実家が寺で、仏教系の大学に通っている僧侶見習いです。 僧侶が社会システムにおいて必要とされる意義が「人に仮初の夢を見せて心のケアをする」以外しか見いだせなくてこれからの将来に絶望しています。 僧侶は、昔みたいに医者の代わりや教員の代わりをする訳でもなく、月回向や葬儀関連で人々の心を慰めるくらいしかしていません。 僧侶が利益(りえき)を得ることを人々は否定します。実際、聖職であるが故に本来は金銭を対価に何かをするというのはあまりに俗に塗れているような気がします。布施はそれ自体が神聖なものであることは分かっています。 しかし結局のところ、(観光という商売をしている寺は除いて)寺やそこにある僧侶という存在は「嘘をついて金を檀家さんや信者さんから貰う」ものに過ぎないのではないか?と思ってしまっているのです。 道徳を説くならそれはカウンセラーでも哲学者でも構わないわけです。 では僧侶が持つ他とは違うアイデンティティとは何かと言ってしまえば「仏教という仏になる為の指針」なのですが、結局のところ今の今まで人の身で完全に釈尊(応身)と同じステージに立った者もいない訳で。 本当に仏となることが出来るかも分からない教え、しかも数多の偽典があるであろう経典の内容を引いてきて、悩める人々に滔々とそれを説く。自分の中ではこれから自分がなる僧侶という職は、そんなもののように思えてしまいます。 私よりも遥かに経験を積み、たくさんの経典を読んだここにいらっしゃるお坊さんの方々に、私の悩みをただ、聞いて欲しいです。そして願わくは、自分の中の仏教に対する、僧侶に対する悪感情を解く何かを教えて欲しいです。 散文的になってしまい、申し訳ありません。宜しくお願いします。
助けてください。 一年半前に、突然、夫が仕事中に事故で死んでしまいました。その時私は妊婦でした。 結婚一周年を間近に迎えていたのですが…一緒に迎えられず、幸せな結婚生活が一年もせずに壊されてしまった。即死だったので死に目にも会えなかった。 本当に愛していたし、愛されていました。真面目に思いやりを持って過ごしてきたのに、こんな事が起こるなんて…神様、仏様さえ呪いました。 夫が死んでから、毎日が灰色で地獄のような日々を過ごし、後追いしようとしたり…泣いてばかりの日々でした。 毎日、あの日仕事に行かせた事を後悔して、死ぬまで後悔するのだと思います。 そんな中、無事に出産し、子供を産んでからは涙も封印しました。子供は愛しいし、責任をもって幸せにするつもりです。 もう、自殺しようなんて思いません。夫の分まで愛情も注ぎます。 その気持ちに偽りはないのに、早く夫のもとに行きたいと思ってしまう気持ちもあるのです。それから、轢いた犯人や夫の会社も憎くてどうしようもなくて。苦しいです。 夫の魂はどこにいるのでしょうか、死んだら又会えるのでしょうか?
私は、最近よく読書をするようになり、そのなかで「禅」に興味を持ち、「100歳の禅語」や「道元『禅』の言葉」などを読んでもっと学びたい、もっといろいろな事を知りたいと思うようになりました。 本屋の宗教や自己啓発のコーナーなどで「これだ」と思う本を探していますがなかなか良いものに巡り会えません。 何かお坊さんオススメの本のはありますか? 「禅」や「仏教」以外の分野でも「これはためになる」「この本はぜひ読んでほしい」「これはおもしろい」というような本があればぜひ教えて下さい。
いいこと何もなし
