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hasunoha 問答検索結果 : 「お経について」
検索結果: 2994件

お盆のお経や法事などは菩提寺以外に頼めますか?

うちには菩提寺があります。お付き合いはもう大正の頃からになります。 菩提寺は大きなお寺で、住職さん以外にも若いお坊さんが数人おり、近隣のお寺から勤めに(?修行に?)きている環境です。うちへお盆のお経などにはその若い方(A和尚)が日頃よりきていただいており、法事でお寺に伺うと住職さんとA和尚が勤めてくれます。 しかし、最近住職が変わり、次の住職さんになると体制がかわったようで、そのA和尚がやめられてしまいました。幸いに菩提寺の近くのお寺にA和尚は住職としていらっしゃるのでなにか相談があれば電話や直接伺って悩みを聞いて貰っています。 A和尚はとても人気があり、お壇家はみな、菩提寺をやめてA和尚のお寺に移りたいと言っている人もいるくらいです。 さて、伺いたいのは、お盆などのお経を菩提寺ではなく、今まで相談にのってもらったり、お経に来てもらっていたA和尚にお願いしてもいいものでしょうか? もちろん法事や葬式は菩提寺にお願いしなければならないと思うのですが(本心はA和尚にお願いしたいところです)。 私をはじめ、家族皆、A和尚のお経や話や人格に惚れてこんでおり、是非お願いしたいのです。しかし、私が菩提寺に頼まずにA和尚に頼むことで、菩提寺とA和尚との関係が悪くなったらと心配でもあります。 どうしたらいいでしょうか?

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どうしても浄土真宗のお経をネガティブな解釈してしまう

どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。

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お金が無く火葬しか出来ず未だに戒名お経もできません。

初めまして。よろしくお願い致します。 昨年実の父が102歳で他界しました。長い間の寝た切りの介護の 末老衰でした。その間の介護費用はかなりの出費で私は 苦しんできました。私も15年前に主人を亡くしており 不動産はありますが、年金の現金がなくほとんど父の 入退院などと自宅介護費用に消えてしまいました。 高齢ですし準備をするにも月1万円の貯金もできずに 20年間介護をし続けました。しかしお金以外は苦痛でも何でもなく 辛いと思った事もありませんでした。 むしろ介護中から父はもう世話になるばかりで長生きしすぎた とすまない、申し訳ないを繰り返すばかりでもしもの時には もう昔のような葬儀は行わないで家族3人(孫、ひ孫)で送ってほしいと 言われ続けていました。又高齢なのに「これからはそんな時代だから 気にしないで」と言われ続けましたがいつもそれを聞くたびに泣くばかりでしたがとうとう旅立ってしまいました。 本当にお金はすっからかんでしたので火葬だけで済ませましたが お住職さまを呼ぶお金も枕経も戒名もなく未だに遺骨だけです。又 余りの悲しみに欝状態になり寝込んでしまいました。 それでも日々お経をあげてあげたい戒名も付けてあげたいと思い つづけています。49日をしないと故人が迷って次の世に行けないという文などを読みますと涙がとまりません、ご先祖様の中で窮屈な想いしてるだろうと想うと情けなく可愛相でしかたありません。 そこでお尋ねします。本当に父は成仏していないのでしょうか? 私は住居にしている不動産維持のお金に消えてしまう 生活費だけでも今は苦戦しています。 又これからお金もないし父は浮かばれるでしょうか せっかく立派な先祖を 自分が立ち切ってしまった無念さで一杯です。 私自身は「真言宗」でしたが実家は『曹洞宗」でした。 知り合いもなく曹洞宗とは一体何をどうすればいいのでしょうか? これまでの不義理を戒名とお経をしていただくのに3万円ほどしか 今はありません。納骨の費用も捻出できません。 今私が出来ることを教えていただけないでしょうか? お線香をあげて貧乏で待っていてと言うばかりです。 曹洞宗はどのようになっているのでしょうか?どうすれば 成仏して先祖のもとにいけるでしょうか教えて下さい。 ご指導下さい。よろしくお願いします。お願いします。助けて下さい。

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檀家でない場合、お経をあげていただくことは難しいでしょうか?

初めて質問いたします。何かアドバイスいただけたらありがたいです。 <背景> ・宗派:学会系(ただし熱心ではなく、父方祖母の代に親戚付き合いから宗旨変えしたと聞いています。どちらかというと宗教に関心の薄い家です)。 ・父方親戚は学会系の方が多く、これまでお葬式をあげる際は「友人葬」として親戚の方に題目?を読もらっていました。 ・父が一人っ子で祖父母も亡くなって時間がたっているため、父方親戚とは疎遠気味です。 ・祖父母のお墓は地域の共同墓地(宗派がないところ)です。 <相談内容> 先日弟が事故で無くなりました。少し普通ではない亡くなり方(犯罪等ではありません)だったため、疎遠気味だった父方親戚には知らせず、ごく身内だけで葬儀を行いました。 数か月たちそろそろ納骨を考えているのですが、納骨時にお経をあげていただく伝手がありません。父方親戚にお願いすればあげてもらえそうですが、事情により伝える予定はありません。 できたら宗派の近い日蓮宗系の方に、納骨の時だけ立ち会っていただきたいのですが、何か方法はないでしょうか? お墓近くの日蓮宗系寺院に相談したところ、檀家になることをすすめられました。ごくまっとうな意見だと思うのですが、すぐには踏ん切りがつけられず家族で悩んでいます。

有り難し有り難し 23
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理趣経を読んで感じた事。こんな解釈で良いでしょうか?

