まだ、おばあちゃんが亡くなってから四十九日を過ぎていません。 おばあちゃんの娘さんが「分骨して欲しい」と言ってきました。 調べた所、遺骨の権利は喪主にあるとの事で喪主の父親に聞いた所、いいと言ってました。 が、まだ四十九日を過ぎてないのに分骨は早いですよね? また分骨の際、娘さんに渡してはいけない部分や父親の元に置いておくべき、供養するために残すべき部分とかありますか? 母親いわく喉仏は渡したらいけないのじゃないか?と言ってましたが……
昨年、私は30歳で3人目の子供を出産しました。 それから数ヶ月経ち… 幸せなはずなのに毎日死について考えてしまい苦しくなります。 『今は皆で笑っているけど、いつかは永遠の別れが来る』 『死んだら夫のことも子供達のことも楽しかった思い出も全て消えてなくなる』 『子供達も私のように死に恐怖感を持ち苦しむ時がくるのかな』 『いつかは死んでしまうのに何で産まれてきたのだろう』 と、常に頭の中にあり、夫や子供達の無邪気な顔を見ると、悲しくなります。 どうしたらこれからも前向きに生きていけますか? もともと、パニック障害があり、数年前から心療内科に定期的に通っていたのでその事を話すとろくに話も聞いてもらえず薬を大量に出されただけでした。 (授乳中なので薬は飲んでません) 私はおかしいのでしょうか? それとも、産後に不安定になっているだけなのでしょうか? 誰にも話せず、自分でもどうすれば良いのかわからなくなりこちらで相談させて頂きました。
初めまして。 私は小学、中学生の頃に同級生から仲間はずれにされたことや幼少期のトラウマなどで高校生の頃から他人の反応や言葉遣い、対人関係で気を使いすぎてしまいます。そのせいで自分自身がすごく疲れるし日々生きるのが苦痛です。いじめを受けていた理由としてはADHD、ASDなどが要因の一つでした。 その頃はまだ発達障害と診断はされておらず、親も気づいてなかったので周りの友達からは面倒くさがられたり空気が読めない奴と思われていました。女子特有のいじめも中学時代に経験して高校生になったぐらいからは鬱になってあまり学校にも行かなくなり、 地元の心療内科に通い始めました。 その頃から抗うつ剤などを飲み始め、朝起きれなくなりなおさら学校に行きにくくなりました。またトラウマで同級生やバイト先の人、どんなことでも関わる人に対して嫌われたくないと思ったり、本音を言ったら嫌われると思い気を使いすぎてしまう性格になってきました。 26になった今ではどんどんこの性格がひどくなってきていて本当に生きづらいです。心だけでなく、身体のほうにまで影響が出ていて肩こりや頭痛が酷くてまともに仕事ができていません。気にしなくていいことまで気にしてしまうので自己嫌悪も酷く、鬱になります。友達に本音は言えないしリアクションもわざとオーバーにしてしまったり、八方美人な反応をしてしまいます。 人生で誰からも好かれると言うのは無理と言うことはわかっています。100人いたら私のことを嫌いな人は少なからずいるというのは分かっていても嫌われたくないと反射的に思ってしまうのです。もうそんな人生に疲れました。友達も素を出せるのは1人とかで、あとは母親と祖母ぐらいです。この性格を治して自分自身をもっと好きになりたいです。 病院ではすでにカウンセリングもしているので、私がこれから生きていくうえで心掛けたらいいことや皆様からの何かアドバイス、助言をいただきたいです。分かりづらく拙い文章で申し訳ありません。よろしくお願いします。
このような質問をしてよいものか迷いましたが 悩みが深まるばかりでしたので、質問することにいたしました。 本当に汚い文章で申し訳ございませんが、よろしくお願い申し上げます。 お坊さんは、煩悩である性欲とどのように向き合っていらっしゃいますか? 私は大変悩んでいます。 大学生になってから1人暮らしを始めて性欲が強くなってしまい 2、3日に1度は自慰行為をしてしまいますし、 アダルトビデオ(AV)もみてしまいます。 しかし、人格形成のうえで良いこととは思えません。 できることなら自慰もAVもやりたくも、みたくもありません。 にもかかわらず、自然と性欲が湧き上がってきてやってしまいます。 