いつも拝見し、様々な方のご質問やお坊さん方のご回答を読ませていただいては多くを学ばせていただいており、ありがとうございます。 初めて勇気を出して質問させていただきます。。。 少しずつ本を読んだり話を聞かせたいただいていますが、まだまだ初心者です。 本来ならばいずれかの宗派に特化して学ぶべきなのでしょうが、まだそこまで絞れておりません。 少し学んだレベルなのですが、自力の仏教も他力の仏教も頷かされることが多々あります。 どちらの仏教も並立するんやないかなと思うこともあるくらいなのですが、他方、それぞれで相反する考え方もあります。お経さんでも同じです。 元はお釈迦様から始まった同じ根っこなのに何故なんやろう…と不思議でした。 これは、対機説法、応病与薬が具現化した結果だと理解するべきものなのでしょうか? そうであるとするならば… 浄土真宗では、煩悩はなくならず、自力では決して救われず、悟ることはできないと聞かせていただいています。 他方、禅宗では、煩悩を減らして行き修行を重ね悟りに至ることを目指すものと認識しています。 ということは、人それぞれによって(対機)、自力で救われる人もいれば他力で救われる人もいる、 煩悩のままで救われる人もあれば、煩悩を減らして(なくして)救われる人もいるということでしょうか。 どの様な人に、どの様な説法=教えが適切なのでしょう⁇⁇ 屁理屈の様な、ド素人の、アホな質問で大変恐縮ですがご教示頂けますと有難いです。 もしかして過去にどなたかが似た様な質問をされて回答がある様でしたら申し訳ありません。 宜しくお願いいたします。
最近 生きる価値について ある和尚様(ハスノハではない)に質問しましたが回答は得られませんでした。 私は介護士として長く働いています。目の前の認知症さん 寝たきりさんなどとの関わり、 自分や母親の老化などもあり 漠然と なぜ生きなきゃならないのか、という疑問が強くなりました。 正直生きる意味生きる価値がよくわかりません。 わからないままでいいのだとも思いますが。和尚様方のお考えを教えていただけたらと思います よろしくお願い致します🌸
仏陀の教えには、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、これらを正しく理解したうえで、世の中を捉えることができれば、あらゆる現象に一喜一憂することなく心が安定した状態になり、 苦しみから解放されるとあります。 現在の私は周りに期待せず、求めず、諦める事で心の平穏を保っています。しかし全てを諦めることは難しく、多少の浮き沈みもありますが、特に不満というほどの事もありません。 しかし疑問もあり、本当に欲を削ぎ落とし、 求めず、一喜一憂することなく平穏に過ごすことが幸せなのでしょうか?何かを求め、手に入れたときの喜び、又思い通りに行かなかった時に怒り、悲しんでいる方が、人間らしく生きるという事ではないのでしょうか?。 求めないという生き方は、悲しみや怒りといった負の感情は少なく抑えられますが、その分喜びもあまりありません。物事に対し一喜一憂する事なく平穏に過ごす事が果たして本当に人として幸せな事なのでしょうか?
