ゲームで上手くいかずにゲームオーバーになると腹が立つ こっちのことで質問しているのに回答が誰にでも当てはまるようなもので自分を見てくれていないことに腹が立つ こっちの思惑通りにならないことに腹がたつ こんな風に腹が立つことをいちいち書き込んだり口に出さないとやってられません 以前は更に人に手をあげたり物を壊したりしていたのですが今は抑えられています どうしたら嫌なことを我慢できるのでしょうか? 自分が生きさせられている人生なのに自分が主役じゃないのが気に入らないです 他人が憎い
今から10年位前、夫の両親同居中、義父が室内犬を飼い始めました。その時2歳の娘がいて、お腹に赤ちゃん。環境的に室内では動物を飼いたくはないけれど、主人は単身赴任で留守、私も嫌だと言えず、我慢しました。けれどストレスをすべて犬に向けてしまい、殺してしまいました。今更後悔しても遅いのですか、苦しくて仕方有りません。 現在は家族だけで賃貸を借りて生活していますが、安定剤を飲みながらなんとか生活しています。 私のした事ですから、苦しむのは当然ですが、やはり苦しく助けて欲しいと思いメールしております。
初めて質問いたします。宜しくお願い致します。 世間で言う結婚適齢期も少し過ぎつつある年齢になり、友人知人たちはほとんど結婚して子供がいたり、独身でも彼氏がいたりで、独身、彼氏なしの自分が何だか惨めに思えた時期がありました。 なぜ周りは自然と彼氏が出来、自然の流れで結婚、出産とトントン拍子に幸せになっていけているのに、どうして私は彼氏すら出来ないのだろう、もう年も若くないし、何とかしないと、と焦りに焦る日々を過ごしておりました。 そんな日が続いたある日、ふと疑問に思ったことがあります。 「そもそも、どうして私は結婚して子供が欲しいのだろう」 彼氏がいたらいたで、私のことをどう思っているのかとか、浮気をしていないか等心配事も出てくるわけで、それは結婚しても出産をしても同じこと。 お金のこと、仕事のこと、家族の健康のこと、子供の教育関係等、心配事は尽きないと思います。 ただでさえ自分のことでいっぱいいっぱいになりがちな心配性な性格のため、彼氏や家族という大切な人のこととはいえ、気にかけて世話をしてあげられるだけの余裕が持てるか非常に不安です。 次第に 私には、結婚は向いていないんじゃないか。 幸せになるためには、ひとりでいた方がいいんじゃないか。 と考えるようになってきました。 そのため、私の中で「結婚、出産」=「みんなしているから、何となくするもの」というひとつの結論に至ったわけですが、正直完全に結婚、出産への憧れを断ちきったわけではありません。 生涯を添い遂げられるパートナーがいればどんなに心強いかと思うこともありますし、公園などで幸せそうに遊ぶ子連れの夫婦を見て、いいなあ、子供が欲しいなあと思うこともあります。 その反面、上記のような他者を煩わしく思ってしまう心や、または結婚や出産は単なるエゴだと思ってしまう心もあり、結婚、出産とは何だろう、どうして皆疑問にも思わず、結婚や出産を経験しているのだろう、そして私はどうしたいのだろう、と考え込む日が続いております。 なぜ、人は結婚、出産を求めるのでしょうか。 結婚をしなくても幸せになれるなら、それはそれでいいと思うのですが。 そもそも、「幸せ」とは何なのでしょうか。 お教えください。宜しくお願いします。
仕事柄ご遺族の方とお話しする機会が多くなってきたのですが、その際に故人の宗派が分からなくて話しの内容を誤ってしまうことがとても心配です。 たくさんの宗派があるとは思いますが、たとえば仏壇にこの仏具あったらこの宗派、故人がこの念仏を唱えていたらこの宗派 など 各宗派を簡単に見分けるポイントなどがあれば教えてください。 宜しくお願いします
お坊さんは本気で、死んだら仏になると信じているんですか?
