お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
父が亡くなり、納骨するにあたり、先祖代々の菩提寺様より入檀請求書なるものへの記入、捺印を要請されました。 内容を確認したところ、会費、火災保険料、離檀料など、お金に関わることは全て「別途規定する」とだけで、具体的な金額が示されていませんでした。(別の書類にも記載はありません) 我が家は弟である長男が継ぐことになりますが、子どもはおりませんので、先々墓じまいをすることになると思いますが、その際、この契約書を元に法外な金額を請求されるのではないかと不安です。 このような誓約書はお寺様において一般的なものなのでしょうか。 先祖代々のお墓なのに?と疑問もあり、正直、不信感しかないので、誓約書は出さず、離檀して納骨は樹木葬等にした方が良いのではないかと思えてきました。 お寺様によるのかもしれませんが、あまり耳にしたことがないものなので、もしご存知の方がいらっしゃいましたら、御教授いただければ幸いでございます。
うつ病を患って、22年になります。 その間、離婚、両親の死、交通事故等、最近では、大阪北部地震にあい、被害を受けました。 今年の3月下旬ごろから、うつ病が悪化し、辛い日々を過ごしています。 身の回りの何もかもが、できなくなり、廃人のようになってしまっています。 お寺にお参りに行くのが好きで、動ける時は、お参りに行って、よい治療効果があるのですが、今は動けず、お参りにも行けません。 生きるのが辛くて、死ぬことも考えます。 離婚した時から、尼寺に入りたいと思っていましたが、その後、交通事故にあい、膝や腰が悪くなり、正座もできません。 年齢も50を超えていて、うつ病も患っていますが、心身を病んだ人間でも、出家得度はできるでしょうか? 心身を病んだ人間でも、受け入れてくれる、お寺を探しています。
という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。
回転寿司が大好きで毎週のように回転ずしを食べています。 左上のhasunohaのロゴがホッキ貝と緑の割れたスシ皿に見えてしまいます。 それは置いてといて、お寿司を食べているときに、こんなにお寿司が好きなのに何か月前から通っているのか忘れてしまいました。 その時の初めて食べたネタのおいしさや歯ごたえの感動も忘れてしまいました。 そして、苦しみの方はどうかと思い、(中途半端に過去の)5年6か月と3日前の苦しみを思い出そうとしましたが思い出せませんでした。 (中途半端に昔の)5年6か月と3日前に私は何かをしていて何かの感情があり何か悩みや苦しみ、もしくは楽しみがあった、でも思い出せないのです。 つまり記憶も感情も行動もまた移り行くものだから忘れてしまう。記憶や感情といえど常なるものは無し。 これも諸行無常で苦を滅する方法は、『無常に気付き、常に自分も無常であると忘れないようにする』ことであると、そこら辺は、↓にも最終的には同じ意味で書いた通りです。 https://hasunoha.jp/questions/19539 https://hasunoha.jp/questions/19556 https://hasunoha.jp/questions/19587 しかし、どんなに気を付けていても自分(や愛しいもの)も無常の中にいるという事を忘れてしまう事があり、またも過去と同じようなことで悩み苦しむ事がたまにあります。 このまま人生を歩んで行っても、全く苦が無い生活を行うことは難しいです。 こうなってくると、テーラワーダか禅宗に出家して苦を滅するための八正道を人生のすべてとして生きていくしかないような気がしてきました。 アジアの上座部仏教国だと、サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)なんて言われて出家できますが、ここは日本で日本での生活があります。それを捨ててまでの出家だと親が泣くかなと思うのですが、在家のまま苦を滅する方法はありますか? または苦を滅したいからという理由で出家された方いますか?