他の問答で仏教は"心の平穏"を見つける事と書いてありましたが心の平穏が見つからないです。 ずーっと死ぬor投薬を数年続けてて最近本当に生きるのをやめようと確信しつつあり、今はもう絶望感と戦いながら生きてます。おそらく私の年代でここまで人生に苦痛を感じて、失敗して、でも普通の人ぽく振る舞い、誰にも悩みを離さず生きてる人はかなり少ないと思います。 365日10何時間「死にたい、生きる意味は?生まれてこなれけば」と何度も考えている人間ですよ? そんな私はやはり苦しみについて人以上に考えるし、哲学や仏教に自ずと向かいます。 でも普段心の平穏や幸福な人たちはどちらかというと、ここハスノハで説教されるような不勉強な人達で何の苦労もないし、不幸も少ないです。人生勉強とかいうけど勉強の量が圧倒的に違うし不公平すぎる。 ここで説教されるような物事の解釈を変えるとか感謝とか人以上にしてるし、人以上にどうすればいいか勉強してますし考えてます、説教されてない幸福な人より何億倍も向き合いました。 毎日死ぬような目にあって、希望もなくて、自信につながるようなことはなくて、不幸ばかり。 そんな時に"心の平穏"と言われても無理、できるわけがない。仮に少しでも好転してもこの状態があと何十年も続き、もはや変えられないことの方が多い中、苦しみ続けるのに心の平穏なんて得れるわけないです。 いつも思うのですが、苦しみを減らす方法ってどちらかというと他人を攻撃して嘘をついて生まれた環境や遺伝子の有利さを発揮して利己的に生きる方が何億倍も心の平穏が生まれるという事。 毎日苦しんでる私のような人は平穏どころか苦しみばかりです。どんな捉え方をしてもやはり不幸なのです。 そしてそんな運の悪い人は仏教を勉強しても悟りについて考えても知名度のあるお坊さんに負けてしまいます。結局知名度もあり、欲を楽しみ、私よりも恵まれてるお坊さんが"心の平穏"こそが悟りといってるだけじゃないかと思ってしまう。 実際は悟りなんて無くて生まれた時に苦しむ人は苦しむだけの人生なのでは?と。 一度人生の地獄が続くと脳細胞が死滅していてもはや戻る事は不可能です。 仮に生まれて虐待されて親に愛されなくて友達に虐められて苦しんで自殺した人ってもはや何を悟るの?と思います。
ご質問させて頂きますハルソラと申します。 私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。 多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。 そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。 昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。 すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。 例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、 晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。 動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか? お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。
仏教は面白い。 インドから北周りに来日した文化ですが、 その途中で、様々な宗派がありますよね。 ○○仏教とか、○○教とか。 あ、日蓮大聖人を正当と見ている学会もそうですか。 私の名前は、数ある仏教の中でも密教に由来します。 「強く、賢くあれ」という願いが込められたものです。 「弘」の字が含まれていますから。 名前負けしないような生活を送りたいと思っています。 公開しても私自身はかまわないのですが……やめておきます。 何をもって強くありたいのかがよくわかりませんが、少なくとも1分野で力をつけたい、強くなりたいと思っております。 何をもって賢くありたいかは、よく分かっています。私の外見、すごく賢く見えるそうです。なので、目標は「自分の外見に負けないくらい」です。 賢さは表情に出るので、終わりのない戦いになるでしょう。それは百も承知です。 内向的、と言えば聞こえは良いですが、心療内科で「うつ傾向」と診断されています。 だから、することがない時はひたすら何かしらについて考えております。 自分自身の弱さは勿論、自分を取り巻く社会のことも。 さて、自分の姿勢は曲げないつもりでいますし、曲げるのも難しいのですが、ふと、疑問に思ったことがあります。 ・神仏習合前の仏教において創世記とは、ガウタマ・シッダールタ王子を出家に導いた四苦でしょうか。 ・王子が悟りを開く直前に悪魔の囁きがあった、とありますが、仏教における悪魔とは何でしょうか。 不躾ではありますが、よろしくお願いいたします。
