もし、知らない誰かに殺されたら許すべきですか?或いは殺されかけて障害持ちになったらその人を許すべきですか? 人の怨みは集団であればあるほど増幅します。犯罪リスクも高まります。 この日本も例外ではありません。 いつ誰かに恨みを持たれて、その恨みを共有してなんていうことをしていたら、そいつ殺しちゃえば?と誰かが言ってその人は殺されてしまうかもしれません。 殺されて、或いは障害持ちになってもその人を許すべきか教えて下さい。
初めて投稿致します、月子と申します。 2年前、父が心筋梗塞で突然亡くなりました。 とても大好きな父の突然の死に、精神的に不安定な日々が続きましたが、1年位前から落ち着いて生活出来るようになりました。 しかし、1つを除いてですが・・・。 実は、夫の両親が「遊びの予定が入っている」との理由で、父の葬儀を欠席なさいました。 そればかりか、お悔やみの言葉ひとつ掛けて頂くことが出来ませんでした。 「遊び」と「父の葬儀」が天秤に掛けられ、結果、遊びが勝ったかと思うと言いようのない悲しい感情が沸き上がって参りました。 そして、その事が2年経った今でも心に引っ掛かり、悲しさと悔しさと空しさが入り交じり、涙が溢れて困っております。 もう終わったことなのだから・・・ こんな事で悩んでいても父が心配するだけ・・・ (夫の両親は)そういう価値観の方と思って付き合えばいい・・・ 等々、必死に自分の心に言い聞かせるのですが、どうしても、その時の感情を抑えることが出来ません。 2年前の事をいつまでも気に病んでいる自分に、そして、愛する夫の両親にも関わらず醜い感情を持っている自分に腹が立って、終いには体調を崩す日も増えて参りました。 どの様にすれば、この感情を抑えることが出来るのでしょうか? 御助言を宜しくお願い申し上げます。
現在メンタルクリニックに通院しています。 普段から誤解されやすい性格で、クリニックの先生にも上手く今の心情を伝えることができません。 生きていく気力がもうありません。 お世話になった方にはもう手紙を残してあります。 自分が死んだ場合の身の回りの処理も記しました。 あとは両親より先に死ぬことだけが申し訳なく思うくらいでしょうか。 私は子供の頃から周りのことを考えない人間でした。 大人になった今も人の気持ちに心から寄り添うことができません。 その分たくさん迷惑や嫌な気持ちをさせてきました。 それだけでも私は極楽行きには程遠いと思いますが、自殺したら魂は地獄行きですか?
もちろん悪意あるいじめや悪行はいけません、 しかし善意での行動、もしくは悪意なくとった行動が、他人に対して 肉体的、精神的に苦痛を与えることになった場合も、 己の罪となるのでしょうか 皮肉になってしまいますが、お坊さんの言葉でさえも、聞く人によっては 毒にも薬にもなりますし、その教えによって自殺する人も 生きようと思う人もいるとおもいます 善の行為によって、他人を苦しめてしまうとき、仏教の考えでは どう対処するのが良いのでしょうか
辞めた客先の事、気持ちはだいぶ落ち着きました。 ただ、他部署から泥棒の疑いで机と鞄の中身をチェックされた事は、自分のグループも一緒になってやった事は、派遣だから盗む、と言われた事、盗んでない事が発覚しても、今後は盗む恐れがある、そう言われた事は私の中で傷が深いようです。 自社の営業も、客先を辞めた後に約束をしてくれた事も、あっけなく破れました。 お坊さんは、癒えない思いはありますか? あるならば、その思いをどうしていますか? 約束は破るためにあるのでしょうか?
