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hasunoha 問答検索結果 : 「 依存 」
検索結果: 2741件

死後の世界観

 初めまして。  私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。  私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。  ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。  仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。  私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。  先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。  もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。  人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。  こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。

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2023/05/09

学校に行くのが辛い

大学1年生で一人暮らしです。大学に行きたくないです。 大学に入学して一か月ほど経ちましたが大学に行きたくないです。理由は2つです。一つは友人関係です。連絡(LINEとか)はあまりしないのですが大学の友人は平日は絶対連絡がきて困っています。しつこいと感じてます。マナー面でも困っています。先日銀行と郵便局に用事があり行きました。友人は映画を見に行くと言っていたのですぐ行くと思っていたら銀行と郵便局についてきました。この件があって関わりたくなくなりました。 二つ目は授業内容です。一つだけどうしても受けたくなく最初の授業以降受けていないです。私がやりたいことに対して完全に分野外なのでどうしても授業は受けたくないです。 社会に出たら苦手な人と関わらなくてはいけなかったり仕事で自分の分野外ももしかしたらやらなくてはいけないかもしれないのはわかっています。 先日中学時代の親友と電話をして友人の話と授業の話をしました。友人は理解してくれました。 明日から大学には行かないつもりです。楽しい授業もありますが苦手な友人とほとんど一緒です。一緒にいなければいいとか言われますが絶対連絡が来ます。 大学を休学するかやめるかで悩んでいます。休学して旅行しながらやめるか決めようと考えています。 親に相談しようと思っていますが何を言われるかわからないので言えないです。今までも習い事など辞めたいと言ってきたので余計に言いづらいです。

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正しすぎる父

こんにちは。 いつも有難いご回答拝見しております。 今私も悩みを抱えているのでご相談させていただければと思います。 実家の父についてです。 私は数年前結婚を機に実家から少し離れたところに越してきました。 そして最近妊娠したことがわかりました。まだ一般的には報告するタイミングではないかも知れませんが、持病もあり流産(入院し手術しなければならない)のリスクも少なくなかったため両親へも報告しました。 「流産になったら迷惑をかけるかもしれないので…」と伝えると、父は「流産から守ってやるのが親の役目だ」と言いました。 その時は「わかりました」とだけ伝えて会話を終えました。 その後つわりも酷くなり、食べられるものが限られてくるようになりました。母に「なかなかバランスのよいような食事が食べられない」と伝えると、母は「つわりだから仕方ない」と言いました。 その後そんなやりとりがあったことを父にも伝えたようで、父から直接連絡がありました。 「胎児によくない、塩分を控えて質の良いタンパク質を摂るように」と言われました。 父は医療関係の仕事をしているので、正しいことを言っているのは100も承知です。 そうでなくても昔から正しい人でした。 私や兄弟の正しくない部分を見ると手をあげることも少なからずありました。 ただいつも正しすぎて辛くなります。 正しくなれない自分は出来損ないだと言われているようで苦しくて仕方ありません。 昔はそう思った時に本人に直接ぶつける事もありましたが、まったく理解してもらえず家族も私も父に理解してもらうことは諦めています。 今はなるだけ関わらないようにしていますが、そうもいかないタイミングもありその度辛いです。 暴言を吐かれる訳でもなく、幼い頃のように手をあげられる訳でもありません。 でも父と接することが苦しくて、そんなことを考えていることがとても親不孝しているみたいで苦しいです。 父もひとりの人間だから当たり前だと理解すべきでしょうか? 私が父に理想を押し付けすぎていますか? どう思って父と接すればいいかわかりません。 率直なご意見を頂けますと幸いです。

