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検索結果: 3473件

変化との向き合い方を友人の整形の話から回答してもらいたい。

たくさんの方のお悩みと回答を読ませていただいております。気づかされることや、心が穏やかになることが沢山あって、救われています。ありがとうございます。 何度も申し訳ないのですが、また、質問させて下さい。 私のいろいろな悩みの原因は、「変化」に対する嫌悪感だと最近気がつきました。変わることが嫌で怖くてしかたがないです。 今回はこの嫌悪感をなくす方法を教えていただきたいです。 友人が先日、美容整形で目を二重にしました。私はそれも嫌だと思ってしまいました。 彼女は一重でしたが、涙袋のある魅力的な瞳だと私は思っていました。笑うとまつげがふんわり降りてきて可愛らしいのです。つまるところ、私は友人が整形するような外見ではないと勝手に決めつけていたんです。 そもそも、他人の美容整形のことですから、己がうだうだと考える必要もないことは頭ではわかっているつもりです。整形で本人の心に平穏が訪れるのなら、いいことだとも考えます。二重になった彼女は確かに顔立ちははっきりし、以前とは違う魅力も感じられます。 けれども、彼女が整形をしたのだと思うと、感情がいいところになおらない、居心地の悪さを感じます。 たぶん、自分の中の整形のイメージが良くないからでしょう。己の顔を卑下し徹底的に否定して、意図的に無理やり顔を変える、というイメージが整形にはあります。この勝手なイメージが友人を、己の美しさを理解できなくなってしまった悲しい人、みたいに私に見せている気がします。 本当は、素直に違う美しさを持った彼女を受け入れたいです。私も日々変わっているはずだからです。この、変わるということに抵抗を持ちながら生きることは、辛くて心に良くない気がします。私だって、誰にだって美しさはあって今の自分も好きだけど、体重を落としたいとか、髪の毛をさらさらで柔らかくしたいとか、もっと寛容と余裕を持ちたいとか、考えます。そんな願望と整形は、重なる部分が多いはずです。つまり、整形やもっと大きい「変化」を受け入れられないままでは、年を重ねた自分を愛せなくなりそうな気がするんです。それは、とてもつらいです。 否定するものが多いほど苦しいことが増える気がします。無くしていきたいです。私はどうすれば、変化が訪れても嫌だと思わずにいられますか? よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 10
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定年再就職の後悔

会社を定年退職し、そこを顧客とする会社に再就職しました。 退職に当たり再雇用で働くか、給料が良い再就職にするか半年毎日悩み続けまし た。再雇用は福利厚生がよく立場もOBとして居られて、もちろん知った仲間ばかりで ストレスなく問題無いのですが、自分の果たしてきた職務に比べると仕事内容が簡単 で物足りなく思い、職務を継続することでの再雇用が希望でした。 一方給与の良い再就職は誰でも行けるわけではなく、そういう意味で勝ち組で評価 が高いな、老後の金もかかるし、と毎日葛藤して苦しく、しかし必ず再雇用の方に気 持ちはありました。 ですが再就職先の熱心(しつこい)な誘いもあり、一度は簡単な職務での再雇用で 決まっていたところを、回答期限が迫ったある夜に「このまま再雇用されても、あの 職場では体と心を壊してしまう」と一晩眠れず、次の朝再雇用を断って再就職に自分 で決断しました。(今思うと葛藤が再燃しただけで時間をおけば静まったと思います が。冷静さを失っていました。それだけ葛藤したので) 悩みは客先となった元の会社の構内事務所で働き、私が断った職で働く人を見た り、客先となった元の後輩から苦情や要求されたことに、下に立って対応する毎に、 「あの時そのまま再雇用されていれば、こんな苦労はする必要はなかったし、笑って 気楽に働いていられたのに。しなくてよい苦労を背負いこんでなんて馬鹿なことを。 コロナのことで先行きも心配だ」と毎日毎日悩んで自分を責めています。 働きだしてすぐなのに、あの決断が自殺行為で大間違いだったと毎日暗く辛いで す。金に目がくらんだこともあると思います。まず働く環境が第一で給与は二の次だ とも後悔しています。 わたしはどうしたらいいでしょう。やめるわけにはいきません。でも苦しいです。 心の指針を教えてください。

