私は自分勝手です。相手のことを思いやれません。自分勝手というのは、自分に自信がないから自分勝手なのだと聞いたことがあります。 では、自分に自信をもつためには何をすれば良いのですか?少しでも、人を思いやられるようにボランティアをしようと思っています。その他に日頃から気をつけることはありますか?教えてください。
私は元々、心許せる友人と少人数で集まるとか、一人で読書等をする方が好きな方で、人の私生活に深く立ち入るのも、自分の私生活に立ち入られるのもあまり好まない所があります。 それでも、少なければ少ないなりに仲のいい友達はいていい関係だったと思いますし、夫、舅姑とも円満にやっていました。 しかし、年を重ね、友人とも物理的に離れたり、お互いの生活が違ってくると交流もままならず、話も弾みにくくなるので疎遠になる事も多くあります。女子会などが好きな方ではないので、なかなか新しい友達もできにくく、寂しさを感じています。無理して同調するのも疲れる気がしますし、つるむだけの友達ではなく、もっと深い部分で親しくなりたいと思っています。 今のところ、健康には不安がなく、生活の心配もありません。 結婚十年以上になりますが、夫、姑との関係も良好です。しかし、近くにいる友達らしい友達は1人か2人だけになりました。 もっと大変な悩みを抱えている人からしたら贅沢な悩みになるのかもしれませんが、子供もいないのでいつか一人になるような気がして不安になる事が時々あります。もっと明るく前向きに生活するにはどのように考えたらいいのでしょうか。助言を頂けたらと思います。
殺処分や、動物実験、その他諸々について心を痛めてます。 罪のない動物の恐怖や悲しみ、苦しみは、彼らにとっての進化の過程で、必要な意味や理由があるのでしょうか? とても感情移入をしてしまい、どうすれば傷つかず考えることが出来ますか?
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?
高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。 高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。 医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。
悟ったら毎日どんな感じですか? 悟ったら毎日たのしいですか? たのしいだと つまらないが対極について回るから たのしいというより 静かな感じですか?
こんばんは。お暇な時に答えてくださると嬉しいです。私のは切迫した悩み事の相談ではなくて、自分が知りたいなと思った事の質問なんです。 仏教の基本的な考えを理解するのに、宗派が違うと考え方も大きく変わってきますか? 私は子供の頃から家に聖書物語の絵本があって親しんだり教会でお話を聴いたりして、小さな頃から仏教以外の宗教の影響を受けてきました。最近初めて仏教の考え方を少し知って、これまでの自分の考え方と根本的に異なる感じで難しいと思ったけれど、もう少し知りたいんです。でも同じ仏教でも宗派が複数あるのですね。基本の考えがそれぞれ違ってくるともっと難しくなってしまうと思って、気になったんです。お坊様からみたことを教えてください。 追伸 亡くなってお葬式とか色々やるまで知らなかったのだけど、私の父は曹洞宗でした。
新宿での焼身自殺、首相官邸での抗議デモなど、最近の「集団的自衛権」を巡っての抗議が行われています。 仏教的には、「流れに逆らわない」というイメージがあるのですが、今の現状の流れが戦争につながるかもしれない政治家の側にあるのか、戦争反対への自殺・デモなどの側にあるのか、もしくは大多数であろう「傍観者」なのか、疑問に思ってしまいます。 かつて、太平洋戦争が始まった頃ともしかしたら今は同じ状況なのかもしれないという気がしています。 太平洋戦争の頃の宗教家の言動などを踏まえて、今現在の宗教家の方々はどのように考えて、どのような行動を取っているのでしょうか? 大局に囚われず、右往左往するのではなく、今自分の眼の前にある日常生活を淡々と過ごすことが大切なのでしょうか?
前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?
