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検索結果: 1201件

主人の浪費 私の怒り

初めて相談をさせて頂くうりょと申します。  主人の浪費に対して湧いてくる自分の怒りにどう対処すればよいか悩んでおります。 昨年主人が転職をし、収入が2/3に減りました。 月に五万円前後の赤字となりますが、収入減は覚悟しておりましたし、希望の職種への転職だったので 主人を応援し、私も仕事を増やせるよう勉強をしております。   そんな中で主人は毎月お小遣いとは別に二万円~三万円程 浪費をします。(お小遣いは月三万円です) 元々主人はお金の管理は苦手で、前職で稼いでいた時にはもっと浪費してしまう事もありました。 その度私は怒ったり不安になったりしたのですが、家計が赤字の今浪費を繰り返されると絶望感で一杯になります。 怖いのは怒りが頂点に達すると、主人に手をあげてしまい殺してしまいそうになる事です。 私は子どもの頃から「死にたい」気持ちがあり、不妊治療中の不安定な時に二度自殺未遂を起こしました。 その頃、怒りで主人の首を絞め危なかったこともあります。  刃が自分に向かうか主人に向かうかの違いだと思います。 カウンセリングに通い続け、自分の悪癖に気づいて来ております。 ●極端な二極化の考え方をしてしまう。(例・自分が死ぬか主人が死ぬか。私が居なければ主人は好き勝手に生きられる。) ●心配事や怒りが常に頭から離れず、疲労してしまう。 (自律神経過緊張になり倒れて起きられなくなった。) 主人に対する怒りも「溜め込まず・期待し過ぎず・まあいいか」 の精神でやり過ごせる時も増えてきました。 でも、毎月同じことを繰り返されると怒りの衝動が抑えられなくなる瞬間があります。 お小遣いの渡し方を日割りや一週間単位、主人に一任する、など工夫しましたが効果はありませんでした。 このまま行くと貯金がなくなることも伝えてあります。 主人も「ごめんね」と悪いと思っているようですがコントロール出来ないようです。 私が主人を変えることが出来ないのも分かっています。 この様な状況で私が早まったことをしない為に、怒りや不安を手放すにはどうしたら良いのでしょうか。 新しい仕事を頑張っている主人を応援する気持ちも萎んできます。 自分の仕事に集中する、カウンセリング、ヨガ、呼吸法、気分転換などしておりますが怒りのコントロールが効かない瞬間が怖いです。

有り難し有り難し 22
回答数回答 3
2021/10/20

怒りについて

宜しくお願い致します。 今回怒りについての質問があります。 仏教では怒りはいけないものであると定義されていますが。 そもそも現世を生きる人間全て(仏教を修行する者ではなく、望まぬ仕事をしてでも生活費を稼ぎ何としても自分や子供達を生かしておきたいと思う)が人生で怒りを持たずに生きて行く事は可能なのでしょうか?。 怒りを抑える〜我慢する事は可能なのかもしれないと思うのですが、怒らない事はかなり難しいのではと考えてしまいます。 なんと言うか、それが出来た時点でその辺で必死にもがき生きている(私の事です)凡俗?では無いのでは...と考えます。 元来怒りっぽい性格なので、怒りを外に出さずに抑えよう、表さない様我慢しよう、怒っても声を荒げたり手を振り上げたりは絶対しない等の思いは強く持っていますが、そもそも怒らない事が可能かと考えると...無理では無いかと思っています。 先日家庭の中で、怒りを我慢する事が大切なのか、そもそも怒る事が間違いであるから一切怒らない様にしなければならないのかと言った話合いをした事もあって、お坊様のお考えを教えて頂きたくなり質問させて頂きました。 アドバイスを宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 21
回答数回答 2
2021/06/02

自分の煩悩について考えました。

3月に21年間お世話になった実家を出て同棲を始めて今に至るのですが、同棲相手は金遣いが最悪で自分の貯金は底をつき、元カノを家に呼ぶために私を外へ追いやったりなどがあって、自分はすっかり煩悩の塊のようになってしまったところで、仏教の教えを改めて考えるようになりました。 煩悩をなくすことで人は穏やかな生活を送ることができると説く教えをはじめは「感情を殺すこと」「自己を抑えてうまくやり過ごすこと」と思っていたのですが、ネットや日本史の教科書で仏教について、歴史や自分の宗派である曹洞宗の成り立ちや考え方について知るうちに、「煩悩をなくす」とは煩悩を完全に失くすことではなく、「煩悩と向き合う自分を作ること」だというところに行き着き、自分のためにというのはもちろんなのですが、自分に関わってくれる人たちなど周りに安心や幸せを与えられるということだと思ったのですが、これは実際の仏教の教えとは違うのでしょうか。 今自分は「自分の幸せのため」にあたたかい人間関係を築くことや、自分が心から幸せに思うため、自分をまず見直したいと思っています。 その手始めとして、今ある生活は話だけすると確かに最悪なのですが、それでも楽しくないわけではないので、この同棲生活をより良くしたいと考えていますが、私のこの煩悩についての考え方はまた違うものなのでしょうか。 ご教示よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

煩悩も欲も消さなくていい。

煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

滅するべき煩悩とはなんでしょうか

よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。

有り難し有り難し 49
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LGBT差別に腹を立てることも煩悩なのか?

私はゲイです。 最近、LGBTの存在が広く知られるようになったおかげで、楽しいことも増えましたが、同時に酷い差別も目だってきました。 もとい、差別は昔からありましたが、ネットの発達によって、いわゆるヘイトスピーチを目にする機会が増えてしまいました。 私もパートナー制度の実現を喜んだりしただけで、虹色のイベントへの参加報告をブログに書いただけで、見も知らぬ人から心ない言葉をぶつけられます。 またゲイとの交流が深まるにつれて、差別で辛い思いをしている人々の話しを沢山聞き、自分と同じ性指向だけに他人事のように考えることは出来なくなりました。 「差別」は他人様がされているのを見るだけでも非常に不愉快ですが、自分が差別されると、その不愉快さは何百倍もします。 だから少なくとも自分は、他の少数派や弱者の方々を差別しないように気をつけていますし、「ヘイトにヘイトで返してはいけない」と自重しています。 でもやはり内心では、はらわたが煮えくりかえります。 いわゆるヘイトをする人には、これを娯楽半分で面白がっている人が少なからずいます。こちらは切実な問題なのに・・・ でも「怒り」は煩悩ですよね。 私は自分を差別してくる人間に対し、菩薩のように接するのは無理です。 私がお不動さんに惹かれるのは、これも理由かもしれません(お不動さんの慈悲の怒りとはほど遠いですが)。 そこで質問なのですが、 仏教でも差別に対しては、「右の頬を打たれたなら、左の頬を向けてやる」べきなのでしょうか? それとも、非暴力、例えば言論等での抵抗はゆるされるのでしょうか? 差別に対する怒りも煩悩であり、消さなければならないのでしょうか? よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 84
回答数回答 4

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