毎月一週間ほど子供に罵声を浴び続けてしまいます。 昨日も1年生の次男の人格を否定したり家から出ていけ!と言ってしまいました。理由は子供によくある食事の好き嫌いです。 私の機嫌のいい時は「食べたくなったら食べてね」とか「味は一緒だよ!」と無理強いをしません。多少機嫌が悪くても「この一食を食べなくても死にはしない。お米とふりかけだけで食べてもらおう」と自分に言い聞かせて楽しい食卓を囲むことを優先します。 しかし、普段から食事にかかわらず宿題や片づけに関しても何度も同じことを言わなければならず、我慢の限界を超えると私は豹変してしまいます。 昨日がそうでした。。。「ご飯を食べたくても食べられない子たちがたくさんいるのにわがまますぎる!。あなたの為に毎晩御飯を毎日作るのが苦痛で仕方ない。そんなにわがままをいうなら、家にいてもらわなくていい。出ていけ!」とその子のお茶碗とお箸をごみ箱に捨てて、着替えをリュックに詰めて玄関に置き「外に出れば警察の人が保護してくれる。施設でお世話になりなさい!」と言い放ちました。 「あなたといると苦痛で仕方ない。離れて暮らすのがお互いの為」と酷いことを言い続けました。本当に家から追い出すつもりなんてもちろんありません。 ただ、その時の私は「とことんまでこの子を追い詰めてやる。泣き叫んで謝り続けても決して許さない」と親として(というより人として)最低なことを言って自分のストレスを発散することだけしか考えていませんでした。 普段から私は子供が宿題をなかなかしなくても、忘れ物が多くても「これで子供が死ぬわけではない。先生の印象が悪くなっても楽しく学校生活を送っているのだから」と考えるようにしています。 しかし、やはりこのままではよくないので「口うるさくならない程度に声掛けをしよう」「本人から行動できるよう私の言い方を工夫してみよう」と考えています。でも、本当の私は性格が非常に悪い(自覚しています)ので、これがストレスになって溜まっていきます。 そして爆発・・・ 私は子供に対してどのようにこれから接していけばいいのでしょうか。自分の爆発する性格をどうしたら抑えることが出来るのでしょうか。
数年前に得度をさせて頂いて週末、お寺でお経などの勉強をしてたのですが兄弟子達が、だらしなく嘘・ごまかしばかりして住職(師匠)に隠し事ばかりして 結局…バレて怒られる事を何度も何度も繰り返し全体責任で私も毎回怒られれ、余りにも兄弟子達を見てるとバカバカしく思えてお寺に行くのも嫌になり 住職(師匠)に辞めさせて欲しいと言ってお寺を後にしました が師匠には恩も有るから何かさせて欲しいと言う気持ちは、有るのですが こんな兄弟子達が居てると思うと又…一緒に怒られると思うとアホらしく思うのです、兄弟子達は某大学や某高校(仏教系)卒業した人たちです、学校で誤魔化す事を教わって来たのかと思えて仕方ないです。 得度を受けたら他のお寺で勉強する事は無理なんでしょうか?
外敵の脅威に晒されず、田畑をのんびり耕し、子どもは伸び伸び育ち、ご近所さんや家族仲間と笑いあい、物々交換しあっていた日の差す日本が羨ましい。 もうその頃の善意良心、温かみだけで成り立っていた世には戻れない。 「安楽死」の言葉、なんて魅力的。「安楽」が布団の中でぬくぬくすやすや眠るイメージ。 しかしやる事は自殺。それも他人様に殺人の罪を被せるわけだから制度として確立されるわけがない。 死ぬのは怖い。それでも知りたいのは自分の死期。委託殺人があった、制度が出来たら死ななきゃダメなの?みたいなクソ漫画もあった、海外と日本の考えが全く違うのも分かる。 希望は内側から開けられない、逃げられないカプセルの中に入り、瞬殺するガスのボタンを自らの手で押す。処理だけはお願いしておく。これが理想、これなら誰も悪くない。 自分の死期はここまでって選択として握っていたい。安楽死制度がもし出来たら私の守りになる。今より熱がきっともてる。明確なそこで死ぬというゴールが欲しい。 某占い師ばりに寿命を断言してほしい。 死期の知り方を教えてください。
僕は「生きる意味」を自問自答し、それを見出せませんでした。僕は僕の意志に主体性が介在しないという結論に至り、もうすぐで寿命が尽きてしまいます。どうすればいいでしょうか。 「知」の欲求が、「生」の欲求を上回り、生活を営めないがために健康を害し、身体が悲鳴を上げている。 これを自覚してなお、僕は自らの意志に主体性を見出せず、仏様から授かった寿命が尽きてしまうことを悲しいと思うことしかできません。しかもこれに対して僕はどうすることもできません。 取り急ぎ回答をお願いしたいと存じます。
こんばんは。私は来年から社会人になります。 私は普段、不平、不満、悪口を言わないように心がけています。全くネガティブな話をしない人間になりたいわけではなく、どうにもならないことを嘆くだけの人間になりたくないです。しかし、現在の自分は不平や不満を言い合う雰囲気になると、つい言ってしまいます。自分が恥ずかしくなります。数年後に働いている自分が、自ら行動もせずに不満を嘆くような人間になっていたらと思うと、すごく嫌になります。 どうしたら不平や不満を言わない人間になれますか?
