初めまして。都内の大学に通っておりますトミーと申します。一年生です。 私は小中学校で過去にいじめを受け、それが解決してからも、周りと分かり合えず浮いてしまい、高校に通い始めてからはそんな自分を変えるために明るく振る舞うようになりました。 しかし、それから今になっても、人に弱みを見せたり、薄暗い自分の本性や悩みを人に打ち明けることが出来なくなってしまいました。 大学でも友人は多く、しかし、その中で感じるストレスや悲しみを、人に打ち明けることが出来ません。 否定され、そうでなくとも突き放され、1人になるのが恐ろしいのです。 いつも笑っているので、作り笑いばかり上手くなって、怒ることも泣くことも出来なくなってしまいました。 家族にすら自分の姿を偽り、やっと1人の時間を得て、その時に泣きたくなっても、涙が出なくなってしまいました。 悲しいことも腹立たしいこともたくさんあります。 しかし、もはやそれを表現する言葉も見つからず、ありのまま話すことも、素直にそうしたくても、しようとしても出来ないのです。 私は、人を信じて、助けを求めたいのです。僕の悲しみや怒りが晴らされなくとも、ただそばにいてほしいのです。 私はいったいどうやって人に助けを求めて、どうやって満たされたらいいのでしょうか。 よろしくお願いいたします。
仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。 例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。
仏教は世界に名だたる宗教ですが、最も信者が多い宗教は何と言ってもキリスト教、ですよね?またイスラム教もかなりの影響力がありますし、それらの始祖たるユダヤ教も、アメリカの政経界に強い影響力を依然として持っていると聞きます。 そんな世界的な影響力の持つ、これら一神教が冠する「アブラハムの宗教の唯一神」に対して、仏教がなんのアプローチもした事がないとは個人的には考えにくいのですが、なんらかの仏教的解釈を加えて、仏教の中での位置づけ、みたいなものが決まっていたりするのでしょうか? ヒンドゥー教や神道などの多神教の神々を仏教の中に取り込んでいくのは、日本でも本地垂迹の歴史等があったように、既にやられて来たことですし、個人的にもそこまで波風が立つような事ではないと思います。 が、流石に「アブラハムの宗教の唯一神」を仏教の中に位置づけようとすると、各一神教徒から「そうじゃねーよ唯一神なんだよ!仏の中に入れるんじゃねーよ」と大バッシングが食らいそうで、なかなか難しさを感じます。 他宗教との兼ね合いの話になってはしまいますが、もし仏教として果敢に唯一神を取り込もうとした歴史や、または現役のお坊さんとして私はこう考えているなどありましたら、小生にご教授頂けたら幸いでございます。 ※最後に、小生はあくまで仏教や神道、一神教に対してはズブの素人です。質問文に根本的な間違いがあるかも知れません。その際はお手数ですがご指摘願います。
故人が一番喜んでくれること、故人への何よりの供養、私ができることはどんなことか教えて下さい。 自分なりにこうだと思っていることもありますが、本当の供養をお坊様からご教示していただきたいのです。 私が供養したいのは、20代前半でバイク事故で亡くなった彼です。 私は40代半ばで既婚、こどもが二人います。 どうぞ宜しくお願い致します。