このままじゃ駄目だと、ひたすら自慰やAV鑑賞を我慢したこともあります。しかし、寝れなくなったり、学業に集中することができなくなりますし、我慢することも違うように感じています。 それでいま、 「人として道を踏み外さないようにするために、性欲とどのように向き合えば良いのか」 ということで悩みが深まっていました。 そこでお坊さんにご意見をいただこうと思って質問いたしました。 人として道を誤らないために ・自慰行為はやめるべきなのか ・アダルトビデオをみることはやめるべきなのか あとは自由に性欲についてお答えいただければ幸いでございます。 ご指導のほどよろしくお願いします。
初めまして。 先日、人生初の写経(般若心経)を体験させていただきました。 そのとき、「執着」からの解放について法話をいただきました。 加減が大事、だとは思うのですが執着しないことで得られる自由な心・発想・幸福感に納得すると同時に、たとえば学生のときなど、100点満点や資格合格にひたすら執着し諦められずに必死に向き合って努力し、手にした達成感や自信などもあることを思い出し、そこで「執着」についてうまい解釈が自分のなかでできずにいます。 実際今恋愛に関しても、気になっている方に粘り強く振り向いてもらえるように頑張ってみようかな?という思いと、もう、5回ほど会って相手と何も進展がないならば、執着しないで次へ向かうぞ!と思うべきか?と葛藤中でもあり、「執着」についての解釈についてもう少し、お坊さん的アドバイスをいただけると有難く存じます。 よろしくお願いいたします!
去年の年末、初めて妊娠し、中絶を願い、結果的に流産しました。 学生の頃はガンを患った父に、「生きている間に孫を抱いてもらうんだ!」と思っていました。しかし大人になり、父に孫を会わせたいという理由ではなく、自分が子供を産み育てたいかと考えると、その気持ちが全くない事に気づきました。 夫には出産の意思がない事を伝え、結婚し、夫が「もし家族が増えても楽しいだろうね」という言葉に、「そうかもしれない、楽しいかもしれない」と思うようになっていました。 その後、避妊には気を付けていましたが、妊娠しました。私は自分に「嬉しい!きっとうまくいく!楽しい家族になる!」と言い聞かせていました。 しかし喜べませんでした。自分が親になる事が恐ろしく、お腹の子を愛せない自分が恐ろしく、このような幸福を喜べない自分が恐ろしかったです。なにより、堕胎を選択しようとする自分が恐ろしかったです。それでもどうしても喜べない自分が出産するという決断ができず、堕胎を決めました。 夫は堕胎を受け入れてくれました。それから毎日私は泣き、眠れなくなり、食べられなくなり、結果流産しました。 泣くのは子供への申し訳ない気持ち、愛せなくて、産まなくて、殺して、なのに作り出して、痛いだろうか、怖いだろうか。夫への申し訳ない気持ち、愛する夫の子を愛せなくて、殺して、父親になる事を奪って、辛いであろう夫の前でこんな私が泣いて。両親への申し訳ない気持ち。望んで努力しても出産出来なかった姉へ。夫の両親へ。 子供の頃初めて人を好きになったように、いつの日か子供が欲しいという気持ちも自然と出てくるのだと思っていました。 そうなれない自分が、身勝手にも一番大切な人達を傷つけ、希望を奪っている。夫は私と結婚したためにこんな思いをしている。 何故、子供が欲しい、産みたいと思えないのか。どうして愛せないのか。あの子は今どうしているだろう。苦しんでいないかな。考えない日はありません。 自分自身の無責任な行動の結果、許されない事をしました。1番辛く苦しいのは子供です。お答えを頂けるような内容ではないとわかっていますが、身勝手にも程がありますが、胸が苦しく、叫びたい気持ちで、こちらに書き込ませて頂きました。 私が死んだ後苦しみは全てもらうから、どうかあの子が苦しんでいない事を、身勝手にも願っています。