僧侶の皆様に御尋ね致します。仏教の教えでは「親を大切にしたければいけません」「育ててもらったご恩に報いることが大切」といわれて いますが、昨今多発しています「児童虐待」「養育放棄」にあっている子供も、その親を大切にし、恩に報いなければならないのでしょう か?僕は幼少の頃から感情の起伏の激しい母親 に振り回され、悪化している夫婦関係のストレス解消に精神的暴力肉体的暴力にさらされ、逃げ場なく、過ごして来ました。19歳で家を飛び 出し、やっと呪縛から解放され32年が過ぎました。数年前から仏縁を頂き、仏教に帰依致しましたが、その中に冒頭の教えがありましたこれ については、僕は素直に受け止めることが出 来ないのです。どうぞ僧侶の先生方のご指導ご回答の程、よろしくお願いいたします。
今日、ふっと思った事の答えを教えて欲しいです。 この世には色々な宗教、宗派がありますが、基本的には人々を幸せに導く為や心の拠り所として神や仏というものが存在しているんだ思います。 しかし、事件や事故に巻き込まれて突然命を奪われて亡くなる人もいたり、生まれつき障害や病気を抱え生涯苦労したり生まれてすぐ亡くなる子供がいたりします。 また、生まれ育った環境で心に傷を負ったまま生きていかなければならない人達もいます。 第三者は同情したり励ますだけで終わってしまいますが、当事者やその家族は「なぜ?」「どうして?」と言う疑問や悲しみだけしか残りません。 人は神や仏に助けを求めたり幸せになれる事を祈り信仰してるんだと思いますが、なぜこの様な差と言うか違いが生まれるのでしょう? 当事者や家族にしてみれば祈りや信仰は何の意味も無いし、悲しみを癒してくれるものでもないと思ってしまうのではないでしょうか? そう思うと神や仏とはいったい何の為に存在してるのでしょうか? 私の友人の奥様は5歳の子供を事故で亡くし、その後生まれた子供もわずか6ヶ月で病気で亡くしました。 奥様は廃人同然の様になり今も精神科で入院しており、友人も以前とは見る影もない程落ちぶれてしまいました。 きっと幸せな生活を夢見てたと思います。 ニュースで土砂崩れに巻き込まれて21歳の女性が行方不明になっているのを見て、その女性もこれからの人生に夢と希望を持ってたはずだろうなぁと思っていた時、神様って何なんだろうとふっと思ってしまいました。
こんばんは。お暇な時に答えてくださると嬉しいです。私のは切迫した悩み事の相談ではなくて、自分が知りたいなと思った事の質問なんです。 仏教の基本的な考えを理解するのに、宗派が違うと考え方も大きく変わってきますか? 私は子供の頃から家に聖書物語の絵本があって親しんだり教会でお話を聴いたりして、小さな頃から仏教以外の宗教の影響を受けてきました。最近初めて仏教の考え方を少し知って、これまでの自分の考え方と根本的に異なる感じで難しいと思ったけれど、もう少し知りたいんです。でも同じ仏教でも宗派が複数あるのですね。基本の考えがそれぞれ違ってくるともっと難しくなってしまうと思って、気になったんです。お坊様からみたことを教えてください。 追伸 亡くなってお葬式とか色々やるまで知らなかったのだけど、私の父は曹洞宗でした。
虐待の末に、親に子供が殺されてしまったニュースを見聞きします。 悲しい、切ない気持ちと共にいつも思うことがあります。 「幼くして散った命でも、この子にとっては幸せだったんじゃないか」と。 私は児童虐待の生き残りです。 暴力で、言葉で、態度でズタズタに傷つけられて育ちました。 幸い良い人と巡り会い、結婚し、主人の実家とも実の家族のように接してもらえています。 心療内科に通い、もう怯えたり自分を責める必要はないんだと、先生と話し合いながら、病気の治療を進めています。 怯えながら、憎みながら生活していた昔を思うと、本当に幸せな生活です。 悲しいことも悔しいことも、もう叶えられないかもしれないこともありますが、幸せなんだと思います。 ただフラッシュバックなどで苦しい時、よく思うことがあります。 「今の幸せが全部チャラになったとしても、この世に生まれてきたくはなかった」 理不尽に虐げられて生き抜いても、大人になってしまった以上、自分でなんとかしなくてはいけないという更なる理不尽。 苦しい中を生き抜いて、まだ戦わないと安らげないのなら、この命は最初からない方が良かったと感じます。 そして冒頭に戻ります。 虐待の末に命を落としても、その先に待ち受ける苦しい人生を思えば、その方が幸せなんじゃないかと。 社会は無慈悲で無理解です。 自分に責がなく精神疾患を背負っても、大人になっていればその責を本人に負わせます。 精神疾患を持っているが故に業務が滞っても、自分達と同じように仕事ができないことを責めるというケースはよく聞く話です。 「与えられた命は大事にしないといけない」そんな言葉は聞き飽きました。 望まずして与えられた命、希望の持てない、真っ暗闇な自分の未来。 なぜ、私が生きていることは尊いのですか?