有り難し有り難し 6
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誰からも愛されず生きる覚悟が出来ない

交際期間も含め、長年連れ添った夫に裏切られ、以降自分の事も他人の事も信じられません。 うつ病を患っており(療養中です)、年齢の事もあり、子供も望めません。 自分を愛するということができません。何度も頑張ったのですが、それでも「お前は駄目なやつ」「あの人(夫)さえも繋ぎ止められなかった」と頭の中で声が聞こえます。 誰かを好きになっても、その気持ちは相手に伝える前に枯れてしまいます。自分に自信がなく、自分の好意を伝える事が相手に迷惑になると思うから、自信が無さすぎて好きという気持ちも諦めてしまうからです。 本当は、人を好きになりたい、愛し愛されたい、自分を受け入れて欲しい。 愛する人の子供を持ち、家庭を築きたい。 でもそれは、私には過ぎた願いです。 私は人に愛されるような人間ではないのだから、夫すら愛想を尽かすような人間なのだから、病気なのだから。 一生涯家庭を持たず、一人で生きていかないといけないのだから。 そう、ずっと思って、ずっと覚悟をしないといけないと考えています。 でも、出来ないんです。覚悟をしようとすると悲しくて泣いてしまうんです。 恋愛、結婚、家庭を持つ以外に楽しいことがあることも知っています。 友人や趣味、仕事…全部楽しいです。 うつ病の療養で出来ないのが悲しいくらい楽しいのです。 でも、いつも心に大きな穴が空いています。 誰かに「愛してる」「可愛い」「子供が欲しい」と言われたい、そんな醜い感情、煩悩が腐って出来たような最低の穴。 それが私を苦しめます。 煩悩を棄てるプロのお坊さんは、こういう苦しいときはどうするのでしょうか。 また、この苦しみを棄てる為にはどうしたら良いでしょうか。 長々と申し訳ありませんでした。 御教示いただければ幸いです。

有り難し有り難し 36
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比喩表現なのか...謎

お世話になっています。僕はこれまで、「お念仏は1日10回程度でいいだろう」と思っていました。何なら、1回でもいいと思っていました。ところが、あるお坊さんから聞いたのですが、「お念仏というのは、瞑想みたいなものだ」と言っていました。ただ手段が違うだけだと。瞑想では、呼吸や身体の感覚に集中することで、「今」に心を置きます。お念仏も瞑想と同じで、お念仏を唱えている時だけ「今」を生きることができると言っていました。自力の計らいというのも、瞑想でいうところの雑念なのでしょう。また、阿弥陀様や如来というのは、この世の大いなる働き(空、因果律)のことだと言っていました。浄土真宗はとにかく比喩表現が多いんだと。これらのことは本当なのでしょうか?もし、本当だとしたら煩悩を自覚する意味が分かりません。また、煩悩即菩提の概念もよく分からなくなってしまいます。僕は今まで本当に浄土(死後の世界)があり、阿弥陀様も実在する「人」だと思っていました。 しかし、内心では疑いを持っていました。南無阿弥陀仏と唱えれば浄土に往生でき、それが出来なければ地獄行きというのは疑問に思っていましたし、大宇宙の法則がなぜ「この人は浄土、この人は地獄」と判断するのかもおかしいと思っていました。もし、このお坊さんのいう通りなら、色々と納得できる部分がありますが、実際のところはどうなのか気になります。回答お願いします。

