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hasunoha 問答検索結果 : 「私 死 わからない」
検索結果: 2718件
2022/01/05

死にたくないのに死について考えてしまう

何故だか、死について考えてしまいます。 死を選んでしまいそうで、怖いのです。 私は心療内科に通っており、一人で遠出するのもかなり緊張してしまう状態です。症状が酷いときはお薬を飲んでしのいでいますが、『いい歳して、ろくに外も歩けないのか…』と思うと、苦しくなります。 苦しい気持ちはありますが、私自身、非常に恵まれた環境で生きていると思っています。一度メンタル面で体調を崩し退職したものの、現在はなんとか仕事に就けています。両親も健在。家庭環境や人間関係に困っていることもありません。傍から見れば、何一つ不自由のない生活だろうと考えています。 ですがある時、ふっと頭に『死にたい』という言葉が浮かびました。 自分でも非常に驚きました。年金もらうまで死ねない!なんて思っていたはずなのに。自殺についてなんて、少しも考えたことがなかったのに。 しかしよくよく考えてみれば、私には資格もなければ趣味もありません。なんの取り柄もない人間だと思います。心の奥底では、そんな自分に価値がないと思っている気がします。 決して死にたくはないのです。ですが気分が落ち込んで、今ではうっかり死を選んでしまいそうです。自分がコントロールできなくなるような気がして、恐ろしくて仕方がありません。 自分の中に生と死の2つの考えが頭から離れず、どうしてもソワソワしてしまいます。 私はおかしくなってしまうのでしょうか。どうしたらいいのか分かりません。 生きる知恵、良い考え方を教えて下さい。しっかり生きて、人生を楽しみたいです。 うまくまとめられず読みにくい文章になってしまいました、お許しください。

有り難し有り難し 3
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娘の死

初めて書き込ませていただきました。 私は、去年最愛の娘を私の不注意で事故で亡くしました。たったの6才でした。 悲しみが癒える事はなく、これから娘が味わえたであろう、小学校、中学校、高校…恋もしたかっただろう、どんな仕事に就いたのかな?結婚したかな?ママとランチや買い物に行って、女子トークしたかな?友達と旅行行ったりしたかっただろうな… 娘の人生は、全て私が奪いました。この先感じた、喜びも悲しみも幸せも怒りも、様々な経験も、全て私の不注意で奪いました。 私は、私が殺めたと思っています。 溺水でした。 蘇生後脳症で意識が戻らないまま、脳死状態で数ヶ月心臓は動いて、最後は多臓器不全で亡くなりました。 私の元に生まれなければ、私の娘じゃなかったなら、きっとずっと幸せな人生を歩んでいただろうに、私の娘になったばかりに、可哀想で可哀想でどうしようもありません。代わってやりたい。私が死ねば良かったのに。 自分でランドセルも選び、何度も背負って見せ、小学校への入学を楽しみにしていた数ヶ月前に亡くなりました。 あの笑顔が忘れられません。 何度も後追いを考えます。私が行ってあげなきゃ一人で淋しい思いをしていないかと、いつも涙が溢れます。 ただ、他に子供がいて逝けません。 1年少し経った今でも、息をするのも辛く、美味しい物を食べるのも、旅行やお出かけも、いつも常に淋しさと後悔で全く楽しめません。 神様は、私に「苦しみ地獄を生きろ」と言われてるのだと思います。 沢山居た娘のママ友達も、居なくなってしまいました。 私は、何かバチが当たったのでしょうか? 私は、動物や小さな虫にも優しくしてきたつもりでした。動物愛護募金もしてきました。夏のアスファルトの上を虫が歩いていたら、そっと木陰に連れていく事を毎回やっていました。 子供の虐待や事故死を自分の事のように涙を流して泣いていました。 間違っていたのでしょうか? 今は、何をしても悲しみが押し寄せてきます。喜びや楽しみも、最後には悲しみに変わります。もう腹の底から笑う日はないんだと思います。 いつ死んでも構いません。残った子供が私と同じ想いをしないように生きてるだけです。 虐待で亡くなる子供たちに私の命を捧げてあげたい。ちっとも惜しくないです。 私のせいで死ななきゃいけなかった娘が、せめて今、仏様に神様に大事にされている事を祈るしかありません