はじめて質問投稿します。 4年前に祖母が亡くなり、おばあちゃんっこだった私は当時大変悲しみました。しかし同時に、そのころから自分が生きていることに後ろめたさを感じるようになったのです。 祖母の亡くなる数年は、介護で本人だけでなく家族もしんどい思いがありました。かくいう私も、あれだけ育ててよくしてもらった祖母に対して苛立ったぞんざいにしたりしてしまった節があります。その後祖母が亡くなり、自分の今までの行いをひどく後悔しました。祖母は自分の楽しみも犠牲にして私を育ててくれたのに、挙句病気で苦しみ死んでしまった、そんな彼女に私はなんてひどい対応をしたのか、もっと優しくはできなかったのかと以来思ってやみません。数年たち、社会人になりましたがあまり仕事は芳しくなく、ここまで育ててくれた先人に顔向けができないとさえ思います。恩を受けるだけ受けてこのざまと思うと生きていることに申し訳なく思います。 こんな私はこれからどんな心でいることが正解なのでしょうか。さらにさもしくも、自分の行ったことが将来自分に降りかかるのに日々おびえています。どうかお智慧をお貸し願えませんでしょうか。
はじめまして。 よろしくお願い致します。 私は決まった宗派に属している訳ではないのですが、以前からお寺と仏像が好きで、あるお寺に月に1度程度なのですが参拝しています。 そのお寺のご本尊はお不動様なのですが、何度も通い拝んでいる内に、何とも言えない心の満足感や安らぎを感じるようになりました。 そこで、自宅でもお不動様を拝みたく、木彫りの不動明王像を購入しました。(ひと目見てとても気に入り、彫刻家の方に直接連絡をとってオーダーメイドで造って頂きました。まだ手元にはありません。) 生活状況から毎日しっかりお勤めができる自信が無い為、開眼供養はしないつもりだったのですが、調べている内にしないで拝むと魔が入るという事を目や耳にし、大変不安になっております。。。 お勤めがしっかりできなくとも開眼供養はするべきでしょうか? そもそもそんな心構えでは仏像を手元に置くこと自体間違っていますか? 魔が入るといるのはどういった事なのでしょうか? 勉強不足で申し訳ないのですが、ご助言頂けると嬉しいです。
オーラのようなもの(?)が見えるという人から、「邪気が無い」と言われました。 その人によると、多くの人に邪気があるそうです。 また、私は白いものを放っているとも言われました。 「無邪気」って、子供に対して言う言葉かと思っていました。 そもそも、邪気とは何ですか? また、お坊さんたちも、一般人には見えない人が放つものが見えたりするのですか?
もう生きることに疲れました。 31歳の誕生日を迎える前に死ぬことにします。 私は毎日明るく楽しく生きています。 職場でも頼りにされムードメーカーとなり、成果が認められ1月から希望していた営業に移籍することも決まりました。 ですが、全て本当はどうでもいんです。 幼い頃から機能不全家族で育ち、お前は家族じゃないから家から出ていけと言われ、日常的に殴られたりしていました。 親に愛されず自分は必要ない人間だと思っています。 そんな私ですが、友だちには恵まれ本当に私のことを愛してくれる人達ばかりです。 ですが、いつも満たされず孤独で虚しい思いを抱えて生きてきました。 自分を必要として欲しいという思いと容姿のおかげか恋人は途切れませんでしたが、結局最後はお前は必要じゃないと言われるのが怖くて自分から別れを告げています。 今年の5月から会社の課長から誘われ不倫を始めました。 すごく優しくて大事にしてくれ愛してくれ、この人は私のそばに居てくれると勘違いしてしまいました。 当たり前ですが奥さんの方が大事ですし、私が1番辛い時も彼は奥さんの方を取ります。 それは仕方ないけど、私が辛くて耐えきれなくなったので別れを告げました。 それから、私はやっぱり誰にも必要とされない人間なんだと確信しました。 馬鹿馬鹿しいと思われるでしょう。 だって、不倫なんてそんなもんだから。 自分でもわかっています。 けど、これはあくまできっかけでこれが自殺のトリガーになっただけです。 最近彼とまた会ってしまい、関係を持ってしまいました。 その時、ちゃんとせフレになろっかと言われました。 そう言われた瞬間、少しでも期待していた自分がほんとに愚かに感じました。 別れる時に彼にどれだけ想っているか、だからどれだけ辛いかを伝えたのに、そういうことを言われてしまうような価値のない人間なんだと確信しました。 友達や姉に死にたいと告げると、とても真剣に励ましてくれ、いつでも私の味方でわたしを助けられるなら、どんな事でもすると言ってくれました。 それを聞いて、私はこんなに愛されているんだと嬉しくなり、これで心残りなく幸せな気持ちで死ねると安心しました。 ここに投稿させて頂いたのは、こんな人間がいたのだと誰でもいいから知って欲しかったのかもしれません。 こんな拙い文書と醜い気持ちを読んでくださりありがとうございました。
