最近、病気で友人を亡くし、お通夜に参列させてもらいました。 その際に、お坊様が友人の頭元に立ち 剃刀?みたいなもので空を斬るような動きをされていたのを目撃しました。 以前、自殺した姉のお葬式の時も、していたので、もしかしたら、友人は病気ではなく、病気を機に自殺してしまったのではないのかと、不安になりました。 そこで質問なのですが、自殺した方のお通夜やお葬式などは、そういった事をされるのでしょうか? 私の家は浄土真宗西本願寺です。 友人の家はわかりませんが、浄土真宗ではなかったと思います。
古代人は、漢語が分かったので、あえて日本語に訳す必要がなかったそうですが、現代人にとっては、難しいと思います。本来、仏教は生きている人への教えなはずです。みんなに教えを分かりやすく伝えることが大切ではないでしょうか。お坊さまの中には意訳を取り入れている方もいらっしゃると聞いています。もっと、意訳勤行が広まればいいのに・・・と思います。 当方は、真宗大谷派の門徒です。
妙法蓮華経の天台宗での読誦についての質問があります。 日蓮宗諸派では、方便品、如来寿量品、如来神力品、普門品を主に唱えて、他の品も時には読誦するようですが、 天台宗では方便品、如来寿量品、如来神力品、普門品以外で 読誦することがある品は何があるでしょうか? 天台宗以外の僧侶の方の回答も大歓迎です。 また、妙法蓮華経を理解するには、どの品が一番重要でしょうか? 二番目の質問では天台宗諸派や日蓮宗諸派の僧侶にもできればお聞きしたいです。 大きな質問になってしまいましたが、申し訳ありません。
うちには菩提寺があります。お付き合いはもう大正の頃からになります。 菩提寺は大きなお寺で、住職さん以外にも若いお坊さんが数人おり、近隣のお寺から勤めに(?修行に?)きている環境です。うちへお盆のお経などにはその若い方(A和尚)が日頃よりきていただいており、法事でお寺に伺うと住職さんとA和尚が勤めてくれます。 しかし、最近住職が変わり、次の住職さんになると体制がかわったようで、そのA和尚がやめられてしまいました。幸いに菩提寺の近くのお寺にA和尚は住職としていらっしゃるのでなにか相談があれば電話や直接伺って悩みを聞いて貰っています。 A和尚はとても人気があり、お壇家はみな、菩提寺をやめてA和尚のお寺に移りたいと言っている人もいるくらいです。 さて、伺いたいのは、お盆などのお経を菩提寺ではなく、今まで相談にのってもらったり、お経に来てもらっていたA和尚にお願いしてもいいものでしょうか? もちろん法事や葬式は菩提寺にお願いしなければならないと思うのですが(本心はA和尚にお願いしたいところです)。 私をはじめ、家族皆、A和尚のお経や話や人格に惚れてこんでおり、是非お願いしたいのです。しかし、私が菩提寺に頼まずにA和尚に頼むことで、菩提寺とA和尚との関係が悪くなったらと心配でもあります。 どうしたらいいでしょうか?
実家は元々、地域的に浄土真宗です。 一方で父が仏教系の新興宗教にどっぷりと浸かっています。 父自身が自分の中だけにそれをおさめてくれると良いのですが、たまに帰省して一緒にお墓まいりに行くと、浄土真宗のお経をお寺さんに上げていただく以外に、お墓の前で父がその新興宗教のお経を唱えます。 また、私はマウス試験(実験後はガスで処分)の仕事をしていた経験がありまして、今、私がパッとしないのを、父に全部それと関連付けられ、嫌な思いでいます。 長い間父とは距離を置いていますが、父は私を思うあまり、その新興宗教で、私の分の何かを勝手に買って、毎日私の分まで拝んでくれているそうです。 ありがたい思いですがかなり気色悪いです。自分の宗教観は自分で管理したいです。 (父は、話し合いをできない人です。) 私は宗教に関して、知識はほぼ皆無ですが、父が違うお経を唱えることで、ご先祖様や私の何かが迷うことは無いのでしょうか? 目に見えないものは無視しても良いのでしょうか?
どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。
両親のお墓は仏壇と一緒になっているタイプの物で弟宅にあります。コロナや弟家族の事情で行く事が出来ず。命日にお経をあげてあげたいと思うのですが近所のお寺(何の縁もないですが)とかでやってもらう事は可能なのでしょうか?もしくは何か方法があれば教えて下さい。
私は田舎にある父と母方の祖父母のお墓を改葬しようと思い先日、霊園を見学しました。 場所もお値段も雰囲気も全て条件に合いました。 父は日蓮宗で母方の祖父母は真言宗なのですが、宗教不問で戒名の付け直しも不要で誰でも入れる霊園でした。 ところが契約のさい、境内での法要等は管理寺院の臨済宗の僧侶が執り行うということが判明しました。 お墓の開眼供養も外部の僧侶を呼ぶのは不可とのことでした。 私としては想定外のことでしたし、これは事実上の改宗なのでは? と思い契約はいったん保留にしました。 そこで疑問なのですが、宗教不問でお墓を受け入れると広告しているのに開眼供養や法要等の宗派を限定するのはなぜなのでしょうか? また、お墓の開眼供養や法要を異なる宗派、異なるお経で執り行うことは問題ないのでしょうか? 回答よろしくお願いいたします
初めまして。よろしくお願い致します。 昨年実の父が102歳で他界しました。長い間の寝た切りの介護の 末老衰でした。その間の介護費用はかなりの出費で私は 苦しんできました。私も15年前に主人を亡くしており 不動産はありますが、年金の現金がなくほとんど父の 入退院などと自宅介護費用に消えてしまいました。 高齢ですし準備をするにも月1万円の貯金もできずに 20年間介護をし続けました。しかしお金以外は苦痛でも何でもなく 辛いと思った事もありませんでした。 むしろ介護中から父はもう世話になるばかりで長生きしすぎた とすまない、申し訳ないを繰り返すばかりでもしもの時には もう昔のような葬儀は行わないで家族3人(孫、ひ孫)で送ってほしいと 言われ続けていました。又高齢なのに「これからはそんな時代だから 気にしないで」と言われ続けましたがいつもそれを聞くたびに泣くばかりでしたがとうとう旅立ってしまいました。 本当にお金はすっからかんでしたので火葬だけで済ませましたが お住職さまを呼ぶお金も枕経も戒名もなく未だに遺骨だけです。又 余りの悲しみに欝状態になり寝込んでしまいました。 それでも日々お経をあげてあげたい戒名も付けてあげたいと思い つづけています。49日をしないと故人が迷って次の世に行けないという文などを読みますと涙がとまりません、ご先祖様の中で窮屈な想いしてるだろうと想うと情けなく可愛相でしかたありません。 そこでお尋ねします。本当に父は成仏していないのでしょうか? 私は住居にしている不動産維持のお金に消えてしまう 生活費だけでも今は苦戦しています。 又これからお金もないし父は浮かばれるでしょうか せっかく立派な先祖を 自分が立ち切ってしまった無念さで一杯です。 私自身は「真言宗」でしたが実家は『曹洞宗」でした。 知り合いもなく曹洞宗とは一体何をどうすればいいのでしょうか? これまでの不義理を戒名とお経をしていただくのに3万円ほどしか 今はありません。納骨の費用も捻出できません。 今私が出来ることを教えていただけないでしょうか? お線香をあげて貧乏で待っていてと言うばかりです。 曹洞宗はどのようになっているのでしょうか?どうすれば 成仏して先祖のもとにいけるでしょうか教えて下さい。 ご指導下さい。よろしくお願いします。お願いします。助けて下さい。
初めて質問いたします。何かアドバイスいただけたらありがたいです。 <背景> ・宗派:学会系(ただし熱心ではなく、父方祖母の代に親戚付き合いから宗旨変えしたと聞いています。どちらかというと宗教に関心の薄い家です)。 ・父方親戚は学会系の方が多く、これまでお葬式をあげる際は「友人葬」として親戚の方に題目?を読もらっていました。 ・父が一人っ子で祖父母も亡くなって時間がたっているため、父方親戚とは疎遠気味です。 ・祖父母のお墓は地域の共同墓地(宗派がないところ)です。 <相談内容> 先日弟が事故で無くなりました。少し普通ではない亡くなり方(犯罪等ではありません)だったため、疎遠気味だった父方親戚には知らせず、ごく身内だけで葬儀を行いました。 数か月たちそろそろ納骨を考えているのですが、納骨時にお経をあげていただく伝手がありません。父方親戚にお願いすればあげてもらえそうですが、事情により伝える予定はありません。 できたら宗派の近い日蓮宗系の方に、納骨の時だけ立ち会っていただきたいのですが、何か方法はないでしょうか? お墓近くの日蓮宗系寺院に相談したところ、檀家になることをすすめられました。ごくまっとうな意見だと思うのですが、すぐには踏ん切りがつけられず家族で悩んでいます。
