いつもありがとうございます。 私は45歳になる女性です。 最近、ワクワクする事もなく欲もなくなり何だかつまらない毎日です。 昔は、どこどこに旅行に行きたい!温泉に行きたい!これをしたい、あれをしたい!と色々と行きたい所や、やりたい事がありました。また、洋服が大好きでウィンドウショッピングも大好きで買い物が大好きでしたが洋服を見てもワクワクしません。 趣味や夢中になれるモノがある人が羨ましいです。 夢中になれるモノを探そうと色々とアンテナを張り巡らせますが、これも慣れたらつまらなくなるのかなと思うとやる気が起きません。こんな感じでつまらない人生のまま歳を取るのかなと思うとゾッとします。 既婚ですが、子供はいないので、子供のために頑張ることもありません…
普通ってなんですか? 普通じゃないと何がいけないんですか?
ネットで調べたら躁鬱病のようです。予約制なのでなかなか自分で病院に行けません。疲れました
悩みごとって常にありますよね。今も悩んでいたり、うまくいかないことに苛立ちを感じたり、ストレスで胃が痛くなったりすることもあります。 でもよく考えてみると、5年前に自分が悩んでいたことって今思うと大したことないというか、たとえば当時すごい合わない上司がいて、そんな上司を評価する会社が毎日嫌で仕方なかったけど、今思うとそんなの見返してやるか、会社辞めれば済むだけの話で胃が痛くなるほど何か悩むことだっけ?と思ったりします。 結局人の悩みってなんなのでしょうね? それがわかれば今悩んでることも、大したことないように思える気がしますが、わからないから悩んでるのでしょうか?
ウソをつく 学校をぼいこっと 物をねだって買って貰う 自殺未遂(本当にどうでもいい事で、です) 動物に暴力を振るう モノを盗む など引っ越して転校してから 人が思いつく悪事を昔何度もした自分が憎いです。 過去に戻れないのは分かっていますが、 自己険悪に陥り死にたいです。 どうやって立ち直ればいいですか? ついでにこんな人間は死後大変な事になりますよね?
初めての質問です。読んでくださっているお坊さん方、ありがとうございます。そして、よろしくお願いします。 私は人を助ける人になりたいと思っています。人であるのなら当然のことかもしれませんが、そういう風に考え生活しています。 上記の内容だけでは、良いことのように思えますが、どうしても悩んでしまうのです。 例えば重い荷物を持って運ぶのが大変そうなお年寄りを助けるとき、「自分は良い事をしたいと思ってした」と純粋な優しさなどではなく、ある意味欲求から為しているような気がしてならないのです。 少しニュアンスは変わりますが、「優等生アピールをしている」、もしくは自分の心の中で「自分は優しい人だ」と思い込ませているための手段になっている気がするのです。 純粋な気持ちで「良い事」は出来るのでしょうか?出来ないのであれば、どうしたらこの罪悪感を感じずに「良い事」ができるのでしょう?
林真理子さんの「野心のすすめ」という本が70万部突破と書いてあったので、書店で買って読んでみました。 題の通り野心をもちなさいという本なのですが、読んで私はとても共感し元気にもなりました。上を目指して常に挑戦していくことは大切だと思います。 そしてこの本の中に、何かを手に入れるとまた欲しくなる。煩悩が大きすぎて全部捨て去れないからこそ野心を持てるというようなことが書かれていました。 煩悩って除夜の鐘で叩くのもあって、持っていてはいけないものというように教えられた感じがするのですが、野心を持って上に行きたいということはだめなのでしょうか?私は林真理子さんの本に励まされたので、もっと欲しいと思う気持ちを持つことは人が成長するために必要だと思います。 いかがでしょうか?