50歳を過ぎ、何を目的に生きていけば良いのか、考え出すと精神不安定になります。子供は家を出て、今は一人で生活しています。仕事は特に大きな不満なくやれていると思うのですが、休日になると人目を気にして思うように行動できなくなります。街に外出や外食で息抜きができればいいのですが、いい歳したおっさんが一人で行動しているのを他人から見られているような気がして、引け目を感じて行動できなくなります。人の集まりに参加するのも億劫に感じます。もっと積極的になりたい、と願うのですが、休日はいつも本を読んだり、人の少ない山に出かけたりと、他人と極力会わない行動を選択してしまいます。そういう行動ばかり選択する自分にいつも嫌気が差します。なので、仏教や心理学の本を読んで気持ちを落ち着かせるやり方を学ぼうとしているのですが、なかなか定着しません。いつか仏教でいうところの悟りを得て心を安定させたい、と願う次第です。 このような感じで、この先の人生を安定して過ごしていけるのか、不安になる事が多いです。そもそも年を取ったら行動が制限されるのは一般的で、贅沢な悩みなんでしょうか。皆さんはどうされているのでしょうか。人生後半の生き方について、アドバイス頂けたら有り難いです。
hasunoha様、いつもお世話になっております。 転職しましたが、ニュースで新卒社員の給料が高いと知り、「生まれた時代を間違えた」と感じます。東京に家があり、裕福な親を持つ人が心底うらやましいです。そういう人たちは家族仲も良いのだろうと思うと、「生まれた家も間違えた」と思います。そもそも産んでくれと頼んだわけではありません。よく漫画などで、あの夫婦の子どもに生まれるんだ!と子どもが選択するとありますが、気持ち悪すぎるて…。言葉は悪いですが生き地獄のクソ実家に生まれるより、生まれない方がよかったと何度も考えます。 4月分の家賃はまだ払えず、行政の福祉も当てにならないので、死んだほうがマシかと考えることがあります。実家に戻ればいいじゃない、とかの声もありそうですが、生き地獄から逃れるために越してきたので戻れないのもあります(あと、ずっと生活していた祖母宅がいつの間にか取り壊しされていて、帰省とかもできないですね) 生きていてごめんなさい。神様仏様はまことに不公平。人間界が修行や罰と言うけれど、家庭が裕福な人には修行でもなんでもないよ。祈りとか祈祷も意味はないと思う。神様仏様は助けてくれないもの。
大学で仏教の事を学んでいる真宗の信徒です。先生には質問しづらい内容ですのでここで質問させてください。 大学で四諦の教えや空の思想を知り、苦しみの生まれるプロセスを理解しました。 ただ私は意思が弱い凡夫ですので、渇愛煩悩を絶つために修行し自力で悟りを得られるような人間ではありません。 やはり阿弥陀仏の本願に縋るしかないと考えております。 しかしながら、偽経について学び、同時に観経が偽経である事を知ると疑いの心が生じてきました。 信じたいと思っているのですが、釈尊が説かれた教えではないものと知ってしまうと、阿弥陀仏は本当に自分を救ってくださるのかどうしても心配になってきます。 この心にどう折り合いをつければ良いでしょうか?
去年5月に、こちらで「6つの命」というタイトルでご相談させていただきました。 その時は、家に巣をつくった野鳥の雛を救うことができなかったことを相談させていただき、 あれ以後、野鳥イコール辛い過去にしたくなかったので、傷病鳥獣保護のボランティアに入団し、6つのの命に対して、少しでも誠実に生きられるように活動してきました。 最近少し不思議なことが起こったのです。 普段生活をしていて、家で蛇を見ることなど、あの6つの命が失われた瞬間以外に無いのに、最近、自分の家の前のドブに、子供の蛇の死骸が急に現れたのです。今にも動き出しそうな格好でした。 あのお腹の膨れた蛇の姿は、忘れもしませんので、あの蛇と同じ柄だとすぐにわかりました。 1年前に、自分の目の前で雛鳥を丸呑みにした蛇の子どもが、今自分の目の前で死んでいると思ったら、命のまわり方に非常に不思議な気持ちになりました。 次の日の朝、私の母親と一緒に木の根元に死骸を供養しましたが、何か蛇から伝えたかったメッセージがあったのでしょうか?1年前は本当に辛かった経験だけに、とても気になってしまいます。
アップいただいた動画を、拝見致しました。ありがとうございます。 前回のご回答と動画で、坐禅ということを説明や言葉で理解すると、ダメなのはわかりました。自分で勝手にねつ造した”悟りの境地”や“坐禅の方法論”や“坐禅の手段”は、ことごとく通用しないということも分かりました。 しかし、そうなると、とても不安になります。どうしても、何らかの方法論や手段に頼ろうとしてしまうし、その結果、自分を観察して、分析して、改善しようとしてしまいます。「私は、○○だ」「うまくいった」「ダメだ」とかコメントを入れてしまいます。自分が見たもの、聞いたもの、したことを観察して、その観察した自分をさらに観察して、二重にも三重にも生活してしまいます。 そういうコメントを入れてしまうのは、それを止めるとかえって物足りない気がするからだと思います。観察しないと、「こんなのでいいのかな?」と非常に不安になってしまいます…。 それでも、理想を求めて自分を観察してはならないのでしょうか?
