hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「お経について」
検索結果: 2994件

実母との生活について

元旦那の行動、病気に堪えられなくなり 子ども3人連れて離婚しました。 すぐに住む所が必要でしたし子どもが小さいので 知り合いの少ない地域よりも 家族がいる実家が良いだろうと 帰っても良いか母に聞き 了承を得たので帰りました。 帰ってもいいと言われ帰ったのに 子ども達が煩い 邪魔 病原菌 と実母から言われたり 手をあげたりされ 夕方の仕事も了承を得てしていたのに 早く辞めたらいい。と言われ 仕事中子ども達を預ける形でしたが 上記の母から子どもに対する行動に 心配になり辞めました。 収入の為には子ども達を園に預け働きに出なければなりません。 が、子ども達が病原菌と酷くまた言うのではと思うと 不安です。 家を出れば母からの言葉や行動に傷つかずにすむと思うのですが 住居、仕事、託児所、お金をどうにかしないといけない。 資金が集まるまで我慢すれば良いのですが 子ども達の事を思うと 早く行動にしてストレスから解放してあげたいと思うんです。 行政に相談すれば変わるかもしれません。 が、母にはあまりいい結果をうまないんじゃないかと 躊躇います。 どうすれば母にも子ども達にも ストレスなく生活出来るのでしょうか?

有り難し有り難し 9
回答数回答 2

LINE退会

うちのクラスで私とLINEをやっている人がいます。 その人は、私に意見を押し付けてくるのです。例えば、政治の話とか… まだ、高校生活をエンジョイしたいのに、あんまりそういう話は聞きたくないというか… だけど、なかなかいい友達なので少し聞いていました。 とある日、LINEを見てみるとその人からグループ招待がありました。 それは、別の学校の人で知っている人もいました。 この人たちは、その友達と同じ小学校らしく仲がいいです。 まあ、楽しそうだしいいかな。と思いまして、グループに入りました。 グループでは、友達の一方的な意見が秒単位でくるぐらいたくさんきました。 それで、うるさくなったのでちょっと前から思っていた 「今、高校生でしょ。みんな、そういうことじゃなくて高校生活楽しんでいるでしょ! なんで、こうやって大人ぶるの? 勉強できる感アピールしているわけ?まじでw というよりさあお前クラスで浮いてるんだよ。」 ときつく言ってしまいました。それでもその人の話のスピードは変わらず あきれた一人がその人を退会させました。 そのあとで、友達から個人のLINEが来て何通も招待しろ!招待しろ!と言われ めんどくさくなったので通知をオフにして眠りました。 次の朝です。その友達を退会させた人がその友達を招待してグループに入っていました。 (たぶん、やれって怖かったと思う) そして、私だけこのグループから出されました。 そして個人のLINEやTwitterでお前なんかこの世界から消えろ お前と同じケータイ(種類)触ってて気持ち悪いと言われ、これはひどすぎると思い LINEやTwitterに報告しました。しかし、プライバシーの権限とかなんとかかんとかでその人は調子乗っています。 今日の夜LINEを開くと、学校のグループでその人が私だけ退会させていました。 ひどすぎると思います。そして、さっきから嫌になりGoogleなどで調べていますけどやっぱりやっていいこととダメなことくらいあると思いました。 学校の先生に話したくはないし、親にも話したくないです。(めんどくさいです) その人は、私が勉強を教えてあげてこの学校に入れたり、私がクラスでこの人面白いよ!って積極的に前に出していきました。。。。それで、調子を乗ってからの下剋上です。 どうすればいいでしょうか。 夜に、長文失礼しました

有り難し有り難し 79
回答数回答 4

仏教に生きる

先日、どなたかの質問に対するお坊さん方の答えが目の覚めるようなものでした。 実はつい最近まで原始仏教こそ仏教なのだと信じて瞑想に励んでいたのです。幸い海外の夏休みは二ヶ月以上あるので、俗世間から離れて実に充実した心の平安を保つことは容易でした。 ところがそんな調子で実生活が始まり、いつものように社会と関わって生活するようになり、欲がないのでなすこと全てが無意味に思えてきたのです。確かに、感情や欲に左右される問題は解決出来たのかもしれません。しかし、私という人間が仕事を持ってお金を稼ぎ、親として子供の健康や幸せを考えたときに、その立場を無視して一人原始仏教徒として忠実に生きてゆくことは不可能だと感じました。 そこで日本の仏教のお坊さん方の言葉を聞き、とても救われました。 生きるからには精一杯生きたい。 無責任に心の伴わない行動はしたくない。 完全とはいかないけど、仏教徒として出来るだけの努力はしつつ、人間人生を全うしたい。 人間くさく、泥臭く生きても救われる道がある、それが日本の仏教なのだ、そう理解しました。 このような理解で良いのですか? 何せ、不器用でくそ真面目な性分で、熱血にお釈迦様の教えに従おうと思うが故に行き過ぎて壁に打ち当たる、の繰り返しです。