有り難し有り難し 51
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2022/01/24

祖母の死

幼い頃に母親を亡くした私を母親代わりに育ててくれた祖母が昨年の年末に亡くなりました   亡くなる約2ヶ月前に末期の癌と診断され、口から食事が取れないので、中心静脈栄養という直接体内に栄養を入れる管を作る為に一度入院しましたが、コロナ禍での入院は最後の時でないと面会出来ない事や、もう治療として出来ることは痛みが強くなった時に痛み止めを使用するしか無い状況でした   祖母の長年住んだ家で家族と過ごしたいとの希望や、私も24時間付き添う事は出来ないけれど出来る限り祖母の願いを叶えたいという思いもあり、退院して在宅で過ごす事を選択し家で過ごしていました   家にいる間は特別な事をする事は出来ませんでしたが約十日間くらい穏やかに家族で一緒の時間を過ごす事ができました   亡くなる3日前になると身体が栄養を吸収出来なくなり、浮腫んだり痰が多くなって逆に身体の負担となっていたので栄養を中止し、また呼吸も徐々に弱く途中で無呼吸も見られるようになり、言葉を発する事、自分で起き上がる事も出来なく、訪問看護の看護師さんから今日明日でもおかしくないと説明を受けました   看護師さんが帰り、祖母と二人きりになり、祖母を抱き締めながら今迄育ててもらった事など沢山の話やお礼を言い、祖母と二人で泣きました   そして次の日には意識がなくなり寝たままとなり、その三日後に息を引き取り、私が看取る事ができました    葬儀も無事終わり、もうすぐ四十九日ですが喪失感や悲しみで毎日祖母の祭壇の前だけでなく、買い物をしている時など様々な場所で祖母との思い出が巡ってきて涙が溢れてきます   とても優しく家族思いな祖母で、自分が癌で食事が食べれなくても家族の食事を作ろうとしたり、私が傍にいると口癖のように、ご飯を食べたか心配してくれる優しい祖母でした   祖母が亡くなった後もっと祖母に出来る事があったのでは無いか、こうしていれば良かったのではないかと考える日々です   知り合いから、私がいつまでも泣いていては祖母は成仏出来ない、世の中には死に目に会えない人だっていると言われました   家族の最後に立ち会えない人も居るのは分かります、でも看取りが出来ても亡くなった事への悲しみや喪失感、後悔の感情は皆簡単には割り切れないのでは無いかと思います   私は祖母を思い出したり泣く事は許されないのでしょうか

有り難し有り難し 33
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辛いことばかりで、生きる意味がわからない

最近、生きていることが辛いです。 仕事では、忙しく残業が多いため肉体的負担が高くなっています。 また、部下、上司、お客様、他社との板挟み状態で精神的負担も高いです。 家庭では、両親ともに持病を持っており、父は余命宣告されています。 会うたびに弱っていっているような感じで、会うのが辛く私自身の精神的不安が高い状態です。 仕事も家庭もうまくいきませんし、悪いことばかり起こっており精神的、肉体的にも限界が近づいています。 さらに悪い方向ばかりに考えてしまい、不安が増していき発狂しそうな状態になります。 食べることでストレスを発散しようと思っても、食べすぎやアルコールは体に悪いと考えて我慢してしまいます。 また、たまに1人なれる時間があっても、今後の経済不安(親の医療費や万が一の場合の葬儀代(平均120万円)等)がありお金を使えず、趣味も我慢してしまいます。 もう、人生が試練ばかりで楽しくないし、生きている意味もわからなくなってしまいました。 今後、さらに辛いこと(親の死など)があるでしょうし、もう耐えられる自信もありません。 どうすれば、前向きに楽しい人生を送れるでしょうか。 アドバイスをお願いします。

有り難し有り難し 15
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自死遺族となって…

実際に自分自身が自死遺族となりました。 そのような実感もあまりないのですが 毎日が息苦しいです。 いろいろな支援があるということを こちらのサイト様でも地域の情報でも 拝見いたしましたがハードルが高いです。 全く知らない人に電話をし自分の状況を説明すると思うと… つらい聞いてもらいたいという気持ちより 精神的にしんどいという思いが先立ち せっかくの支援も利用する気になれません。 情緒不安定が続いたとき メンタルクリニックも考えましたが 予約の電話すらできませんでした。 捜索時の慌ただしさから お通夜お葬式…四十九日と 周りの時間は普通に戻っていくのですが 自分だけ取り残されているように感じます。 今月より心機一転とも思ったのですが… 1人で苦しませてしまったにもかかわらず 私がのうのうと生きてることに 違和感を感じます。 こちらのサイトの問答をたくさん拝見し そんなことは望まれていないと思うのですが 理解と実践が全く別物です。 身近の人の死に対する 気持ちの経過もこれが自然なのか 異常なのか全くわかりません。 誰よりも辛いはずの両親も いろいろと気遣ってくれ 優しい家族に恵まれ、 決してしんどい状況ではないのですが 精神的にどうしようもないときがあります。 子供の成長に悪影響がないか怖いです。 一生懸命できるだけ供養し 一生抱えるしかないのですが どのように向き合えばよいか いろいろなお言葉を聞いても わからないままです。 ハスノハ様でしたら気持ちを 少し書ける気がしたので書かせていただきました。 従来の問答と重複するものですが ここまで読んでいただき 誠にありがとうございました。 いつもお坊様の有難いお言葉に 励まされております。