都内で医師として働いています。 まず勤務時間が長いです。 朝7時までに出勤、休憩は昼食の時間が15分程度(休みなし食事なしの時もあります)、退勤は平均して21時くらいです。早いと19時半、遅いと日付過ぎに仕事が終わります。 月4回程度当直で夜中働いた後、翌日も通常勤務です。 家に帰っても、職場から電話が来ます。土日は8時に出勤して17時頃と、平日より早めには帰れますが、基本的に職場に行かなくていい日はありません。2-3ヶ月に1日、上司の配慮で丸一日休めています。 責任も大きいと感じます。 どんな仕事でも勿論責任は生じると思いますが、ミスすると命に関わることもあるので、心の負担は大きいです。 いつ緊急で職場に呼ばれるか分からないので、遠出もできません。 患者さんに感謝されることはあまりないです。感謝されるために働いているわけではないのですが。 痛い処置や苦しい処置などをする際、文句を言われたりすることもあります。こちらも申し訳ないと思いながら患者さんの状態を良くするためにやっているので、辛いです。 自分で選んだ職業で、給料もそれなりに頂いているので、不満はないです。厳しく怒られることは頻繁にありますが、上司は筋の通った人達で、理不尽なことはありません。 しかし最近、気持ちに余裕がなくなってきています。 死にたいとは思いませんが、こんな働き方していたら死ぬんじゃないか、と思ったりします。 私は女性ですが、生活が不規則だからか月経もなくなりました。最近は疲れて帰宅してお風呂に入るのも面倒です。 一方で、上司からは、私くらいの年代だった頃はもっと忙しく働いていたと言われます。 確かに、一人前になるにはもっと頑張らないといけないとは思います。 辞めたいという気持ちはなく、なんとか心を強く持って仕事を頑張ろうと考えています。 恐縮ですが励ましの言葉などいただけると頑張れそうです。 よろしくお願いします。
12月5日付の新聞報道にアインシュタインの手紙が競売に付され高額で落札されたとの記事がありました。 その手紙に宗教の神に対する否定的な見解が示されていました。 仏教は神がいないことで、宗教ではないと言えます。 仏教の基本は真理と論理による宇宙の真実が語られています。 真実とは、宗教の信仰の有無や宗教の種別に関係なく、すべての人に等しく適用されるものです。 真実の中身は、宇宙のすべてが空で構成され(色即是空、諸法空相)、現実の世界は空が物質に変化したものである(空即是色、諸行無常)と説明しています。 そして論理(縁起の理法)により、身体はその構造が複雑で故障しやすく死に到りますが、構造の簡単な心は死ぬ要因ががなく、通常の心境ではいつまでも生き続けます(輪廻転生)。 涅槃(心を空に戻す)に依る以外に四苦から逃れることが出来ないと言う、瞑想から得た真実の悟りをすべての人に知ってもらう為に、仏教として広めたのです。 心境のレベルによって、涅槃を求める方法が多岐にわたるため、宗派が分かれたと思います。 アインシュタインも、深い洞察でその見解をえたのではないでしょうか?
人間関係に悩んで、疲れました。 私は自分がされて嫌なことは人にしたくないので していないつもりです。 でも大事な人を傷つけてしまいます。 意識的にも無意識でも。 中学高校とずっといじめられっこでした。 仲のいい友達はいるけれど 必ず誰かに無視とか悪口とかがありました。 いまのままじゃだめだって何度もやり直して がんばってもいきつく先は、いつも孤独です。 私はなにか悪いことをしたのでしょうか ただ毎日を幸せに過ごしたいだけなのに。
こんばんは。 どうしよう。涙が出そうです。 病気の事に関しては以前通院していたないかの先生は「もっと前からなってたんじゃないの?」と言われました。 病気でもたいしたことないんですが、今テレビでも話題になっている「バセド病」です。よーく考えてみると先生の言うとおり小学生の頃からだったと思います。よく「目が大きいね」といわれてました。 学生の時は、なんでも興味津々でした。夢もありました。でも今は、やりたいこともないです。前向きになれません。 どうせ死んだって、亡くなった友人に逢えるわけでもないし、将来の旦那様と同じ墓は入りたくないし。 やっぱり一人がいいです。 何故そんなに無縁仏がいけないんですか?
私の宗派は浄土真宗なのですがもっと自分の考えに近い宗派があるのではないかと考えております。宗派を変えることはできるのでしょうか? また、宗派を変えるにはどうしたらいいのでしょうか?
