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検索結果: 240件

お寺さんとの関わり方が分かりません

どうぞよろしくお願いします。 東京で一人暮らしの40代女性です。 恥ずかしながらこの年齢までお寺さんと深く関わらず来てしまいました。 これまで親が全部やってくれていました。 お墓参りだけは私もよく行っていました。 今悩んでいるのはおもに3つです。 1・無縁仏にしている可能性のあるお墓の存在を知った 2・父の兄弟や親のルーツのあるお寺に尋ねに行きたい 3・自宅での供養?の仕方 長くなるので今回は 『1・無縁仏について』 について質問をさせてください。 今年の春頃から家系図を作りはじめ、その過程で判明しました。 祖父母の、その親のお墓です。 元々親戚付き合いが薄く、情報もないので誰も行っていない可能性があります。 もう墓はないかもしれません。京都の有名なお寺です。 なければ残念ですが、致し方ありません。 両親は近所の方に勧められ、実家近くにお墓を買い、 祖父母を納骨して供養しています。 これまで両親のルーツについて幾度か聞いたことがありましたが 明確な答えはありませんでした。 どうやら本当に知らなかったようですが、 何度か聞き取りをする中で思い出してくれたこともいくつもあります。 本当は心配で今すぐ飛んで行きたくてなりませんが 生憎コロナ禍で東京住まいの私は自粛を求められます。 もう亡くなっていますが心配で心配でなりません。 これまで誰も知らなかったとは言え放置していたのは事実です。 お寺さんに、どのようにお詫びをし、どのようにコンタクトをし、 後はどれくらい詫び料をお支払いすることになるのか。 正直、それを考えるとどうしていいのか分からなくなります。 お恥ずかしながら生活がカツカツでどれだけ頑張っても 10万円くらいしか用意出来ないのです。 (全財産が数十万円しかありません) それを考えると、気軽にコンタクトを取っていいのかどうか。 親もあまり乗り気でないので過度な負担になると 迷惑になるかもしれず、悩んでいます。 直接そのお寺さんにコンタクトをすると、もう後戻りが出来なくなります。 一般的な相場?やこれからのことについて、教えて頂けませんでしょうか? 図々しいお願いですが、どうぞよろしくお願い致します。

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弔い上げの要否と位牌、仏壇の扱いについて

初めてご相談させていただきます。 亡くなった母の33回忌が近づいてきました。法要に詳しくないため、インターネットで検索をすると、33回忌をもって弔い上げをすることが多いとありました。その件でご質問させていただきます。 母は離婚しており、独り身でした。我が家の仏壇には母の位牌しかありません。お墓は、母が亡くなった当時、私が若かったこともあり、母の実家の墓に収めてもらいました。お寺は浄土宗ですが、私自身は宗派にこだわりはありません。 1)今後、年忌法要をする予定がない場合は、33回忌で弔い上げをすべきでしょうか。いずれ母の遺骨は私が自身の墓を用意して収めるか、共同墓地などに移すことを考えていますが、具体的なスケジュールは決まっていません。移すまではお彼岸等で従来どおり墓参りしようと考えています。 2)母の位牌は従来通り自宅の仏壇に祀っておいて問題ないでしょうか。我が家には合祀する先祖代々の位牌があるわけではありません。弔い上げに際し、魂抜きをして仏壇ともどもお焚き上げするといった説明も読みましたが、上記のような事情から、仏壇、位牌とも当面はそのまま自宅に置いておくのがよいのではないかと考えています。ただ、仏壇は場所をとっているので、先々どうするべきなのか判断しかねています。 以上につき、ご相談させていただきます。よろしくお願いします。

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自分が自分でわからない

しばらく前から、職場(接客)で求められる事が出来ずやめたいと思うようになりました。 出来ないと言うよりもやりたく無いと思っています。 やりたく無いものいうのは、接客業の要と言われいるお客様への心遣いです。 今まで、 ・お店の売り上げを上げるために勉強する ・自分が認められたいから勉強する (仕事を頑張る) というスタンスでやってきました。 仕事場で求められているのは ・本当に心からお客様に何かしたいと思う人 ・自分も常にポジティブでハッピー、そして健康である事を体現出来る人 です。 私はお金の為、出世の為、自分が幸せでいる為に働いている と思っていて、考えた時にお客様第一では無いとわかりました。 ただ、お客様が嫌と言うわけではなく、お客様が私の接客を受けて戻って来てくださって嬉しいと思うこともあります。 職場の人は、またお客様のお手伝いが出来る。サポートしてあげよう! と考えるようですが、 私自身は、戻って来てくれて私が嬉しい! このお客様とのお話楽しかった! ぐらいでしか無いです。 職場でも、それが自分本意ですとはっきり言われました。 やらなきゃいいじゃないと思うのですが、 結局、辞める理由がやりたく無いからというのは、自分が逃げてるのをそのままにしている事で、どこ行っても同じようになると思っているので、悔しいとも思ってます。 結局の所、私自身が何したいか、何したら良いかわからなくなっています。 気付けば、25年間誰かのアドバイスを受けてその通りに動いて生きている事が多く、また、こうなるといいなと思うとその通りになる事も多く、あ、ラッキー!恵まれてる♪と言う考えで生きていました。 自分の頭で考えて頑張るをしなかったなと思い、頭で考えますが、今度は自分の守りや環境のせいにしてる部分が出てきます。 なんてやつなんでしょうか。 自分でも呆れます。 友達や先輩に相談しようと思いましたが、こんな事相談しても解決するのは自分しかいないから相談しないと言う風に思いましたが、やっぱりそれでも聞いて欲しいと思ってこちらに書いてみることにしました。