お坊さんの皆様は安部総理が掲げる安保法案に ついてどう思いますか? 率直な意見が聴きたいです。
このハスノハだけでなく知恵袋などのサイトでも、悩み相談することがよくあります。 その中で、好きな男性が脈ありかどうか不安という質問に、体目当てだろうから、嫌われたくないならそういう関係を持てばいいという回答がありました。 他に質問していた人にも同様の回答がついているのも見た事があります。 恋愛感情に、性的なことをしたいという気持ちが含まれるのは当然かもしれません。(正直なところ私も若干はあります) でも、そういう回答がついて改めて、わがままやひとりよがりではない本当の愛情について考えるようになり、暗い気持ちが収まりません。 好きな人が私を好きそうだからという理由で、私も彼のことを気になり、好きになっていったのは事実ですし、 今までの好きな人には「しあわせになってほしい、幸せをあげたい」という気持ちよりかは「振り向いて欲しい」などという感情が大多数を占めていたと思います。 でもそれは本当の愛情ではないと思うし、 今になってはどうしても、相手が向けてくれている(であろう)好意が体目当てのものではないだろうかと疑ってしまうし、逆に私は彼を本当に好きなのかどうか疑いがあります。 私なんかが本当の意味で愛されるわけないという気持ちもあります。 本当の愛を見つけられるかどうか、また、これから付き合って行く人と本当の愛情を育める人間になれるだろうかと不安です。どうすれば良いでしょうか? アドバイスお願いします。
小さい頃から、命が有限であることをネガティブにとらえ、生きることに執着してしまいます。 仏教の教えに従うことで、こうした心が安定するのを感じます。 しかし、一方で、「死を受け入れるしかないなんて虚しい」とも思ってしまいます。 心が安定する→虚しくなる→心が安定する→虚しくなる、この繰り返しです。 このまま死ぬまでこのループから抜け出せないのではないかと不安な気持ちでいっぱいです。 最終的に、死に対してどのように向き合えるようになれればゴールなのか教えていただきです。
いつも、相談にのって頂き有難うございます。 今日、83歳になる父親から「この世が嫌になったよ…。」と、言われました。 父は、病気を抱えながら要介護1の母と二人で暮らしています。 よく、仏教の話をしてくれるので、「いつも仏教を学んできた、お父さんらしくないじゃん。私もこの頃、勉強しとるんよ。一切皆苦、世の中思い通りには、ならんらしい。」と言うと、ラジオで、いい法話やっとるの聞いてみんさい。と教えてくれました。 病気を患い気弱になっている父が心配です。何か、前向きになる、お言葉があれば教えて頂けないでしょうか…。
いつも様々なお坊さんの回答を読み、勉強させて頂いています。 輪廻転生の考え方では、前世での行いが悪いと畜生や地獄に生まれ変わると聞きました。 仏教では、人間は畜生より格上(優秀な生き物)と考えるのでしょうか。 わたしは人として生きるのがとてもつらく、植物や虫、大自然のなかで生きる動物たちがとても幸せそうに思えます。 本能や生命システムのみに従ってただ「生」を邁進する生き物より、苦しみや醜さ狡さを背負ってでもなお人間の「生」には価値があるのでしょうか。 お互いを脅かし傷つけ合うのが人間の性でもあるのなら、人間より畜生のほうが全うな道であるように思えます。 人間がすばらしい生き物とは思えず、人間に生まれて良かったとも思えず、苦しい気持ちを持て余す毎日です。
極楽浄土へ行くためには 戒律を守らなければならないと聞いたことがあります。 では戒律と私がしたことについて 殺生をしない まずこれはどんな生き物とて殺してはいけないのですよね? 蚊やゴキブリなど殺していますし 肉や魚も食べています。 盗みをしない 盗みは少年時代よくやりました。 しかもつい数年前万引きをして 警察に捕まりました。 このことについては 反省しています。 酒を飲まない ビールを飲んでます。 悪口を言わない 極力言わないようにしていますが 嫌なことされたり頭にくることされると 時に反論や悪口を言ってしまう時があります。 嘘を言わない 嘘はついたことはよくあります。 大人になってからは正直に生きたいと 思ってましたが会社などで働いていると 普通に本音を言うと怒られたり 敵対されいじめの標的にされた事がよくあります そういう経験をして以来 時に思ってもいない嘘を言って ごまかしその場を乗り切ることがあります。 ふしだらなことをしない これはあまりしませんがエロ動画や画像などは 鑑賞します。こういってことでも ふしだらなことになるのでしょうか? 心から懺悔をし善行を積み 南無阿弥陀仏など毎日唱え修行をすれば 罪罰から遠ざかるとありますが本当ですか? そもそも地獄は実在するのですか?