ブッダの言うように、 私たちの命は因果の一部を勝手に切り取ったものでしかないとしたら、確かに死の恐怖はなくなります。 ただ、それは同時に、生きることと死ぬことの境界線をなくすことになる気がします。 道元の言う「空」も私たちが「波」ではなく「海」そのものだと気づくことなのだとしたら、それは「全体に溶け込む」ことである「死」と何が違うのでしょうか? よろしくお願い致します。
中学生の娘が自ら命を絶ちました。 シングルマザーで一人娘でした。 遺書もなく発見が遅れた為 葬儀の後数日で四十九日で仏壇も間に合いませんでした。 自殺は極楽浄土には行けないと言うのは本当ですか? 亡くなった場所にずっと留まるんですか? 生きてる間にとてもイジメに苦しんだのに 更に苦しまなければいけないのですか? それとも私が前世で極悪人だから子供を奪われてしまったんですか? 死にたい訳じゃありません。 でもどうしても娘に会いたい。 声が聞きたい。 私を1人こちらに置いていってしまったのは 私の事嫌いなのかな?と毎日悩んでいます。 もっと一緒に居たかったし 色々な所に行きたかった。 でも一番は会いたいしもし独りでまだ寂しい想いをしているなら、一緒に居てあげたいのです。 毎日夢じゃ無かった事に絶望しています。 誰か娘の声を聞かせて下さい。
初めて質問します。 こどもの頃から1つの理想がありました。家族がいて、持ち家があり、仕事をしている自分がいる。誰に言われたわけでもなく、ただ強い意志を持ってそこを目指してきました。 ありがたいことに、20代後半で叶いました。同じような価値観を持った幼なじみがいるのですが、私たちが思い描いた理想を叶えることの難しさ(特に結婚・出産関連)について話すことも多いです。思ったより早くに実現できたなと思いつつ、簡単だったとは思いません。結構大変でした。 問題はここからです。 理想を目指して生きてきました。そしてそれが叶いました。でも、この後どうしたらいいのかわからず困っています。正確には、毎日本当になんとなく生きています。これまで理想を目指して生きてきた身としては、この「なんとなく生きる」ということが非常に後ろめたいです。理想を掲げて生きている人たちのことを羨み・妬んでいます。 何か新しい理想を見つけられればと思いますが、見つかりません。では見つからないまま何となく生きていけばいいのではと思いましたが、そんな選択をする自分も嫌です。結局、ただ時間を浪費をする毎日です。 人生に満足した後、どう生きていくのがよいのでしょうか。 何卒宜しくお願い致します。
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
昨年祖母が亡くなりました。 葬儀は密葬で行い、お寺を通さなかったので祖父や曾祖父母が入っているお墓に納骨しておりません。 当方は結婚して実家を出ている為、このお墓に今後入る予定はないのですが実の両親はこのお墓に入りたくないので祖母のお骨も入れていません。 両親がこのお墓に入りたくない理由としては祖父が他界した時(約20年前)このお寺から戒名代もかなりな高額で、その時の住職さんやお寺関係者の態度も傲慢だったのが父には我慢出来なかったそうです。 その後、事あるごとに実家にとって高額なお布施やとうば代を要求するお寺のやり方についていけないのもあり、お寺の方針を受け入れられないのです。 その為両親はお寺に不満が溜まり、祖母と話し合った結果、祖母のお骨は手元に置いておくという約束を生前の祖母としたみたいです。(当方は祖母から実際にこの話を聞いていないので両親が本音で話しているかは不明ですが…) しかしこの決断を受け入れられない叔父や親戚から「祖母をきちんとお墓に入れるべき・お金の問題ではない・祖母が可哀想」と言ってきます。 父は断固として叔父や親戚の意見を受け入れずにいます。 私は嫁に出た立場なので何も言えませんが、故人のお骨で家族や親戚がいざこざ起こすのは祖母が一番悲しむと思います。 私は今後どのようにしたら良いでしょうか? 私は祖母の意思を尊重してあげたいとも思うし、交友があった親戚が祖母をお参りしたい気持ちも分かります。 ただ喪主である父の意思が固すぎるので何を言っても父は受け入れてくれません。