理趣経(正確には、理趣経本文を含む解説書)を初めて読んだのは 20代の頃で、その時は何が何だかチンプンカンプンでした。 でも今になって読み返し、頭の中で反芻しているうちに、 理趣経がこんな事を語りかけているように思えて来ました。 以下、長文になりますがご了承願います↓ ・・・・ 自然界には大小様々な生き物がひしめいているだろう。 与えられた命の中で無心に食を求め、子を作り、必死に生きている。 そんな生き物たちの本能が汚れてると思うか?いや、皆清浄なのだ。 そして人間も生き物だから、人間の欲望や業だって本来は清浄なんだ。 自然がありのままで美しいように、人の欲も本来ありのままで美しいんだ。 大いに食べて楽しむのも結構、性の快楽に耽るのも結構。 自分の本性を曲げる事はない。遺伝子に刻まれた生命の原理だから。 与えられた日々を存分に生き、愛し、大いに楽しみなさい。 でも決して忘れないでね。 最高の快楽は、あなた自身がまぎれもなく、この大自然・大宇宙の 一部として存在し、共に生きている事実を実感する事。 そして他者も皆、かけがえのない生命を生きている。 だから皆が楽しんで暮らせるよう、欲の力を否定せず、 むしろ利用して世間を整えるんだ。まあうまくやってくれよ。 悟りは本来深遠で説明しつくせないものだが、 私(理趣経)がナビとなって道案内しよう。 まずは車の免許を取りなさい。仕事や家庭の都合で 無理なら運転できる人に乗せてもらいなさい。 大丈夫、私(理趣経)を信じていれば、まさか地獄には墜ちないさ。 あ、でもナビの操作だけはくれぐれも間違えないようにな。 ・・・・ ・・・こんな解釈で合ってるでしょうか? やはり理趣経については、これ以上は独学よりも、 お寺の勉強会にでも参加した方が良いでしょうかね?
お寺の都合でお盆前に棚経に来ていただくのですが、その時はお盆の飾り(施食旗やお供え)をした方がよいのでしょうか?それともまだお盆に入っていないので普段通りの飾りの方がよいのでしょうか?ちなみにうちの宗派は曹洞宗です。
お坊様に質問があります。 最近、地蔵和讃を唱えてるのですが、開経偈と回向文をお唱えしても良いのでしょうか?
ハスノハの存在を知り、私自身もいくつか質問し、 過去の色々な問答も読ませて頂いているうちに 十句観音経の存在を知りました。 今では朝晩に唱えさせて頂いてます。 我が家には仏壇が無いので 菩提寺と実家の方角に三回、祈願時の方角に三回。 シンプルなのに奥が深く、心の底からじんわり温まります。 仕事に家庭に、まあ何かと悩みは尽きませんが、 十句観音経が心の支えです。 良いご縁を頂いたハスノハと、お坊様達に感謝します。 優しいお言葉、厳しいお言葉、全ての回答が「有り難し」です。 ハスノハの質問者方の悩みが消え満願成就されるよう、 お坊様方がますますご健勝なるよう、お祈りします。 季節柄、ご自愛下さいませ。 -合掌-
いつもお世話になっております。 お礼が遅くなりましたが、不動産の件は円満に行きそうです。ありがとうございます!管理担当から物凄い丁重な謝罪がありました。45度の最敬礼(笑) * さて、私は低い声が出せません。親からも「あんたは甲高い声だね!」とさんざん言われたのを覚えています。 お経や御詠歌の時は経頭(導師)に音程、テンポ、声の大きさを合わせるように。と教わり、普段のお護摩でも実践している… つもりなのですが! 経頭さん(男性僧)の声に音程を合わせる時に、 中国ロシアの軍楽合唱団の女性兵士さんみたいに自分の声を高くする要領で音程を合わせています。あそこまで高くはならないけど。 * 響かせる場所、口の開け方等々を考えて重みのある声になるよう意識はしているのですが…問題はありませんか? お智慧を貸していただければさいわいです。 よろしくお願いいたします。
家は、禅宗で、今お付き合いしてる方は、浄土真宗なのですが、たびたびお世話になってるお寺は、真言宗です。 真言宗のお寺で、護摩たき(字が間違ってたらごめんなさい)していただいたり、真言を教えて頂いたり、御守りを頂いたりしてます。 この様な事は、本来よくない事でしょうか? 実家とは、疎遠で、今後の付き合いもありません。が、それでも、禅宗の方法で色々と進めるべきでしょうか? と、言っても仏壇などありません。ので、特にいま何か出来る訳でもありませんが、私の様な檀家にもなってない人は、今後どうしたらいいのでしょう? 何か1つの事でも、アドバイスいただければ、ありがだいです。 よろしくお願いいたします m(__)m