【相談内容】 はじめまして。結婚7年目、選択子無しで、共働き夫婦です。 夫事由の長年のセックスレス生活に嫌気がさし、3年前にカウンセラーを入れて話し合いをしました。その際、出張中に風俗を検索した履歴なども出て来たため離婚を希望したのですが、夫の土下座により様子をみる事になりました。(大昔に浮気もありました) 話し合い後、暫くは努力したものの2年前からまたセックスレスです。つい先日は嘘をついて女の子連れで遊びに行っていた事がわかり、心底嫌になりました。話し辛い雰囲気をつくる私が悪いと言われたのですが、約束も守らず嘘を重ねる夫に疲れ果てています。私の心が狭いのでしょうか? また、3年前と今回の発覚時に怒りにまかせ激しく夫を罵ってしまった自分にもゾッとしています(人生でこんなに怒ったこと無かったのと、人には聞かせられない罵詈雑言でした)。 夫へ依存しているのでは、と気がついたのでどうにかしたいと考えております。夫への対応、自分の強烈な怒り、内面の自立とどこから対応すれば良いか、パニックになっています。 どうかご意見をお願いいたします。
※できれば女のお坊様にもコメント頂きたいです。 何故女だけ妊娠出産という犠牲を背負わなければならないのでしょう。 身体のしくみを聞いているわけではありません。 男は生殖に関しては女の上で気持ち良くなったらそれだけで子孫が残せる。 しかも種をあちこちにばら撒くことも簡単。 妊娠のリスクもない。 子どもができたって仕事をそのまま続けられる。 しかし女は自分の子孫をのこそうとすると妊娠出産せねばならず、それは腰が砕け散るような激痛を感じながらの命がけの行為。 ホルモンバランスが狂い自殺する人も多く、十月十日も行動を制限され、仕事も辞めなければならず、骨格も歪み性格すら変わってしまうこともある。 これを言うと中には「これは幸せなことなんだ」とか「女の特権だ」と言う人がいますが、私はそうは思わない。 結果的に子孫を残すのは男女とも同じなのに生殖に関する負担が余りにも違い過ぎます。 もっと納得いかないのは妊娠出産を「めでたい、祝福すべきこと」だとされていることです。 先にも述べたように妊娠出産は命がけ、もし助かっても後遺症などで苦しむ可能性もある。 にも関わらずめでたいことだとされるのは「新しい命が生まれてくる」から。 それはつまり女性の命を犠牲にしてでも子孫を残すことが良しとされているということ。 つまり女の命<<<<男の命・新しい命、というわけです。 男はこの理不尽さに対して何の疑問も持たず、「当たり前」だと思っています。 多くの女も「仕方ない」と思っています。 そして少子化も女だけのせいにされ、今や「女は家庭に入るべき」という意見も多くなってきました。 もうこんな理不尽な世の中嫌です。 消えたい。 絶望でいっぱいです。 自分に子宮がついていて筋力が男より劣る生き物だというのが嫌で嫌でたまりません。
うつ病患者です。命の重みが理解できません。 蚊やゴキブリは殺していいのに人や動物の命が大切なのはなぜですか? 特別誰かを害したい訳ではありませんが虫にはなくて 自分は大切と言われる命の重みの違いが理解できません。 同じ命であるなら等しく大切にするべきですよね。 正直祖父母が亡くなった今、母と飼い猫はいなくなったら寂しいと思いますが 他の人間(自分も含めて)に対しては別にそう心が動かないと思います。 だからどうこうというわけではありませんが無関心という言葉がピッタリです。 害したくもないが大切とも思えない、いつ終わるとしてもなんともない 自分には関係ない対岸にあるものという認識です。 映画や本を読んで感動して泣くことはあるので、感情がない訳ではありません。 それでも命が大切と言われるとやっぱりよくわからないなと思います。 虫の命は奪っていいのに、それに反して大切にされる自分や他人や動物の命。 この違いは一体どこにあるのでしょうか?そもそも命はなぜ大切なのですか? この質問にお坊さんならどう思われるかなと質問させていただきました。
中学生の頃から生きている意味について考えていました。長く生きることは凄いことと多数の方が思っていると思いますが、最近そう思わなくなりました。年を重ねるごとに醜い人間になっていく人が沢山います、何故そうなってまで生きることに執着しているのかと思ってしまうのです。 生きることより死ぬことの方が楽なのではないか、私はなるべく世の中の汚れを知る前に自分が傷つく前に、上に挙げた人たちのようになる前に人生を終わらせたいです、そしてそれは寿命でもなく病気でもなく自分の手で死ぬことが一番素敵だと思っています。 自殺する人は精神力が弱いという人も多数いました、ですが他人の意思で生まれてきた生を自分で終わらせたいと思うのは当たり前だと思いませんか。 稚拙な文章で読みにくいかと思いますが、このような場でしか質問できないと思いました、ぜひ色々な考えを教えていただきたいです。