僕は寺息子で、よく「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」と父親が説いていました。しかし、子供の頃、「じゃあ家族と旅行したりしてる時も苦しいの?」と聞くと、親はなんとも言えない表情を浮かべていました。どうにもならない苦しみが多かった昔とは異なり、今の世の中ではある程度の幸せは保証されています。ならば、来世に期待したり人のせいにしたりするのではなく、自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるかを考える方が良いのではないでしょうか。また、恐らくそういった「今を大事に」といったような仏教概念は存在していると思われますが、そもそもの仏教の存在意義と矛盾してはいないでしょうか。重ねての質問申し訳ございません。よろしくお願いいたします。
今年春から管理職になりました。 女性の職場なので色々と気を使うことも多く、大変です。 特に女性はその日の気分の変動が大きく、上司も同様です。 訳も分からず半年やってきましたが、休日もほぼ持ち帰りの仕事をしています。 要領も悪く、周りに迷惑ばかりかけています。仕事の帰りはいつも22時過ぎです。 もう、楽にさせて欲しいです。 生き恥晒すぐらいなら死にます。 一言で言えば 不甲斐ない自分が嫌なんです。 自分の理想としている自分でありたい。 少なくとも今迄はそうだった。
こんにちは。たくさんの質問があるなか、お忙しいとは思いますが、ひとつお尋ねさせていただきます。 先日、祖父が亡くなりました。 優しくてユーモアがあって大好きな祖父でした。 私にとって身近な人が亡くなるのは初めてで、自分が想像してたよりも遥かに人の死というのは悲しくて寂しく、また、綺麗な死に顔を見たことや骨だけになってしまったこと、死という全てが衝撃的でした。 1ヶ月ほど前、元気な姿で会った祖父は一体どこへ行ってしまったのでしょう。 骨になったら全てが終わりなのでしょうか。 祖父がいまどうしているのか気になり、ネットで自分なりに仏教について調べてみました。 そこで、49日間かけて故人は裁判のようにひとつひとつ過去の行いを審査されそれをもとにその後の行き先を判断されるというお話を知りました。 祖父はまだ初七日も迎えていない状態です。 もしかすると祖父はいま、行ったこともない道を一人で寂しく歩き、不安な気持ちで審査を受けてるのではないかとおもうと、心配でたまりません。 祖父は1人で寂しくないでしょうか? 祖父が無事に天国へ、もしくは安心できる地へ、祖父の先に亡くなった家族が待っている元へいくために、私にできることはありますか? 手を合わせて、想いを込めるだけでも力になれますか? 祖父のことが心配です。 もし今の私にできることがあれば、教えてください。よろしくお願い致します。
30代未婚です。 親とは離れて暮らしています。車で五時間くらいの距離のため、 盆、正月に帰るくらいです。 関係は良好で、一人でいる私を心配しながらも、 温かく?見守ってくれています。 身近に友達もいますが、結婚してそれぞれの家庭をもっているため、 相手をしてほしい、一人で居たくないときに、わがままを言える状態ではありません。 最近、孤独感が半端なく押し寄せてきます。 自分が一人ぼっちのように感じて、誰かと話したいと思うんですが、 つい家に引きこもりがちになっており、 満たされない心とどう付き合えばよいか悶々としています。 どうしたら孤独感を取り除くことができますか?
