前回の質問でも書きましたが、私には難病を持つ息子がいます。 息子は遺伝子の突然変異が原因といわれ、親自身には非はないとお医者さんに言われています。しかし最近思います。では、なぜ息子は障害を持って生まれてきたのか。私がどうしても女の子が欲しくて、3人目女の子授かるよう願ってしまったから?(結果男の子でしたが)これまでの行いや前世での行いが悪かったから? 私の周囲には、人を振り回したり悪口言ったりと人を傷つけたりしてる人がいます。でもその人は元気な子を産み、幸せに育てています。私も気づかぬうちに人を傷つけたりしてきたかと思いますが、悪口など言わないようにしているし、めちゃめちゃ悪いことをしてきたとは思えません。なのになぜ、私の元には元気な子を授かれなかったのでしょうか。 また、よく子供は天で親を選んで産まれてくるといいます。息子も私を選ばなければ丈夫な体で幸せになれたかもしれないし、もしかしたらあまりに私が子を願うあまり神様が無理に私のお腹に宿したのではなどいろいろ考えてしまいます。 障がいのある息子を宿したことは、私への罰なのでしょうか。それとも何か意味のある運命なのでしょうか。他の人ではなく、私が選ばれた差は何なのでしょうか。 お考えをお聞かせください。よろしくお願いします。
主人が亡くなり2年が過ぎました。 それまでお寺とはご縁が無かった上、いきなりの事で選択する余裕など無かった為、紹介されたお寺の檀家となりました。 葬儀を引き受けていただく際に檀家になる事が条件で、断れない状況でした。 今まで親戚や知人の葬儀に参列した事が何度もあり、通や・葬儀・初七日法要・初盆など、必ずお経の後、ひと言ふた事有難いお話をしてくださり、心が和んだものでした。 しかしながら、主人の通やから、三回忌法要まで、一度も法話らしきものがなく、お経が終わるとサッサと帰られます。 私ひとりの時は構わないのですが、沢山参列してもらった時には、違和感を感じております。 40代のご住職なので、お若いわけではありませんし、お布施も少し大目にしているつもりです。 臨済宗ですが、全く法話をしない宗派があるのでしょうか。 また先日の三回忌に、数珠なしでお経を唱えておられる事に気付きました。 大事な法要ですのに、ショックです。 聞くのは遠慮しましたが、きちんと供養になったのか心配です。 今までの立ち振る舞いや葬儀社からの印象など、仏に仕えている立派なイメージがなく、尊敬できません。 主人にも申し訳なく、檀家をやめたいくらいですが、簡単にいかないでしょうし悩んでおります。
私は、最近よく読書をするようになり、そのなかで「禅」に興味を持ち、「100歳の禅語」や「道元『禅』の言葉」などを読んでもっと学びたい、もっといろいろな事を知りたいと思うようになりました。 本屋の宗教や自己啓発のコーナーなどで「これだ」と思う本を探していますがなかなか良いものに巡り会えません。 何かお坊さんオススメの本のはありますか? 「禅」や「仏教」以外の分野でも「これはためになる」「この本はぜひ読んでほしい」「これはおもしろい」というような本があればぜひ教えて下さい。
ものすごく残念なお話を聞いたので、質問させてください。 とある外国人観光客の方が、日本のお寺に立ち寄って軒先を借りて休んでいたら、その寺の奥さんに警察に通報されてしまったというものです。 わたしは、この話を聞いて日本の仏教って何なんだろう、と真剣に考えました。軒先で休む人を、不審者として通報する、そんなお寺に誰が救いを求めたいですか? わたしはすべての元凶は、お寺の坊主さんが普通に結婚し、もはやお寺が宗教施設ではなく、「本堂がくっついた家に暮らす一般家庭」に成り下がっているせいと思えてなりません。 そりゃあ、普通の家の奥さんで自宅に子供もいたら、知らない人が勝手に軒先辺りに徘徊していたら怖いですよ。 だから、先のような宗教施設としては信じがたい通報のようなことも起こってしまうのだと納得ができます。 わたしは、正直日本の仏教に将来はないと思っています。 妻帯し、魚肉を平気で食らい、ブランド服や高級車に乗ることも是とする、そんな人に神聖さなど微塵も感じません。 一般家庭になってしまった寺院へは、気軽に脚を運んで苦しさを吐露しようなどと、私は絶対に思えません。 軒先で休む人を通報する、そんな寺がこの先も増えるのでしょうか。 寺が一般家庭であることを、お寺の当事者のみなさんはどう思われているのですか? 日本人の仏教離れの一員が、お坊さんの俗世化にあるとは思われませんか?