犀の角のようにただ独り歩め。 という言葉が私はなんとなく好きですが、これって自分の我を通したり、孤独に生きろという意味ではないですよね? 最近、趣味のテニスでも仕事でも、周りと協力しないとうまくいかないとようやく感じるようになりました。我を通してるだけでは自分もうまくいかないし周りにも迷惑かけるのを体験してきました。犀の角のようにただ独り歩め。というのは一見周りを見ないで自分のやるべきことをやれというのを感じます。間違ってない気はするのですが、冷たい人、思いやりのない人、とっつきにくい人そういうイメージになりそうです。というか私が今、こうなってる気がします。 なぜこのような言葉をブッタはおっしゃったのでしょうか。
もう10年以上も前になりますが、母の命日が近付くと、色々と考えます。 不治の病を宣告された母。いわゆる「手かざし系宗教」の信者である叔母(母の妹)から勧誘され、藁にもすがる思いで行った本山で「あなたには助からない相が出ている」などと訳知り顔で告げられた母。 同行した父親も勧誘されましたが、断ったとの事。 (父も母も、元々は徹底した無宗教、無神論の人でした) 母は闘病中も死の間際も、「私が死んだら○○を宜しく」 なんて言葉は一言も言いませんでした。 私は、人の思考は死を思う為には出来ていないと考えます。 脳はあくまで、身体を効率よく動かし合理的に生き延びる為に、進化の過程で生物が獲得した器官であり、「死」なんて抽象的な思考を弄ぶ為のものではないと思うんです。 死んで肉体の機能が停止すれば、感覚器官(眼や耳、肌など)も停止し、仮に死後が存在するにしても、想像を絶する世界を見て、感じるはずです。軽々と「死後の世界」なんて言えるはずが無いです。 生物の脳も身体も、ひたすら生きる為に作られています。死ぬためにつくられてる訳じゃないです。だからこの脳、この身体で死について考えること自体ナンセンスで、飛ぶ為に作られていない私の手で、鳥のように空を飛ぼうとするようなものです。 お釈迦さまが死後を無記とした真意は… 私は、死後が浄土であれ輪廻であれ、あるいは本当に恐ろしい事ですが正真正銘の「無」であっても、仏教の救いに変わりはないと言う事ではないかと考えます。 人は死なないです。死の間際でも、風邪をひいたように、一晩明ければケロリと治ってると心の奥底では信じて最後の日まで生き続けるのではないでしょうか。 母は死の間際まで死を考えませんでした。少なくとも、口には全く出しませんでした。何かを悟っていたのか、一片の悟りもなく生にしがみついていたのか今では分かりません。 ただ、母の姿を思うと私も生の続く限り全力で生きたいと思うばかりです。 「生きてる時は死んでいない、死んだら生は無い、だから死は存在しない。死を恐れず、生を全うせよ」と言ったギリシアの哲人に、私は賛成です。 こーゆー考えもまた、妄想でしょうか? 「これだけ問答を重ねて、君はまだ何も分かってない」とお叱りは覚悟の上です。 日々、人の死と向き合っているお坊様方の実感を聞かせて頂ければ嬉しいです。
約束をしても、数日後に必ず穴埋めをするからと言って、キャンセルしてきたり、人の前で、バカ、輩、生意気だと卑猥なことをすぐ言ってきたり、平気で仲間はずれにして陥れてくる人が、色々な県に彼女が何人もいてモテるのかなぁ?その彼女さん達の答えは、みんな彼は親切で、頼り甲斐があるとSNSで書いてるの。因果応報もなく、普通に暮らしてるの。
私は、今大学生です。 最近気になることがあり、相談させて頂きました。 私は、相手が自分に向けて話をしてくれているのに、まるで他人事のように聞いている自分がいます。また、自分の人生を自分の足で歩んでいる感覚があまりありません… 何をするにも実感が湧かないというか… その原因は、きっと今まで「親にこうしなさい。」と言われたことをしてきて、何か選択する時も自分ではなくて、親がどう思うかで選択することが多いからではないかな?と思います。 私は、将来親元から離れて生活をすることになるのに、今のままでは自分に無責任で、人任せの人生を歩んでいってしまう気がします。 あと、何をするのにも自分のことではないかのように他人事だと思えば、何か失敗した時、人から何を言われても傷つく事もなく、すぐ忘れることが出来て、気持ちが楽だからかな?と思います…。今まで気付かなかったのですが、最近そう感じるようになりました。 だけど、一度きりの人生。これからは、しっかり自分に責任を持って自分の足で生きていきたいです。「何をするにも親に聞く。」「親に聞けば間違いない。」そんな考えも治したいです。 何かアドバイスがありましたら、教えて頂きたいです。よろしくお願い致します。