先日 墓前に手を合わせてきたのですが いつもなら ただ心のままに手を合わせ小さい時から耳馴染んできた南無阿弥陀仏と声に出さずとも…なのに 今は亡き父が闘病生活で今まで仏壇すらなかった家に見たこともない位に大きなそれに手を合わせ南無妙法蓮華経と一心不乱に題目してた記憶が頭の中を駆け巡り自然と南無妙法蓮華経と呟いていた自分が居ました。横で手を合わせていた子ども達が不思議そうに私を見て ふ と我に戻ったような気持ちで家についてからも悶々とした状態でした。数ヶ月前から、何度となくハスノハに質問し、有難い回答を宗派問わず色々な角度から聴かせて頂き、座禅会や供養で敷居が高いと遠慮していたお寺にも足を運び 随分と穏やかに過ごせるようになった今 菩提樹もなく仏壇もない自分ですが 一つの宗派にとことん向き合い毎日を丁寧に生きたいと強く思うようになりました。 ただ一つに決める事が出来ず身近な信頼してる人の話しを聞いたり足を運んだりしながらも本を読んでみたり…良いとこどりのズルイ信心だねと 、からかわれたり… しばらく、こんな状態が続きそうで ごめんなさい、コチラで愚痴らせていただきました。 ハスノハは、こんな中途半端な私の拠り所となり有難い居場所です。
ハスノハ書籍本をリビングに置いてます。子ども達と何気ない会話の中でハスノハの本を見ながら自分だったらどんな質問するかな?こんな下世話な事をワザワザ質問してもいいのかなぁ?と呟いてる子どもがいて 「仏様ってB型っぽいね」…すみません。あまりにもショーもない子どもの質問に お坊さまなら、なんと回答してくださるかなと思ってしまいました。大学受験を控え、日本史や倫理の教科書を毎夜✏一所懸命と励んでるのだから、たまには柔らかい?こんな質問にも付き合ってあげようと「AB型っぽくない?」とだけ答えておきました。日本人は血液型に拘りすぎてると言われるけどタイプ的に括りは、なんとなくアルアル血液型…と思う場面もありそういえば、あたしが通っている坐禅の仲間はO型がやたらに多いんですお坊さまはお話しする方3人とも…B型なのです。 たまたまなのですが、、、最後に子どもが仏様は血より濃い違うものが身体に流れてるんじゃない?…と あまりにショーもない質問となりました。こんなですが仏教系大学を一般入試する子どもに幸あれ!です (/-\*) ハスノハで親子の会話を楽しみつつもっと深く話せるようでありたいなとなりました。 質問者:男性18歳…呟き
先日も質問させて頂き複数の回答有難うございました。 彼が自殺でいなくなり7ヵ月が過ぎました。 彼が居なくなり…人は亡くなると本当に【無】になるのだと… 彼の後を追っても会えない事はなんとなく分かるような…最初は頑張って彼の為にも生きて行こうと思いました。でも…それは偽善の言葉で、本当は 意味も分からず残され、他人に責められ…それでも、 人って悲しい思いしても生きて行かなければいけないのでしょうか?? 病気や事故や老衰や自殺どんな亡くなり方でもそれが寿命ならば早く彼のように楽になり…無になりたいです。 もう自分でも理解出来ない事で人に責められる事に疲れました。 死んで無に本当になれるのなら親にだけ詫びて、彼のように楽になりたいです。
私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。
こんばんは。 過去私はいじめをうけ、抵抗できず呪いに手を出しました。 その時はすっきりしたのですが、今になりすごい罪悪感にくるしんでいます。 というのも、私自身が統合失調症になり、幻聴などが聞こえて、過去のことをかなり声としていわれるからです。 呪いはその時は相手が怪我をしたりしましたが、そのあと私もあまりいい目にあいませんでした。 人間関係の不和の悪化やいじめの悪化などです。 今もあんなことしなきゃよきゃったとお持っています。 死んだ後地獄に行くのか生きながらにしてこの病気という呪いを受けていくのかと思うとつらいです。 いじめのときに反抗できなくて、やったことで、いじめられっ子は裁かれず、私だけが裁かれこんな目に遭うのかとたまにすごく苦しくなります。 でも、呪いなんてしなきゃよかった。本当に相手を苦しめたかもしれない。今は神社仏閣で相手の幸せを願っていますが、心がはれません。 どう考えたらいいでしょうか?