有り難し有り難し 79
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毎日死について考えてしまいます

私は毎日、大切な人たちの死を考えてしまい、悲しくて苦しくてこの先の人生に希望が持てなくなるような瞬間があります。 大切な人たちというのは主に家族で、特に両親や姉妹のことです。 昨年、結婚し初めて実家を出ました。 元々結婚願望がなかった私でしたが、婚約してからはあっという間に家を出ることになってしまい、当時29歳でしたが、なんだか現実に起こっていることと自分の心がついてこないような感覚でした。 あぁ、私も結婚する歳なんだなぁ…大人になってたんだよなぁ…というような感じです。 結婚生活はとても楽しく、実家にもよく顔を見せに帰っていますし、姉妹とも連絡は頻繁に取っています。 しかし、いつも楽しく幸せだと感じる裏側で、いつかこの幸せも終わってしまう、いつまでも幸せではいられない。そう思ってしまうのです。 もしかしたらあと10年後には両親がいないかもしれない。もう少し前の私であれば、そんな考えが浮かんでも「まだまだ若いし元気だから大丈夫」と自分を励ますことができたのですが、最近ではもう親の死も他人事ではないというか、あり得ないことではないと落ち込んでしまいます。 いつだって人は死と隣り合わせで生きているし、親がいくつだろうと、自分が大人でも子どもでも関係ないことだったのに。 この先私が親や姉妹よりも長生きするとすれば、私の未来にはとても悲しくて辛い出来事が必ず当たり前のように訪れます。 「大切な人の死」という、想像しただけでも胸をえぐられるような悲しみ以上に、楽しいことや幸せだと思えることが今後あるのでしょうか。 もちろん私の両親も自分の親とのお別れを経験しているわけですし、人はそうやって生きていくものだと思いますが、こんなことを夜な夜な考えてはこの先の未来に影を落としてしまいます。 少しでも前向きに考えていけるようになりたくて、ここでお話しさせて頂きました。 わかりにくい文章で申し訳ございませんが、何かお言葉を頂けたらと思います。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1
2023/08/03

天部の神様と死について

こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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2023/05/15

死を意識する子ども

6歳の娘を育てていますが、その子がやたらと死を意識するような言動が多く不思議です。子どもとして正常なのでしょうか? その子のまえに2歳離れた娘がいましたが、先天性の疾患があり4ヶ月でお空に帰ってしまいました。わが家には長女の仏壇があり、朝夕に手をあわせ、月命日には墓参りをしています。 3ヶ月前にはわたしの祖母が亡くなりお通夜に参列しました。棺に手紙を入れて、亡骸と対面もしています。 飼っていた猫も老衰し、亡くなる時を見守り、ペット葬儀場でお骨になるまでをみせています。 同年代の子どもより亡くなった人(ペット)と接するエピソードが多いからかもしれませんが、「◯◯ちゃん(長女)はお空にいるんでしょ?今日は背負って一緒に小学校に行くんだ~」 成人式のニュースをみて、どんな振り袖が着てみたい?と話しかけた主人に「パパは成人式の時まで生きてるの?いつまで生きてるのかな?」 祖母のお通夜をした葬儀場前を通ると「大バァちゃんはまだここにいるの?死んだらどこにいるの?」などよく聞いてきます。 死に対して恐怖を感じてる様子はありませんし、死を意識した会話を悪いことだとは思っていませんが、なにかにつけてまわりの大人たちに「いつまで生きるの?」と聞くため、変な子どもと言われます。 長女の死について詳しく話したことはありません。長女の死因や死生観についてなど、なにか特別な説明や教育をしてやったほいがいいのでしょうか?どうしてやればいいのかわからずモヤモヤします。ただ、変な子どもと言われるのは不本意だし、よくないなと思っています。なにかいい言葉がけなどあれば教えてください。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 11
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友人の死を受け入れていないのでしょうか

2年前に、友人が病気で亡くなりました。 他の友人も交えて仲が良かったので、友人(以下A氏)が友人が亡くなった(亡くなった友人はB氏)3ヶ月後位に、B氏の母親に電話で、「B氏にお線香をあげたい」と言ったら、B氏の母親は「辛いので来ないで欲しい」と言われました。 A氏と2人でやり取りして、B氏の母親にお花とB氏が元気だった頃の写真と寄せ書きを送りました。 B氏の母親は喜んで「ありがとうございます。B氏の横(納骨していなかったので骨壷)に置いておきます」という電話を頂きました。 それからB氏の母親と寒中お見舞いなどでやり取りするようになり、今年になって「B氏のお墓まいりに一緒に行きましょう(一周忌でお墓に納骨した)」という手紙を頂きました。 B氏が亡くなって2年経って、B氏の母親とお墓まいりに行きました。 墓石にはB氏の名前が書いてあり、B氏の母親は「B氏はここにいるよ。今日はお友達が来てくれたよ」と話しかけていました。 私よりも先に、B氏の母親とお墓まいりに来たA氏は「A氏はまだ居ると思ったけど、お墓を見て死んだと実感した」とB氏の母親に言ったそうです。 私はお墓を見ても、B氏の死を実感出来ず、B氏の母親からA氏の言ったことを聞いて、ただ涙が出ました。 お墓を見れば、B氏の死を実感すると思っていましたが、実感するどころか、死を信じられず、「この中には別の人がいるのではないか」とも思いました。 お墓を見ても、その方の死を実感出来ないというのは、まだB氏の死を受け入れていないのかも知れません。 このような気持ちでお墓まいりをしたことは、B氏やB氏の母親にとって、失礼になりますか? 宗教について知識不足ですが、お坊さんの視点からお答え頂けると幸いです。

有り難し有り難し 16
回答数回答 1