私が28歳の頃、母が半年ほど自宅で闘病した後、ガンで亡くなり、私は自分が自立していなかったこともあり、悲しいのと同時に、とても不安でした。 当時は、人間的にも他にはいないような、やさしい母、私のせいで、私がもっと何かできたのではないかということばかり考えていました。 ここ何年か、さも私や家族が悪いように言いながら、わがままを言ったり、私のためを思っているようで、ただ感情をぶつけていたのではないかと思えるような、母のみっともない面、いやな面を思い出すようになりました。 なにか遅れてきた反抗期のようでもありますし、母親を悪く言う、ひどいことを言うほど私は堕したのかなとも思えます。 母が死んだ年は、うつ状態になり、その後人生で起こることも悪いことが多く、今も引きずっているようなところもあります。 私の現状はいいとは言えず、そういったことも母を思い出すことと関係があるのかなとも思えます。ただ、直接には存じ上げませんが、幸運に恵まれなくても、不幸続きでも、良く生きている人はいるのだろうから、そういうことは理由にはならないのかなとも思います。 母が亡くなって10年以上経ちますが、今も悲しく、さびしいです。つらいです。人並み以上に母がみじめな思いをしたように思えたり、私自身もひどくみじめに思え、母と、なんというか、心のつながりがないように思えます。一方で、以前よりも痛切にさびしさを感じるようになりました。私の人間関係が母しかなかったこともあると思います。母の死が過去のことになっていきません。苦しいです。 なにかの本で読んだように、母のことを思い出し、自分は大丈夫と思えるようになりたいと思うのは、欲でしょうか。 どうして母のいやなことばかり思い出してしまうのでしょうか。 なにかお言葉をいただければ幸いです。
AI、VR、AR、アンドロイド等の話にひどく恐怖を覚え、暗い気持ちになり、他の事が手につきません。 最近、テレビ番組でもネットでも書籍でも、未来技術についての話が非常に多いように感じます。己が気にしているから目に入りやすいのかもしれません。これらの話題やそれに対する好意的な意見を見ると、自分にとって非常に怖い未来がくるように思えてひどく落ち込んでしまいます。 技術の革新は素晴らしいことです。私が今こうして会ったことのない方に質問ができているのも技術革新とそれに貢献した方々の努力のおかげです。感謝しなければなりません。昔より、健康で長生きもできるようになりました。しかし、AIの目覚ましい発展により働かなくても生きていけるようになると言われると、社会の中で必要とされる手段がなくなると考えて怖くなりますし、仮想現実を通して、人とコミュニケーションがとれたり、異世界にいけると言われれば、人間がどんどん人との接触をさけながらコミュニケーションの快の部分だけを得ようしているように思えて怖くなります。 例えば、機械音声が発達していけば人気のあった声優の声を完璧に模倣していつまでも仕事をしてもらう事も可能になるいうのです。 どんどん考えていくと、本物の存在価値がわからなくなっていって、自分の趣味すら意味がないように思えてきます。そして、これらが必ずやってくると記事は豪語してきます。多少大げさに言っているのだと頭では考えるのですが感情が付いていきません。私は、現実で旅行に行きたいし、筆を持って絵を描きたいのです。それを構成する全てが模倣されても。しかしそう思わない人が多くいるように、記事を見るたびに感じます。必要が無い、煩わしいと思う所にもしかしたら、自分にとって大切な物や好きな物がころがっているかもしれないのに、どうしてそんなにも身軽に投げ捨てることができのでしょうか?自分と同じ考えのない未来に行く事がとても怖いです。しかし、未来は変えられませんから、今を大切に生きるしかないとも考えます。しかし、未来がそうなると思うと、ひどく悲しく怖くなって、何もできなくなるし、したいとおもえません。かれこれ、三年ほど同じ事を考えています。人は他人を排除しながら生きていきたいのですか?それは自分を否定する事ではないですか?苦しいです。この悩みから抜け出したいです。