有り難し有り難し 93
回答数回答 2

私のことを本当に尊重してくれているなら、こうしてくれるはず

 「本当に私のことを思ってくれているのなら、○○してくれるはず」 という思い(以下、「相手への期待」と呼びます)が消えません。そう思ったら最後、「○○してくれないということは、私のことを嫌っているんだ、なんとも思ってないんだ」という思い(以下、「思い込み」と呼びます)が生じ、相手へ疑いの目や憎しみを向けてしまいます。  こうした「相手への期待」や「思い込み」が無くならない限り、人に疑いや憎悪をむけ続けることになると思います。親切心で接してくれた人に、悪意を向けることをやめたいです。 「思い込み」をなくすために、「思い込み」の発端となる「相手への期待」をやめるべく、以下のような努力をしています。  まず、相手へ期待することをやめるために、多くの人と関わり、色んな人の考え方を聞き、十人十色の価値観を受け入れようとしています。その結果、私と全く違う考え方や価値観をもっている人がたくさんいる、だから、相手が自分の思い通りになることはめったにない、ということは分かりました。しかし、それでも、人と会話をしているときに、「私のことを配慮していたら、そんなことはふつう言わないよな。」といったような気持ちが生まれ、最悪、相手と会うのをやめたくなる時があります。   また、相手へ期待することをやめるために、自分磨きも注力しています。自分に自信がつけば、自分に期待して、相手へ期待しなくなるだろうと考えたからです。そこで、内面磨き(勉強、趣味、家事等を頑張る)から、容姿の外見磨きまで、出来る限りやっているつもりです。そのかいあって、以前よりもできることが多くなって、自分は少し頼もしくなったかなと思えてきました。それでも、相手への期待をやめることができません。 長くなりましたが、お尋ねしたいことは以下の点です。  「私のことを大切に思ってくれるのならば、○○するはず」と相手へ期待しなくなるためには、上述のような努力は無駄なのでしょうか。もし無駄であるならば、何を行うべきなのでしょうか? 相手へ期待することは無駄なことだと、どうすれば心から納得できますでしょうか。

有り難し有り難し 30
回答数回答 2

葬儀の後の弔問などについて

愛する彼女が先月亡くなりました。 家族葬でしたが、ご家族には良くしてもらい葬儀に参列させていただき、また火葬も参列させていただきました。 しかし葬儀後から今日まで52日経ちますが、その後お線香をあげに行けていません。 (ショックが大きくて仕事以外で外出できなかったため…が大きな理由ですが、お線香をあげにいく頻度だけが供養となるのか疑問だからです。) こんな情けなくて薄情者な自分に嫌気が差します。 こんなに日にちが空いてしまって、ご家族も今更なんだろうと思いますでしょうか… 私はどうればよいでしょうか。 今からでもお線香あげに行っても良いものでしょうか。それとも秋の彼岸のような節目に行くべきですか? 調べれば調べるほどマナーや〇〇するべきのような情報が出てきて、混乱してわけ分からなくなっています。 彼女とは交際期間は3ヶ月と短かったため、私の家にはあまり彼女の物もなく、家にたまたま忘れて行ったタオルに向かって毎日拝む日々です。 お線香はあげていませんが、彼女のことを失ってとても辛いですし、供養したいという気持ちはあります。 しかし月命日ごとにお邪魔したり、やたらとお伺いするのは逆にご家族に迷惑になるような気がしています。ご家族からは葬儀後、今回のことを引きずらずに自分の人生を歩んでいってくださいと連絡いただきました。 文がまとまっていなくて申し訳ありません。 あくまで一般論として、 恋人と死別した場合、葬儀後の弔問の頻度はどの程度が良いか?をお聞きしたいです。ちなみにお墓に納骨はしておらず、ご実家の仏壇への訪問となります。 また、故人に対してちゃんとお線香をあげたりしなければ、故人へ私の供養の気持ちは届かないでしょうか。決してしたくない訳ではないのですが、どうも頻度と想いが比例するとは思えないのです…やはり私は薄情な人間なのでしょうか。

