今、大学3年の息子が将来の進路として大学院に進学を希望しています。歴史の研究者になりたいそうです。 現在、親元を離れて東京の県人寮に入っており朝、夕食月で65000円という破格の安さで生活しており、奨学金51000円と家からの仕送り35000円で生活しています。 学費は主人の親からの援助があり、大学院2年分なら何とかなります。 しかし、生活費はこれ以上仕送りを増やせないし寮も基本4年で出なくてはいけないようです。 妹もおり、将来の結婚資金等を考えるととても可能とは思えないのです。主人も「この家将来手放さなくてはならなくなる」とは言ってくれたのですが、本人は「それは嫌だけど、それなら何か目に見える様にして」と言ってきました。 色んな方に話をすると、本人の意志は尊重してあげたら?お金は何とかなるんじゃない?と言われて私も行かせてあげたい気持ちの方が多いので何とかしてあげたいのですが、妹の事も考えると「兄ちゃんばっかり❗」と言われそうでそれも恐ろしく、本人の気持ちも挫けてしまい廃人の様になってしまったらどうしよう…等考えると恐ろしくてお金の話が出来ません。 本人はもちろんバイトをして生活費の足しにしています。最近は何でも送ってくれとは言わなくなり、洋服等も自分で買っています。何とかなるって考えているみたいで、「俺を信じてくれ」と言ってきました。 話すしかないのですが、怖いです。 帰省している今しかないので、私に勇気を下さい❗
親が亡くなってから数年たって納骨をしました、今年の始めのことです、今度のお盆が新盆と言う事になるのでしょうか。法事の何回忌とは、関連しないのでしょうか。 他の親族の法事の塔婆は、2万位だったと思うのですが、今度は、私が施主ですので、高くなりますね、どうでしょうか?新盆をお寺でやってくれるのか、それも単独でお経を上げてくれるのか、他の家と合同かにもよるけれど塔婆だけなら15万は高いような気がします。 安くしてもらうには、何と言ったら良いでしょうか、よろしくお願い致します。
いきなりですが 天皇陛下をお坊さんはどう思ってますか? 仏教、仏様がヒエラルキーの頂点でらっしゃるお坊さんが 現実世界の中であるヒエラルキー的システムを造り出し疑似的に“神”の役割をしているこの天皇という存在をどのように見ているのか? 書きづらいテーマかもしれませんが率直な御自身の意見をお聞かせ下さい ちなみに私は要らない存在だと思います。
旦那の仕事が忙しくなり、仕事部屋に住み込むようになりました。 が、私は仕事以外の理由があって帰ってこないと思っています。 特殊な仕事なので、子供達は仕事が忙しいと信じています。 でもふとした時に、子供の前で、両親の前で、友達の前で、職場で、正気を失ってしまいそうになります。 このまま、おかしくなってしまったらどうしようと思います。平静でいるためにはどうしたらよいのでしょうか。
亡き夫は永代供養を選択し夫婦で契約もしました。残された私自身はこの日が来ることは分かってはおりましたが、納骨する気持ちになれません。一年忌、三年忌をめどにと考えてはいますが私自身が元気な間は一緒にいたいともおもいます。このまま納骨しない場合。 ①位牌もなく遺骨のみの場合の供養の仕方を教えて下さい。また、これから来るお盆は主人は帰って来る場所がないということになるのですか?一年忌や三年忌はどのように供養したらいいのか? ②遺骨は学修机の本棚の高いところに安置してますが大丈夫ですか?
浄土真宗で追善供養をしないのは何故ですか? 「追善供養は自力だから」「亡くなった人はみんな極楽に往生して供養する必要がないから」などなど色んな意見があるみたいですが、どれが本当ですか?
