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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 悟り 」
検索結果: 1816件

人間はなぜ修行しなければ悟れないのか?

ご質問させて頂きますハルソラと申します。 私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。 多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。 そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。 昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。 すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。 例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、 晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。 動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか? お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。

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由来について質問です

仏教は面白い。 インドから北周りに来日した文化ですが、 その途中で、様々な宗派がありますよね。 ○○仏教とか、○○教とか。 あ、日蓮大聖人を正当と見ている学会もそうですか。 私の名前は、数ある仏教の中でも密教に由来します。 「強く、賢くあれ」という願いが込められたものです。 「弘」の字が含まれていますから。 名前負けしないような生活を送りたいと思っています。 公開しても私自身はかまわないのですが……やめておきます。 何をもって強くありたいのかがよくわかりませんが、少なくとも1分野で力をつけたい、強くなりたいと思っております。 何をもって賢くありたいかは、よく分かっています。私の外見、すごく賢く見えるそうです。なので、目標は「自分の外見に負けないくらい」です。 賢さは表情に出るので、終わりのない戦いになるでしょう。それは百も承知です。 内向的、と言えば聞こえは良いですが、心療内科で「うつ傾向」と診断されています。 だから、することがない時はひたすら何かしらについて考えております。 自分自身の弱さは勿論、自分を取り巻く社会のことも。 さて、自分の姿勢は曲げないつもりでいますし、曲げるのも難しいのですが、ふと、疑問に思ったことがあります。 ・神仏習合前の仏教において創世記とは、ガウタマ・シッダールタ王子を出家に導いた四苦でしょうか。 ・王子が悟りを開く直前に悪魔の囁きがあった、とありますが、仏教における悪魔とは何でしょうか。 不躾ではありますが、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 16
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2024/12/15

人生後半の生き方

50歳を過ぎ、何を目的に生きていけば良いのか、考え出すと精神不安定になります。子供は家を出て、今は一人で生活しています。仕事は特に大きな不満なくやれていると思うのですが、休日になると人目を気にして思うように行動できなくなります。街に外出や外食で息抜きができればいいのですが、いい歳したおっさんが一人で行動しているのを他人から見られているような気がして、引け目を感じて行動できなくなります。人の集まりに参加するのも億劫に感じます。もっと積極的になりたい、と願うのですが、休日はいつも本を読んだり、人の少ない山に出かけたりと、他人と極力会わない行動を選択してしまいます。そういう行動ばかり選択する自分にいつも嫌気が差します。なので、仏教や心理学の本を読んで気持ちを落ち着かせるやり方を学ぼうとしているのですが、なかなか定着しません。いつか仏教でいうところの悟りを得て心を安定させたい、と願う次第です。 このような感じで、この先の人生を安定して過ごしていけるのか、不安になる事が多いです。そもそも年を取ったら行動が制限されるのは一般的で、贅沢な悩みなんでしょうか。皆さんはどうされているのでしょうか。人生後半の生き方について、アドバイス頂けたら有り難いです。

有り難し有り難し 25
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2025/04/30

生まれてこやきゃよかった

hasunoha様、いつもお世話になっております。 転職しましたが、ニュースで新卒社員の給料が高いと知り、「生まれた時代を間違えた」と感じます。東京に家があり、裕福な親を持つ人が心底うらやましいです。そういう人たちは家族仲も良いのだろうと思うと、「生まれた家も間違えた」と思います。そもそも産んでくれと頼んだわけではありません。よく漫画などで、あの夫婦の子どもに生まれるんだ!と子どもが選択するとありますが、気持ち悪すぎるて…。言葉は悪いですが生き地獄のクソ実家に生まれるより、生まれない方がよかったと何度も考えます。 4月分の家賃はまだ払えず、行政の福祉も当てにならないので、死んだほうがマシかと考えることがあります。実家に戻ればいいじゃない、とかの声もありそうですが、生き地獄から逃れるために越してきたので戻れないのもあります(あと、ずっと生活していた祖母宅がいつの間にか取り壊しされていて、帰省とかもできないですね) 生きていてごめんなさい。神様仏様はまことに不公平。人間界が修行や罰と言うけれど、家庭が裕福な人には修行でもなんでもないよ。祈りとか祈祷も意味はないと思う。神様仏様は助けてくれないもの。

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仏教は虚無的思想?

最近思うのは、 「仏教は科学を補完するのではなく、包合するものだ」ということ。 科学は森羅万象を解き明かしますが、森羅万象は既にそこに存在し、極めて柔軟かつ精緻に動き続けています。 例えば、未踏峰に初登頂しても、既にそこには太古より山はあり、命名する前から、山なるものは山であり続けたはずです。 人間は、人間が生命として「生き延びる」為に、「生命に必ず備わる生の渇愛」という衝動を原動力に科学を発展させ、生命力の強い種に進化しました。 ただ、進化と言えるか怪しいのは、科学は「外部的要因(環境、自然)」に手を加えて、人間に利するように、供する為の手段と言うこと。 人を支配するのは心ですが、その心を軽視したが故に、あるいは物質科学と心の科学のバランスを軽視した故に、様々な問題が起きているのではないかと思います。 本題ですが、では心の科学の仏教ですが、お釈迦様や南方仏教、明治以前の多数の僧侶は結婚していませんでした。 非常な覚悟、決意のもと、正師の導きで修行しても、「お釈迦様でも七回生まれ変わって漸く…」と言われるように、医王釈尊の入滅後、人は悟りが難しくなりました。 そうした中、結婚せず、子孫も残さずというのは、「虚無」に陥り易いのではないでしょうか。 生命として、子孫を残したいという衝動は根元的なもの。 インドにあるような、人生を何期かに分けて、「林遊期」に仏教を真剣に学ぶのが、生物としての人間に無理が無い気がします。 突き詰めれば、人類という種が滅する、結婚しない生き方が良いのか、囚われずに生きた方が良いのか、どうなのでしょうか?

有り難し有り難し 11
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葬式のお経

何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。

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釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます

人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか?  私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。  例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。

有り難し有り難し 46
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夫が自死しました

夫が自死して2か月が経ちました。過労により精神を病んでいたのだと理解しています。 夫の死後、仏教を学び、これまでの苦しさは煩悩であり、夫は自らの煩悩に飲み込まれるように亡くなったのだと思うようになりました。生きることは苦しいことだらけ。執着を無くすことが悟りへの道。 「生きたい」という欲望は、「生かされている」と感謝する気持ちで付き合うことが大切なのかなと思うようになりました。 苦しんでも良い、この身を引き裂かれる苦しみすらもいつか何かを悟る学びになると思っています。ですが、お腹を痛めて産んだ息子、血を分けた兄弟を失った悲しみを抱えた義実家の方々の苦しみの前ではそんな事を申し上げることもできません。冷静な自分が、自分だけ苦しみから逃げているような非情な感覚がします。 なぜ1歳の娘を、大切にしていたお父さん、お母さん、お姉さんをおいていってしまったのかという怒りが昇華できない自分もいます。これはどうしようもない感情なのだと半ば諦めかけてもいますが・・・できれば故人のことは温かい気持ちだけで思い出してあげたいものです。 人を幸せにしたい、自分も幸せでいたい。それ自体も煩悩でしょうか。よりよい未来を望むことに罪悪感を感じます。どのような心がけで生きていけば良いのでしょうか。「悟る」ことと「諦める」ことの境界に悩んでいます。ご教授頂けたら幸いです。

有り難し有り難し 38
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