有り難し有り難し 9
回答数回答 2

嫉妬の感情との向き合い方を教えてください

こんにちは、紅茶ラテと申します。 私には共通の趣味を持つ仲のいい友人が2人います。 学生時代は家が近かったこともあり、よく3人で遊んでいました。 社会人になり、私が地方住まいになり、中々会うことも難しくなりましたが、私たちの趣味がネット通話を介してできるものであるため、しょっちゅう通話をしています。 悩みというのが、この2人の仲にどうしても嫉妬心や羨ましい想いを抱いてしまうことです。 私がそれぞれと一対一で遊ぶとき、話しているときよりもその二人で遊んでいるときの方が楽しそうに思えてしまいます。 予定を入れるときも、その二人の予定が最優先で、私が誘っても優先度は低いんだろうな、と感じられてしまいます。 実際価値観や性格を鑑みても、きっと2人の方が相性がいいのだと思います。 友人関係なんて環境や思考、年齢や人付き合いの変化によって変わっていくものですし、仕方のないことだと思います。 別に嫌われているわけでもないし、私には私のそれぞれとの付き合い方があって、それは同じように相手方にも羨ましいと思われるものなのかもしれません。 しかし、そうやって言い聞かせて考えてみても、どうしてももやもやしてしまう気持ちが抑えられなくて、情緒不安定になってしまいます。 最近がひどくて、年中二人の動向を気にしてしまい、きっと2人で遊んでると察しが付くと感情の乱れが著しく、そんな自分に嫌気がさします。 元々人の顔色を伺う性質で、言動一つ取っては「嫌われてしまったのでは」と不安になります。 ネットで意見を見ても、「一度離れてみるのがいい」というのが大多数で、離れたら離れたで、二人の仲が際立つだけのような気がして…そもそも離れるのも怖いです。 ずっとこんなことばかり考えて、不安になって、今まで楽しかったこともやる気があまりなくなってきてしまって仕事の日も休日の日も、感情に振り回されてばかりです。 もういい年になるのに、まるきり子供の我儘にふりまわされているのも嫌で、どうにかしてこの感情と、友人とうまく付き合っていきたいです。 分かりにくい文章で申し訳ありません。 もし何かアドバイス等あればお伺いしたいです。

有り難し有り難し 26
回答数回答 2

真面目な人は損をするように出来ているのですか?

初めて投稿させて頂きます。 常日頃、疑問に思っていることがあります。 毎日遅刻をしたり、仕事をしていなかったり、1年の半分以上会社に 居ないような人がお給料も高いし、誰からも何も言われません。 会社の体制が良くないのはわかっています。 社長が女の人には何も言えないからです。 それをふまえても、真面目に働いている人に特別何か良い事が あるわけでもなく、結局はきちんとしている人が損をしているのだなと、 毎日思っていて少し気持ちがきつくなります。 私はどちらかというと人に頼られてしまう傾向にあります。 学生の時から今までずっとです。人から頼まれた事は断れません。 会社の社長から絶対の信頼を得ているのも感じていて「出来ません」と 言ったことはありません。どんな仕事でも確実にこなします。 人の考えている事がわかってしまい過ぎて、何か言われる前にやってしまいます。今になって何だかモヤモヤするのです。これからもずっと このように生きていかなければならないのでしょうか?このように生かされて いるのでしょうか? とても苦しくなります。 どのように考えていけばいいのか教えて下さい。宜しくお願いします。

有り難し有り難し 1064
回答数回答 2

白骨の御文章に思う

広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが  この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。

有り難し有り難し 37
回答数回答 2

自分が生まれた意味、生きてる意味がわからない

40代後半の男性です。 誠にお恥ずかしい話ですが、自分が生まれた意味や生きている意味がわかりません。 先日25年連れ添った妻を、不治の病で亡くしました。 現在大学四回生の長男と、浪人生の二男がいます。 私自身の甘い考えと行動で、幾度となく妻には心配と我慢、迷惑をかけてばかりの 25年でした。 そもそも、私自身子供が好きではありませんが、二人の子供をもうけました。 そんな彼らが、所謂曲がることなく、素直に真っすぐ育ったのは、妻の力だと思います。 何よりも私や子供の事を優先していた、と亡くなった後に元の職場の同僚から聞きました。 物欲もありませんでしたので、形見分けの際は、本当に物がなく、困ったほどです。 そんな妻の事を、顧みることなく、私は自分本位に生きてきました。また、今も生きています。 そのくせ亡くなる最期の2週間は、自分の我儘で家での看取りをしたいと、医師に申し出ました。 そうして、自宅に帰った妻は、息を引き取りました。 まさか、こんなに早く逝ってしまうとは思ってもいませんでした。 今となっては、後悔と反省ばかりです。 今、私には支えとなってくれている女性がいます。 この先、どうなるかはわかりませんが、こういった状況をも自分自身、卑怯な行為だと 思ってしまいます。 いろいろな事を考えると、自分自身の生まれてきた意味や、生きている意味がわからなくなり 毎日「死ねるものなら早く死にたい」「消えてなくなりたい」と思っています。 こんな私は、やはり生きている資格はないのでしょうか?

有り難し有り難し 172
回答数回答 3