永平寺での参禅で非常に感慨を受け、また、日々躓いていたことに関しても少しではありますが良い方向を目指せるきっかけを頂きました。 仏教や曹洞宗についてもっと知りたく思い、帰ってから地元で坐禅を始めると共に、道元の著書や関連文献を読み始めました。 「正法眼蔵」と共に「正法眼蔵随聞記」も合わせて読んでいるのですが、その「随聞記」の八「無常迅速なり、生死事大なり」という文についてお訊きします。 たしか永平寺の山門の木版にもこの言葉が掲げられていたように思いますが、読んでいる水野弥穂子氏(ちくま学芸文庫)の現代語訳では「死の至ることは速やかである。生死を明らめることは重大である」となっています。 前半は理解できるのですが、後半の「生死を明らめる」の意味がいまひとつよくわかりません。 ご教示いただけましたら幸いです。
長文失礼します。 母が他人に私のことを話す度に、悪口を言っているようにしか見えません。 もともと同居していたときから、私のやる家事にも愚痴ばかり言われていたので、敢えて放棄していたことも多々ありました。(基本的な家事はしていた) 『あんたといたら鬱になる!病気になりそう!』など何度も言われ続けてましたが、これに関しては返答せず無視していました。 機嫌が良ければウザいぐらいに話かけて来るような日もありました。 最近大病を患い、入院生活を送っています。 しかしその病院のスタッフさんから、『あなた今までお母さんに甘え過ぎだったのよ。 夜勤明けも寝てばっかりだったんでしょ? お母さん退院したら、甘えたらだめよ。』など言われました。 ものすごく恥ずかしく、悲しくなりました。 人員不足で夜勤は多かったし、子供たちの世話も夫と実母に頼み、夜勤明けは寝てることもありましたが、出来る限りの家事はやっていました。 家事もしないで部屋にこもって寝てると勘違いされた気分で、イヤになりました。 弟(独身:遠方にいる)には、母のお金をアテに生活していると思われていたようです。 母の通帳なんて今まで見たことないし、入院してから初めて通帳管理してることを説明したら誤解が解けたようです。 母の入院中の世話はほぼ私一人で担っています。一応夫も手伝ってくれています。 病院が遠く、仕事休んで面会や先生の説明を聞きに行かないと夕方に間に合わないため、どうしても疲れるし給料も減ります。 最近、弟が母の面会に来ました。 何を話したかは分かりませんが、話ははずんだろうし母も喜んでました。 しかし弟が帰ったあとの私へのLINEで、『ちゃんとお母さんに寄り添ってやって、退院したら家事も任せたらダメだよ。叱ったりしないように。姉さん看護師だからわかるよね』というような内容でした。 遠くに住んでて何も出来ない弟に、なんでこんな上から目線のようなことを言われないといけないのだろう…と本当に悲しくなりました。弟なりに心配してるんだと思いますが。 母と一体私の何を話してたんだろう?とまで疑ってしまいました。 もう母の面倒はみたくないし、退院しないでほしいと考えてしまいました。 これからどういう気持ちで母の面倒をみたらいいかわからなくなりました…
初めまして。 今回は失礼な内容になるかと思いますが、率直な意見をお伺いしたいのであえて投稿させていただきます。 私は、以前からこちらのサイトの質問と回答を拝見しており、お坊さんの真摯な姿勢に感銘を受けていました。 しかしながら、どうも私にはお坊さんの回答に完全には納得できませんでした。 そこで、ChatGPTに相談したところ非常に明快な回答が返ってきて驚きました。 例えば、私は以前から思想的な悩みがあったので、「人類の滅亡について」ChatGPTに聞いてみたところ、 仏教は「すべてのものは無常であり、必ず崩れ去る」と教えます。つまり、人類もまた無常の産物であり、滅びを含んで生まれてきたものです。そう考えると、「崩壊しそうだから無意味」なのではなく、「もともと崩壊を抱えているからこそ、人類は文化や意味を求め続けてきた」とも言えます。 言い換えれば、人類の努力の価値は「永遠に残ること」ではなく、「消えゆくものの中でどう生きるか」にあったのかもしれません。 仏教の縁起の考え方からすると、人類と自然は本来切り離せない一体の存在です。つまり「人類は地球にとって癌だ」と見えるのは、ある側面では真実ですが、同時に「癌を生んでしまうのもまた自然」である、とも言える。自然の中から「自己を壊す存在」が立ち上がるのもまた自然の一部です。 