執着も捨てましたし、友人も恋人も物も殆ど捨てました。 生きていて色んなことを学んでもこちらで質問しても納得する回答は得られず日々悶々としています。 まず命への執着を手放す以外に残るものは今ありません。 しかし苦しみは消えません。 嫌な毎日です、それすら執着を手放しても苦しいままです。 1秒を我慢し続ければ耐えられると此方のサイトで言われましたが耐え続ける人生に何の安寧があるのでしょうか。 嫌な事も受け入れて、執着を捨て、全てを捨てて、あとは自分で死ぬだけです。 その死なない間にも嫌な事が沢山あります。 こんなに受け入れて、何も動じず、ただあるがままの苦しみを受け入れてるのにまだ苦しいです。もはや悟りなんてないのでは??? 例えるなら親を目の前で殺されて、まっいっかというレベルで執着を捨てていても苦しいままです。 誰か助けてほしいです。 悟りなんてないんじゃない? 私は科学ガチ勢だけど、死んだら解脱とかも無理じゃない? ただただ生まれつき運が悪いか、良いかの違いなんじゃない。 知的な障がいが脳にあればそもそも解脱する事は不可能です、それと同じで生まれつきの知能が低ければ高度な思考すらできません。 世の中運が良ければこの世界に満足して死ぬわけです。 つまり解脱も悟りもなくて、この世界で運が悪かった人が負け惜しみでそういう概念を思いついただけじゃね? ああ人生って意味不明すぎる。 このまま色んな人に説教されるか、曖昧な表現で反論されてこのまま人生続いていくんだろうな。。そしてその曖昧な表現の人たちもそのまま何の答えも得られず死んでいくんだろうな。
「理解されない」という惨めな気持ちが、年々強くなります。 音楽をやっており、私は比較的マイナーな楽器を主に演奏します。 華やかな楽器を演奏し、いつも目立っている女性から、以前馬鹿にされたように笑われたことが、未だに傷ついて頭にこびりついています。 その人はどんどん人前に立ち、どんどんきれいに、みんなから人気を集めています。 それに比べ私はどんどん人前から遠ざかり、楽器も手にしなくなりました。 理由は自分でもハッキリとはよく分かりませんが、欝っぽくなって「どうせ私なんか」と自分を責めたり「どうせこんな人たちなんか」と周りのせいにしたり、し始めた頃からです。 なのに、昔は大学で優秀な成績だったことや、小さい頃からずっと音楽が得意で皆から褒められていたという過去の栄光に、どこかですがっています。 「私は上手なのに皆は私を理解してくれない」などと、物凄く醜く卑屈な考え方をします。 人前で演奏しないから上手かどうかなんて誰も知らないのは当然で、何も努力せず理解してもらおうなんて、甘いにもほどがある…それでこの春から気持ちを切り替え、練習を再開したりしているのですが、どうしても、華やかな人と自分を比較してしまうんです。 たぶんこのままだと、もし自分が以前のように人前で演奏するようになっても、他者と自分を比較しては惨めになる繰り返しで、一生悩まされる気がします。 みんな違ってみんないいはずと言い聞かせてみても、「でも私の周りの人は、目立つ人、万人受けする人の事しか褒めない。周りの人に認められなかったら何の意味があるのか」という思考がすぐに打ち消してしまいます。 なぜ年を経るごとに酷くなっていくのかは分かりません。 子供っぽい悩みのようで、周りの人に相談することもなかなかできず、投稿させていただきました。
