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hasunoha 問答検索結果 : 「 癌 」
検索結果: 846件

母親の死について

昨年末に母親が亡くなりました。最初、父親から連絡がありまず噓だと叫び号泣しました。兎に角信じられず現在も受け入れられず何処かで生きてるんじゃないかと思ってます。正直自分も母親の後を追うと真剣に考えましたけど、何とか踏み止まりました。それからは虚脱感、脱力感、後悔の念ばかりです。母は兎に角昔から頑張り屋で自分が物心付いた時には病室に居た記憶が多いです。癌も患い子宮癌に甲状腺癌と最後は腎臓の透析をしてまして、夜中に大動脈解離で手術は無理という事で亡くなりました。自分と両親は離れて住んでまして私は長野、両親は千葉でして元々母は長野の出身で2年程前には両親は長野に住んでたのですが事情があり弟夫婦と住む事になりました。事情と言うのは、私は長男ですが昔からだらしなく弟の方がしっかり者で兄貴にはこれからの両親面倒は無理と判断したのでしょう、自分が引き取ると言う形になりました。本当に恥ずかしく、情けなく思います。話が逸れましたが私は母ととても仲が良くて買い物や色々と良く出掛けました。他人から見たらマザコンです。兎に角、父も母も弟も皆負けず嫌いで頑張り屋で努力家で自分は皆と正反対の性格で一言で駄目人間です。でもそんな自分にいつも皆は優しく特に両親には一生頭が上がらないです。だからこれから頑張って親孝行したかった。。特に母にはしたかったです。。その矢先に母が亡くなり自分を恨みました。生きてる時に何で何でと思いましたが、親孝行したい時親はなしと言いますが本当にその通りです。今は無念で何かあれば何処でも涙が出て辛いです。今も母の思い出の中で生きてる感じです。人間はいつかは旅立ちますのはわかってますがあの頑張り屋の母がと思うと寂しい悲しい空しい悔しいです。母ではなく自分が代わりにと思いました。後から家族から聞いた話で亡くなる前は私の名前を何度も連呼してたと聞き心が痛くなりました。結局離れて暮らしてからは電話では話たけど合いには一度も行かなかったです。母は痛いし辛かったのを我慢して頑張ってました。本当に辛いです。死にたいと思いますが正直怖いです。私はこれからずっと母の思い出の中で生きてくのでしょうか?どうぞ何卒下らな事ですがご回答の程宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 14
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2025/01/24

父の魂を安心させてあげたい。

昨年の丁度1月24日に、父が膵臓癌を告知されて、余命3ヶ月と診断されました。 治療開始した2月4日に特有の血栓を溶かす治療の最中、溶けた血栓が脳の言語中枢に詰まり、軽度の脳梗塞で話せる言葉を本人が選び、会話出来ていました。 この症状から、自宅での緩和ケアとなりました。父は私が転職して移り済んだ岐阜県に一時は同居して生活していましたが、妹(次女)に姪が生まれ、手が掛かる3歳になる頃に嫁ぎ先の近隣にアパートの一室を買い取り、1人で生活していました。 北陸の冬は厳しく、癌を患い1人アパートに戻す事など体力もなくなった父には酷な事。 岐阜迄200km移動するにも困難な為、嫁ぎ先の義弟の家で2ヶ月世話になり、週末のみ私が行って介護を代わり、平日は妹が介護していましたが、昨年3月末に孫娘、妹・私と義弟で看取りました。 遺体は義弟宅の近隣の葬儀会社に相談し、火葬した後に遺骨を菩提寺のある静岡県に持ち帰り、寺で通夜・葬儀を執り行いました。 岐阜の自宅に共に帰宅後、49日法要で父方の祖父母と叔父・叔母の居る、父執り行い共に建立した墓に納骨しました。 私は父がしてくれた様に、かつて私自身が癌で病に倒れた時と同じ様にしてあげられなかった事、義弟宅で肩身が狭い思いをしながら旅立たせてしまったのではないかと。 時折、離れて居た事で父の病に早くから気付いてあげられなかった事。 そして、父と離婚して長女である歳子の妹を離婚調停まで起こして父を追い詰めた産みの親とも言える母に、「お前がお父さんを殺した!」と言われた事に腹を立てている自分に、「情けない。いつも前向きだった父に合わせる顔がない。」 「寂しいなんて言葉を決して口に出来ない。」 そう思いつつも、毎日父と祖父母、叔父と叔母の位牌にお茶と線香をたむけて、いつかまた父の子でありたい。 そう願いつつ妹達と姪や甥を守ってもらえる様に願っています。 痛みや苦しみから解放されて、家族と共に父の魂がある事を常に願い、時折寂しさに押しつぶされない様にと父と同じ様に前向きでありたいと争っています。 私はこのままでいいのでしょうか。

有り難し有り難し 2
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