有り難し有り難し 26
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なぜ私は生まれたのでしょうか

20代の女です。 なぜ私は生まれてきたのか、生きている意味があるのか、存在する価値があるのか、と悩んでいます。 私が生まれた家庭環境は決して良いと言えず、母親はギャンブルに狂い、家のお金を使い借金を作り、最終的には人のお金に手を付け私が18歳の時に刑務所に入りました。 私は父親に引き取られ暮らしましたが、20歳の頃に私に借金を作らせて蒸発。 運が良いことに親戚が助けてくれて借金の肩代わりをしてくれて一人暮らしをする手助けまでしてもらいましたが、最終的に残ったのは学歴も資格もお金もない私だけ。 最近では病気が見つかり、病気が原因で仕事を解雇されました。 何もない空っぽの私が人に助けてもらうまで生き続ける意味があるのでしょうか。 家族がいた頃は縛られながら、親の言うことを聞きながら生きてきたので、1人で生きていく術を覚えられずに生きてしまいました。 今は親戚が後見人のような形でたまに様子を見てくれたりしますが、ありがたくも正直うざったく感じてしまう自分がいるのです。 学がなくとも人はやっていける、自分の周りにいる人の一例を挙げて私に話してくれるのですが、聞かされるたびに私の無力さを押し付けられるようでとても心苦しいのです。 そのような人たちはちゃんとした両親に育てられ、私とはスタートが違うのですから。 それでも私は両親とは違う、と親戚の前では虚勢をはり、親戚の前では良い子を演じてしまいます。 仕事を解雇されたのも、病気が見つかったのもまだ親戚に言えていません。 仕事に就く際も何度も揉めて、やっと納得してもらって就いた職なのにあっさり解雇されたのを非難されそうで辛いんです。 仕事も探して受けていますが受けては落ち、仕事もなかなか無く、このまま再就職できなかったらどうしようと不安で仕方ありません。 こんな状況でも遊び呆けようとする自分にも嫌気がさします。 でも毎日が寂しくて、友達に会いたくてしょうがないんです。 生まれてきた頃からずっと不幸で、生き方もどうしようもない生き方で、こんな私は何故生まれたのか、何故生きているのかと思うのです。 まとまりがない文章で申し訳御座いません。 お答えしにくいかもしれませんがお願いします。

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価値がないから苦労するのでしょうか

私の職場ではやはり年上が多いからか、息子の大学の学費の話とか、固定資産税や自動車税の話ばかりで皆さん豊かな暮らしをされているようです。 でもうちはとてもじゃないけど将来的に車を買ったり家を買ったりする余裕はありません。 旦那は大学中退なのでボーナスも退職金もないし給料は低いです。それでも普通に生きていれば大きな家を買えて、車が買えて、老後は安泰だと思っています。 なので、たまに会社から残業付与が付いても家にお金を入れずギャンブルばかり行っています。 その分私は毎日山坂で自転車を漕いで少しでも安いお米10kgを遠くまで買いに行ったりして、浮かせています。 仕事もフルタイムで行っているので、毎日疲労困憊です(健康にはいいかもしれませんが) この生活を脱出するためには、学歴をつけるしかないと考えています。 私の両親は私に無関心で、私は高校にも行かせてもらえない中独学で勉強し4年制大学を出ていて、また独学で勉強しいずれ有名大学に入学し直したいと考えています。 しかし、仕事で生活を支えているので勉強する時間も学費もありません。 そう考えると、やはり生まれた環境が全てで、愛のない家庭に生まれた私には、もう人生逆転のチャンスなんてないのでしょうか。 全く自由のなく虐げられた生活から脱出し、夫婦二人で自立し(もしくは自分一人でも自立した生活ができ)最低限の生活ができている、それで御の字と思うべきでしょうか それとも私に生まれ付き価値がなく、努力を積んで生きていても、価値がないから生きていても無駄なのでしょうか なんだか自分の人生がどうでも良くなってしまいました。私は生きる価値のない人間なので、このまま生きるのを放棄するべきでしょうか。

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努力をしても報われず、友人に嫉妬する

日々努力すること、そして結果に結び付かないことに疲労と焦り、嫉妬心を抱くようになりました。 最近Twitterから、趣味で小説を投稿しています。できる限り毎日書いて、投稿するよう努力をしています。 投稿するのだから、やはり誰かに認めてもらいたい、誰かに見て欲しいという気持ちがあり……。 けれど結果に結び付かず、自分がまるで空気のような存在に思える時があります。 最近、友人に嫉妬心を抱くようになりました。 相手は小説ではなく絵ですが、誰かに認めてもらえ、そして無邪気にそれを私に話す姿を見ていると、「私の小説なんて、書いても意味がないのでは」と思うようになりました。 それは今も続いており、日に日に強くなり、友人に対して強い嫌悪感を抱くようになりました。 「頑張って書いたところで、毎日書いたところで、誰も見てくれないのでは?」という不安な気持ちでいっぱいになります。 もうこんな嫉妬心に振り回される毎日が嫌で嫌で仕方がありません。 ですが、誰かに認めてもらいたいという気持ちを捨て去ることも出来ません。 全部が苦しいです。 どうしたら良いか分からず、毎日泣いています……。