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
まだ、おばあちゃんが亡くなってから四十九日を過ぎていません。 おばあちゃんの娘さんが「分骨して欲しい」と言ってきました。 調べた所、遺骨の権利は喪主にあるとの事で喪主の父親に聞いた所、いいと言ってました。 が、まだ四十九日を過ぎてないのに分骨は早いですよね? また分骨の際、娘さんに渡してはいけない部分や父親の元に置いておくべき、供養するために残すべき部分とかありますか? 母親いわく喉仏は渡したらいけないのじゃないか?と言ってましたが……
初めまして。 先日、人生初の写経(般若心経)を体験させていただきました。 そのとき、「執着」からの解放について法話をいただきました。 加減が大事、だとは思うのですが執着しないことで得られる自由な心・発想・幸福感に納得すると同時に、たとえば学生のときなど、100点満点や資格合格にひたすら執着し諦められずに必死に向き合って努力し、手にした達成感や自信などもあることを思い出し、そこで「執着」についてうまい解釈が自分のなかでできずにいます。 実際今恋愛に関しても、気になっている方に粘り強く振り向いてもらえるように頑張ってみようかな?という思いと、もう、5回ほど会って相手と何も進展がないならば、執着しないで次へ向かうぞ!と思うべきか?と葛藤中でもあり、「執着」についての解釈についてもう少し、お坊さん的アドバイスをいただけると有難く存じます。 よろしくお願いいたします!
中学生の息子のことです もともと学力は普通以上でしたが、中学入学後、勉強をしなくなりました 色々と悪事を行い、ただいま児童相談所のお世話になっております 児相の方いわく 息子が勉強をしないのは、勉強する意味を見いだせないからではないか、やる気になれば、学力は十分あるので、力を発揮できるはず 私自身、両親が中卒だったこともあり、学歴は大切だと親から聞かされていましたし、貧乏な家庭に育ったので将来お金の苦労はしたくたい、と思い、何の疑問もなく勉強していました しかしながら、息子自身勉強する意味が分からないと言います お坊さんは、勉強する意味とは、いかなるものだと思われますか?
先日24年飼っていたオカメインコが空に帰りました 最後の2日間一時も人と離れたくないと縋る彼をお腹に乗せて一緒に眠りました 仕事が休みだったので日中もずっと抱っこしてました 最後の日私が仕事に行っている時に母の手の中で逝きました 歳を取って病気がちになり何度も病院にいき薬も嫌がらずに飲んでくれました 彼も寿命を燃やし尽くして死に私も出来ることは全てやったと思っています でも頭では冷静な位理解していても心がどうしても彼を求めて苦しいのです 毎日涙が出ます これは自分の執着心であることも解っているのですが… どうしたらこの気持ちを落ち着かせらせるのか とりとめのない内容で申し訳ありません
去年、酔った相手に突き飛ばされ怪我させられ、その後相手からの謝罪もなく怪我をした当時相手に笑われた記憶が消えず精神的にもまいり、脳に動脈瘤が見つかったり個人的には辛い一年でした。 でも母は、もっと苦労するべきだ、もっと苦労しておけばこんなこともなんともなく忘れられると言われました。 みんなそういうことは普通にあるけど、我慢して生活してるんだよって言われました。 母の言う通りに、こういうことでずっと悩んでいる私は世間知らずなのでしょうか?? どんなこともされても許す心を持つことが大事と言われました。 私が暴行されたことや、病気になったことが大したことでもないのにずっと考えすぎで、むしろ私が我慢できない人間なのかと悩み始めした。 どうしたら我慢し、広い心をもつことができるのでしょうか??