先日初めて質問させていただきました。 そこで、お坊さんも色々な戒律や教えに従って日々修行されているのだなと感じました。 そして新たに疑問に思った事があります。 ①お坊さんがパチンコなどのギャンブルをする事はどのような教えなのか? ②お坊さんが風俗に行く事はどのような教えなのか? ③上記の様な事がよろしくない事だった場合、その事をしているお坊さんは少数派かもしれませんが、そういうお坊さんを他のお坊さんは野放しにしているのはどのような教えにのっとっているのか?徹底するべきではないのか? ④お坊さんは高級車に乗っているイメージがありますが、乗る車について何か決まりでもあるのか?また、決まりがないとしたら、高級車に乗っている事はお坊さんとして恥ずかしくないのか? 他にも色々ありますが、とりあえず以上の4つについて出来るだけ簡潔に教えていただきたいです。 日本は無宗派が進んできているなどと言われていますが、お坊さんに対するイメージの変化も影響があるのではないかと思います。 あのお布施はパチンコに使われるのかな...とか、例えそうでなくても心のどこかで思ってしまうのはつらいです。どうしてもやりたいならお坊さんやめてやって欲しい訳です。 「悟りを得る為に良いことも悪いことも経験しよう」という人なら良いのかもしれませんが、悪い事を継続的にやる必要はないでしょうし、第一そういう心構えの人はそういう事をやってなさそうです。欲が絡むのは良くないと思うわけです。 無宗派が進む日本を変えようとするなら 人々を変えようとするのではなく まず、お坊さん自信が徹底して変わっていくのが一番の近道なのではないでしょうか。 最後に ここまで読んでいただきありがとうございました。私の無知さと出しゃばった発言、お許しください。決して、陥れようと思い書いたわけではございません。 ただただ、これからお世話になっていくであろうお坊さんの真実が知りたいだけです。
先日は、悩みに答えて頂きありがとうございました。 今回 息子への接し方についてお答え頂けたら幸いです。 私には、9歳6歳の二人の息子がいます。 長男は、今は反抗期に入ったのか私の言う事は、全くきいてくれません。そればかりか、うるせー!だまれ!ママなんか消えろ!死ね!うざい!などと酷い言葉を吐きます。 私がガミガミ言い過ぎてしまう事もあるかもしれません。二人の息子は主人が仕事で居ない日は天国なのか 戦いゴッコを始め 夜でも ドタバタ騒ぐため、近所迷惑だからと 叱り 注意をしますが、馬耳東風 馬の耳に念仏 そんな、息子に手を挙げてしまう事もしばしば。 しかし、息子は、そんなの全く どこふく風 私の言葉など 少しも届きません。 主人の言う事は、ちゃんと聞きます。 なので、主人から注意をしてもらおうとしますが 子供の躾は母親の仕事だろ。 自分でなんとかしろ。 と言われてしまいます。 おまえの言葉には、刺があるから、余計反発するんだ。 だから、もっとしっかりやれ。と言われ 確かに、子供に 苛々させられ 子供を傷つけてしまう事を 言ってしまいった事もあり その度に 後悔 寝顔に謝る しかし、翌日はまた繰り返す。 そんな、自分は母親失格だ。こんな私に育てられて 息子は幸せなのか?私をふかく恨むのではないか? もっと愛してあげたい。愛している気持ちをわかって欲しい 気持ちと、息子に苛々する気持ちが錯誤してしまい 結果 怒りが勝ってしまい 息子を怒鳴ってしまう。こんな大声出したくない こんなキツい言葉言いたくない 反発し、生意気な口を聞 少も言う事を聞かない息子に 結局 怒り 手が出てしまう。 怒るではなく叱る。私のしている事は怒り。 ただ苛々したストレスを息子に発散しているだけなのは わかっています。 息子に今後 どう接すべきなのでしょうか? 悪ふざけをすり息子 汚い言葉 特に死ね!と言う息子をどうに、諭したらいいのでしょうか?叱り方は? 長文ですみません。良いアドバイスお願いします。
真宗大谷派の門徒です。 仏教に興味があります 法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか? 人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか? それと すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。