お経が短くなりました。檀家です。奥様(お母さん)は、とても人当たりがよくよい人です。新宿区の曹洞宗です。 前の住職、代理(若住職、修行中)住職のときは、お経が40分以上とお説教があり、ありがたいと感じた。今の若住職、お経5分から10分でお説教なし、戒名のいわれもいえない。 墓参りに来ている方々の口にでている。他の寺から言ってもらえばいいつけたことになるし、他の檀家さんは若いからと。菩提寺をかわろうかと。悪者になりたくない自分がいることに腹がたつが、やはり言いつけたくない。
小さい頃から、命が有限であることをネガティブにとらえ、生きることに執着してしまいます。 仏教の教えに従うことで、こうした心が安定するのを感じます。 しかし、一方で、「死を受け入れるしかないなんて虚しい」とも思ってしまいます。 心が安定する→虚しくなる→心が安定する→虚しくなる、この繰り返しです。 このまま死ぬまでこのループから抜け出せないのではないかと不安な気持ちでいっぱいです。 最終的に、死に対してどのように向き合えるようになれればゴールなのか教えていただきです。
先日も相談させていただきました。 なんとか相談機関をさがしたりしましたが、いろんな悩みが入り交じっているので、どこに相談すればいいのかわからず、夜になると相談機関も終わってしまう。 親も友人も唯一なんでも聞いてもらおうとくれていた人は引き離され、かわいいペットに癒されてみようとしていました、 子供も反抗期に入り、唯一の相談相手を引き離したこども支援センターには相談できず、もう何もできません。支援センターにメールしてみましたが、折り返しの連絡すらもらえません。 実家にお墓をたててあげられないでいる祖父のお骨が仏壇の横におかれています。 もしかして、きちんと供養できていないのかと、それが私たち家族の離婚続きや、父の病気、私の病気、父との不仲など、全てにかかわっているのかなとおもってしまいました。 でも、ご先祖様のせいにはしたくないのです。 母方のお墓参りにもなかなかいけません。 亡くなったご先祖様や生きているまわりの人達がみんな離れていきます、 相談相手もとられ、もう気力はほぼありません。 こどもが寝たら死んでしまおうとおもいます。 こどもだけが気がかりですが。 自殺してもこどもを見守れたらいいなとおもっています。
はじめまして。やまと申します。 死ぬのが怖いという思いがあります。 そして、ある妄想にとらわれております。 自分の住んでいる所が北朝鮮からの核ミサイル攻撃をうけるというものです。 世界は何か見えない大きな力に動かされていて、私たちは戦争をさせられているような気がしてならないのです。 ここ二三日、一晩中上空からヘリの飛んでいるような音が聞こえています。 ニュースやネットなどを見、妄想に妄想を重ね怯えてしまいます。 少しの物音にも怯え、サイレンが鳴るのではないかと気にしたり、核兵器が上空で爆発する様子や土地が汚染され誰も助けには来ない様子などを妄想したりしてしまいます。 このサイトで、戦争について怖れている方が他にもいらっしゃることを知りました。戦争を怖れるよりも、今できることをやるしかないということは頭では分かっているつもりですが、やはり怖れ、迷ってしまいます。 今できることというのは、この場所(今住んでいる県または国)から逃げることなのか。普段の生活を続けることなのか。それとも、死を怖れないようになることなのか。どうすればいいのか分かりません。 いったい、どうすればいいのでしょうか。 まとまりの無い文章で申し訳ありません。 お忙しいとは思いますが、 ご回答いただけたら幸いです。
仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、宗教は対立し得ないと思っています。現実に起こっている戦争は、宗教を大義名分にした、個人的な諍いに過ぎないと思います。 さて、宗教に関心はあるのですが、法華経を読んでも、聖書を読んでも、古事記を読んでも、自分が特定の立場をとる根拠が分かりません。 どのような基準で特定の宗教に入るのでしょうか? 「親が○○教だったから自分も」というのは、宗教性と何ら関係がないことだと思います。 みなさまは、なぜ仏教を選び、その宗派を選んだのでしょうか? また、他の宗教についてどう思いますか?