理趣経(正確には、理趣経本文を含む解説書)を初めて読んだのは 20代の頃で、その時は何が何だかチンプンカンプンでした。 でも今になって読み返し、頭の中で反芻しているうちに、 理趣経がこんな事を語りかけているように思えて来ました。 以下、長文になりますがご了承願います↓ ・・・・ 自然界には大小様々な生き物がひしめいているだろう。 与えられた命の中で無心に食を求め、子を作り、必死に生きている。 そんな生き物たちの本能が汚れてると思うか?いや、皆清浄なのだ。 そして人間も生き物だから、人間の欲望や業だって本来は清浄なんだ。 自然がありのままで美しいように、人の欲も本来ありのままで美しいんだ。 大いに食べて楽しむのも結構、性の快楽に耽るのも結構。 自分の本性を曲げる事はない。遺伝子に刻まれた生命の原理だから。 与えられた日々を存分に生き、愛し、大いに楽しみなさい。 でも決して忘れないでね。 最高の快楽は、あなた自身がまぎれもなく、この大自然・大宇宙の 一部として存在し、共に生きている事実を実感する事。 そして他者も皆、かけがえのない生命を生きている。 だから皆が楽しんで暮らせるよう、欲の力を否定せず、 むしろ利用して世間を整えるんだ。まあうまくやってくれよ。 悟りは本来深遠で説明しつくせないものだが、 私(理趣経)がナビとなって道案内しよう。 まずは車の免許を取りなさい。仕事や家庭の都合で 無理なら運転できる人に乗せてもらいなさい。 大丈夫、私(理趣経)を信じていれば、まさか地獄には墜ちないさ。 あ、でもナビの操作だけはくれぐれも間違えないようにな。 ・・・・ ・・・こんな解釈で合ってるでしょうか? やはり理趣経については、これ以上は独学よりも、 お寺の勉強会にでも参加した方が良いでしょうかね?

有り難し有り難し 34
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金剛経「第五章 如現実見分」のヒントをお聞かせください。

いつもお世話になっています。「金剛経5章」の勝手な考察です。お坊さんからのヒントをお願いいたします。  我々凡夫は、如来であるとの確証を得た(=如来は凡夫にとって価値があるということを知った)後に、如来を探し出せるような特徴を必死に見つけ出します。如来(=価値がある存在)と確証する前は如来でも何でも無いので特徴など詮索しません。探す目で見ていないので特徴はあっても特徴は認識できないので特徴はありません。特徴があるとは、気づいた後に作り出すものであり前には特徴はありません。  誰かが発見する前から重力や浮力は存在していて誰もが目にしています。特徴などないので気づきません。発見した人が「万有引力」やら「浮力」などの名前をつけて特徴としています。  そもそも、あらゆるものに特徴などなかったのです。人間だけに利用価値や意味があるので特徴を見つけ出します。人間以外の動物に「偽札」の特徴など知る必要はなく、特徴などありません。  動物には「言葉」がないので、臭いとかまずいとかの概念はなく本能的な反応だと思われます。我々人間も味を「言葉」にして分けていますが、親に教えられて「にがい」という味覚と経験を記憶しているだけです。  特徴があると断じても、諸法は無我であるので縁によって以前の特徴がいつまでもあるわけではありません。宇宙空間での「音」の特徴は、空気という縁がないので音は振動として伝わらないので音の特徴などありません。人相の特徴ですら、三十年も経てば全く変わってしまい以前の特徴はなくなっているでしょう。  特徴がないと断じたとしても、人間が価値を認めれば特徴を必死に見つけて特徴を定義します。  「ぶどう」は房に実が鈴なりについていて、甘酸っぱくて黒や緑色をしているという特徴によって「ぶどう」と名付けられます。この共通認識によって、市場で果物として流通しています。「ぶどう」は「ぶどう」と名付けられる前から存在していました。「ぶどう」は「ぶどう」と呼ばれなくても「ぶどう」ですから、明日から「ぶどろ」と呼ばれてもいいのではないでしょうか。  特徴によって存在しているのではなく、存在に特徴をつけて勝手に思いつくままに適当な「名前」をつけているだけではないでしょうか。  結局、あらゆるものは概念と名前によって個別の存在として有るだけで本来は区別差別のない一体であると認識しました。

有り難し有り難し 17
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