仏ゾーンという、少し昔の少年漫画をご存知でしょうか。 簡単に説明すると弥勒菩薩の生まれ変わりの女の子のもとに、千手観音のセンジュ君が現れ一緒に悟りの旅に出るというバトル漫画です。 宗教の問題で打ち切りになったとか噂されますが、実際の所は多分違います。 しかしそれでも、お坊さんとしてはああいった仏様を主人公にした漫画をどう思われますか?罰当たりでしょうか。 私は仏様に対して「カッコイイ!!」と思ってしまう、信仰とはちょっと違った好きという感情を持ってしまった仏教マニアです。(もちろん有難いとも思う。) 仏様を主人公にした漫画は大好きで、有名なみうらじゅんの仏教趣味にもいいなぁ、と思います。 しかし、これは仏様に対する冒涜なのではないか?という思いもあります。 だって、煩悩を断ち切ってくれる仏に煩悩が止まらないのですから。 そういった仏教趣味にお坊さん達はどう思われるのでしょう。 また、もし許してくださるなら「これだけは気をつけろ」というマナーを教えてくださると嬉しいです。 蛇足、仏様は有難ければ有難い程にカッコイイと思うのです。
命に直結する病ではないけど、日常生活に支障が出ます。 加齢も助けて、病気のせいで、食事制限もあり、全身病と言われてるけど、診れる医者がいない。 そこに、今の病気のせいで、歯科医にも嫌われ、人生初、歯医者難民、医療難民です。全体的にあちこち、ボロボロの体です。 自分がなぜ生かされてるのか?生きてる意味があるのか? 数日前に、最寄りの駅で、1日に2回も人身事故があったというニュースを その日から、電車で飛び込みしたら?という事ばかり調べたり、 家族に迷惑かけない死に方を調べたり。 辛いし、苦しいし、病気になって生きてる意味が見いだせない。 最近は、希死念慮もでるし、病気を抱えてしまって、生きる意味は何でしょう?
はじめまして。 この夏に父が永眠しました。 実家に仏壇はあるものの、自分の家でも父を供養したいと思い、写真と蝋燭、お線香、お花、おりんをおいて毎日拝んでいます。 ただ、これは自己満足であり父の供養になっているのかと考えるようになりました。自分の中で、父にもっと親孝行したかったという気持ちがあり、その気持ちを整理するためだけではないかと。 供養とは誰の為のものなのか、なぜ供養が必要なのか、正しい供養の方法はどうすることなのか、教えていただけると幸いです。 よろしくお願いいたします。
禅の教えでは日常生活にこそ悟りがあると言われています。 食べること、寝ること、掃除すること、整頓すること、買い物に行くこと、洗濯すること等です。 私には意味がわかりません。 こんな面倒なことをなぜ一々やらなければならないのでしょうか? 我慢が大嫌いなので出来るだけいい加減にパッと終わらせたいと言うのが本音です。 苦痛以外の何物でも無いと思います。 しかし、禅では私と全く逆の考えです。 どう言う意味や動機があって辛い諸事に勤しむことが出来るのでしょうか? 何故そんな我慢に我慢を重ねるようなことが出来るのでしょうか?「空」の思想との関連性も知りたいです。「空」の思想を日常生活の諸事で会得できるのか? 教えて下さい。