はじめまして。やまと申します。 死ぬのが怖いという思いがあります。 そして、ある妄想にとらわれております。 自分の住んでいる所が北朝鮮からの核ミサイル攻撃をうけるというものです。 世界は何か見えない大きな力に動かされていて、私たちは戦争をさせられているような気がしてならないのです。 ここ二三日、一晩中上空からヘリの飛んでいるような音が聞こえています。 ニュースやネットなどを見、妄想に妄想を重ね怯えてしまいます。 少しの物音にも怯え、サイレンが鳴るのではないかと気にしたり、核兵器が上空で爆発する様子や土地が汚染され誰も助けには来ない様子などを妄想したりしてしまいます。 このサイトで、戦争について怖れている方が他にもいらっしゃることを知りました。戦争を怖れるよりも、今できることをやるしかないということは頭では分かっているつもりですが、やはり怖れ、迷ってしまいます。 今できることというのは、この場所(今住んでいる県または国)から逃げることなのか。普段の生活を続けることなのか。それとも、死を怖れないようになることなのか。どうすればいいのか分かりません。 いったい、どうすればいいのでしょうか。 まとまりの無い文章で申し訳ありません。 お忙しいとは思いますが、 ご回答いただけたら幸いです。
お坊さんたちはお釈迦様の教えが 全て正しいものだと思いますか? あまり詳しいわけではないのですが 仏教はかなり女性蔑視的な 宗教のように思えます。 世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり。 この一節を知った時 私は女性ですし、 お釈迦様がこんなことを言うのかと かなりショックでした。 変成男子なんて言葉もありますよね。 仏教の専門家とも言える お坊さんたちはどう考えているのか 気になります。
宗教は自分の考えで選ぶ事が出来るのでしょうか? ある人から創価学会への入信を勧められています。 私の実家は禅宗です。違う宗派の家に嫁ぎましたが離婚しました。 この場合、実家の宗派に戻るのか?新しく自分で選ぶのか?判りません。その家に伝わる宗教は先祖と自分を繋ぐ絆のような気がするので新たに自分の代から変えるのは不安です。 自分で抱えきれないような悩みがある時,人はどうして乗り越えていくのでしょうか?
随分前から好きな教師がいます。 もちろん付き合ってるなどとんでもなく、たまにお悩み相談をしてくれるような関係です。この前その人が仏教徒であることを知りました。元々少し仏教の考え方には興味があったので、色々とその話をしてもらったり、自分から本を読んでみたりしました。そうやっていくうちに段々仏教の考え方が好きになってきました。私がその先生が好きだったのは先生が仏教の人だったからなのか、とも思っていました。しかし冷静に考えていくと、私と仏教との縁がその先生ではなく違う人からもたらされたものだったらここまで仏教に熱中しなかったはずで、全ての始まりが恋愛という煩悩から始まっていると思うのです。 このような状況をお寺の方々はどう思われますか? 私は自分が間違っているような気がします。
今はただ、ただ、死にたいです。 先のことは何も考えられません。 明けない夜はない、止まない雨はないと言いますが、私の心はいつも土砂降りで、暗闇の中にいます。 家族は、「おまえの居場所は、家だ」と言ってくれますが、私の居場所はありません。 妹たちの姿を見ただけで、吐き気がするのです。 他の人と関わりたくない、自分の存在をこの世から一日も早く抹消したいのです。 どうしたらよいでしょうか。 教えてください。よろしくお願いします。
4回目の質問になります。 原因不明の病で入退院を繰り返していましたが、確定診断がつきました。症例の少ない難病で治る事はないそうです。 頼れる身内はいません。市役所では生活保護を強く勧められました。 働く事も出来ず、生活保護を受け、社会参加も困難。 薬を飲んで、ただ息をしているだけ。 まだ40代です。 先は長いでしょう。 治らないけれど死ぬ事もない。 この生活を続ける事に何の意味があるのでしょう。 食事して寝て過ごす生活。 外出も困難。 生きる意味は何ですか? 「頑張って生きて下さい」と言われますが、生きていて何の意味があるのか分かりません。
実家が寺で、仏教系の大学に通っている僧侶見習いです。 僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。 僧侶は、昔みたいに医者の代わりや教員の代わりをする訳でもなく、月回向や葬儀関連で人々の心を慰めるくらいしかしていません。 僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。布施はそれ自体が神聖なものであることは分かっています。 しかし結局のところ、(観光という商売をしている寺は除いて)寺やそこにある僧侶という存在は「嘘をついて金を檀家さんや信者さんから貰う」ものに過ぎないのではないか?と思ってしまっているのです。 道徳を説くならそれはカウンセラーでも哲学者でも構わないわけです。 では僧侶が持つ他とは違うアイデンティティとは何かと言ってしまえば「仏教という仏になる為の指針」なのですが、結局のところ今の今まで人の身で完全に釈尊(応身)と同じステージに立った者もいない訳で。 本当に仏となることが出来るかも分からない教え、しかも数多の偽典があるであろう経典の内容を引いてきて、悩める人々に滔々とそれを説く。自分の中ではこれから自分がなる僧侶という職は、そんなもののように思えてしまいます。 私よりも遥かに経験を積み、たくさんの経典を読んだここにいらっしゃるお坊さんの方々に、私の悩みをただ、聞いて欲しいです。そして願わくは、自分の中の仏教に対する、僧侶に対する悪感情を解く何かを教えて欲しいです。 散文的になってしまい、申し訳ありません。宜しくお願いします。
