在」であり、暗黒流体という負のエネルギーによって成り立っていると考えています。 これらは全て、執行草舟氏の思想をもとに考えました。 私が言いたいのは「古典的な仏教の世界観だけでは、宇宙や世界を説明するのに不十分ではないか」ということです。 ご回答よろしくお願いします。
これは過激な提案であり、思考実験であり、私の望みです。 私の望みは、ありとあらゆる生命が、一瞬で、同時に、何の苦しみもなく死に絶えることです。私はこの世界に心底失望しており、肉体という物質からの脱脚を強く望んでいます。五感と意識を手放し、何も感じなくなりたくて仕方ありません。 自殺してもこの世界がある限り、また生まれてしまう可能性から逃れられません。それに絶望して、「何もないこと」を希求するようになりました。 人間は「全世界同時安楽死ガス」を開発するためだけにここまで進化したと思っている部分があります。 全生命の生殺与奪権を一部の人間が握ることになる点、自然に続いている生命を人為的な手段で終わらせる点、今まで誰もそんなことを言わなかった点を除けば、私の提案は遠い未来に訪れる太陽の消滅や阿弥陀様のもたらす救いと同質ではないでしょうか? 「存在しない」以外の希望がどこにも見当たりません。 生命の本能は他を侵害することにあります。人間だってその本能から逃れられていないばかりか、「自分を大切にしたい」という欲望のままに他者を排除する時代です。 今まで見て見ぬふりをすることでうまいことやっているように見せかけてきた沢山の苦しみが「多様性」や「人権」という言葉のもとに噴出し、その結果は今まで以上の苦しみの再生産です。 善意なんてものは、もともと神話の遺物でしかありません。 何かを犠牲にしなければ社会は成り立ちません。 ならば、全て消し去ってしまった方が良いとしか思えません。 「全生命同時安楽死ガス」が間違っているのだとしたら、私はどうすれば 良いのでしょうか?
タイトルにあるような質問を、自殺志願者の男性に言われて答える事が出来ませんでした。彼は、彼女と一緒に死ぬと言ったまま音信不通になりました。あれから、彼に言われた問いが、私の中に残っています。お坊さんだったら何と答えますか?
会社で自我を発揮する癖があり、二箇所連続で首になりました。 そのためだけに生きてきた昇進試験にも不合格続き、次の職場も見つからず。 結婚の予定もありません。 両親には、お前の生き方が全て悪いのだから反省しろと言われました。 今手掛けている事の区切りがついたら自殺を考えています。 ですが自殺する勇気がありません。 これまで懸命に生きてきたので、自殺は許されますか?迷惑がかからない自殺の方法はありますか? つかれてしまいました。
ドアノブごと取れたから今生きています。お恥ずかしい限りです。 そこに至るまで何があったのかは省略します。 ただ自殺の原因になった人は元気にご飯食べて生きてるんだなと思います。 人権があるらしいですから。 大切なものがたくさんあったはずなのに、二度と生まれたくないというのが今回の人生の感想です。 生まれたくなかった。生まれたくなかった。これまで生きてきた時間が無駄でした。
子供の習い事で一緒のお母さん達とたまたま出ていた不満を、あるお母さんが指導者へ「こんなやり取りをしている」と打ち明け、事件に発展しました。 指導者は激怒で私達を叱責。 メールでのやり取り等を見せていたようで…。 関係の無い保護者の前でそのメールの内容を明らかにし出しました。 勿論、不平不満を抱き、話した私達がいけなかったかもしれませんが、関係の無い外へはそれは漏らしたわけでない為、それくらいはと思っていたのですが、その行為をよく思わなかったのでしょう、一人が指導者と言う強い立場の人間へ話しました。 誰がどんな事をするのかもう分からなくなり、信用が出来ません。 不平不満は絶対に人間は言ってはいけないのでしょうか。不満に思ったことはどうしたら良いのでしょう。教えて下さい。
自死を選ぶ人の気持ちがわかりません。 誰も身寄りもいない人とかなら分かります。でも、愛する我が子がいて愛する家族がいるのに… 何故自死を選ぶのか… 未だ、自死した夫の気持ちが分からず、最後、何を思いながら亡くなっていったのか… 亡くなったら、魂は、残された家族の近くにいれるものですか?