離れて暮らす、母はデイサービスに通ったり、それなりに父と二人の生活をしているようですが、暇になると何の用事もないのに毎日のように電話をしてきて、こちらも「またか・・」と思ってしまうので、特に話さず、黙っていると「じゃあいいわ」と言って切ります。先日こちらのたまっていた気持ちをぶつけると「もう電話しない」と電話もこなくなりました。生活に張りがなくつまらない気持ちをくんであげて話くらい聴いてあげればと思い、冷たくあしらったこと後悔していますが、私は病気療養中で体思うようにいかず、おおらかになれないのかもしれません。間違っていたのでしょうか・?
よろしくお願いします。 輪廻転生について教えてください。 輪廻転生とは生きていて、死んだら記憶を消されてまた新しく生を受けて死んだらまた記憶を消されて…の繰り返しということだと知りました。 なんだか、穴を掘って、埋めて、また穴を掘って、埋めての繰り返しの拷問のような気がします。 生きていて同じ日は二度とこない、大切に生きなければならないことは知っています。 でも、なんだかもう慣れたというか飽きてしまったというか、なんとも言えない気持ちでずっともやもやしています。 そんな風に考えると何のために自分は生かされているのだろう、なぜ生きているのだろう、ととても虚しくなり、毎日がとても苦しいです。 そうやっていつも一人で泣いています。 自分でも何をどうしたらいいのか見当が付きません。 自分は何に苦しんでいるのか、それすらもわからず苦しいです。 何かアドバイスを頂けないでしょうか。 よろしくお願いします。
今年の初めに子供が生まれました。 私はとある会社の代表を務めており、小さい会社ながら仲間たちとともに利益を上げてきました。 妻もその仲間たちのうちの一人でした。 一生懸命に働き笑顔を絶やさないその姿を好きになり結婚、一年後に妻の妊娠が発覚しました。 私も妻もとても幸せでした。 妻は会社の事をとても心配していましたが、俺が2人分頑張るからと言い安心させました。 数日前会社の仲間たちと一緒に私たちの家で食事会をしていたときのことでした。 暫くは楽しそうだった妻の表情がどんどん曇り、気分がよくないからと寝室に籠り結局お開きになるまで戻ってきませんでした。 大丈夫かと尋ねると妻は子どもを抱いたまま泣いていました。 具合が悪いようではなさそうなので理由を聞いてみると、「もう私は仲間じゃないんだね」と言われました。 私も仲間たちも含めそのような扱いはしていません。 しかし妻は「誰も私を名前(社員時代のあだ名)で呼ばなくなった。『お母さんは大変だね』とか『お母さんは子供生まれて幸せでしょ、そのまま2人目とかいいよね』って言う。私は仕事に復帰してまた皆と一緒に働きたかったのに、もう会社に私の居場所はないんだなと実感した。」と言いました。 確かに思い返せば社員時代のあだ名で誰も呼ばなくなったし、私も仲間たちもいつのまにか妻は家庭に入ったんだからもういないんだと勝手に考えていました。 そういえば妻は復帰したいと何度か言っていた気がします。 でも私は3人目まで欲しいし仲間たちにもそう伝えているし、正直家庭に入ったほうが女性は幸せなんじゃないでしょうか? 男は外で稼ぎ女は家庭で子供を育てて簡単な家事をこなす。 これでいいじゃないですか。 私は妻の出産に付き添い、大変感動しました。 これが女性の仕事なんだと実感したんです。 肉体的にも精神的にも男が外で働くほうが理にかなっています。 妻は優秀な社員でしたが、女なんだしいつかは家庭に入るだろうと考え役職はつけていませんでしたし。 妻はあれ以来ずっと泣いていて、もう家庭内別居状態なんです。 なんで妻がそこまで社会復帰にこだわるのか理解できません。 仕事なんて男に任せておけばいいのに。 妻と仲直りし、完全に家庭に入ってもらうにはどうすればいいですか?
これまでどれだけお金、時間、手間をかけて、努力してきましたが全て徒労に終わりました。 どれだけ頑張っても相手に選ばれないのです。 もうどうしたら良いか分かりません。 美容師、恋愛テクニックの業者、生成ai数多に相談しても全部だめでした。 一時は死をも考えましたが、今まで振ってきた女どもをいつか見返してやり捨てにしてやるという想いを持って泥水をすすりながら必死に生きながらえております。 でも何をやっても上手くいかないからそろそろ限界なのであります。
お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。