最近思うのは、 「仏教は科学を補完するのではなく、包合するものだ」ということ。 科学は森羅万象を解き明かしますが、森羅万象は既にそこに存在し、極めて柔軟かつ精緻に動き続けています。 例えば、未踏峰に初登頂しても、既にそこには太古より山はあり、命名する前から、山なるものは山であり続けたはずです。 人間は、人間が生命として「生き延びる」為に、「生命に必ず備わる生の渇愛」という衝動を原動力に科学を発展させ、生命力の強い種に進化しました。 ただ、進化と言えるか怪しいのは、科学は「外部的要因(環境、自然)」に手を加えて、人間に利するように、供する為の手段と言うこと。 人を支配するのは心ですが、その心を軽視したが故に、あるいは物質科学と心の科学のバランスを軽視した故に、様々な問題が起きているのではないかと思います。 本題ですが、では心の科学の仏教ですが、お釈迦様や南方仏教、明治以前の多数の僧侶は結婚していませんでした。 非常な覚悟、決意のもと、正師の導きで修行しても、「お釈迦様でも七回生まれ変わって漸く…」と言われるように、医王釈尊の入滅後、人は悟りが難しくなりました。 そうした中、結婚せず、子孫も残さずというのは、「虚無」に陥り易いのではないでしょうか。 生命として、子孫を残したいという衝動は根元的なもの。 インドにあるような、人生を何期かに分けて、「林遊期」に仏教を真剣に学ぶのが、生物としての人間に無理が無い気がします。 突き詰めれば、人類という種が滅する、結婚しない生き方が良いのか、囚われずに生きた方が良いのか、どうなのでしょうか?
私は最近、私へ対しての悪口を告げていた人が悲惨な目に遭う、そんなことをよく見ます。 というのも。 その人からは感情に身を任せた、些細な言葉だったんだと思います。 「あぁ? わからねぇの?」とか。 「おせーよ」とか。仕事してて私のニガテなところを指摘してきます。 ですが、一般論では 時が解決してくれるといいますよね。 言ったその人に、そのまま返ってきてるみたいです。 そこで、気になったのですが 他人のことを傷つけた人間には 仏教の世界でも 暫くしたらバチが当たる、という考えはあるのでしょうか?
死の恐怖が和らぐ事は出来るのでしょうか。 周りの方や、芸能人が亡くなる話、ニュースなどを見ると、考えてしまい、辛くなり、最近は毎日思ってしまいます。こちらで他の方の質問の回答を見ても前を向くことが出来ず。 何歳になってもこの気持ちは変わらないのかなと思うと自分が情けないし、怖くて。最近はずーと生き続けるのも怖いことなのかな。と思って見たり。生まれ変わって永遠に続くのも、怖いし、終わりがあるのも怖いと思ってしまい、こんな考え方を治したいのに、変わらないです。 子供ができても自分と同じような考え方になったら、どうしようと思い、子供が死ぬ事を意識しパニックになった時にどう言って伝えたらいいのかと、思うと妊活するのを、戸惑ってしまっています。主人の事はとても大好きなのに、赤ちゃんが欲しいのか欲しくないのかも、わからなくなっています。
転職をして、毎日忙しいです。今は正社員なので、前職に比べたら責任も大きいし、一人で業務をしているので相談する人もいないのでプレッシャーが大きいです。それでも二年目に入りますが、何のために仕事をして毎日生きていなければならないのかわからなくなりました。やりたいことはありません。目標もありません。励みもありません。成長しろと世間は言いますが、なぜ成長しなければならないんでしょうか。他人に搾取される他人に都合のいい人間になるためでしょうか。自分のためになるとは少しも思えません。面倒なことを片付けたところで、嬉しいとも思いません。また次の面倒ごとがやってくるだけで、もう毎日生きていくのがつらくなりました。
何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。