私は出家希望者です。理由は正式な仏弟子になりたいからです。別にお寺の住職になりたいわけでもお葬式でお経を唱えたいわけでもありません。 しかし、最近思うようになったのは、日本仏教において僧侶は在家とほとんど変わらない生活をしています。お寺の住職は別として、それ以外のお寺を持っていないお坊さんは、在家のように働き、在家のように生活を送ります。 すると、どうでしょう? 僧侶といっても剃髪して法名をいただいているだけで、その実際は在家とかわりないわけですよね?在家得度というものもあるそうですが、そうなると出家と在家の区別って物凄く曖昧じゃないですか? 私は仏弟子になりたくて出家を希望していますが、仏弟子になるなら在家のままでもいいかもしれない、と悩みはじめています。 日本仏教において僧侶の存在意義って何なんでしょう?特に、お寺の住職ではないお坊さん。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
最近、知人と議論しているのですが、結論が出ませんのでご意見お願いします。 毎朝のお勤めとして、「仏壇にご飯・お茶・お経をあげています。 それは母の代わりであり、ご先祖様への感謝とかの心を込めての行動ではなく、義務的なことです。 知人いわく、 「心が入っていない義務的な行動ならば、悪縁を結ぶことになり、やらない方が良い」と言います。 何かの法話で、 「多くの寄付もしているし、これだけ信心深い私には、どれだけのご利益があるのか?」と質問した人に対して、お坊さんは「無い」と応えた。 と聞いたことがあります。 私としては、その法話も納得だし、義務的なお勤めに何かのご利益とか功徳とかを期待もしていないし、望んでもいません。 ただ単に、「母がやりたいけど出来ずにいるストレス」を軽減するためだけです。「今日もちゃんと仏壇にお供えしたよ」って言うためだけの行動です。 しかし、利益・功徳などのプラス効果は期待していませんが、「悪縁を結ぶ」「罰が当たる」などのマイナス効果になるとまで言われると、気になります。 理想的なのは、「心を込めた行動」でしょうが、「行動しない」よりは、「心が入っていない行動」が良いと思うのは、間違いなのでしょうか?
中学生の頃から生きている意味について考えていました。長く生きることは凄いことと多数の方が思っていると思いますが、最近そう思わなくなりました。年を重ねるごとに醜い人間になっていく人が沢山います、何故そうなってまで生きることに執着しているのかと思ってしまうのです。 生きることより死ぬことの方が楽なのではないか、私はなるべく世の中の汚れを知る前に自分が傷つく前に、上に挙げた人たちのようになる前に人生を終わらせたいです、そしてそれは寿命でもなく病気でもなく自分の手で死ぬことが一番素敵だと思っています。 自殺する人は精神力が弱いという人も多数いました、ですが他人の意思で生まれてきた生を自分で終わらせたいと思うのは当たり前だと思いませんか。 稚拙な文章で読みにくいかと思いますが、このような場でしか質問できないと思いました、ぜひ色々な考えを教えていただきたいです。
人間の男に生まれたことが、前世での報いでしょうか。 こんな辛い生は無いと思っております。 独身なら独身で「何で世帯が持てないのか、何か精神的障壁があるのか」とか、「仕事だけが人生なのか」とか 世帯を持てば持てば持ったで「出世もできずに、どうやって妻子を楽にさせるのか」、「お前に男子の本懐はあるのか」、「そんな状況で親孝行できるのか」とか。 果ては「ヒモ」なったらったで、「男の誇りは無いのか」と責め立てられる。 前世でどんな酷いことをしたからと言って、何の記憶もないのこの私に、この報いは余りにも空しすきると思います。 どうしたら「人間の男」に生まれ変わらないようにできますでしょうか。
中絶してしまった子の為に写経したいのですが、家で密やかに出来ますか? また、どのような経典が良いのでしょうか? 宗派によって何か違いはありますか?
