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hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2157件

宗派にこだわるべきでしょうか?

お世話になります。 先月父が亡くなりました。 父の実家は真言宗のお寺の檀家ですが、父は長男ではなくまた飛行機の距離に住んでおり、お寺との関わりはほとんどありません。 そのため今の住まいの周辺でお墓を探すことになりました。 母と姉と姉家族、そして私で近所の民間霊園と寺院霊園(浄土宗)の見学に行きました。 私たちは寺院霊園の印象が良く、そちらに決めようとしました。 しかし管理寺院の住職の方に「焦らなくても良い」と熟慮することを薦められ、契約には至っておりません。 そんな中母がやはり今後の法要のことを考えて、真言宗ではない寺院霊園は止めるべきでは、と悩み始めました。 ちなみに母の実家は浄土真宗の檀家だったため、あまり熱心ではありませんが「南無阿弥陀仏」が落ち着くと言っております。 寺院霊園は宗派は問わない、檀家になる必要はない、但し寺院で法要等を行う場合は他宗派では行わない、とのことでした。 このような状況ですので私としては寺院霊園が良いと思っているのですが、母の気持ちを考えると押し切るのは良くないと思います。 ただ生前の父はお経を唱えることもなくまた初詣やお祭りくらいにしかお寺に足を運ばなかったため、信仰や宗派にこだわっているようには見えませんでした。(一度尋ねたことがありますが、こだわっていないとの回答でした。) そのため真言宗にこだわって民間霊園にしようという母の意向に従えない思いもあります。 真言宗にこだわるべきか? 気にしなくても良いのか? 出来れば心の持ち方の御指南をいただきたくお願いいたします。

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なぜ地球は生まれ自分がここにいるのか

昔から天体の授業など壮大な話を聞くと、自分はなぜここにいるのか…。地球はなぜ生まれたのか…。と不安になることがあったのですが、今年の初めに急に自分がなんなのか分からなくなりパニックになりました。 目に見えているものは認識できているのに、なぜ言葉を認識できるんだ?なぜ私はここにいるんだ?と次々に疑問が湧いてきて不安で仕方なくなります。 いままで見てきた景色すら違って見えるような気がします。 一生このままなのでは。気が狂ってしまうのでは。と、またまた色々なことを考えてしまい胸が苦しいです。 生きている意味を考えてしまったら終わり。というような見出しをネットで見て怖くなったり、哲学を勉強している人は自殺者が多いというような話を聞いて苦しくなったりもします。(哲学を勉強しているわけでもないのに悩むのもおかしいのですが) いままで好きだったものも、心から好きと思えなくなってしまいました。 不安で仕方なくなると動けなくなってしまい、外にもろくに出ていません。 肉や卵などもパニックになる前は好んで食べていたのに、動物を殺したもの、と思ってしまい食事も楽しくなくなってしまいました。 この先不安で仕方なかったら死んだほうが…とも思いますが、怖くて仕方ないので苦しくても死にたくはないです。 切羽詰まって打っているので、文章がおかしいところが多々あると思うのですが、なぜ人は生きているのか。これからどうすればいいのか、など、少しでも前向きになれるようなお言葉を頂けたらなと思っております。 どうかよろしくお願いいたします。

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死ぬのが怖い、身近な人にも相談できない 辛い

現在、大学4回生です 中学生の時、突然に「死んだらどうなるんだ?」ということに気が付いて恐怖のあまり嗚咽が止まらなくなったのを覚えています。親に相談しようにも、タブーに触れるようで出来ませんでした。 その時は考えに考えて結局わからないということで放置していたのですが、ここ最近になってまたその考えがまたやってきました。 地元の信仰が浄土真宗本願寺派だったのでその考えに基づき、死生観を考えていたのですが、納得できませんでした。 納得というか、信じきれてないというのが現状なのかもしれません。 真に信仰が出来ていたらそもそもこの質問が出ないことになりますから。 どうしても考え方に疑いを持ってしまうのです。「ホンマかいな」と。この「ホンマかいな」自体が信仰に対する冒涜、罪なんでしょうか。 化学に詳しいわけではないのですが、どうもその前提に結び付けてしまします。(無知なのは重々承知しています)生きている状態なのになぜ人の死後が説けるのか?とか。脳がないのに意識は死後存在し続けるのか?、お浄土は本当にあるの?などです 臨死体験も結局は死に切れてないですし、死後の見解が地域、信仰、人によってそれぞれ違うのも疑問です かといって「死後は無なんだよ」「意識はただの脳内の電気信号なんだよ」と言われればとんでもないくらいの恐怖にのたうち回ります。死後、体も感覚も思考も、自分自身も消えてなくなり、二度と目覚めることはない。そんな状態が永遠に続くと思うと... 様々な文献、記事を読み漁っても「そういう考え方もあるのか」程度にしかとれず合点がいきません。 今を生きることこそが大切、もっと他にすることがあるんじゃないの?と言われそうですが、そうではないんです。死後が知りたいのです。 利己的な見解ばかりで申し訳ありません 自分自身でも、どう質問してよいか漠然としててわからないのです 僕以上に、もっとつらい思いをしている人がいる中で... ここまでの人生、たった21年の短い人生ですが、何不自由なく生かされてきました。両親、祖父母そして周りの人々には感謝しきれません。これから、家族やお世話になる人達にいっぱい自分の受けたモノをお返ししていきたいです。 故に死の恐怖にここから先の人生を邪魔されたくありません。 どうか僕に納得できるようなお考えを教えてください。

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悲しみについて

一昨年前に実母が亡くなり、以来、こちらでお世話になっております。 お寺のことや、供養、お墓等のことで質問させて頂き、ご丁寧な回答を頂き、ありがとうございました。 毎日のお勤め、花やお供え、茶水を絶やさず供養させて頂いています。 長らく二人暮らしでした。 病を抱えながらも私のために家事をしてくれていました。 私は幼い頃から病弱で心配ばかりかけ、苦労させました。 ある日、突然調子が悪くなり救急車で病院へ、そして次の日から意識が無くなり、一週間後に息を引き取りました。 私はその瞬間にも立ち合うことができませんでした。 生前は、私は仕事なので一人きり。最期も一人で逝かせてしまいました。 延命処置も断ったのは私です。 今年、三回忌となりますが、未だにあの時こうしてあげれば良かった、なぜあんなこといってしまったのだろう、最期にありがとうも言えず、後悔と悲しみの毎日です。 他人からすると、ただのマザコンなのかもしれません。 毎日、成仏し、父やご先祖様と幸せに過ごしてくださいと祈ることしか出来ません。 ただただ毎日冥福を祈り、悲しみが癒える日が来るのを待つしかないのでしょうか?それともいつまでもクヨクヨ引きずっている私の精神が弱いだけなのでしょうか?

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仏教の今後

仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?

有り難し有り難し 239
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ある僧侶の死

前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。

有り難し有り難し 71
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