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検索結果: 2051件
2021/07/02

妻と離婚したくてもできない

妻はもともとヒステリーなところが少しありましたが、子供が産まれてから人が変わったようにひどくなり、半年ほどでこちらが鬱になってしまい1ヵ月ほどの別居でこちらの体調が改善したのでまた元の生活に戻りました。 それ以降も関係は良くなく、今も些細な事で週に1回から2回ぐらいのペースで怒鳴りあいの喧嘩が絶えずあります。 ほぼ毎回喧嘩の時に離婚したいと伝えますが、妻が少し冷静になってくるとさっきまで激怒していたのが急に人が変わったように号泣しながら、怒ってごめん、私が悪かった、離婚はしたくないと謝ってくるので結局こちらが折れてしまうのを繰り返しています。 毎日が本当に窮屈で、とにかく妻の機嫌に振り回され、自分のための自分の人生では無くなってしまったようで、生きているのは辛いです。 綺麗事に聞こえると思いますが、些細な事でキレてくる妻を許せずに激怒し返してしまう自分が嫌いで自己嫌悪しかありません。自分が自分で無くなってしまったように感じます。 絶対に離婚した方が幸せになれると思いますが、号泣しながら謝られると結局それ以上は何も言えなくなってしまい、普段は妻も普通の人なので子供が可愛いし、離れたくないのでこのままでもう少し頑張ってみようと思ってしまいます。 それなりに今まで幸せで楽しい人生でしたが、現在は本当に楽しくない辛い人生だなと感じています。 このまま頑張って夫婦生活を続けていくしか無いのでしょうか?

有り難し有り難し 54
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愚痴を聞き続けることがつらい

こんにちは、初めての利用です。よろしくお願いします。 お坊さんの皆様にお聞きしたいのは題名の通り、他人の愚痴を聞き続けることがつらいためどのように折り合いをつければ良いのか、またどのように振る舞えば良いのかということです。 もちろん私も多少の愚痴は言います。聞く方でも会話の中で多少出てくる程度であれば、慰めたり一緒に怒ったりすることができます。むしろ自分に心をさらけ出してくれたように感じ少し嬉しくもあります。 しかし、会話の内容があまりに愚痴や悪口、文句ばかりであると参ってしまいます。 愚痴を聞けば聞くほどに自分の心に澱みが溜まっていくような感覚です。あまりに聞かされ続けると自分が嫌な感情のゴミ箱にされているような気すらします。 そして、聞き始めた最初は同調できていても段々と受け止めきれなくなり、言っている本人を責めたくなってしまいます。実際に正論という名目で責めてしまっている気がします。 さらには責めるような事を言わせるくらいに愚痴を言いつづけた相手を恨めしくも思ってしまいます。 いま、この文章を書いていて自分の心の狭さが嫌になります。 過去に、愚痴を聞くのが嫌でとても仲の良かった友達と疎遠になってしまいました。 また仲良くしたいと思う一方で再び愚痴ばかりを聞かされるのかと思うと躊躇します。 また、最近は恋人も仕事の愚痴が増えてきました。本人もつらいだろうし聞いてあげることで少しでも気持ちが軽くなるのなら、と、聞いてあげたい気持ちはあるのですが聞いてるうちにうんざりして投げやりな返答をしてしまいます。 愚痴を聞かずに済むのであれば、正直なところ聞きたくありません。しかし生活をしていればどこかで不満を抱きそれを他人と共有したいという気持ちがわくのも良くわかります。 また、話している本人は心を預けてくれているからこそ、他人に言えない分を私に愚痴るのだとも思います。 それをぞんざいに扱うことでその心を砕いてしまう気がして申し訳ない反面、正面から受け止めるのはやはり辛いです。 他人の愚痴に対してどのように付き合えば良いのでしょうか。どう聞けば自分の心に澱みを溜めず相手の愚痴を聞けるのでしょうか。 お坊さんの皆様、どうかこの感情との付き合い方や相手への振る舞い方をどうか教えていただけませんでしょうか。

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仏教における女性蔑視?はいつから?

毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。

有り難し有り難し 83
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今まで罪を犯した私に、生き方を教えてください。

 最近、座禅のやり方を教えてもらい、一人でも家でやるとよいと言われ自宅でもやるようにしています。その時、無になるというか思考を止めるという事が出来ず、日頃の行いなどを思い返していました。  園児の頃も学生時代の時だって、気に食わないと駄々をこねたり、友達と喧嘩をしたら殴ってしまったり、うるさいだの気持ち悪いという自己中心的な考えで虫を殺した事だってありました。思い返すと沢山の罪を犯し、また、人に迷惑をかけている事に気付きました。母親の話によれば、私がまだお腹の中に居た頃、足元が見えずに転びそうになった事があるとも言われました。私は胎児の頃から人に迷惑をかけていたようです。  それに気付いた後、「陰徳を積む」という言葉を教えてもらいました。なのでもう昔の様に罪を犯す事はやめ、陰徳を積もうと思ったのですが、疑問が浮かびました。  罪を償えた気になっているだけではないのか、よい事をした気になっている、思いあがっているのではないのかという事です。  私が犯した罪は消えないと思うと自分に対して嫌悪感を抱きます。愚かな私に生き方を教えてください。様々な僧侶さんのご叱咤、お待ちしております。宜しくお願いします。

有り難し有り難し 38
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2023/05/25

心を病んだら人生は終わってしまうのか

はじめまして。 思い悩んでしまっていることがあり、相談させていただきます。 私の現在の状況は、プロフィールに記載しておりますので読んでいただけますと幸いです。 退職する前から転職しようと、求人に応募したり面接を受けたりしていましたが、ある日面接に行くときに体調が悪くなりなり行けず、病院の先生とカウンセラーさんから今は治療に専念するべきだということをいわれました。私自身もこの状態で働いたら、また同じようになってしまうと感じたので今は元気になることを優先することにしました。 それから数ヶ月経ちましたが、まだ先の見えない状況が続いています。私自身も焦りがあり、元気になるために楽しいこと(趣味など)をしようとしても、「働いてないくせにやっていいの?まずは働くのが先では?」と思ってしまいます。やってみたいこともありますが、それがお金になる保証もありません。考えすぎてしまい、何もできず、そして体調が悪くなる…の繰り返しです。 周りの人達は、焦らない方がいいと言ってくれています。ですが、私は今まで頑張ることや一生懸命やることが好きだったのに、今の状況を抜け殻のように感じて虚しくなってしまうんです。なのに体と心がついていかず、悲しいです。 また、元々は人と関わるのが好きで、人を喜ばせることが大好きでした。人間関係で悩み、心を病んでから、人が怖いと感じてしまいます。心を病んだ時に「あなたは人間関係に入り込みすぎる」「純粋すぎる」と言われたので、そんな私が悪かったのかなと思います。人を喜ばせるなんて馬鹿なことなのかなと感じてしまいます。自分が虚しいです。 もし心を病まなければ、こんなことにならなかったのに。先も見えないし、頑張れる気がしなくて、心を病んだら人生って終わってしまうのかなと思います。 でも、どうにか元気になりたいんです。 散文で申し訳ありません。 なにかご助言をいただけると幸いです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 39
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「感情を感じること」と「物事を評価しないこと」

以前にも質問にお答え頂き、その節はありがとうございました。 hasunohaで日々仏教の教えを学ぶ中で、どう考えて良いものかわからない点がありますので、質問させてください。 私は今、うつ症状等ため精神科に通院しています。 その治療の一環として、カウンセリングも受けています。 その中で、臨床心理士より「感情を抑制していることが無気力や不安感に繋がっている」とのことを言われました。 感情を感じて表に現すことが、治療方法のひとつであると言われました。 私は確かに、自己犠牲的な考えや自分に自信がない部分があり、素直に自分の感情を出せるようになれたらいいなと思いました。 と同時に、仏教では、物事を評価しないでありのままを見ることが大事だと学び、それも確かにそうだなと思いました。 私にはどちらの考え方もとても納得のいくものなのですが、 自分の感情を感じることと、物事を評価しないことは両立し得るのでしょうか。 例えば、私が今寂しいと感じることは、評価していることになるのでしょうか。 仏教の教えでは、寂しいと感じてはいけないのでしょうか。 どのように考え、どう自分の心を扱えば良いのか、お教え頂ければ有難く存じます。

有り難し有り難し 49
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