初めての質問です。読んでくださっているお坊さん方、ありがとうございます。そして、よろしくお願いします。 私は人を助ける人になりたいと思っています。人であるのなら当然のことかもしれませんが、そういう風に考え生活しています。 上記の内容だけでは、良いことのように思えますが、どうしても悩んでしまうのです。 例えば重い荷物を持って運ぶのが大変そうなお年寄りを助けるとき、「自分は良い事をしたいと思ってした」と純粋な優しさなどではなく、ある意味欲求から為しているような気がしてならないのです。 少しニュアンスは変わりますが、「優等生アピールをしている」、もしくは自分の心の中で「自分は優しい人だ」と思い込ませているための手段になっている気がするのです。 純粋な気持ちで「良い事」は出来るのでしょうか?出来ないのであれば、どうしたらこの罪悪感を感じずに「良い事」ができるのでしょう?
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
私は恐がりの癖に暇な時間怪談話などの朗読動画をよく聞いていました。 ある日聴いた内容が目が見えない霊なのでその霊知ってる人間だけを探し殺しにくると言った内容でした。 その朗読を載せた人は次は自分のばんだと思い少しでも生存率をあげるためにのせたと言っていていつその霊が私の前に来るのかと思うと怖くて怖くてたまらないのです。 成人までに髪伸ばしたら?と親に言われたのですが、その霊は後ろ髪をのばしてると掴まれるといったことで女なので剃ることはできないのでショートカットです。 聴かなければよかったと後悔しても遅いしどうすればよいのでしょうか。 本当に、霊が殺しにくるなどのことはあるのでしょうか? ここ毎日そのことが怖くて怖くてずっと考えてしまいます。
最近仏教関連の事柄を勉強しています。 大抵のことには首肯でき、今までの自分にない発想に心が洗われるような気持ちになりますが、イマイチ納得出来ない部分もあります。 それについてはまた別の質問で書かせていただきたいと思いますが、今回は、ここにいらっしゃるお坊さん達が、仏教の教えの中で、今の世相に合わないのではないかと思った部分、疑問を持っている部分などについて聞かせていただきたいと思います。 なぜこのような質問をしたいかと言いますと、例えばイスラム教では豚肉を食べてはいけないという教えがありますが、由来としては「乾燥した地域で、牧草でなく穀物を食べてしまう豚が忌避されたから」「伝染病の蔓延や寄生虫による被害の元になるから」などの説があり、この教えは現代ではほとんど有用性がないといえます。このような、現代社会に合わない教えというものが仏教にもあるのではないかと思ったからです。 なんだか衝突を巻き起こしそうな質問で申し訳ありません。 「ない」という回答でも結構です。 よろしくお願い致します。
2回目のご質問になります。前回も真摯なご回答を ありがとうございました。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教を学ぶ上で「空」の概念が定まりませんので、 ご教示頂ければ幸いです。 世俗諦としての表現でしか質問できませんので、 質問の意味も理解されるのか心配でもあります。 これまでの仏教の学習から、全ての物事は「現象」 であり、その瞬間の状態であり続ける「実体」は なく、全て川のように流れていくものだと理解し ました。=無常・無我 →この理解で正しいでしょうか? 物事が「ある」でもなければ「ない」でもない。=空? この意味が正直、理解に苦しんでいます。 「空」(から)という世俗諦としての言葉のイメージ だと、「からっぽ」のように感じます。 でも、何もないと定義すると六根センサが何も作動 しないと思います。 「見えた」「聞こえた」・・・は、実際にあります。 私の理解したことは、 全ての物は「地水火風」の構成のされ方で、現象 としての現れ方が異なる。 →物質、人、動物、植物・・等々 全ての物は、エネルギーと言えるのではと、感じました。 エネルギーという表現が適切かわかりませんが。 物質には、質量というエネルギーがある。 生命にも質量もありますが、心があり、生存欲求や色々 な欲求がある。これらをエネルギーと表現しました。 このエネルギーが他のエネルギーとぶつかりあって変化 を生み、因果法則によって、現象として常に変化し続ける。 物質も空気に触れ、物質と空気のエネルギーのぶつかり 合いで酸化し、そのもの自体も変化し続ける。 自分の心(本当は自分という実体はないのでしょうが)も 六境が六根センサにぶつかり、物事を認識し(エネルギー がぶつかる瞬間)、六識で心が何らかの反応をする。 ぶつかるという表現より影響し合う方が適切かも しれません。 ですから、「空」とは、ある/ない(虚無)ではなく、 あるエネルギーが他のエネルギーとぶつかり(影響)、 因果法則によって変化し続ける現象と理解するのは 誤りでしょうか? 空=無常=無我と感じられます。 以上、初歩的な質問で恐縮ですが、宜しくお願いします。