姉と同じ進学校の高校へ通いたかったが、受験に失敗し、行きたくない私立高校へ通うことで仲良しの友達ができず、つらい高校時代を過ごす。親にも迷惑をかける。大学は専門職の資格をとれる大学へ進学し、勉強とバイトと1人暮らしを頑張り、友達もたくさんできるが、4年のときに精神科病棟の実習で急性ストレス障害になり、抗うつ薬や安定剤を服用するようになる。何とか死ぬ思いで実習を終え、国家試験にも一発で合格するが、新卒で就職した病院で、すでに限界だった体調と精神が崩壊し、わずか5ヶ月で退職。専門職の資格があるのに、その後は非正規で手取り12万と少しのわずかな給料で働く毎日に負い目を感じる。周りの正社員と同じ資格を持ち、仕事も同じ量をこなしているのに、私は非正規社員。頑張っているのに上手くいかない、そんな自分の人生と向き合い、受け止めるのがもう苦しくて、自己嫌悪と自己否定の毎日。親にもこの歳で迷惑をかけていることが苦しい。姉は医療系の資格者で新卒で就職した病院でずっとバリバリと働き、キャリアもある。今は結婚もして現在子育て中。すぐ仕事復帰する予定であり、まさに親孝行の姉。子供の頃から、できる姉とできない私に自分で比較してコンプレックスを持っていた。そして私は彼氏ができたこともなく、ここ2年婚活を頑張り、30人以上の人とデートするも毎回上手くいかず、そんなとき初めて好きになれる人と出会うが、セフレとして扱われ、半年間我慢して毎日体を許すだけ過ごすが、相手には若い彼女がいるので、毎日辛くて限界になり、関係をはっきりさせようとしたら、キレられ、もう会うこともできない。彼氏ができたことがないのに、処女ではないという、汚くて醜い女。 私って何なんだろう。頑張っても頑張っても報われない。姉と比較して落ち込み、姉と同じように頑張ると、体や心が悲鳴をあげて挫折してしまう。私にもたくさんいいところがあるのに、人生に役立てることができない。誰からも愛されず、必要とされず、両親にはこの歳で経済的に援助を受けて、自立もできていない。好きな人には都合のいい関係に扱われ、人間としても否定された気がして、もう何を希望に生きればいいのか分からない。朝起きると絶望感でいっぱいになり、夜は眠れず安定剤が手放せない。私に幸せは訪れますか?苦しい、辛い、もう頑張って人や自分に裏切られるのが怖いです。
私は小学生の頃、大阪のUSJ近くのホテルで恐らく心霊体験をしました。 それ以来、私は今でも霊の存在を信じているのですが私個人としては、どちらも科学で証明できると考えています。 よく霊や死後の世界は非科学的と世間でも科学の世界でも言われていますが、その多くはしっかりと調べもしないで根拠も無いものばかりです。 そもそも非科学という言葉が非科学的ではないのかと私は思ってしまいます。 死後の世界や転生に関しては近年、量子物理学の学者が科学的に存在する可能性を真剣に研究しています。 私は霊や死後の世界などが今まで立証できなかったのは科学が未熟だったからではないかと考えているのです。 ですので、将来、立証できる日が来るのではないかと私的には思います。 そこで質問です。 お坊さんは、霊や死後の世界をどの様な存在だとお考えなのでしょうか? また、もし、今後この分野に科学のメスが入る場合、お坊さんとしては、どの様に思われますか?