こんばんは。はじめまして。 今年の1月15日に大切な我が子を亡くしました。 あの子は私にとって大切な大切な家族でした。 なのに、あの子が生きている時はあの子が今生きていること、朝はおはよう、 夜はおやすみを言える事が当たり前になってしまい、あの子の気持ちを考えることもほとんど無く、何事も自分優先、あの子たちの事は後回しになってしまっていました。 就職で実家を離れてから一人暮らしになり、仕事から帰ってきたらすぐに出かけ、夜遅くになる事も何度もありました。 去年の11月頃から体調を崩し、良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。 体調が悪くなったら懸命に看護し、悪い間は生きた心地がしないほど心配で心配でたまりませんでした。 なので前日体調が悪そうな様子に気付いた時も、また良くなってくれると心から願っていましたし信じていましたが、それは叶わず翌日の18時58分頃息を引き取りました。 あの子が亡くなってなぜ病院に連れて行かなかったのか、なぜ今までこれで大丈夫だったから今回も大丈夫なんて思ってしまったのか、それ以前になぜ正しい知識をもっと学ぼうとしなかったのか、自分で自分が憎くてたまりません 私の保温不足が原因でした。 14日の昼、お昼休みに家に帰ったとき、元気そうで室温も高かったので、寒暖差がいけないと思いケージ内のヒーターを消して仕事に戻りました。 その後仕事から帰宅し、ただいまーと挨拶し、あの子が元気そうなのをチラッと確認しただけで、自分はお腹が空いたからとお菓子を食べたり祖母に電話をしたりして、あの子がまた体調悪そうにしている事に気づいたのが2時間後くらいでした。 あの子は寒さに耐えながら必死に生きてくれていましたが限界だったのだと思います。 どうしようもない後悔、毎日毎日後悔しています。 私が殺してしまったも同然。私が殺してしまったんです。 なぜ罪のないあの子が死に、大罪をおかした私が今この世に生きているのか、あの子は懸命に生きようとしてくれたのに。 明日で49日を迎えますが、後悔と懺悔、自責の念でいっぱいです。 死んであの子の元にいき、心から謝りたいです。 私にこの世で生きていく資格はないと思いますが 支えてくれている家族や今生きているペット達の為にもこの世で償いながら生きて行かなければならないという事もわかっています。 ですがどう償えばいいのか分かりません。
昔、私が学生だった頃、大学でインド哲学を学んだ人から、こう教えられました。「初期仏教では人に属する欲は全て良くないものと全否定されるが、時代が経てだんだんと欲は肯定されていって、仏教の最終段階である密教では「セックスは菩薩の境地だ!」と教えられるのですよ。そうやって密教では性も含めあらゆる欲が全肯定されるに至るのです!」と。 また同時に、弘法大師を信奉するある僧侶の方が「日本人は怒れないないからダメなんだ!」と仰り、その言葉を持って、先の人からは「(人に対して社会に対して)もっと怒れ!怒れ!」と、私は言われ続けました。 私は{密教では怒りの感情も人間に属する<聖なる属性>として肯定されるのか。。}と思い、それからというもの、私は何かと「怒り」を持って親や世間の人たちに接し、それが故に大きな軋轢を家族や人々との間に作ってきました。 今はそのようなことすべてを後悔しています。 私も老齢を迎えつつある今、お釈迦様の言葉や弘法大師の「四恩十善の教え」を知るなかで、実際のところ、密教では「欲」や「怒り」はどのように扱われるのだろうという疑問が頭から離れません。 彼らが言ったように、欲や怒りは密教では「善きもの」なのでしょうか? そのように肯定されるものなのでしょうか。 お釈迦様の教と密教はそれほど違うものなのでしょうか。 どうぞお教下さい。
非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います
尊敬していた方が亡くなり、お通夜に行ってきました。 地域にとっても貢献したお爺ちゃん医師で亡くなるまで現役でやってた方でした。 お通夜の際、下世話な話になってしまいしますが、とっても大きな葬儀で、お坊さんも3人で拝んでました。 一般的に一人のお坊さんが拝むのと、3人のお坊さんがお坊さんが拝むのは、どぅ違うのでしょうか。 例えば、3人のお坊さんが拝んだ方が、故人が成仏しやすいとか、三途の川を楽に渡れるとか、、、
皆様からの、たくさんの真心のこもったご回答に助けられ、心の苦しみを除く方法を少しずつ理解し実践できるようになったような気がします。本当に感謝しております。 皆様のご厚意に甘えすぎているようで申し訳ないのですが、またご相談させて頂きたいと思います。 望むべきではないと分かっていても、つい望んでしまう事があります。いわゆる「無いものねだり」です。努力で手に入る物は別です。しかし、たとえ喉から手が出るほど欲しくても、諦めなければならない事はあると思います。 それを手に入れている他人が羨ましくなるたびに、「自分には縁が無かったんだよ」とか「私には分不相応なんだよ」と自分を戒めるのですが、私もなかなか欲深い人間で困ったものです、、、。 欲しいものへの執着を捨てて、きちんと諦めるために、どのように心を向ければ良いのでしょうか。