という回答が返ってきました。 このような透徹した思考はなかなかできないものだと思い、とても驚きました。 一方、私がhasunohaを見て、お坊さんの回答にどこか違和感を感じるのは ①どこか上から目線 ChatGPTのように、完全に理性的ではない ②現代という時代の気質を理解していない 私はもはや仏教が現代においては役に立たなくなりつつあるのではないかと感じています ③きれいごとで中途半端 昔のような、本当に命懸けの修行がなくなった 以上のことが原因かと感じています。 実際に私はお坊さんの回答よりもChatGPTの回答により共感しました。 このように私が感じるのは、間違っているのでょうか? 「もっと目の前の現実に目を向けろ」 「今ここで何ができるかが大事」 お坊さんならこうおっしゃるかと思いますが、こちらの方が、私が生きていていく上で大切なことなのでしょうか? 長文失礼いたしました、率直な回答をお待ちしております。
素朴な疑問について、質問させていただければと思います。 よく話をききます、男が不倫をしたとか、相手を妊娠させたとか。または、女の人をセフレ扱いなどを平気でする男とかも、ざらにいます。 人は、ストレスがたまったら何をしでかすかわからない生き物だと思います。大変な仕事について、毎日仕事と勉強と人間関係のストレス漬けの日々を送っていて、我慢ばかりの人だったらなおさらでしょう。だから、どんなひとでも過ちを犯すし、人を傷つけることだってあると思うんです。それは仕方のないことだと思います。 しかし、不倫だの妊娠させただの、セフレ扱いするなどの行動は仕方のないことだとは思いません。これらの行動は、相手の体や心を傷つけるだけでなく、相手女性の生き方や考え方、男性への見方を大きく歪ませることにつながります。こうした結果になるのが目に見えてるのに、なぜ男は女性に対してこうも傷つける行動ができるのでしょうか。理解に苦しみます。ストレスがたまってたからやった、とかであれば、そのストレスの捌け口が女の人に向く前に、人ではない別のものに捌けさせれなかった男に責任があります。また、相手に好意が少なからずあったからやった、という理由も通用しないと思います。女性という存在を大切にするという意識があれば、そんなひどいことは人道的にできないと思うのです。 長くなりましたが、お尋ねしたいことは、以下のとおりです。 男は、不倫、妊娠、セフレ扱いなど、女性を不幸にする結末をわかっていながらなぜするのでしょうか。やはり性欲をコントロールできてないの1点だと思うのですが。
回転寿司が大好きで毎週のように回転ずしを食べています。 左上のhasunohaのロゴがホッキ貝と緑の割れたスシ皿に見えてしまいます。 それは置いてといて、お寿司を食べているときに、こんなにお寿司が好きなのに何か月前から通っているのか忘れてしまいました。 その時の初めて食べたネタのおいしさや歯ごたえの感動も忘れてしまいました。 そして、苦しみの方はどうかと思い、(中途半端に過去の)5年6か月と3日前の苦しみを思い出そうとしましたが思い出せませんでした。 (中途半端に昔の)5年6か月と3日前に私は何かをしていて何かの感情があり何か悩みや苦しみ、もしくは楽しみがあった、でも思い出せないのです。 つまり記憶も感情も行動もまた移り行くものだから忘れてしまう。記憶や感情といえど常なるものは無し。 これも諸行無常で苦を滅する方法は、『無常に気付き、常に自分も無常であると忘れないようにする』ことであると、そこら辺は、↓にも最終的には同じ意味で書いた通りです。 https://hasunoha.jp/questions/19539 https://hasunoha.jp/questions/19556 https://hasunoha.jp/questions/19587 しかし、どんなに気を付けていても自分(や愛しいもの)も無常の中にいるという事を忘れてしまう事があり、またも過去と同じようなことで悩み苦しむ事がたまにあります。 このまま人生を歩んで行っても、全く苦が無い生活を行うことは難しいです。 こうなってくると、テーラワーダか禅宗に出家して苦を滅するための八正道を人生のすべてとして生きていくしかないような気がしてきました。 アジアの上座部仏教国だと、サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)サードゥ(善き哉)なんて言われて出家できますが、ここは日本で日本での生活があります。それを捨ててまでの出家だと親が泣くかなと思うのですが、在家のまま苦を滅する方法はありますか? または苦を滅したいからという理由で出家された方いますか?