植物にも防衛反応があるそうです。 仏さまはお花を供えられるのを望んでおられるでしょうか? ご意見お聞かせください。
昔から天体の授業など壮大な話を聞くと、自分はなぜここにいるのか…。地球はなぜ生まれたのか…。と不安になることがあったのですが、今年の初めに急に自分がなんなのか分からなくなりパニックになりました。 目に見えているものは認識できているのに、なぜ言葉を認識できるんだ?なぜ私はここにいるんだ?と次々に疑問が湧いてきて不安で仕方なくなります。 いままで見てきた景色すら違って見えるような気がします。 一生このままなのでは。気が狂ってしまうのでは。と、またまた色々なことを考えてしまい胸が苦しいです。 生きている意味を考えてしまったら終わり。というような見出しをネットで見て怖くなったり、哲学を勉強している人は自殺者が多いというような話を聞いて苦しくなったりもします。(哲学を勉強しているわけでもないのに悩むのもおかしいのですが) いままで好きだったものも、心から好きと思えなくなってしまいました。 不安で仕方なくなると動けなくなってしまい、外にもろくに出ていません。 肉や卵などもパニックになる前は好んで食べていたのに、動物を殺したもの、と思ってしまい食事も楽しくなくなってしまいました。 この先不安で仕方なかったら死んだほうが…とも思いますが、怖くて仕方ないので苦しくても死にたくはないです。 切羽詰まって打っているので、文章がおかしいところが多々あると思うのですが、なぜ人は生きているのか。これからどうすればいいのか、など、少しでも前向きになれるようなお言葉を頂けたらなと思っております。 どうかよろしくお願いいたします。
いつも様々なお坊さんの回答を読み、勉強させて頂いています。 輪廻転生の考え方では、前世での行いが悪いと畜生や地獄に生まれ変わると聞きました。 仏教では、人間は畜生より格上(優秀な生き物)と考えるのでしょうか。 わたしは人として生きるのがとてもつらく、植物や虫、大自然のなかで生きる動物たちがとても幸せそうに思えます。 本能や生命システムのみに従ってただ「生」を邁進する生き物より、苦しみや醜さ狡さを背負ってでもなお人間の「生」には価値があるのでしょうか。 お互いを脅かし傷つけ合うのが人間の性でもあるのなら、人間より畜生のほうが全うな道であるように思えます。 人間がすばらしい生き物とは思えず、人間に生まれて良かったとも思えず、苦しい気持ちを持て余す毎日です。
十方諸国土に三世諸仏様、 数多の菩薩様や天部の神様がいらっしゃいますが、 特定のお寺に檀家に入っている意識も薄く、 仏像様も身近にない 在家の者は 自分が集中して拝む仏様というのは、 どうやって選ぶのですか。 別に選ばなくても良いのですか。
こんにちは。いつも楽しく・癒されながら拝読しています。 先日、お彼岸という事で、久しぶりに祖父と祖母のお骨があるお墓にお墓参りに行ってきました。 祖父母のことは大好きで、亡くなって7年くらいたつ今でも家族団欒の席で祖父母の話が持ち上がります。 仕事が忙しくてなかなかお墓参りに行く機会は作れないのですが、お墓の前で手を合わせれば、「おじいちゃん、おばあちゃん、家ではこんなことがあったんだよ」とか、たまには「お母さんがお父さんの所為で滅茶苦茶ふてくされているのでどうにかしてください」とか願ってみたりします。なかなか無茶ぶりをしているかなと自分で思ったりもします(笑) さて、そんなお墓参りですが、このサイトや他のサイトを見ていて、ふと疑問が浮かびました。 宗派によっても異なるのかもしれませんが、亡くなってすぐ、(少なくとも祖父母の場合の7年より前には)ご先祖様は生まれ変わってしまって、もう元々の家族のことは忘れて違う人生を歩んでいるものだという考え方があるのを知りました。 それでは、お墓にいって何かを報告しても、報告しているつもりの相手はそこにいないのでは?と思うのですが、当然一方通行なのでしょうか? それに、私はお盆やお彼岸の機会でもお墓にお参りに行けない時は、せめて仏壇に手を合わせるのですが、その場合仏さまは仏壇とお墓を生きている人が手を合わせる都合に合わせて瞬間移動しなくてはならないのでは…!? 是非その仕組みがどうなっているか教えてください!
仏教で言う慈悲とはなんでしょうか?愛のことでしょうか?