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お坊さん、好きなことができなくなったことってありますか?

はじめまして。花坂 埖(はなさか ごみ)と申します。 どうぞよろしくお願いいたします。 わたしは現在、とあるWEBメディアでライターとして活動しています。hasunohaの存在も、そのメディアの編集者から聞き、はじめて知りました。 そんなわたしが今回お悩み相談したいことは、 「大好きだった言葉とうまく向き合えなくなった」です。 わたしは幼少期、全く友達がいませんでした。 そんな中で友達の代わりになってくれたのが、本の存在でした。本を読んでいると、自分が寂しいことを忘れ、自由になれた気がしました。 いつしか本だけでは飽き足らず、インターネットの誰かが書いたブログ、週刊誌の記事……とさまざまな言葉を読むことが好きになりました。 またわたし自身も手紙を書いたり、作文を書いたり、言葉を書くことがかけがえのないことになりました。一番好きなことではなかったけれど、一番得意なことだったからです。 わたしにとって言葉を読んだり書いたりすることは、世界とうまくつながることでした。 だけどある日、突然言葉を読むことができなくなりました。急に自分は最低な人間で、言葉を読んだり書いたりする価値がない人間のように思えたからです。 あんなに楽しいほどにするすると言葉を読んだり書いたりできていたのに、それがとても苦痛な行為になりました。言葉を読んだり書いたりすることができないわたしには、存在価値などないと思いました。一時期は、言葉を通して世界とつながるのは諦めようと思いました。 だけど、わたしはやっぱり言葉が好きです。今でも言葉を読んだり書いたりすることにしがみついています。たぶんそれしか打開する方法がないからです。 それでもやっぱり、言葉を読んだり書いたりすることがとても苦しく、辛く、そして言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分がとても、悲しいです。 お坊さんは、好きなことができなくなったことはありますか?そして、言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分はこれからもできないままなのでしょうか?そして、大好き なことができなくなったWebメディアの読者の方へもメッセージをいただけると幸いです。 長々と失礼いたしました。どうぞ、ご回答いただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。 花坂 埖

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人生の目的

“いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。” 太宰治の人間失格の行です。 太宰治と言えば、ネガティブなイメージで捉えられるケースが多く、この行も自死を決断した際の言葉だとも言われています。 でも、僕にはこれが『悟りの境地』なのではないかと思えてしまいます。 最近、『死』を意識するようになりました。 決して自死願望などではなく、自分の人生が良かったか悪かったかを判断するのは、死の瞬間に走馬灯のように自分を振り返る時に、自分自身で判断するものだと思うようになったのです。 だから、今を精一杯生きようと... ただ、それが空回りしたのか、ベクトルを間違えたのか、自分の理想ばかりが鮮明になってしまい、現実が非常につまらないもの・美しくないものに見えてしまい、虚無感に苛まれておりました。 先般の質問に対してご回答を賜り、理想と現実のギャップについて学びを得させていただきました。 ありのままにすべてを受け入れることは、簡単なことではありませんし、それを理想にしてしまえば、また堂々巡りのように自分中心の思考に嵌まってしまう... ここで、改めて質問をさせて下さい。 輪廻転生がないものだと仮定すれば、人は生まれてきて死ぬまでに、どんな意味を持つのでしょうか? 煩悩を捨て、ニュートラルな思考で生きることが最善であるならば、そこには何の喜びがあるのでしょうか? 輪廻転生があるのだとすれば話は別だと思いますが、それを記憶出来ない以上は、敢えて現世の人生の中での部分に絞ってお伺い致します。

有り難し有り難し 66
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