少子高齢化や東京一極集中で地方のお寺がどんどん成り立たなくなっています。 それはわかります。ですが、無住になったらなぜそのままにしておくのでしょうか?当家のお寺も、住職が住んでるメインのお寺のほかに2箇所兼務で持っています。本体でも食えないから副業してるのに、兼務寺院が財政に寄与してるわけありません。 素人考えでは、遠隔地に建物を維持するのも大変だし、給料どころか光熱費すら賄えない名前だけのお寺はメインの中核寺院に全部まとめて潰しちゃえば効率的だと思うのですが(名前だけをお堂やスペース等で残せばよくありませんか?仏像も一箇所に集まれば豪華でしょう)そうはなっていません。今後経営が好転する可能性が全く無い場所で、無住のお寺を日本中で維持しているのは不合理だと思うのですが、これってなんでなんでしょうか?(有名な札所だから、というケースは無しで)
10年ほど漫画家をしています。 あまり知名度・人気度は高くありません。 仕事自体は継続していただけています。 成功している人がうらやましいなと思う反面、自分は好きなものを描かせてもらえていて、それでこの結果なのだからこれでいいんだ、これがすべてなんだとも思います。 でも時々むなしいなと思ってしまいます。 もっと感想とかほしいなとか思ったりもします。 近頃はあまりモチベーション・創作意欲もあがりません。 どうしたら人と比べず、人の評価を気にせず、人からの賞賛を望むことなく、自信を持って、自分の描きたい漫画を楽しく描いていくことができるのでしょうか。 楽しく描いていたいのが一番の望みです。 ご教示いただけましたら幸いです。
子供を毎日叱って鬼婆です(^◇^;) チンピラみたいにも思えます。 子供は小1です。 自分のメンタルやられて毎日体調不良です。 叱らないようにするにはどうしたらいいですか? 心穏やかなお母さんなんて無理そうです。 6秒待つことはできません。アンガーマネージメントなどはできないです。
私は対人恐怖症、不安障害等の精神疾患を患っています。ですが、人と繋がりたい関わりたいという気持ちは強く、自己成長したいと強く思っています。そのため、瞑想を半年前から始めてみました。ですが、効果のある瞑想ができているとは思えずここで相談させていただきました。助言をいただけると嬉しいです。 1.瞑想中、緊張をして身体に力が入ってしまったり、不安な思考が生じて、瞑想後にものすごくしんどい気分になってしまいます。 2.思考から呼吸に意識を戻すということがものすごく難しく感じます。無理矢理戻そうとするのですが、身体に力が入り苦しくなってしまいます。 瞑想後は頭が痛く、不快な気持ちになることが度々あります。この状況を解決したいのですが、何かアドバイスいただけないでしょうか?
どうしても霊が見えるようになりたいです。 見えるようにならないといけないんです… 何かが起こる気がして… 方法はないですか? 気配を感じたり、目線を感じたり、少しオーラが見えたり、予知夢を見たり勘が鋭いくらいです。
私が仏教に関心を持つようになったのは最近の事です。 あまりにも辛い出来事があり、うつ病になりかけた時に、偶然テレビで般若心経を解説するプログラムを見て、心がすっと軽くなった、というのがきっかけでした。 ところで、わが家は浄土真宗なのですが、浄土真宗では般若心経を唱えるべきではない、と聞き拍子抜けしてしまいました。般若心経の教えに救われた私としては、何だかスッキリしません…。 実際に浄土真宗のお坊さまたちは、般若心経についてどのようにお考えなのか、お聞きしたいです。
いずれ訪れる死が怖いです。 人はいつか皆、必ずこの世界とのお別れが来ます。 人間も生き物である以上、生まれて生きていつかは死んでゆく。 そのサイクルは理解しています。 でも、そのいつか訪れる死が怖いのです。 物心ついた時からです。 ー死んだら人はどうなってしまうの?死んだらまた生まれて来れるの?ー そんな風に考えしまったら恐怖で息が苦しく、目の前が真っ暗になりパニックを起こしてしまいます。 死にたくない。怖い。嫌だ。そんな感情を抑えきれなくなってしまいます。 生き続ける事の方が怖いという話もよく聞きます。 永遠がないからこそ、時間が有限だからこそ、生きる事に意味があると。 生きる事も死ぬ事も人間の儚さであると。 そんなのは綺麗事なのではないかと思ってしまいます。 ふとした瞬間に思うんです。 今、こうして生きていてもいずれは全てなくなってしまうんだよなぁと。 どんなに嫌で怖くても、決まっている運命には抗えない。 子供が2人居ますが、この子達がおじいちゃんおばあちゃんになる頃にはこの世界に自分は居ないと思うと不思議な感覚になります。 時の流れに逆らう事は出来ません。 じゃあ、人は何の為に生まれて、何の為に生きて、何の為に死んでゆくのか。 いずれ死んでしまうのに自分は何故、この世界に生まれてきたのか。 考えれば考えるほど、「逃げられない恐怖」の底へと引きずり込まれてしまいます。 何故、せっかく生まれてきたのに死ななければならないのですか。 助けてください。 逃げられない恐怖と向き合っていく方法はあるのでしょうか。
うつ病で会社を退職しました。 職場では嫌がらせを受けて本当に苦しかったです。 なんでこんな目にあったのか、私が悪かったからなのかと今でも悩みます。 自分が悪かったとしても、どこを直せば良いのか分かりません。 自分はこの世に適合しない存在、生まれてきてはいけない存在なのではないかと絶望的な気持ちになります。 運が悪かったと思いたい一方、何故、その様な災難が私に降りかかったのかと辛くなります。 どちらに転んでも自分は辛い人生しか待っていない気がします。 この世は因果応報なのでしょうか? 幼児虐待でなくなる子供がいますが、彼らが何か悪いことをしたのでしょうか? それともこの世はただただ無情なのでしょうか? 幼児の内に虐待で亡くなるのも、戦争に巻き込まれて死ぬのも運命の一言で片付けられることなのでしょうか? どのような心構えで私はこれから生きていけば良いのでしょうか?