はじめまして。 この夏に父が永眠しました。 実家に仏壇はあるものの、自分の家でも父を供養したいと思い、写真と蝋燭、お線香、お花、おりんをおいて毎日拝んでいます。 ただ、これは自己満足であり父の供養になっているのかと考えるようになりました。自分の中で、父にもっと親孝行したかったという気持ちがあり、その気持ちを整理するためだけではないかと。 供養とは誰の為のものなのか、なぜ供養が必要なのか、正しい供養の方法はどうすることなのか、教えていただけると幸いです。 よろしくお願いいたします。
一昨年前に実母が亡くなり、以来、こちらでお世話になっております。 お寺のことや、供養、お墓等のことで質問させて頂き、ご丁寧な回答を頂き、ありがとうございました。 毎日のお勤め、花やお供え、茶水を絶やさず供養させて頂いています。 長らく二人暮らしでした。 病を抱えながらも私のために家事をしてくれていました。 私は幼い頃から病弱で心配ばかりかけ、苦労させました。 ある日、突然調子が悪くなり救急車で病院へ、そして次の日から意識が無くなり、一週間後に息を引き取りました。 私はその瞬間にも立ち合うことができませんでした。 生前は、私は仕事なので一人きり。最期も一人で逝かせてしまいました。 延命処置も断ったのは私です。 今年、三回忌となりますが、未だにあの時こうしてあげれば良かった、なぜあんなこといってしまったのだろう、最期にありがとうも言えず、後悔と悲しみの毎日です。 他人からすると、ただのマザコンなのかもしれません。 毎日、成仏し、父やご先祖様と幸せに過ごしてくださいと祈ることしか出来ません。 ただただ毎日冥福を祈り、悲しみが癒える日が来るのを待つしかないのでしょうか?それともいつまでもクヨクヨ引きずっている私の精神が弱いだけなのでしょうか?
初めまして、誰にも話せないのでここで書かせていただきます。 私は、題名の通り人生すべてが無駄だったと感じ苦しい状態にあります。 私は今年海外で大学院を卒業して就職活動をしています。人生を振り返ったり、想定外のこと(現地でも日本でも企業に必要とされていないなど)が起きたりしたからか、今までの人生や努力が無意味に感じるようになりました。すぐに報われないかもしれない、評価されないかもしれないとある程度予想はしていたものの、ことごとく一蹴された気分になり、私は今まで何をしてきたのだろうかと途方に暮れています。幼いころから、どんなに悔しいことや障害があろうと自分で対応策を出していつかこの苦しみから解放されると信じて努力してきましたが、20年以上たっても報われず浪費したような気がしてなりません。真面目にやってきたのに、身を粉にして体調を崩しながら努力してきたのに私が間違っていたのだろうか、バカなことをしただとかとにかく落ち込みます。時間が戻せればいいのに打とかもういっそ生まれなければ良かったのにとか、私がいなければもっと両親は幸せだったのかとかどうしようもないことを望んでしまいます。趣味や好きなことをやって紛らそうとしても何も楽しくありません。心が動かない状態なので何がしたいかもわかりません。 もっと遊んでいればよかったなどと考えても、あの当時の最善の道だったため、他にどうしようもなかった現実を思い出しては周囲の人や現実(この世)を憎むことを繰り返しています。自分は自分と思っても苦しいです。親が一人外国人であること以外普通の家庭なのに、生まれを理由に攻撃してきた人々(年齢性別問わず)や風潮が許せなくて、悔しくてなりません。幼いころからそんな人を見てきたからか、人間関係はとにかく苦しいです。また、結婚どころか恋愛の一つもする気になりません。「いつかいい人ができる」だなんて言葉など届かないし、家族もわかってくれないことにいら立ちます。この数年、必死に我慢して生きて生きたのにとさらに腹立たしく感じることが増え、「そんなこと頼んでいない」など言われると怒りを抑えるのに苦労します。上記に書いたことをカウンセラーに相談したところで解決できるなど思えません。 もう、何もかも虚しく呼吸すらも億劫です。私が抱える感情は何でしょうか。長々とすみませんがよろしくおねがいします。
質問の回答を見ますと、日常的にTVゲームを遊んでいるお坊さんもいらっしゃるように見受けられます。 そこで質問なのですが、ゲームの世界の中で殺人を犯したり、嘘をついたり、その他悪行を行うことは、仏教的には許されることなのでしょうか? 私の考えでは、ゲームの世界の中でそういった悪行を行うことが可であるならば、頭の中で色々と悪い妄想をすることも可であるということになるかと思います。 ですので、仏教徒やお坊さんは、たとえばFPSのような殺人ゲームは遊んではいけないと思うのですが、どうでしょうか?