以前から何回も妻のことで投稿しているMKです。妻の信仰の問題はまだ解決途上です。 妻は先祖供養ができていないから、先祖が助けを求めてきている。先祖に罪深い人がいて苦しんでいる。その重みが自分たちにのしかかってきていると言っています。 ただ、私としては先祖供養は先祖を救う云々というよりは、生きている私たちが自分を振り返るためにするものだと最近思うようになりました。恐れや不安で供養するのでは先祖も迷惑なような気がしますし、どのような先祖であったとしても今自分があるのは先祖のおかげという気持ちを忘れないために供養することに意味があるのでは思うようになりました。 仏教において先祖供養とは一体何のために行うのでしょう?教えていただけると有り難いです。
12年付き合っている(いた)人がいました。 初めは遠距離でした。3年前東京に転勤してきました。 彼は親の借金の為、好きでもない人と結婚していました。付き合って5年位たった頃その事実を知りました… しかし、いつかはキチンと清算し私と結婚してくれると信じていました。私の子供、両親、友達…みんな彼を「良い人」と慕っていました。 今年の1月、彼の財布から子供が書いた手紙を見つけてしまいました。「パパへ」と言う文字が飛び込んできました。お正月、仕事だと言っていたはずの日付のレシートには子供用の下着と記載がありました… 彼は調停をし、キチンとすると言ってくれ、8月から調停が始まりました。 先月調停に向かい、その結果がメールで届きました 「疲れた、詳しくは日曜日(4日後)ゆっくり話すから」と。 私は何故すぐに話してくれないかと電話を入れました。 「いまどこ?」 「○○駅」 しかし、ざわついた感じも駅構内らしき雰囲気も伝わって来ませんでした… 「○○駅のどこ?」 「下のターミナルだよ」 私はさすがに信じられず 「本当にキチンと清算し、調停が終了したのが分かるまで連絡しません」 と、その日以来、会わない、話さない、もちろんメールもしていません。 ここまでされても…私は彼の本当を知らない。 本当に結婚していたのか? 本当に調停しているのか? このまま彼を待つのが良いのか? 素行調査して、彼の現実を知りキチンと諦めるか? でも素行調査する事は、人間としてどうなのか? 今彼を本当に好きか? それすらもわからない。 自分の気持ちがよくわからない。 でもこのままじゃ、前に進めない… 毎日毎日考えていますが答えが出ません。
私は4人兄弟の長男です。下の兄弟は全員結婚して20㎞位離れたところに家を建てて住んでいます。(嫁さんをもらい名字は変わっていません)子供は合わせて3人います(10歳と8歳と2歳) 下の兄弟が外に出ていってしまったのは長男の私が家を継ぐと言って来たのでみんな安心して外に出ていってしまいました。ところが私も結婚して嫁さんを貰ったのですが嫁さんの実家の近くに(40㎞位離れてます)家を建てる事になってしまいました。原因は、私の父とうまくいかず一緒に住みたくないと言い出した事が始まりでした。そこから何かと文句を言うようになり、私は完全に実家に住むのを諦めました。子供は2人います(2歳と0歳) こうなってしまうと、私の家には両親(63歳)しか住んでおらず、先行き亡くなってしまったら無人の家になってしまいます。 両親は家を守ってくれるものだとばかり思っていたのに、結果的にみんな出ていってしまいガッカリしています。私自身、家を守ると言っておきながら期待を裏切ってしまって、親の悲しい顔を見ると罪悪感で鬱になりそうです。 先行き家が無人になってしまったらどうすれば良いのでしょうか?親が守って行くことを望んでいたから出来れば売ってしまうことはしたくないのですが、現実にはどうしていけば一番良いのでしょうか?教えて下さい。宜しくお願いします。
寝ているときは、不安や心配がありません。 すなわち、起きているときに存在する私という感覚(自我)は、不安や心配そのものであると言えるでしょう。 また、自我は問題の生じるところにしか存在せず、問題は善悪を裁く部分にのみ存在すると感じます。 言い換えれば、善悪を裁くことがなくなれば、自我による不安、心配から開放されそうです。 そこで、善悪とは何なのか、何によって生じるのか、仏教においての善悪の解釈を教えて頂けませんでしょうか? 今まで善悪についてあまり考えず、周りに流されてきた気がしています。 よろしくお願い致します。
死後というのは無ですか? もう、無ということすら理解できないくらい無ですか?