有り難し有り難し 13
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お金を使うことへの罪悪感

フルタイム、正社員で働く20代女性です。 お金を使うことに対してすごく罪悪感があります。 というのも、社会人1〜2年目はパワハラのような状態に遭い、毎日吐きそうになりながら出勤していました。ストレスが体調に出やすい体質で、心療内科で薬を貰っています。 今は多少のストレスはありながらも 当時に比べたらかなり快適に働かせて頂いています。 そんな経験があるため、「いつ働けなくなるかわからない」という恐怖があります。 また、実家が自営業で決まったお給料が出るわけではなかったためか、親や親戚から口うるさく貯金しなさい、貯金は大切、と言われていたため、貯金への恐怖観念のようなものがあると思います。 ですが物欲は多分普通〜多めな方で、 性格的にはお金はあれば使ってしまうタイプだと思います(汗) また去年手術をして、人はいつどうなるかわからないし、行きたいときに行きたいところに行くべきだと思うようにもなりました。 いまは初めての海外旅行を計画しているのですが、ある程度大きい金額の支払になるため、罪悪感がすごいです。その他にも遠方にいる友達にちょこちょこ会いに行ったりするための旅費が定期的にかかっています。 このために働いてお金を貯めていたはずなのに、使ってしまうことへの罪悪感があります。 自分の楽しいこと、欲しいもののために お金を使うとき、本当にこれで良いのだろうかと思ってしまい、心置きなく使えないのです。 お金がかわいそうと思います… どう考えを変えたら良いのでしょうか。

有り難し有り難し 5
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愛着の捨て方

私には付き合ってもうすぐ三年になる恋人がおります。以前も彼女との関係についてここで質問をさせていただき、その際はとても救われた事を思い出していままた質問させていただいております。 今回の質問は、愛着の捨て方についてです。仏教の世界では愛着というのも未熟さからくる煩悩で捨てるべきものとされていると読みました。 私はいまの恋人がいればいい、彼女を幸せにする為にどんな努力もなんでもしようと思いこれまで頑張ってきたつもりです。しかし相手の都合で会うこともままならず、ただただ待っていてくれと繰り返し言われるのみでこれまでの時間を過ごしてしまいました。 気づけば自分の不安や不満、寂しさを相手にぶつけて幾度となく喧嘩を繰り返してきました。 他の人には向けることのない失望や不満の感情を恋人にだけ抱くというのはそれだけ特別な存在だからだと思っておりましたがその所為で相手を傷つけるのであれば私が幼い為がゆえだと感じております。 しかし生涯で唯一と思った生きる理由ともいうべき相手への愛着や感情を捨てる事がどうしてもできません。相手の為にも私自身の為にもどのように考え、行動すればいいのでしょうか?

有り難し有り難し 13
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実家の継承と信教・婚姻の自由

私は福岡県の日蓮宗の寺の次女で、今は実家から企業に勤務に行っています。実家の寺は長女の姉が婿養子を貰う予定でしたが、うちの正干与の寺の住職が持ってきた見合いの話を受け、東京の寺に嫁がせることになりました。 よって私に実家の寺の継承の話が回ってきたわけですが、私は継ぐ気もなく、会社員の方と恋愛しているので、僧侶と結婚する気もなく、そろそろ実家を出ていくつもりです。しかし父は3年間したら戻ってこいと言います。そこで思ったのですが、日本国憲法では職業の自由も婚姻の自由も保障されているのに、人々の幸福のために働いている僧侶たるもの(父)が、そのように実娘の意にそぐわない婚姻をさせようとするのは、僧侶としていかがなものだと思われますか?姉も結婚などしたくなく泣いておりました。前時代的にもほどがあるし、うちの寺も檀家が減っており今後経済の保証があるかどうかもわかりません。寺の継承のための親のエゴでしかないように私は思います。実際姉の嫁入りの話も私には秘密裏に行われており話し合いもなにもなく決まりました。反発をすると感謝の意が足りないと言ってきますが、それと継承の話は話が別だと思います。 また、父母は私に「信仰しろ、拝みなさい」と言ってきますが、信仰とはそのように強制されるものではないと思っております。また生まれた家がたまたま寺であったというだけでその寺の宗派の信仰をしなければなりません。これは寺に産まれた場合、信教の自由はないのでしょうか?"改宗は良くない、バチが当たる、絶対に良いことがない"、などとよく言われてきましたが、改宗は本当に良くないことでしょうか。 現在の日本では宗教より法律が上です。私の人権、私の法の下の平等は宗教により制限されている気がします。 他のお正人方のご意見をお伺いすることができればと思います。

有り難し有り難し 19
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