ご質問させていただきます。 昔から、両親から褒められず、叱られて(怒られて)ばかりで育ちました。 そのためか、誰かから叱られたり、怒られたりすることが怖くてしょうがないです。 物事を誘って、断られるのも怖いです。 例えば、誰かを「今度食事に行きましょう」と誘ったとします。 当然、仕事が立て込んでいたり、他の用事が入っていたとしたら断る、という選択肢はあるはずです。 これが頭で理解していることだとしたら、心で思うことは、こんなことです。 つまり、「私が嫌いだからそういうことを言うんだな」と自動的に思ってしまいます。 怒られる、叱られる場合もそうです。 そういうときには、「私の行動や私によって引き起こされている状況をとがめている」が正しい認識であるはずなのに、「私という人間そのものが否定されている」と思ってしまいます。 ここに書き込む前に、自分なりに状況を消化してみました。 おそらく、自分が大嫌いで、自己評価が恐ろしく低いことと関係はしているのでしょう。 (私は心理学の専門家ではないので確かなことは言えませんが。) 「自分は受け入れてもらえるような存在ではない、否定されて当たり前なんだ」と思ってしまっているからこんな状況が引き起こされているんだと思います。 よく、こういう人に対して、「ありのままでいていいよ」という言い方がされると思います。 「ありのままでいる」ってどういうことですか? なんとなく同じような事ばかり質問して申し訳ありません。 ただ、私という人間の根源にある問題が同じである以上、同じようなトーンの質問になってしまうのは仕方ない、とは思っています。
しょっーも無い質問ですが宜しくお願いします(>_<)ヽ お坊さんで検索し、美坊主図鑑 というのがヒットしましたΣ(・ω・ノ)ノ ぶっちゃけお坊さんてモテますか? ハンサムなお坊さんのいる寺は 参拝者多いでしょうか(・・;)
私の息子は 18歳 今年高校を卒業し 京都 聖護院様にて 得度式を受け 僧侶になりました しかし 障害を理由に 受け入れてくれる お寺が見つかりません 何とか 私が元気な内に 一人でも 生きていけるように したいのですが
はじめまして。 タイトルの通りなのですが、世の中がすごくせっかちです。 みんな、暇を毛嫌いするかのごとく、常にどこか行ったり何かしたりしています。 そして混んでいることに腹をたてたり、マナーを守らない他人に腹をたてたりしています。 休み明けの仕事がしんどいほど、体力を消耗していて、週明けから文句ばかり。 人間関係でも少し間があると、沈黙は悪といわんばかりなムードがあります。 さらに、世の中ではテンポよく簡潔にオチをつけて話すことが要求されており、 じっくり考えて言葉を選んで話すことは、他人をイライラさせるのです。 仕事もそうです。 時間いっぱいにぎゅうぎゅうと予定をつめこんで、みんなが時間に追われてイライラしています。 表向きはキレイなことを言いますが、実際はお客様どころか自分のことさえも大切にせず、お金の利益を上げなければいけないことに神経をすり減らしているように見えます。 空気を読まないといけないせいで、みんな自分を大切にしなくなった気がします。 その空気だって、直接聞いたわけでもない、誰の人格でもない謎のものです。 自分の時間を誰かのために使って、それでみんなが幸せになるなら良いのですが、 自分の時間をすり減らして、心を病んで、今の世の中はどこに向かっているのですか? もっと、空を眺めたり、風を感じたり、自然を見つめたり、ボーッとしたり、 そういうゆったりした時間があって、初めて人に優しくしたり、じっくり人の話に耳を傾けたり出来るのではないでしょうか。 けれど、そういう時間が作り出せない社会になっています。