混沌とした世の中で暮らしていくのが辛く苦しい、この閉塞感の中で平和でもない中オリンピックなど開催しウイグル地区の人達への人権侵害で政府関係者のボイコットなどしても何の意味もなく国の威信をかけての見せかけの平和の祭典に連日お祭りのように報道するマスコミにもコロナ禍とし場当たり的な対応する政府にも嘘が見え隠れし心を保って生活するのが難しく感じています。 ミャンマーのロヒンギャ難民の人達の悲惨さも軍事政権の横暴さにも胸が痛くなります。ミャンマーの人達の解放のためにNPO法人などで助けになろうとされている知人もいます。私も自分の出来ることはと寄付や募金などしていますが、出来ることは少なく苦しい思いです。自分が今あるところで自分の出来ることをして日々生活していくしかないと思いますが、理不尽なことがいつまでまかり通るのかと心が壊れそうです。 都市部は情報が多く心が惑わされることが多いのかもしれません、都市部で働いて都市部で生活するのに疲れました。都市部から離れて自然と共に生活して自給自足までは難しいとしても自然の営みの中での生活をしたいと思います。報道番組はなるべく見ないようにしていますが、連日のコロナ騒動の話題が辛いです。自分の与えられている環境に家族もいて仕事もあることに感謝はしていますが、心のざわめきが抑えられません。どうしたら心を整えて生活していくことが出来るでしょうか、このままでは心が壊れてしまいそうです。
新しい年が始まりました。hasunohaに、おられるお寺様方にも。今年もたくさんの幸せがありますように。 よろしくお願いします。 私の友人は、とても精神状態が悪く、死にたい。頻繁に口にします。 死んではならない理由。 どうして死んではならないのかを、上手く説明する事ができませんでした。 私も一番うつ病が酷かった時は、同じように毎日死ぬ事ばかりを考えてきました。 今でも咄嗟に消えてしまいたい。と思う事が、あるのも正直、事実ではあります。 でも、自分を作り上げている、数えられない程の細胞の一つ一つ。日々全身を巡る血も。 地球に、人の小さなはじまりが発生した時から、今日の自分が、お腹に宿り、細胞分裂、生まれて、大人になった、今まで。 人になるものの発生からスタートして、今の自分まで、たくさんの、生死生死を繰り返し、自分まで繋がった。物凄く怖い程に深く壮大な歴史。意識はしないけれど、本当ならば、物凄い事なんですよね。 自分の体をつくる全ての細胞の一つ一つに、数えられない位前から繋がってきたご先祖様たちの、数えられない人数の血が、自分にも入ってるんだと思うように最近なりました。 自分一人の体で生きている気はするけれど、全ての細胞一つ一つにに、全てのご先祖様が宿っていると思えています。 友人にもそのように伝えました。 お寺様方は、自殺がダメな理由、死んではならない理由。 どう考えますか?どう思われますか? 苦しむ友人に、どうしたら、伝えられるでしょうか? そして、時々、間違ってしまいそうになる私に。 命をどう伝えてくださいますか?