いま、私は難関といわれる国家資格の試験に合格するために働きながら勉強するしています。 合格しないとその先の展望が見えて来ないのです。 私だけでなく家族にとってもそうです。 受験勉強はしていますが、勉強が得意でないため、勉強することが辛いです。仏教では結果は信仰によって左右されないと理解していますが、努力をする辛さを乗り越える術、思考を教えてください。 既に四年間、休日もなく勉強してきています。もちろん成績は上がっていますが、小さい子どももおり、一緒に遊びたい。働きながらのこの生活が辛いです。今の本音を言えば、結果は欲しいけど努力は嫌だ。です。 安直な答えでは、やめたら済むことはわかりますが、応援してくれた妻に対しても、私自身もずっと後悔することはわかっています。諦めたくないのです。自分の中にいくつもの嫌な自分がいます。 どうぞよろしくお願いいたします。
40代、無職、独身、天涯孤独(両親は母親はがんで病死、父親は借金苦で自殺)彼氏も友達もおりません。 学生時代もいじめられて孤独、会社も仕事もできずくびになって以来 引きこもりです。 どこをどうひっくり返しても、幸せだって思えた瞬間もありませんし 体験も皆無です。 無理に幸せと思おうとして生きてきましたがもう ネタ切れです。幸せは考え方次第、ともいいますが本当に、全く ないんです。もし死んだとしても、(孤独死か餓死でしょう、全く相談できる人も理解者もいませんので、たった独りの自分だけの力でどこまでできるかわからないので)悲しんでくれる人もおりません。 この辺信じてもらえないことが多いですけど、本当です!! 餓死=自殺扱いですよね? このサイトで必ず自殺者は地獄へ行く訳で ないというのを読んで少し心が軽くなりましたが、私でも大丈夫でしょうか、、、。必ず地獄送りでないのなら、精一杯できることやって みようかなという気持ちになってきました。 死ぬこと自体は全く怖くないし、この世に未練もありません。 ただ死んだ後まで、もう苦しみたくないだけなのです。 生まれ変わることにも抵抗ありません。 今の自分が消えてくれるなら万々歳ですから。
こんにちは。四海と申します。質問を見ていただいてありがとうございます。 私は最近仏教の魅力を知り、ネットなどを使って仏教について調べて瞑想などにも挑戦しました。そしてあるとき突然猛烈な衝撃に襲われました。自分と周囲が共に呼吸して境目がなくなった感じがしたのです。それ以来痛みや空腹などを感じてもそれらに惑わされることがなく、心がつねに穏やかで喜びと感謝で満ち溢れています。(言語化すると非常に分かりにくい感覚なので拙い表現なのはご容赦ください。)ひょっとして悟ったのかなと思いましたが実際周囲に変化を指摘されたのでやはりそうみたいです。 ここでひとつ伺いたいことがあります。 悟りを開いたら何をすればよいのでしょう。苦しむ人々を助けたいという気持ちこそありますが16歳の小娘に出来ることなどあるのでしょうか。 母や父にはとても相談出来なかったのでここで質問させていただきました。お知恵を拝借したいです。
勉強出来ない。片親にも関わらず、多くの負担をかけている。親に負担をかけまいと沢山嘘をつく。友達いない。 こんな自分が嫌です。嫌で嫌でたまりません。 死にたいです。
先日、年忌法要の為に帰省したのですが、そこで受けた説法が今も引っ掛かっています。 その説法とは『身内葬で済ますのは不幸なこと』『親族の傲慢』といった内容で、 (忘れようとしているのか)細部まで記憶していませんが、とある事情から恥ずかしながら非常に怒りを覚えました。 その事情とは、年忌の前日に別の親族が亡くなり、事情から親族だけの葬儀にしていたからです。 つまり、その説法と亡くなられた親族が被ってしまい、 『なんて身勝手なことを言うのだろうか』という怒りがあったのだと愚考します。 ただ、親族の代表として向かった手前、怒りを堪えたものの、未だにお坊さんが唱えられた話が引っ掛かっています。 身内だけの葬儀は悪いことでしょうか?確かに親族や友人、知人を呼んで大きく葬式を行うのが一般的でしょう。とはいえ、それが絶対かというと腑に落ちません。 また、説法を行ったお坊さんとは今後も顔を合わせることになるでしょう。 その時にどう顔を合わせたものかと思うと、辛いものを感じます。 (今は説法に対する怒りの感情というより、疑問が凝り固まっているような状態です。) 不躾な文ではありますが、ご教示願えればと存じます。 余談ですが、出来れば浄土真宗本願寺派のお坊さんのアドバイスを頂ければ幸いです。 もちろん他宗の方のお話もお聞きしたいです。