浄土三部経が偽経や非仏説と言われている事についてどう向き合えばいいでしょうか。 自分はこれで阿弥陀様の信心を失ってしまいました。 事実としてお釈迦様が直接説いたわけではないことは、「歴史的」には分かっているそうですし、それでもお釈迦様以外の仏様が説いたので仏説と言われていたりと、結局どれが真実なのか分からなくなってきました。 浄土宗や浄土真宗のお坊様はこの事についてどう思っているのですか? そしてどうやって信じているのでしょうか。 自分はこの事で信心をもらえそうにないです。 回答お願いいたします。 この前までは単純に阿弥陀様を信じられていませんでしたが今度は大乗非仏説で信じられなくなっしまいました。
自殺は悪いことなど誰も言っていません。 言ったもん勝ち、やったもん勝ちの世の中で犯罪でもありません。 ただ自殺する気力もなくなっていました。
仏教について調べていると、葬式とその後の供養が最重要トピックの用に扱われているのが不思議です。 親や先祖の供養ってそこまで大事なのですか? 血縁ってそこまで重要なのかしら? 先祖供養は儒教ではないのかしら? いえ、私も木の股から生まれたわけではないので、縁なり因果なり何かしらあるのだろうとは理解はしていますが。 この世に産み落としてくれたことは有り難いのですが。 血のつながりばかり大事にしなくてもそこかしこに縁はあると思うのです。 個人的に家族の縁が薄いこともあり、 親や先祖のことはよく知らず供養もしていません。 私の死後供養してくれるものもおりません。 しかしそんな私が死んだ時も 仏さまなら何とかお慈悲をくださるのではなかろうか というのが信仰を持ちたいと思った動機なのです。 「私と仏さま」の話ならわかる気もするのですが「私と先祖と仏さま」の話がよくわかりません。 先祖供養が必須なら、親のない人間は仏さまに救っていただけないのでしょうか。 そもそも私の理解が間違ってるのかもしれませんが、 苦しみの多い輪廻の輪から解脱するため修行をしよう、また大乗仏教においてはいろいろな仏さまの力を借りたりおすがりして解脱にいたろう、 というように仏教的な死生観を解釈しています。 修行が足りず仏さまとの縁も結べなければ輪廻の次の段階に進むでしょうし、 宗派によっては生前から成仏しているわけですし 浄土系の宗派では阿弥陀さまのお慈悲によって極楽往生できるでしょうし…。 死後、死者の行く末に関して、生者はどれだけの干渉ができるのだろうか、というのが疑問です。 それは死者本人と仏さまの間の話ではないのかと思います。 そうすると供養とは何のためにするのでしょうか。 お教えをいただければ幸いです。
「理解されない」という惨めな気持ちが、年々強くなります。 音楽をやっており、私は比較的マイナーな楽器を主に演奏します。 華やかな楽器を演奏し、いつも目立っている女性から、以前馬鹿にされたように笑われたことが、未だに傷ついて頭にこびりついています。 その人はどんどん人前に立ち、どんどんきれいに、みんなから人気を集めています。 それに比べ私はどんどん人前から遠ざかり、楽器も手にしなくなりました。 理由は自分でもハッキリとはよく分かりませんが、欝っぽくなって「どうせ私なんか」と自分を責めたり「どうせこんな人たちなんか」と周りのせいにしたり、し始めた頃からです。 なのに、昔は大学で優秀な成績だったことや、小さい頃からずっと音楽が得意で皆から褒められていたという過去の栄光に、どこかですがっています。 「私は上手なのに皆は私を理解してくれない」などと、物凄く醜く卑屈な考え方をします。 人前で演奏しないから上手かどうかなんて誰も知らないのは当然で、何も努力せず理解してもらおうなんて、甘いにもほどがある…それでこの春から気持ちを切り替え、練習を再開したりしているのですが、どうしても、華やかな人と自分を比較してしまうんです。 たぶんこのままだと、もし自分が以前のように人前で演奏するようになっても、他者と自分を比較しては惨めになる繰り返しで、一生悩まされる気がします。 みんな違ってみんないいはずと言い聞かせてみても、「でも私の周りの人は、目立つ人、万人受けする人の事しか褒めない。周りの人に認められなかったら何の意味があるのか」という思考がすぐに打ち消してしまいます。 なぜ年を経るごとに酷くなっていくのかは分かりません。 子供っぽい悩みのようで、周りの人に相談することもなかなかできず、投稿させていただきました。