有り難し有り難し 11
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2023/07/18

寺の長男は後を継いで当然なのでしょうか?

兼業の寺院の長男です。 姉が一人いますが私が跡継ぎとして育てられました。 子供の頃に跡を継ぐかは将来考えると親に言ったら叱られたのが衝撃で、以来、自分が必ず寺を継ぐものと思って生きてきました。 祖父も父親も僧侶として素晴らしいと思った事もなく、僧侶資格を取る為の過程で出会った講師の方達の話もポジショントークばかりの様に感じて僧侶に良い印象はありませんでしたが、経典や宗祖の残した言葉は興味深い部分もありましたし、継ぐ事で世話になった親の肩の荷を下ろしてあげられて、檀家さんの役に立つなら継ぐのも悪くないと納得していました。 しかし私が結婚してから、私達夫婦は寺と仕事を両立する為に両親とは異なる生活の仕方を計画している事を話すと、両親は話し合うまでもなく「寺をやる気がないのか」「そんなに寺を軽視していたのか」等と不快感を示しました。私達は詳しく説明して、話も聞かず頭ごなしに否定するのはおかしいと両親に抗議すると「お前達の考えを知らなかっただけ。自分達の態度は悪くない」と、話し合いもせず不快感をぶつけた自分達の失礼な態度を認めません。 両親は私が成人しても寺について何の話し合いもしませんでしたが、両親は私達が両親の気持ちを察して両親の思い通りに暮らすものと勝手に信じていたようです。 挙句の果てに私が跡取りである事や両親の寺のやり方は「祖父が決めた事であって自分達に責任はない」とさえ言いだしました。 もちろん私の人生選択に責任を負うのは私自身ですが、間違いなく私に影響を及ぼしてきた親なのに、恥ずかしげもなくそんな事がよく言えるなと思います。 姉は姉で結婚して家を出る時も、寺の事など気にもかけなかったくせに、両親の肩を持ち、後継ぎなら両親のやり方を踏襲するのが当たり前だと私達を責めます。 私が「貴方が私の立場なら今の時代でも両親のやり方を黙って引き継ぐ事を受け入れるのか?」と聞くと姉は「自分が跡取り?意味が分からない」という様子で、姉にとって跡取りとは私以外であるはずがなく、姉が私の代わりになる事を想像するどころか、私が継ぐ事をありがたいと思った事さえなかったようです。 私は寺や家族の事を思って選択の幅を狭めてまで生きてきたのに、家族にその人生を軽く見られてなお継ぎたいとは思わなくなり跡取りは辞退したのですが、寺族の跡取りへの思いというのは一般的にこの程度なのでしょうか。

有り難し有り難し 19
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2021/09/13

何のために生きていけばわからないです

お忙しいところお聞きいただきありがとうございます。 先日、テレビ番組で世界のあまり豊かでない地域の幼い子供が、本当は学校に行きたいけれどその日食べる物を手に入れる為に 、涙を流しながらも一生懸命働いているドキュメンタリーを見て、何か役に立ちたい、幸せになって欲しいと思い毎月支援団体に寄付をする事にしました。 その事について、夫に他愛無い会話のひとつとして話をしたのですが、「そんな余裕があるなら、もっと将来の為に貯金して欲しい。自分は節約して貯金しようとしている」「将来そのお金で子供が出来た時、その子に対してできることがあるかもしれないのに」と批判を受けました。 我が家の生活費は、お互い共働きをしており、家賃、食費…などの担当を決めて出し合い、その他のお金は自由に使える事にしています。 最近、夫は将来の事が気になるらしく、自発的に自由に使える分のお金から貯金をしようとしているようです。 その為、私が家庭の事を考えずに他所に寄付しようとしていることが気に入らないのかな、と思いました。 批判された時、お金の使い方に関しては、私自身が自由に使えるところから出しているので、その事自体はおかしいと感じました。 しかし、それよりも「家族を一番に大切に考えなくてはいけない」と、私自身が大切にしたい事や価値観を否定された気になり、とてもショックを受けました。 夫は将来子供のいる家庭を築きたいと希望していて、幸せな家庭を作る事を生きがいに感じているようです。 ただ、私は幸せな家庭を持つ事には賛成なのですが、他にもやってみたい事や、好きな事が沢山あり、自分の事も大切に感じています。 そのため、家庭のことを生きがいとして夫と同じように一番の幸せと考える事は、出来ないように感じています。 もちろん、夫のことは愛しており大切にしたいと考えています。しかし、家庭の事を一番に考えられない私は、そもそも結婚などするべきではなかったのでしょうか。 考えれば考えるほど、自分自身が無責任で最低な人間に思えてきて、どうしたら良いのかわかりません。 長文且つ分かりにくい文章で大変申し訳ないのですが、お導きいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 23
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乞食と喜捨に関する考え方

こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。 私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。 お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。 …しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。 「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。 私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。 ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。 連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。 しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。 ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。 人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね) そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。 長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。 こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう? わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。 支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……

有り難し有り難し 23
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亡くなった次女はどうしてるのでしょうか

はじめまして。 今年女の子の双子を出産し、生後3ヶ月で1人を亡くしました。 妊娠中から様々なトラブルに見舞われ、緊急帝王切開で早く産まざるを得ませんでした。 かなりの早産だったため、2人とも1000g満たない小さな赤ちゃんでした。 出産直後は誕生してくれた喜びよりも、こんなに小さく産んでしまった自分を責め、この子達は無事に大きくなれるのだろうかという不安でいっぱいでした。 2人ともNICUでしばらくお世話になったのですが、長女はすくすくと大きくなり2ヶ月ほどで退院することができました。 次女はなかなか思うように大きくなれず、手術も何回も繰り返し、結局NICUを出ることなく亡くなってしまいました。 次女が亡くなった直後は、生きている長女のためにも頑張らなくちゃという気持ちで無理をしていたのかもしれません。 しかし、四十九日を過ぎたあたりから実感が湧き始め、慰めのつもりでかけられる言葉が胸を突き刺さるようになりました。 今では人に会うことが怖くなり、外に出ることもできなくなってしまいました。 元気に育ってくれている長女のためにも、一生懸命生き抜いた次女のためにも、私はしっかりとこの世を全うするつもりです。 しかし、毎日次女を思っては涙が止まらないんです。 何で他の赤ちゃんではなく次女だったのか。 私には2人を育てる器量がなかったのだろうか。 何でもっとお腹で大きく育ててあげれなかったのか。 一人で寂しくしていたらどうしよう。 いつも私たちと一緒にいてくれてるのだろうか。 また会えるのだろうか。 こんなことばかり考えてます。 次女を亡くした悲しみを乗り越えるつもりはありません。 乗り越えたいとも思いません。 ただ次女がどうしているか知りたいんです。 お願いします。

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滅するべき煩悩とはなんでしょうか

よく回転寿司に行くのでそこで気づいたことを質問です。 煩悩とは何でしょうか。 『煩悩とは苦(ドゥッカ)である』 では終わるので少し掘り下げてみたいのですが、『欲』は生存に必要なものでこれを満たさないと自分の身体の生命維持ができないもの、として『食欲』『睡眠欲』などの根本欲は煩悩ではないと仮定します。 これはブッダも否定しませんでした(否定したら弟子ができる前に死んでた。睡眠不足で目が潰れた弟子もいる)。 次に『渇愛』ですが、これは自身の生命維持には必要でない『性欲』や喜怒哀楽(動物がもっている感情)と慈悲喜捨(善行)などの心(想い)に付随するものだと考えております。 最初は『渇愛』の中に『欲』も入れていたのですが、分けて考えないと生存と平穏はないなと思うようになりました。 では、『煩悩』とは何かというところになってくるのですが、『欲』や『渇愛』に『執着』がくっ付いたものではないかなと思います。 そして煩悩はそれぞれ『貪』『瞋』『痴』に分かれる。 『執着』だけではそれに寄生にする宿主(欲or渇愛)が無ければ『煩悩』にはならない。ただ、執着は一切のものにくっつく可能性があり、一切は煩悩になりえるのではと考えています。 つまり煩悩とはいかに執着を持たないかというところにあるのかなと思うようになりました。 ここで冒頭の回転寿司の話になるのですが、 1.凄くお腹が空いたから食事をしに外に行った。回転寿司を見つけたから入って適度に食べた。 2.すごくお腹が空いたから外に出た。どうしても回転寿司が食べたかったから回転寿司を適度に食べた。 1番は食欲を満たすだけなので煩悩ではなく、2番は食欲に執着がついているので煩悩である。 同じ例えで、 1.ボランティアで被災地に救援物資を送った。 2.ボランティアで被災地に救援物資を送ったが、力足らずだと思って悲しんだ。 どちらも大悲によって行った行為ですが、2番目は足りないという執着が生じているので煩悩である。 出家者は小欲知足と、渇愛のうち動物がもっている感情を滅し、慈悲喜捨に執着が付かないようにし心を乱されることなく過ごし、在家者は欲や渇愛は滅する必要はないが執着が付かないようにする。 ちなみに、十二縁起が全く理解できなかったので、四諦と八正道から経験を踏まえて考えてみました。 アドヴァイスをお願い致します。

有り難し有り難し 49
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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
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