【導入】 現在、就活をしており内定は一つもありません。今のところ、人生のどん底状態です。 こんな状態の中、ふと「プライドって一体何者なんだ?」と考える機会がありました。 【やや脱線】 スポーツが苦手でイケメンでもなく高身長でもない私が、唯一勝負できる場所は『勉強』しかないと思い、勉強がいつかは役に立つと信じて勉強してきました。しかし、現在の私はどん底を這いつくばるような毎日です。勉強を頑張れたのも「今は辛くても就活の時にきっと何か役に立つはずだ」と希望を抱くことができたからです。とはいえ、世の中は甘くなく、私の努力は努力しても報われない努力だったのです。就活はボロボロです。その現状の責任は、能力不足の私自身にあります。失礼を承知で言いますが「楽に死ねたら今悩んでることも解決するのに」と何度思ったことか。 【本論】 さて、本題についてです。 プライドとは何者なのでしょうか?例えば「プライドを捨てれば楽になる」という場合、プライドはマイナス的な扱いです。しかし、私が中学からコツコツと勉強をし続けてこれたのは他ならぬプライドのおかげです。「せめて勉強だけは皆んなに負けるわけにはいかない」といった具合です。 私は、プライドとは自身が現在までに頑張ってきた物事を対象に作られる、いわばこれまでの自分の過去の価値を肯定する存在だと思うのです。私の場合は勉強ということになりますが、中高浪大と勉強というプライドがあったからこそ、辛い中でもなんとか頑張れたのかもしれません。「プライドを捨てる」ことができれば、確かに楽になるのだと思います。勉強(学歴)のプライドを捨てれば収入とかは低くても就職できる幅はグッと広がり、楽に生きていけるような気がします。しかし、プライドを捨てる行為は一方で「これまで自分の過去の価値を否定すること」なるのではないかと思います。つまり「今まで多くの投資をしてきて得た勉強や学歴は捨てなさい、価値のないものに執着してはならない」と言うことになりかねないのではないかとも思うのです。 【質問】 プライドとは一体何者なのでしょうか?そして私は、自身のプライドにどのように接していけばよいのでしょうか? 内定を勝ち取った方々は、本当に凄いと思います。心から尊敬します。私は弱虫です。それでも私も今の絶望を通じて、家族の有り難みを肌で知ることができました。
長文失礼します 20歳以下の人は見ないでください 前回すごく怖いんですという質問をしたものです ちまみれのこっくさんやいるかとうなどの言葉を20までに忘れないと死ぬということで前回質問させてもらい大丈夫だという言葉をいただきすこし安心していたのですが結局忘れられずに誕生日をむかえました。 するとその日に烏に頭にのっかられたり昨日から39度7ぶの高熱がでて今日も下がっていません。このまま本当に死ぬのではと不安で不安でたまらないです。もうどうすればいいかわかりません、もう助かる方法はないのでしょうか?自分ではその言葉について調べる勇気がないです。 しかも前回全員が見れてしまう感じにそんな危険な言葉を質問で入れてしまったことも大変なことをしてしまったと思っています。
はじめまして。 早速ですが、私は誰かの一番の存在になりたいです。特に、私を一番に想ってくれる恋人が欲しいという願望にに悩まされいます。 その理由は、心を満たしたいというものです。 私は、心が満たされる程人に愛された経験がありません。カップルを見かけると、嫉妬から殺意が湧いてしまいます。 何故あの人たちは幸せなのだろう。 何故私は愛されないのだろうと、気分が悪くなります。 私自身、何不自由無い生活は送れていますし、毒親で理解者ではないですが、親には愛されているので幸せじゃないと言うのは失礼かもしれません。 ですが、やはり血縁者以外にとっての一番の存在になりたいという願望を抱いてしまいます。これが叶わないのなら生きていても仕方ないと思ってしまうほどです。 この願望は、どうしても友達に求めることは難しいと思います。 とにかく私だけを沢山愛してくれる恋人が欲しいです。