1.仏教では如来、菩薩、明王、天部とありますが、天部様の役目は何なのでしょうか? 2.天部様は仏様ではなく神様と聞いたのですが、般若心経を唱える時は最初の『仏説』は読まなくていいのでしょうか? 3.神仏習合では大黒天様=大国主様となりますが、大黒天様は大黒天様!大国主様は大国主様!と分けるのではなく、大黒天様=大国主様と考えて問題ないのでしょうか? 私は神棚に伊勢神宮のお札、嚴島神社のお札、大黒天様を祀っているのですが、神様として般若心経を唱える時、『仏説』はつけていません。 詣り方は合っているのでしょうか? 少し前までは大黒天様は天部様だから仏様になると思っており、頭に『仏説』をつけ伊勢神宮(天照大御神様)、嚴島神社(宗像三女神様)とは分けて般若心経を唱えていました。 今ではどれが正しいのか分からず少々混乱しております・・・。 教えて頂けたは幸いです。
昨年11月に夫が他界しました。原因不明の病で3週間の入院生活、回復の兆しが見えてきたと思った矢先に突然亡くなりました。 火葬の後、お坊さんがお経を唱えている際に目を開けてみると、お骨の横にとても明るく光る金色ともオレンジ色とも見えるグリッターのような光りがキラキラと見えました。 あまりにもはっきり見えたので、周りの人たちにも見えているのかと思いキョロキョロと見回したのですが、私にしか見えていないようでした。 とてもキレイな、グリッターのような、温かみのある光が、骨壷の周りで光っていました。 お経が終わったのと同時に光はさっとなくなりました。 今日は49日でした。お別れはとても寂しいですが、あの光に今でも見守られているのような気がし、心が落ち着く感覚になります。あの光は何だったのでしょうか?
いつもお世話になっております。 私は仕事などでお寺への参拝が困難な日は、家の仏壇で 勤行をしています。私は浄土宗の檀信徒、日常勤行式には、 開経偈のあとに四誓偈とあります。 * ですが私の祈願寺は真言宗、本尊はお不動さんです。 仕事が休みの日にはそこのお護摩で一緒にお経をあげています。 そこで、開経偈の後に四誓偈に次ぎ、理趣経や観音経をお唱え しても失礼ではありませんでしょうか? また、ご真言はどこに挟めばいいですか? * 私の仏壇の荘厳は、 上段に阿弥陀様の像、両脇に両祖大師様のお軸。 中段には先祖代々の位牌、件の寺(爆)の本尊が写った 記念テレホンカード。下段は仏具。以上です。 * テレホンカードは開眼などしていませんが、私自身思い入れが 強いのでご安置しています。 お不動様に罪はない。むしろ被害者だと思っているので… * お教えいただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっています。「金剛経5章」の勝手な考察です。お坊さんからのヒントをお願いいたします。 我々凡夫は、如来であるとの確証を得た(=如来は凡夫にとって価値があるということを知った)後に、如来を探し出せるような特徴を必死に見つけ出します。如来(=価値がある存在)と確証する前は如来でも何でも無いので特徴など詮索しません。探す目で見ていないので特徴はあっても特徴は認識できないので特徴はありません。特徴があるとは、気づいた後に作り出すものであり前には特徴はありません。 誰かが発見する前から重力や浮力は存在していて誰もが目にしています。特徴などないので気づきません。発見した人が「万有引力」やら「浮力」などの名前をつけて特徴としています。 そもそも、あらゆるものに特徴などなかったのです。人間だけに利用価値や意味があるので特徴を見つけ出します。人間以外の動物に「偽札」の特徴など知る必要はなく、特徴などありません。 動物には「言葉」がないので、臭いとかまずいとかの概念はなく本能的な反応だと思われます。我々人間も味を「言葉」にして分けていますが、親に教えられて「にがい」という味覚と経験を記憶しているだけです。 特徴があると断じても、諸法は無我であるので縁によって以前の特徴がいつまでもあるわけではありません。宇宙空間での「音」の特徴は、空気という縁がないので音は振動として伝わらないので音の特徴などありません。人相の特徴ですら、三十年も経てば全く変わってしまい以前の特徴はなくなっているでしょう。 特徴がないと断じたとしても、人間が価値を認めれば特徴を必死に見つけて特徴を定義します。 「ぶどう」は房に実が鈴なりについていて、甘酸っぱくて黒や緑色をしているという特徴によって「ぶどう」と名付けられます。この共通認識によって、市場で果物として流通しています。「ぶどう」は「ぶどう」と名付けられる前から存在していました。「ぶどう」は「ぶどう」と呼ばれなくても「ぶどう」ですから、明日から「ぶどろ」と呼ばれてもいいのではないでしょうか。 特徴によって存在しているのではなく、存在に特徴をつけて勝手に思いつくままに適当な「名前」をつけているだけではないでしょうか。 結局、あらゆるものは概念と名前によって個別の存在として有るだけで本来は区別差別のない一体であると認識しました。