我が家は、義父のが分家し私達の代が2代目となります。 先日、義父が他界し仏壇とお墓を新しく設けなければなりません。仏壇の設置位置について仏間のなかで一番設置に都合の良いと思われる位置が2階の廊下や階段の下になります。 義母は『階段や廊下の下は仏さまを踏みつける事になるから絶対だめだ』『階段を付け替える』『廊下・階段の下にならないように、壁際から少し前にずらして設置する』と申しております。 ・“天”“空”と書いた紙を貼り付けたら階段下や廊下の下でも良いではないか ・一部分を塞いでも問題ない2階廊下に収納スペースにしてしまい、その下に設置したら問題ないのでは と提案はしておりますが、頑なに階段下はダメだと話が進みません。 私としては、階段下、廊下の下を避けた位置に仏壇を設けるとなるとちょっとした改築を伴うので今後の義母・両親や私たちが病気になった時などを考え蓄えをしておきたいという資金面の事もありますし回避したいと思っております。また、仏壇を壁際ではなく前に張り出させると不恰好ですし気になります。それに、前に張り出させたところで、そこは2階の部屋の入り口になるので、廊下の下と何ら変わらないと思います。 そこでご質問です。 ・仏教として、階段下・廊下の下に仏壇を設置することは問題ないのか、それとも禁じられていることなのでしょうか? ・禁じられているとしても、何か対策をとれば問題ないのか。(天や空と記した紙を貼る、仏壇の上に簡易的な屋根を作り階段と仏壇の境界を作るなど) ・そのた対策 があれば、どなたかお教え頂けたら幸いです。
再度ご相談です。 ちゃんと役場で控除は受けてます。 それでも毎回1000〜7000円はかかります。 旦那は副住職なので義両親からサラリーマンのように毎月お給料として25万貰い、その中から二万は養育費として出ていきます。 生活費はくれますが、妊婦検診、出産入院費を出さないのは誰に話してもおかしな話ではないでしょうか? 今現在使ってるベビーグッズは前妻との間の子供が使用していた物で、俺が全部買った!と言っています。私達の子供は屈辱的にもお下がりです。 上の子の性別がわかった時もあー、前回の洋服捨てなければ良かった!取っておけば使えたのに!と言われてとても不愉快でした。 前妻の時はできて、後妻にはできないなんて私がそこまで貧乏くじ引く必要ありますか? なぜ、自分の貯金を切り崩す必要があるのかもわかりません。その割に自分のタバコとビール代はシッカリ払うし、惜しみません。 せっかく跡継ぎになるであろう、男の子を授かることができたのに、複雑です。 今回いくら総額掛かったか計算しその合計の2倍を旦那に返してもらうつもりです。 できないのなら、両親に言う!と言いたいのですが、この両親も滅茶苦茶厄介なくせ者で誰とも上手くやろうなど思ってないし、できない人でそんな話をしたら、どんな事になるか想像つきます。 冷静にもう一度旦那に話すつもりですが、泣き寝入りになりそうです。 検診費も出産費用も払わないであっけらかんとよくできると思います。 本当は強く言いたいのですが、相手は坊さんで口が立つんです。とてもかのいません。 私の貯金がなくなったらどうなるんだろう?お金の切れ目が縁の切れ目になるのだろうかと、今から悩んでます。
現在1人暮らしの20代男です。 飛び込み営業の外回りの仕事をしてます。 いま現在は公園のトイレに逃げています。 怒られるのが怖くて、人目につくのが怖くて、頭痛や腹痛、倦怠感がここ最近は常にあります。 職場では気持ちの問題と上司から言われ、自身でも気持ちの問題。不甲斐ないだけ。情けないだけ。もっと頑張らないと。みんな我慢してるんだといままで言い聞かせてきましたが、今月の初めから体調面、精神的にもおかしくなってきている気がします。 いますぐにでも辞めてしまいたいし、いっそもう終わりにしようかとも思ってます。 でも終わりにしたくない気持ちもあります。 いったいどこから手をつけていけばいいのでしょうか?またこのくらいは皆さん我慢したり気にしないで生きているのでしょうか?私には生きていくのが難しく、苦痛です。