先日、仏教についての本を読んで疑問に思ってもやもやしたので質問させていただきました 空である世の中で、お坊さんは空をどのように認識して、認識してその結果、何をしようとしているのですか?どうして今の行動をしているのですか? 僕は全ては認識であり、認識や表現(言葉など)を利用して認識しているみたいな解釈しました 拙い文章ですみません、よろしくお願いします
混沌とした世の中で暮らしていくのが辛く苦しい、この閉塞感の中で平和でもない中オリンピックなど開催しウイグル地区の人達への人権侵害で政府関係者のボイコットなどしても何の意味もなく国の威信をかけての見せかけの平和の祭典に連日お祭りのように報道するマスコミにもコロナ禍とし場当たり的な対応する政府にも嘘が見え隠れし心を保って生活するのが難しく感じています。 ミャンマーのロヒンギャ難民の人達の悲惨さも軍事政権の横暴さにも胸が痛くなります。ミャンマーの人達の解放のためにNPO法人などで助けになろうとされている知人もいます。私も自分の出来ることはと寄付や募金などしていますが、出来ることは少なく苦しい思いです。自分が今あるところで自分の出来ることをして日々生活していくしかないと思いますが、理不尽なことがいつまでまかり通るのかと心が壊れそうです。 都市部は情報が多く心が惑わされることが多いのかもしれません、都市部で働いて都市部で生活するのに疲れました。都市部から離れて自然と共に生活して自給自足までは難しいとしても自然の営みの中での生活をしたいと思います。報道番組はなるべく見ないようにしていますが、連日のコロナ騒動の話題が辛いです。自分の与えられている環境に家族もいて仕事もあることに感謝はしていますが、心のざわめきが抑えられません。どうしたら心を整えて生活していくことが出来るでしょうか、このままでは心が壊れてしまいそうです。
最近、身近な人の死に接する機会が増えました。 友人や親戚の訃報に接し、「やがて自分も死ぬのだ」と死について意識するようになりました。 しかし、理屈では「死から免れない」「生まれたものは必ず滅する」とわかるのですが、自分は「まだまだ死にたくない」という気持ちが沸々と湧いてきます。 事故にでもあわない限り、遅かれ早かれ必ず死の間際を迎えると思います。そのとき、自分はどうしているのか想像がつきません。 宗派によっても死生観がことなると思いますが、死をどのようにして受け入れていったらよいのかご教示賜りたいと存じます。 よろしくお願い申し上げます。 合掌
この前、精密検査をして結果が出る間 不安で不安ですごくうろたえました。 (ほとんどパニックでした) 自身のあまりの「生への執着」に驚いています。 ネットを見ると、私より若い方々が余命宣告うけて それでも強く受け止め、戦ってらっしゃる姿を拝見します。 ホントに心から尊敬します。 自分よりも家族の為に生きれば、恐怖は薄まるのでしょうか? (一応、そのつもりでしたが…) それとも、もともと無だからそれに戻るだけなのでしょうか? どのように考えれば、住職さまのように心穏やかに死への恐怖を 克服できるのでしょうか? これからの人生、うろたえるコトなく過ごしていきたいです。 難しい言葉ではなく分かりやすい言葉で アドバイス頂ければ幸いです。
お寺の後継者について悩んでいます。 私の家は両親と私の3人家族です。 ・私が専門尼僧堂に行く→2年の修業が必要で、おりるときは29歳に。結婚は?出産は?そもそも修行に耐えられるのか? ・お坊さんに婿に来てもらう→御縁がない。 ・父の代で終わらせる。 些細なことでもかまいません。 御意見をお待ちしております。
最近仏教を知り、勉強している者です 疑問がありますので、お教えください 1諸行無常や一切皆苦など、真理のことばであって絶対に変わらない正し ことであるとみたのですが、それとは裏腹に正しいと思ったことは正し くないという真理があると思いますが、でしたら真理は正しいのでしょうか 2涅槃静寂、悟りの境地は安らかである、とのこですが その状態で認知症や記憶喪失にあえば、悟りは消えますかね? もし消える可能性がある以上、涅槃静寂だとは思えないのですが... それと悟りを得ていない者は、認知症や記憶喪失を恐れ、健康でいる ことや記憶をなくさないことに執着してしまうのではないでしょうか 支離滅裂な質問で申し訳ないです 理解できた部分だけでもいいのでご回答待ってます