しかし、私には誰かに愛されるような魅力はありません。 自己中心的な性格で、コミュニケーション能力は低く、人と会話が続きません。 その上努力が嫌いで、これまで運や親のおかげで生きてこれました。 こんな出来損ないが誰かに愛されるなんて到底思えません。努力をしなければ幸せになれないなら死にたいと思っています。 あれこれ考えているうちに、私は誰かに愛されなくても幸せを感じられるようになりたいと思うようになりました。 しかし、色々試してみても上手く行きません。 そもそも、恋愛とは既に幸せな人がするものであり、心を満たすための恋愛は成功しないだろうという考えはあります。適当な男性で寂しさを埋めることはしません。 なので友達と遊んだり、趣味を探すなどして日々恋愛以外の生きがいを探すことに努めていますが、何をしても根本的には心が満たされません。 昔から友達が少ないため一人でいることが多く、一人行動自体は楽で嫌いではないです。それでも、やはり寂しいです。 私は現在二十歳で学生ですが、人間的な魅力のない自分は誰にも愛されず一人で生きていくべきだと思います。 どうしたら誰かに愛されることを諦められるでしょうか。 お見苦しい長文失礼致しました。よろしければ回答お願い致します。
はじめまして。唯と申します。 私はクリスチャンの両親に育てられ、 形ばかりですが、洗礼も受けました。 今は、教会に行くことも殆どありませんが、 子供の頃は、 クリスチャンとしての躾を受けました。 何か悪い事をすれば、お説教され、 どんなに悪い子だったかお祈りをさせられて、 それからお仕置きを受けました。 好きな物を食べる事を禁じられたり、 外出禁止や、時にはとても痛い思いもしました。 事の善悪を教えて頂いた事には感謝しています。 年齢的に、自分で自分を律する立場になった時、 気が付いた事がありました。 それは、 自分が犯した罪を告白し赦しを乞う事はしても、 十分な『反省』が出来ない、しない、と言う事です。 お仕置きされて、お仕置き嫌さに悪い事をしていなかっただけだと、気付きました。 牧師様に尋ねても『祈りなさい』と言われただけでした。 機会があり、ほんの少しですが仏教の教えに触れる事がありました。 『慚愧』について聞いた時、 益々、反省の出来ない自分に落胆し、それから、 どうしたら反省の出来る自分に変われるかを、 考え続けています。 仏教における『罪』の意味や、『反省』するための考え方など、教えて頂けないでしょうか? 宜しくお願い致します。
どういう状態(たとえばこころの状態など)で生きていれば仏道を歩んでいることになりますか? また、結婚したほうが仏道を歩める場合ってありますか?それとも、仏道を歩みたいなら、結婚は望まない、しないほうがやっぱりいいですか?
先日初めて質問させていただきました。 そこで、お坊さんも色々な戒律や教えに従って日々修行されているのだなと感じました。 そして新たに疑問に思った事があります。 ①お坊さんがパチンコなどのギャンブルをする事はどのような教えなのか? ②お坊さんが風俗に行く事はどのような教えなのか? ③上記の様な事がよろしくない事だった場合、その事をしているお坊さんは少数派かもしれませんが、そういうお坊さんを他のお坊さんは野放しにしているのはどのような教えにのっとっているのか?徹底するべきではないのか? ④お坊さんは高級車に乗っているイメージがありますが、乗る車について何か決まりでもあるのか?また、決まりがないとしたら、高級車に乗っている事はお坊さんとして恥ずかしくないのか? 他にも色々ありますが、とりあえず以上の4つについて出来るだけ簡潔に教えていただきたいです。 日本は無宗派が進んできているなどと言われていますが、お坊さんに対するイメージの変化も影響があるのではないかと思います。 あのお布施はパチンコに使われるのかな...とか、例えそうでなくても心のどこかで思ってしまうのはつらいです。どうしてもやりたいならお坊さんやめてやって欲しい訳です。 「悟りを得る為に良いことも悪いことも経験しよう」という人なら良いのかもしれませんが、悪い事を継続的にやる必要はないでしょうし、第一そういう心構えの人はそういう事をやってなさそうです。欲が絡むのは良くないと思うわけです。 無宗派が進む日本を変えようとするなら 人々を変えようとするのではなく まず、お坊さん自信が徹底して変わっていくのが一番の近道なのではないでしょうか。 最後に ここまで読んでいただきありがとうございました。私の無知さと出しゃばった発言、お許しください。決して、陥れようと思い書いたわけではございません。 ただただ、これからお世話になっていくであろうお坊さんの真実が知りたいだけです。