三宅聖章様回答ありがとうございました 凄く気持ちが楽になりました 妻が余命1ヶ月と言われた 地獄に落とされた日からそろそろ2ヶ月になります。 妻の看病をしっかり最後までやれば 一緒に行けると夢のようなものも見ました。 妻が旅立った後 一緒に殉ずるつもりです。 和尚様には 二人一緒に行けるようお経を唱えてください。 和尚様のように偉いお坊様に唱えてもらいたいのです。質問ではなく お願いになってしまいますが よろしくお願いいたします。 やぶ医者に騙された私を信じていてくれた妻 私のせいで亡くなるようなものです。 ひとりで逝かすわけにはいかないです。 17才16才から一緒に住み 結婚して35年ずっと妻の笑顔を見るのが嬉しく 私の生き甲斐は妻でした。私にとって妻がお釈迦様です。 どうかお願いします 二人で一緒に旅立てるように唱えてください。 子供 親 頑固親父に 死んだらおしまいと 言うかたもいるかもしれませんが 私は次の世界があると信じます 誰がなんと言おうと 妻ひとりで逝かしません お願いです 唱えてください
大好きな父を病気で亡くしました。 若いうちに私を産んだのに、きちんと育ててくれて成人させてもらえました。 私はパパが大好きで、ファザコンと言われる程仲良しです。父に限らず家族が大好きでしたが、父が1番の味方でした。私はインドアで1人が好きで、友達ですらも人と過ごすのが苦手で。 なので休みの日はいつも父と一緒でした。いつも私のワガママに付き合ってくれました。 急性と名のつく病気だったためありがとうもごめんねも言えず、どのくらい痛いのかどのくらい苦しいのか、何か伝えたいことがあったのかどうか、父の言葉も何も聞けず。 私はいつか絶対に父に会いたいのです。父と母からもらったこの身体と命を自分の手で無駄にしない為には、死後の世界に縋るしか生きる希望がないのです。 本題ですが、 自死をした場合は、天寿を全うした人達と同じ世界には行けない、即地獄行き、自死は罪なのでカルマがどうのこうの、沢山調べました。 これらは本当なのか、少しでも自死をする人を躊躇させるため減らすために適当に作られたものなのか。 そもそも死因によって魂の行先は変わるのか。 仮に私が自死をしたら、病死した父には会えないのか会えるのか。 知りたいです。 もちろん死後の世界のことは誰にも分かりませんから、私が見漁ったWebサイトよりも信用出来るお坊さんの考え方が知りたいだけです。 別に死ぬつもりも度胸もないので私を止めるための綺麗事は必要ありません。死について調べてる間に見飽きました。 自死でもお父さんに会えるよ!という返答が来たからと言ってじゃあ自死します!ともなりませんので、変に気遣わずそのまま元々のお考えを教えていただければ嬉しいです。 お忙しいところ恐れ入りますが、よろしくお願いいたします。
主人の寿命について相談させてください。 主人は以前、占い師に 「39歳で過労死する」と言われたそうです。 そのため、本人も義両親も 「39歳で死ぬから」と私に言ってきます。 義両親には マイホームを建てる話をした時に 「この子39歳で死ぬけど、家のローンが支払える額の保険には入ってるから」と 言われました。 思い込むと良くないと思い、 「そんな事はない、長生きしてくれないと困るよ」 と主人には言ってはいるのですが。 39歳で死なない、と言うのは私くらいで 義両親も本人も39歳で死ぬと言ってきます。 はじめは半信半疑でしたが義両親、主人に言われ不安になってきました。 運命は変えれる、占いが全てではないと私は思ってます。 何か主人が納得出来るような説明はありますか??