どこを見ても、昔からの固定観念や一時の感情に任せて合理的な判断が出来ない人間ばかりです。 普通に考えれば、アルコールなんて薬物と同様に禁止してしまえば良いし、軍事力なんて保有すべきではないし、天皇制も廃止すれば良いし、働き方や教育、少子高齢化や社会保障はこんな小手先の対応ではなく、根本から見直す必要があることは明らかなのに。 僧侶の皆さんももどかしく思いませんか? 人々が仏教の教えに耳を傾けてくれれば、世の中もっと良くなるはずなのに、と。 私は、無駄だと分かっていても世の中を変えるため行動を起こすべきなのでしょうか? それとも、多数決に従ってこのくだらない世の中を黙って受け入れれば良いのでしょうか?
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
10年ほど漫画家をしています。 あまり知名度・人気度は高くありません。 仕事自体は継続していただけています。 成功している人がうらやましいなと思う反面、自分は好きなものを描かせてもらえていて、それでこの結果なのだからこれでいいんだ、これがすべてなんだとも思います。 でも時々むなしいなと思ってしまいます。 もっと感想とかほしいなとか思ったりもします。 近頃はあまりモチベーション・創作意欲もあがりません。 どうしたら人と比べず、人の評価を気にせず、人からの賞賛を望むことなく、自信を持って、自分の描きたい漫画を楽しく描いていくことができるのでしょうか。 楽しく描いていたいのが一番の望みです。 ご教示いただけましたら幸いです。
という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。
私は、約12年前からうつ病や不安障害などのために治療を受けております。 約1年8ヵ月前に父がガンのために他界いたしました。 私は元々寂しがりな性格であることもあり、また、私の発病後は友人との接点が全くなくなり、とても寂しい気持ちで毎日を過ごしておりましたので、父が他界してからは、物凄い悲しみや寂しさが続いております。 悲しみや寂しさの強さや、落涙する頻度は、時期によって多少の強弱があります。 主治医にこのようなことを相談したこと もあるのですが、「普通の人は、家族とか仕事などがあるから、そんなことばかり考えていられないんだ。」というようなことを言われてしまいました。 (私は無職で独身なので、このようなことを言われたのだと思います。) 前述のとおり、友人と呼べる人もいなく、誰とも話をしないことが日常ですので、悲しくて、寂しくて、困り果てております。 いい年をした中年男が涙を流す日が続いております。 こんな私に何かアドバイスをいただけませんでしょうか。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
お世話になります。じゅんちです。 15歳の娘の突然の死から8ヶ月が過ぎました。まだまだ涙が乾く日はありません。 月命日には友達が相変わらず来てくれて賑やかにしてくれます。 寂しい、会いたい、いろんな気持ちにもちろんなります、二女が姉の服を着たり同じような仕草をしたり、行事があるたびに思いだし二女の姿を見ながら同じような事が起きやしないかとたまらなく不安になったりの繰り返しです。 私自身が楽しい時間を過ごすことに罪悪感を覚えます。 友達に会ったり、笑う時間もありますがそれがふとたまらなくなるのです。 長女にも楽しい時間がたくさんあったはずだと。 長女は空から私が笑ってるのを見たいはずだよねと思うのですが、気持ちが頭がバラバラです。 どんな思いでいたらいいのか整理がつかず辛いです。 お言葉をいただきたいです。宜しくお願い致します。