以前は念仏を度々行っていたのですが、次第にめんどうになりすっかり幽霊念仏員と化してしまいました。 ところが久々に思い出して行ってみると読みながら自分の抑揚や音読速度を感じて、「オレ、別に焦ってないと思ってたけど、何か急いでる感じするし焦ってるんだろうな」とか「何か妙に抑揚強くてアピってなくね?もしかして飢えてるの?」 などと、どこか俯瞰した目線でまだ意識に登っていない無意識下の悩みと言いますか、或いは自分の中の別の自分の愚痴を聞くと言いますか・・・くすぶりだした欲求不満の様なものをある程度察してあげられる効果がある事に気が付いて驚いています。 仏教と言いますと、何かドグマチックな信仰や仏教哲学から入らなければならないという気がしてしまうのですが(勿論仏教には素晴らしい教えが沢山有る事は承知しています。本棚には半分くらいに栞が挟まった仏教の本が沢山有ります!)、なにせズボラなもので・・・単に健康に良いからとか、メンタルケアをモチベーションとして関わっていくのはイケない事なのでしょうか?
僕は家庭環境が複雑で16歳から1人で暮らしています。 母とは連絡をとっていますがもうずっと一緒に住んでいません。 現在僕には父がわりの存在がいます。 しかし父に対して1つだけ不満があります。 それは何に対しても否定的だということです。 父は僕の好きな音楽や、世間のことや、芸能人のことや、僕の友達や恋人、行い、とにかくすべてに対して否定というか批判しないと気が済まない人間です。 僕は父のことを信頼していますのでそういうのを何回も言われると刷り込みのように「そうなのかな?」と思い考えを曲げてしまったりしていました。 そういう感じで育てられたせいか 僕も物事に対して疑いや、批判的になってしまい 友達や恋人と今一歩仲良くなれないというか 悪いところや、粗探しのような面が先に立ってしまうようになりました。 そんな僕ですが、僕には1つ夢があります。 それは僕の希望です。 本当に辛い人生だったが、それだけは嫌いになれないし、ずっと好きなまま続いていて、僕にずっと寄り添ってくれているものです。 僕はそれを仕事にしたいと思っています。 そして、僕の人生は決して普通とは言えるものではなかったけれど それをするための過程であったとするならば 理解というか納得が出来る部分もあります。 最近ではそれが自分の生まれた理由、人生の意味、大きく言えば天命のような気さえしているのです。 しかし、それを捨ててしまったら 僕の心は間違いなく完全に死んでしまいます。 今まで自殺を考えるような辛い場面は何度もありましたが、それが出来ないならその時こそ命を断ってしまおうか、それでもいいんじゃないかとさえ思えています。 そして僕は今年、それを実践、行動に移すことにしました。 しかし、やはりそれに対しても父は否定的で 「まぁやってボロボロになってみるのもいいや」 「世の中そんなに甘くないからね」 といった否定的な意見ばかり出ます。 僕は父に1番の理解者でいてほしかったですが やはり父には理解してもらえない。 父は最近仕事を辞めましたが僕は今まで頑張ったのだからそれでいいと伝えましたし、思っています。 理解しようとしていますが、父は僕のことを本当にわかってくれないし、1番理解や共感、協力してほしい部分で父の理解を得ることが出来ません。 これはどうしようもないのでしょうか?
こんばんは 私は猫をたくさん飼っています。 色んな死に方をした猫を見てきました。 事故死、蛆がわいて亡くなったり、てんかんでなくなったり、生まれて二日くらいでなくなったり。 この世界にはもっと残酷な死に方で亡くなる子もたくさんいると思います。虐待されてとか。 私の命を助けてくれた猫の死は辛くて、私の命を少し分けてあげられたらと思ってしまいます。 私は死んだことがないので、死後の世界がどんな所かわかりません。 でも、死んでしまった猫ととてもそっくりな猫さんが私の所に来てくれて、ああ、きっと、成仏し天国に行き、また生まれ変わる事が出来るんじゃないかと思いました。 どう思われますか?