私は日常生活で度々酷くイライラすることがあります。 とりわけ車の運転中にマナーの悪い、ルールを守れない、周囲の事を考えられない連中を目の当たりにすると酷くイライラします。 ・順番を守らずに割り込む人間 ・身障者スペースに駐車するどうみても身障者には見えない人間 ・タバコやごみを平気でポイ捨てする人間 ・周囲の交通状況・流れに逆らい不必要にスピードが遅い車 ・曲がる直前になって突然ウインカーを点灯させる車 ・信号無視をする自転車乗りや歩行者 例を挙げればキリがありませんが、このような事は私の基準では「悪」だと考えます。 その私基準の「悪」を目の当たりにすると耐え難い怒りや憎悪の感情を抱きます。 自分だけ良ければいいといった考えを持つ連中が蔓延り悪びれもせずにのうのうと生きていることが自分の中では許せません。 なぜ、こういった人間達はマナーやルールを守らないのでしょう? なぜ、守るべき当たり前のマナーやルールが守れないのでしょうか? 逆に考えれば、いちいちこのような事に腹を立てずに、 守ることの方がおかしいと考えるべきなのでしょうか? 守らない人たちが正しいと考えるべきでしょうか? ですが法やルール・マナーとはなんのためにあるのでしょうか? 日々考えますが、全く答えは出ません。 ルールやマナーをきちんと守る人間達が損をしたり不快な気分になることが許せませんし、納得がいきません。 しかし毎回気にしていては疲れるだけです。いずれそういった人間の行いは自身に帰ってくると考え気にせず割り切りばいいのですがなかなか難しいです。 これは負の感情であり、いい結果にならないということは自覚していますがなかなか改善できません。 私には妻ともうすぐ生まれる子供がおります。 妻は私の考えを理解してくれますが、そういった人間に対して注意などしてトラブルになってほしくないと毎回言われます。 私も家族が一番だという気持ちはありますので家族のことを考えぐっと堪えます。 あくまで私自身の基準の「悪」ですので他人からすればエゴや単なるわがままだとみなされるかもしれません。 ですが少なからず、人それぞれ善悪の基準があるはずです。その「悪」に遭遇した際はどのように対処しているのでしょうか? 感情のコントロール方法など参考にさせて頂きたいのでご回答の程よろしくお願いいたします。
浄土真宗の方におうかがいいたします。 私は浄土真宗某派の門徒で、すでに法名もいただいております。 代々の門徒の家に生まれ、お経と言えば正信偈でした。 しかしながら、阿弥陀如来の存在を確信することができません。 人間を超えた大いなる存在があり、それによって生かされているということはしばしば実感し、そうしたときは感謝の念が自ずとわいてきます。 しかし、それが阿弥陀如来だ、と言い切れるかというとそうは言えないのです。 必ずしも阿弥陀如来でなくてもいいのではないか、という気がします。 大いなる存在は感じることができても、「法蔵菩薩であられたとき・・・」「四十八願を立てられ・・・」「西方浄土におはします・・・」と物語が始まった途端に、あまりの非現実さに白けてしまうのです。 現在の文献学の認識では、浄土三部経はゴータマ・シッダッタ様が直接に語ったものではないというのが、定説だと思います。 キリスト教がキリスト教たり得るのは、預言者イエス・キリストに近侍し、その言動と奇瑞に直接に心を揺るがされた弟子たちの福音書があるからだ、と考えます。 阿弥陀如来は、誰が、どのようにして見出されたのでしょうか。 別の言い方をすれば、浄土三部経は、誰が、どのように阿弥陀如来の存在を感得して、編まれたのでしょうか。 誠に不躾な質問で恐縮ですが、私にとっては根源的な問題なのです。
初めまして。 先日、大好きな母を突然くも膜下出血で亡くしました。 まだ50代という若さで母はこの世を去りました。 母は私が小さい頃から本当に苦労をしていました。 苦労の原因は父親です。 父親は昔から仕事は不安定、ギャンブル、借金、うつ病などで母は毎日どんなに仕事の環境が辛くとも頑張っていました。 とても優しく自分の事より家族を1番に考えてくれる本当に良い母でした。 なぜこんな良い母が…っと思う日々です。 世の中には悪い人がいっぱいいるのに何故… 神様はいるのでしょうか? 父親も仕事が落ち着き、私もこれから母に親孝行をしていきたいと思っていた矢先の出来事でした。 私は3年前に結婚をして妊活を始めて1年が経ちますが中々授からず、母に孫の顔を見せてあげる事ができませんでした。 母とこれから楽しい日々を送れると思っていたのに何もできなかった自分を責める日々です。 母は東本願寺の真宗大谷派ですが、三十五日、四十九日まではこの世に魂があるのでしょうか? それまでに母に何かしてあげれる事はありますか? 無事母が成仏して天国で安らかに休んでもらうにはどうすればよいのでしょうか? 突然の死だったので母もこの世に未練があるかと思います。 無事に成仏をして天国で幸せに過ごしてほしいです。 人は死ぬとどこにいくのでしょうか?