川崎登戸殺傷事件、とても心が痛みます。 胸が苦しくてとても悲しいです。 犯人は何も失う物がない 「無敵の人」ともいわれています。 これからの日本、無敵の人が どんどん増えると思います。 無敵の人に対して、一般市民やお寺は どう接すれば良いと思いますが? このような事件が起きないように出来ること、あると思いますか? (家族?にも無敵の人がいて、同じような事件を起こしてもおかしくありません。私の子供も狙われるんじゃないかと想像して涙が出ます。マイナスな想像は無意味と分かっていても、どうしても考えてしまい、恐ろしくて、吐き気がします。。)
一休さんはとんちが得意なのですが、お坊さんはみんなとんちが得意なのですか? どうやって磨くのですか?とんちが得意になりたいです。
これは過激な提案であり、思考実験であり、私の望みです。 私の望みは、ありとあらゆる生命が、一瞬で、同時に、何の苦しみもなく死に絶えることです。私はこの世界に心底失望しており、肉体という物質からの脱脚を強く望んでいます。五感と意識を手放し、何も感じなくなりたくて仕方ありません。 自殺してもこの世界がある限り、また生まれてしまう可能性から逃れられません。それに絶望して、「何もないこと」を希求するようになりました。 人間は「全世界同時安楽死ガス」を開発するためだけにここまで進化したと思っている部分があります。 全生命の生殺与奪権を一部の人間が握ることになる点、自然に続いている生命を人為的な手段で終わらせる点、今まで誰もそんなことを言わなかった点を除けば、私の提案は遠い未来に訪れる太陽の消滅や阿弥陀様のもたらす救いと同質ではないでしょうか? 「存在しない」以外の希望がどこにも見当たりません。 生命の本能は他を侵害することにあります。人間だってその本能から逃れられていないばかりか、「自分を大切にしたい」という欲望のままに他者を排除する時代です。 今まで見て見ぬふりをすることでうまいことやっているように見せかけてきた沢山の苦しみが「多様性」や「人権」という言葉のもとに噴出し、その結果は今まで以上の苦しみの再生産です。 善意なんてものは、もともと神話の遺物でしかありません。 何かを犠牲にしなければ社会は成り立ちません。 ならば、全て消し去ってしまった方が良いとしか思えません。 「全生命同時安楽死ガス」が間違っているのだとしたら、私はどうすれば 良いのでしょうか?
死んだらどうなるのでしょう? 最近そんなことを考えて怖くなる時があります。 私は仏教が好きなのですが、実際自分が死んだらどうなるのか不安になって怖くなる時があります。 何もしないと死後はどうなるのか? 修行をしたら死後は変わるのか? 死後にお坊さんにお経をよんでもらったらどうなるのか? とても不安です。
仏教における幸せとはなんでしょうか? 修行を積んで悟りを得ること? 煩悩を滅し苦しみから解放されること? 私にはよく分かりません。
今、絶対に許せない人がいます。 もう人生どうでもいいので直接、そいつか家族に復讐してやろうかとさえ考えています。 仏教では怒り、絶対に許せないことや人に対して、どう考えますでしょうか?
先日も相談させていただきました。 なんとか相談機関をさがしたりしましたが、いろんな悩みが入り交じっているので、どこに相談すればいいのかわからず、夜になると相談機関も終わってしまう。 親も友人も唯一なんでも聞いてもらおうとくれていた人は引き離され、かわいいペットに癒されてみようとしていました、 子供も反抗期に入り、唯一の相談相手を引き離したこども支援センターには相談できず、もう何もできません。支援センターにメールしてみましたが、折り返しの連絡すらもらえません。 実家にお墓をたててあげられないでいる祖父のお骨が仏壇の横におかれています。 もしかして、きちんと供養できていないのかと、それが私たち家族の離婚続きや、父の病気、私の病気、父との不仲など、全てにかかわっているのかなとおもってしまいました。 でも、ご先祖様のせいにはしたくないのです。 母方のお墓参りにもなかなかいけません。 亡くなったご先祖様や生きているまわりの人達がみんな離れていきます、 相談相手もとられ、もう気力はほぼありません。 こどもが寝たら死んでしまおうとおもいます。 こどもだけが気がかりですが。 自殺してもこどもを見守れたらいいなとおもっています。