隣人に、悪口や噂を言い触らされていて、やめてほしいと話ても、事実しか言っていないと言われてしまいました。仕事上でのよそでの失敗などをどこからか聞いてきて、他人からはこう言われていると話してきたりして、精神的に疲れます。 他人の評価を気にして生活するのは自分がよけいに疲れてしまうので、そういうことは気にせずにいこうと思うのですが、私としては、自分を棚にあげて、他人のことばかりを言う隣人に、言い触らされる行動への怒りをどうすれば、心が軽くなるのか、教えてください。話し合うつもりはありません。もう、自分がどう変わればいいのか、自分の中でできることがあればと思います。
おはようございます 無量寿経を読んでいたところ、41願からの「他方国土の菩薩」という表現が気になり、蜂屋賢喜代という方の本で調べたところ、この方は他方国土の菩薩を念仏者と説明しており、信心を頂くと、41願の功徳により、現世でも身体が壊れなくなると説明していました 私の祖母は、熱心な念仏者でしたが、晩年は目(眼根)が見えなくなりました。これは信心が決定していなかったという証拠なのでしょうか? 私もいつ目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったりするか分かりません 身体の障害は信心を頂けてない「証拠」になるんでしょうか 41願の「たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 」という願は、本当に信心決定した者への願なのでしょうか?そうすれば、身体障碍者は救われないという結論になると思うのですが… 他方国土の菩薩とは誰のことなんでしょうか? 知恵をお貸しください
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。 仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。 「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。 たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。 前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。 ご教示いただけましたら幸いです。
初めまして。私は来年より東京都内の某日蓮宗系統の仏教系大学に進学し、仏教について学ぶことになりました。大学卒業後は僧侶になるか、教員免許を取得し教鞭をとるか、学芸員の資格を取るかという3つの選択肢があります。 なぜ私が僧侶になるという方向でいるのかと言いますのは、親戚でもあり実家の菩提寺の行事に小学校のころから参加しており、仏教というジャンルに興味を持ったからであります。 お寺には頻繁に出入りしている身分ではありますが、私は仏教についてはまだ何もよくはわからないので、大学に入ってから専門的に勉強するつもりです。 ただ、僧侶になるとしても師匠を誰にするのかという問題も出てきますし、一般家庭出身なのでお坊さんの日頃の暮らしがどんなものかよくわかりません。 お坊さんは宗派にもよるでしょうが、食事の帰省や日頃の生活習慣について何らかの規制はあるのでしょうか? 乱雑になって申し訳ありませんが回答よろしくお願いします。
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
以前友人を自死で亡くした事があります。 だいぶ乗り越えてはいますが、ふとした時に急にものすごい悲しみにおそわれる時があります。 でも、それは仕方のない事と受け入れていましたが最近また違う感情に悩んでいます。 今とくに悩みや死にたいと思う事があるわけではないのに、自分が死ぬ事ばかり考えてしまいます。自分が首をつっている所や胸に包丁をつきさしたり、そのような事が頭にうかんできます。 死にたいわけではないのに、そうしたくなるんです。 とくに疲れている時や、自死した友人の事を思い出すときに。。 鬱なのかなぁ、と思いますが自分が突発的に死んでしまうのではと不安になります。だけど、深い悲しみからか心が壊れてしまい、死ぬ事に対して怖いとか感情もなく無の感情になる時もあります。 自死した遺体も見ていますので、その光景が頭から離れない時があります。自分が認識しているより心のショックが大きいかもしれません。 どのように心をもっていっていいかわからず、早急になにか心を変える言葉をいただきたく書かせていただきました
前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。
お世話になります。じゅんちです。 15歳の娘の突然の死から8ヶ月が過ぎました。まだまだ涙が乾く日はありません。 月命日には友達が相変わらず来てくれて賑やかにしてくれます。 寂しい、会いたい、いろんな気持ちにもちろんなります、二女が姉の服を着たり同じような仕草をしたり、行事があるたびに思いだし二女の姿を見ながら同じような事が起きやしないかとたまらなく不安になったりの繰り返しです。 私自身が楽しい時間を過ごすことに罪悪感を覚えます。 友達に会ったり、笑う時間もありますがそれがふとたまらなくなるのです。 長女にも楽しい時間がたくさんあったはずだと。 長女は空から私が笑ってるのを見たいはずだよねと思うのですが、気持ちが頭がバラバラです。 どんな思いでいたらいいのか整理がつかず辛いです。 お言葉をいただきたいです。宜しくお願い致します。