以前もお世話になりました。今回もまたお聞きしたいことがありましてお邪魔しました。 人付き合いがあまり得意ではなく、基本的には皆さんとつかず離れずの距離を保ちつつ生活しています。好かれたいわけでも嫌われたいわけでもなく、毒にも薬にもならない、明日になればそんな人いたかしら?と思われるくらいの存在感でいたいと思い、そのように生きているつもりです。 しかし、何か困ったことがあると頼られたり、アテにされたりすることがあります。引き受けますが本当はとても嫌です。褒められるのも好きではありません。 目の前の席の人の機嫌がよろしくないと、わたしとその人の席の間にある物入れに八つ当たりのようにペンをしまったり、引き出しを大きな音を立ててしめたりします。これもビクビクしてしまいます。 わたし以外の人たちがどこかに集まってひそひそ話をしていることがあります。どうせあの人いなければいいのにと言っていることでしょう。 このように並べると、わたしはもしかして人に好かれたいのかなと思うことがあります。でも本当に存在感のない生き方をしたいのです。誰にも覚えていてもらわなくていいのです。 こういう些細なことを気にせず、皆さんに忘れられるように生きるにはどうしたらいいでしょうか。 よろしくお願いいたします。
結婚して同居した夫の実家は融通念仏宗(大念仏)の檀家です。 40軒ほどの自治会のほとんどが同じ寺の檀家で、自治会の班(組)毎に檀家会の役が回ってきます。5組あるので5年に1度の周期です。 これまでは義母が檀家会の役をしていましたが、高齢のため今年の役から私が担当することになりました。 春秋の彼岸、夏の施餓鬼、11月の如来さん、年末の大掃除など、ほぼ毎月行事があり、寺の内外の掃除やお坊さんや尼講の方への接待などに終日拘束されます。 行事によって夫婦で来るようにとか女性がという風に決められるので、完全に強制です。 私自信は大念仏を全く信仰していないにも関わらずです。 これは信教の自由に違反しないのでしょうか? 自治会と檀家会が一体化していることにも納得できません。 また檀家には家柄や過去のお布施の額で格付けがあり一覧表が配られます。キリスト教などでは考えられないことです。 考えすぎて体調を壊し、離婚や引っ越しも考える毎日です。 何とか近所の方とトラブルになることなく、個人的に檀家会から抜ける方法はないでしょうか。
初めまして。 三歳の一人息子を持つ母です。 親の都合で一人っ子にしてしまう事への意見を頂きたく相談します。 経済的理由、 私の未熟さからこれ以上の子供を育てる自信がない事、 息子が大事すぎて二人目を妊娠・出産する事になった時に息子に寂しい思いをさせるのが嫌な事、 前回の妊娠中に私の体調面で周りに迷惑をかけた事、 などから一人っ子にしようと思っています。 主人も特に二人目を望んではいません。 でも周りは違うんです。 「2人目はまだ?」と何度も言われ、「一人っ子は可哀想」攻撃。 息子を同時期に出産したママ友はみんな二人目を出産済み。 四人家族の楽しい話を聞くと、息子に兄弟を作ってあげられない事に 罪悪感も感じます。 本当は私自身が二人目の子供を欲しいのかもしれません。 でもこれからの生活費の不安や、やっとらくになってきた子育て、 また一から新生児のお世話をする精神的余裕がないんです。 もう出産しなくていいんだと思うと心が楽になったりもします。 周りは子供が2人・3人が当たり前の環境で一人っ子を育てていく アドバイスを頂けませんか。 こんな親の都合で兄弟が持てない息子は、やはり可哀想な子なのでしょうか。
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。