はじめまして、こんにちは。 私は最近、六道とは今生きている私たちの心の状態だと思うようになりました。 今までの私は嘘つきで本当にずるい人間でした。 友人や家族にも償えきれないようなことばかりしてきたように思えます。 これは餓鬼や畜生、修羅などに心が落ちていたのではないのかと今では思います。 そして今までの自分の愚かさを悩み、反省しどうしようもない後悔ばかり押し寄せてくるこの状態が地獄なのだと考えています。 しかし輪廻転生を考えるとこのことは因果応報で来世に伝わるというのが説ですよね。 では私はこれからこの罪をもって転生するのでしょうか。 あまり仏教に詳しくないためよくわかりませんが、 私の考え方は間違っているのでしょうか。 よろしくお願いします。
最近、疑問に思っていることがあり各ご僧侶様のご意見を頂きたく質問させて頂きました。 まだ小学校低学年の頃から、30年以上前に亡くなった曾祖父に会いたがったり、誰に教わるでもなく仏像をねんどで作ったり絵に描き起こしたり何かと仏教とご縁のある身なのだなとありがたく思っております。 大学でも仏教学部に在籍していたこともあり学問的な仏教にも大変興味があります。 この1か月間で無量寿経、薬師経、阿弥陀経、般若心経等、10以上の真言、経典を読んでいました。 釈尊の言葉をまとめたものがお経なのであれば、なぜ葬式や法事であげるか少し理解できずにおります。教えを書き起こしたもの(学校でたとえるならば教科書でしょうか)を故人にあげる意味とはどういうことなのでしょうか? ある本には六道の中で人間界でしか仏教を聞く事ができないと書いてありました。 人の思う天国も六道では天界というところだそうですが、苦しみもあるとのことでした。 葬式や法事等であげるお経は人間界でしか学べぬ仏教を、故人にもその教えをお経として聞かせ参列している人もまた教えを一緒に聞く、という意味合いなのかなと解釈しております。。 菩薩や天部のエピソードは多少脚色されたものもあるのかもしれないなと物語として楽しく学んでおります。 また各浄土にいらっしゃる仏様それぞれが得意とする分野をお持ちですが(薬師如来なら無病息災や病気治癒など)、病気になった時はお薬師様、強い心を持ちたい時はお不動様などそれぞれの仏様に拝んでもよいのでしょうか? 全ての仏様のお師匠様が阿弥陀様ということを本で見かけましたので基本的に元をたどれば一つであると考えればどの仏様にお祈りをしてもよいのかなと、、 仏様のご利益は願って叶うものではなく、願ったのち自身が前を向き努力した時にそっと後押しをしてくれる存在と最近は思います。 ご僧侶様のご回答ご意見を、宗派関係なくお聞かせください。 ※曾祖父時代は浄土真宗、現在は真言宗ですが私自身はどの宗派も元をたどればおおかた同じと思っておりますので気に入った仏様や宗派を勉強しているようなかたちです。
人間関係に悩んで、疲れました。 私は自分がされて嫌なことは人にしたくないので していないつもりです。 でも大事な人を傷つけてしまいます。 意識的にも無意識でも。 中学高校とずっといじめられっこでした。 仲のいい友達はいるけれど 必ず誰かに無視とか悪口とかがありました。 いまのままじゃだめだって何度もやり直して がんばってもいきつく先は、いつも孤独です。 私はなにか悪いことをしたのでしょうか ただ毎日を幸せに過ごしたいだけなのに。
人間以外の生き物(特に虫など)の命も大切にする考えを教えてください。 私は虫が目につくと大抵すぐ殺してしまいます。今まではそれで何とも思わなかったけど、ハスノハでちょこちょこ過去の相談を参考に勉強させてもらううちに害虫駆除にも気が咎める人もいて、自分の感覚を考え直そうと思いました。 でも、かわいそうだと思う気持ちがわからないっていうか….人間以外の虫とか小さな生き物の命も大切に思う気持ちがわからないんです。動物をいじめたりはしないし犬とかは好きだけど、それでも人間と同じには思えない感じです。 昔お坊様は肉を召し上がらなかったと聞いたことがあるので、基本的に生き物を殺さない考えがあるんだと思います。どうやったらそう考えられるのか教えてください。 精進料理について思い出したこと(こっちの質問はメインでないので気にしないでください) 私の親戚が仏教系の中学校に通っていた頃、修学旅行で自分達はまずい精進料理(失礼)を食べたのにお坊さん達はカツカレーを食べていたとぶうぶう言っていました。責める気がしなくて笑ってしまったけど、本当のとこ今は肉料理大丈夫なのかなってちょっとだけ知りたくなりました。