昨夏、このサイトで相談したものです。 相談・・・というか、宣言に値してしまいますが、お目通し下されば幸いです。 今、私が病気で苦しんでいるのは、 前世、何か罪を犯したことのペナルティなのでしょうか? 治療が難しい病気(症状)と闘い、様々な医療機関にかかってきました。 期待の持てる療法もいくつか試し、治癒への期待もかけましたが、少しも改善せず、日々症状の悪化にひたすら耐える日々です。 でも、その症状自体は死に至るものではなく、文字通りの生き地獄をさまよっています。 これまでは治る見込みにむけて頑張る気持ちがありましたが、もうその気力が果ててしまいました。 医学的にはあらゆる検査をしても異常が見つからないのです。 自律神経のアンバランスとか、ひいては精神的な事によるもの・・・と、 かたづけられてしまいますが、そんなことが原因ではありません。 物事に対する優先順位などに対しての冷静な判断など、症状さえなければ 至って理性は働いているので、鬱でもメンタルトラブルでもありません。 むしろ難病指定されたり、余命宣告を受ける方がよっぽど割り切れます。 身内を始め、関わってくれるドクターなどは親身になって対応してくれます。でも、もうこれ以上は無理です。 できるだけ廻りの人には迷惑をかけないように段取りたいと思っています。 一般的には自殺自体が周りに迷惑をかけると言われますし、私もずっとそう考えてきました。 でも、病気が治らない事で、心労や金銭的に家族に迷惑をかけている事の方が辛いです。 そろそろ期限を設定しようと思っています。
こんにちは。お世話になってます。 このサイトで色々な悩める人達のご相談に乗っているのをお見かけします。 心優しいお坊様方の親身な助言により明るく前向きに生きていこうとする人も沢山いるでしょう。 ですが世の中どうにもならない事があることが現状かとは思います。 熱意をもって真心をこめた言葉が届かないことは本当に悲しく残念なことだと思います。。 皆さんはこういった事が続いたらどのようにして気持ちを切り替え活動を再開するのでしょうか。 もし私がその立場なら自分には向いていないのか、と考えてしまいしばらくサイトに来なくなってしまうと思いますが…;
よろしくお願いします。 「世の中、お金がすべてじゃない」という言葉をよく耳にします。 「しかし、この世の中、いい大学を出て、大きな会社で働いて、お給料をたくさんもらって不自由のない生活をするのが幸せ」 というような雰囲気を感じています。 特に自分のように、まともに社会に出たこともない人間にはそのような雰囲気や考え方はとてもつらく、むなしくなります。 その考え方は間違っているとは100%言い返せません。
小さい頃から努力することはそう苦ではありませんでした。 頑張って結果を出せば出すほど、周りの人に褒められることが嬉しくて、また頑張ろうと思えました。 けれど、虚しさもありました。周りの人はみんな結果しか見てくれず、私の内面を知ろうとする人がいなかったからです。 クラスメイトや友達の私に対する印象はいつも同じで、どれだけ頑張っても結局は上部しか見てくれませんでした。 しばらくして、私には親友と呼べる存在ができました。その子だけでなく、新しくできた友人はみな私のことをちゃんと理解してくれました。 その時から、私の中で努力をする意味が無くなりました。今まで頑張ってきたのも、全て私を理解してくれる人を待っていたからです。 でも、努力せずとも私を理解してくれる人が現れてからは、頑張ることができなくなりました。 このままではダメだ、頑張らないといけない、でも頑張ることができない。悩んでいたある日、ふと心の中である疑問が湧き上がりました。 それがタイトルにある、「頑張ることはどうして偉いのか」です。 その疑問が浮かんだ瞬間、私は頭の中が真っ白になりました。それからずっとこの問いの答えを考えていますが、一向に納得のいく答えを見つけることができずにいます。 どうかお願いです。どうして頑張ることが偉いのか、私に教えてください。 答えを見つけることができたら、昔のようにとは言わなくても、また頑張ることができると思います。 どうか、お願いします。
初めてご相談させて頂きます。 昨年、職場で知り合った方からの乱暴にあい、仕事も辞めました。訴えることもできず、恐怖のみが残り身体に影響がでて、病院にも通ったりしました。相手は地位も名誉も傷つくことなく生活を続けています。怒りよりも、自分の情けなさを責め続けてもいました。 会社に話をしたものの、話は丸め込まれ、 年齢から考えて、自分からもいいよったんではないか。自己防衛ができていないからこうなる。 30歳もすぎてあしらうこともできなかったのか。 などなどの言葉の一つ一つが深い心の傷となっています。 しかし、私には自分の思い描く夢に温かい家族を築きたい夢があり、人生を崩された気がして心と身体の葛藤が続いています。 どのように自分と向き合い、気持ちに整理をつけて歩んでいけばよいのでしょうか。 お力を貸していただけないでしょうか。 宜しくお願いします。
僕は高校生です。 最近、人とうまく話せません。 そもそも、話すことに意義があるのかを考えてしまいます。 そうすると、自分が雑談をどんなふうにしていたかも疑ってしまい、 友達と話すときも引き攣った笑みしかできません。