私は現在、40代独身で、地方の田舎寺で住職をしております。 親の跡を継ぎ、20代で仕事をやめ、本山での修行を終え、僧籍を取得後、何もわからない状態でお寺の世界に入りました。 元々父方の祖父母が寺をやってまして、その後は父が継承し一人でやってましたが、その父も途中病気にかかり、頼むからそろそろ継いでほしいと頼まれたのがきっかけでした。 母は檀家の紹介の見合いで寺に嫁いできて、私と姉が産まれ、結婚後は祖父母と同居しながら檀家の対応までやってましたが、慣れない子育て、田舎暮らしや檀家の突然の訪問などが重なりうつ病にかかってしまい、見かねた父が寺からかなり離れた場所に家を建ててそこで暮らしてました。 私も姉もそちらの一般住宅育ちで寺とは全くの無縁な生活をしてました。 そちらで就職してしばらく働いたのち、寺を継ぐことになったため、姉も仕事をやめ、現在一緒に寺を手伝ってもらってます。 実をいうと、私も寺を継いだものの、人付き合いが元々好きではなく、葬式での檀家との付き合いなどが毎回大変で、精神的に参ってます。 私も姉も独身で、今後結婚は難しく、60ぐらいで還俗し、他人への継承を考えてます。 幸いなことに檀家数は400件前後(近所の住職無住寺を複数兼務でやってます)いて、経済面での苦労は全くありません。 実は、ほかに懸念していることがありまして、私がほうるいになっている近所の住職のお寺の跡継ぎがいません。結婚してても子供がいない寺と独身の高齢住職の寺があり、両者檀家数は150件前後なのですが、そのあとを私にやってほしいみたいなことを言われてます。 書類上、私がその寺のほうるいになってるのですが、私自身の寺の檀家の対応だけでもう精一杯で精神的に参っており、これ以上はとてもじゃないができません。 近所の独身の高齢住職がそろそろあぶなく、一番若い私がその寺の檀家の対応をまた兼務で押し付けられるような感じになってしまうのではないかと心配でなりません。 本来ならその住職が跡継ぎをなんとかしておきべきなのですが、もう高齢化で仕事もできなくなりつつあります。 私の寺は、あと10年くらいしたら本山か宗務所に声をかけて次の跡継ぎ候補を探してもらい、60前には住職を辞めて、姉と寺を出ていこうと思ってます。 高齢住職の寺とはもう関わりたくないのですが、どうしたらいいのでしょうか?
こんにちは。 質問と相談がございます。 私は現在お坊さんとお付き合いをしていて、将来も考えています。 ですが、「お坊さんの奥さんは大変」「知り合いにお坊さんいるけど奥さん辛そう」と言われることがあります。 彼はもちろん、彼のご家族も素敵な方々で、私のイメージ(堅苦しい)とは違った暖かい家庭です。 具体的に何が大変なのかがよくわからないですが、正直不安もいっぱいです。 私は字も下手ですし、言葉遣いや礼儀作法も自信がないです。上達するよう努力していきたいとは思っているのですが、お坊さんの奥さんとして、何を完璧にすべきか、最低でもこのくらいのことは出来るようになるべきか、教えて頂きたいです。 ご清覧ありがとうございます。 よろしくお願い致します。
人一倍事業成功への願望が強いが、同時に大きな不安もある。年齢も50代に入り残り少ない人生で成功するチャンスを絶対に逃したくないと強く思っているが、それとは裏腹に常に不安がある。 この不安を取り除き成功へ邁進するマインドセットを上手く行いたい。