よく不安関係の質問でお世話になっております。 以前、いろいろ不安克服法について調べたのですが、よく禅や瞑想のことが取り上げられています。 心を落ち着かせる点で、効果的だと聞きました。 ただ、禅や瞑想について調べると、いろいろなやり方があり、どれが良いのかわかりません。 一番良いやり方があれば、教えてほしいと思い、投稿しました。できれば、家でも外でもできる禅や瞑想を知りたいです。
以前も投稿させて頂いたのですが、私は過去誤った信仰をしてしまい、人生が滅茶苦茶になってしまいました。 今現在人生を立て直している最中なのですが毎日本当に辛い思いをしています。 このままでは本当に参ってしまうのでお聞きしたいのですが、以前質問の回答でお経の中身を覗いてみて下さいとあったのですが、お経の中身はどのようなことが書かれているのでしょうか? これからやり直す上での参考として、また、心を穏やかにするために教えていただけるとありがたいです。
結婚を前提に同棲している彼氏がいます。 最近彼氏の仕事が忙しく、精神的に不安定であるにもかかわらず自分のわがままで怒らせてしまいました。 ですが、彼氏の言動に傷ついている自分もいて、そのことを伝えると「被害者面ばかりして。俺だって傷ついてる。いつまでもお花畑でいるな」と言われてしまいました。 言いすぎたことを謝ると悲劇のヒロインなのかと言われました。 私は悲劇のヒロインぶってるお花畑な思考の人間なのでしょうか。どう言えば正解なのかもわかりません。
仕事について悩んでいます。 上司から今よりも上のポストにつく気はないか、と切り出されました。 しかし、仕事量は当然増えますし、商談を主導していかなくてはなりません。 (今までは基本的に商談に関わっていませんでした。) 知り合いとですらまともに話ができず、4,5人で集まれば一言、二言喋るのが精一杯な私は、商談などまともに出来る気がしません。 また、社内研修を改めて受けることになりますが、 慣れない土地で一時的にでも一人暮らしをすることに対しても不安があります。 慣れ親しんできた土地を離れるのがとても怖いのです。 このような状態でお話を受けても、 自分がパンクしてしまう未来しか想像できません。 そのような自分はダメだ、なんとかしないと、 頭の中では思ってはいますし、 これは自分にとってのチャンスだ、とも思ってはいるのですが、 恐怖心が先走ってしまいます。
こんにちは、宜しくおねがいします。 生き方について悩みが多く、暴れる心をなんとか鎮めたいと最近、 浄土真宗の聞法に通っています。 随分昔に死んだ明治生まれの祖母を思い出したからです。彼女は封建的な夫に黙々と仕え、息子に戦死されても、一人娘に急死されても、毎日の日課を黙って静かにこなし、仏壇になんまんだを唱え、老いては子に従い、右を向いていろといわれれば右を向き、左を向いていろといわれれば左を向いているような、大切にはされていたのでしょうが全く存在感のない祖母でした。無口で静かでしたから声も覚えていないのです。すっかり忘れていたのです。 ところが、自分も老境に入り、しかしいまだ心穏やかならず、怒りや貪りに振り回され苦しむ有様で、あの諦観したのか、または阿弥陀様にお任せしきったのかのような祖母の姿が私を聞法に向かわせました。 しかしこの身はしぶとく、聞法をいただいている間は少しは素直な気持ちになるのですが、それもなが続きしません。 第一、近代教育を受けた私には、「はからいを捨て、お任せする」のは難しいです。はからうことばかりを目指し、学び、訓練してきたのですから。もしかすると、もっと死が近づいたら少しはそんな気持ちが持てるのかもしれませんが・・・ ただ、三木清が言うように「自分は最後は親上人の言葉どうり、あの世で懐かしい人たちに会えることを信じている」のは私も同じです。 問題はあの世のことでなく、日々の生活で心配や怒りや嘆きに振り回されることです。 そんな私が禅宗の教えで行住坐臥を整えることや、禅の言葉に従うことで、少しは苦しみから離れられるように思うことがあります。 子供のころ永平寺を訪れて、「こんな風に生きている人もいるのだ」とショックを受けたことから大人になって、禅林句集や道元禅師を読むようになりました。指針になります。 阿弥陀様にお任せできない私が曹洞宗に頼るのはいけませんか? 浄土真宗では一筋でないといけないと聞きます。お任せしきらないといけないと聞きます。浄土真宗と曹洞宗の二股みたいで罪悪感があります。 迷える私にお言葉をいただきたいです。 宜しくおねがいします。 とんぼ