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hasunoha 問答検索結果 : 「好きな言葉」

検索結果: 3854件

どうすれば学校に行けるのかわかりません

学校が嫌いで嫌いでとても行きたくありません。 元々小学4年生の後半くらいから学校への苦手意識が出てきてそれからずっと不登校で今更っていう恐怖心もあるんだと思います 行かなくちゃいけないとわかっていてもやっぱり学校には行きたくなくて、 正直行きたくない理由はないんです、親からはどうせめんどくさいからだろ?と言われてきたんですが、激しい嫌悪感と恐怖心があって 親や学校から「何故行けないんだ、何がダメなんだ、何が嫌なんだ」と聞かれる度ストレスを感じるようになり、 なんで行けないんだろう、理由がないってダメなことなのかな、もしかしたら自分がどこかで甘えているだけかもしれない、ととことんネガティブになっていってしまい 最終的には鬱になりかけるまでになってしまって、日常の些細なことでどうしようもないくらいに死にたくなったり、ふとした瞬間に自分はこれからどう生きていくんだろう、学校も行けずに生きていくことなんてできるのだろうか?こんな自分は生きていてはダメではないのだろうかと考えるようになりました 親からの「こんな子に育てたつもりは無い」や祖父からの「なんで弟はあんなに出来ていて愛想もいいのにお前はダメなんだ?」という言葉を聞くと怖くて怖くて いつか自分は親にも見放されて独りぼっちになってしまうのではないだろうか、親の思い通りに育たなかった自分は死ぬしかないのかもしれない、親不孝だ、死にたい、と何度も思うようになり遂に自傷行為に走りました 誰にも相談も出来ず、元々人に自分の話をするのがとても苦手で、親が連れていってくれた病院のカウンセラーさんや学校のカウンセラーさんにも本当のことは言えずにヘラヘラ笑っていたら結局独りになってしまい 友達にもネット上でもこの気持ちを話せずにいつもいつもただひとりで泣いて、親の前では何も無いように笑って振舞ってそれが本当に苦しくなってここならどうにかしてくれるかもしれない、と思いました 親にも友達にも相談が出来なくて、 というか誰も信用出来なくなってしまっていっつも疑心暗鬼で生きていて、 親が怖くて、人が怖くて 学校に行って親に見捨てられないようにしたいのにやっぱり行けないんです、怖いんです、震えてしまうから怖いんですなのに私の心の問題のせいでうじうじ閉じこもっていて、どうやったら私は学校に行けるようになるのでしょうか

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仏教の今後

仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?

有り難し有り難し 239
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阿弥陀如来様は実在しないのですか?

私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?

有り難し有り難し 194
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妻帯について

こんばんは。 同じような質問を他でも見かけるのですが、改めて質問させてください。話をまとめるのが苦手ですので長くなりますがご容赦ください。 一週間ほど前に出会った海外の僧侶の方に、 「なぜ、日本の僧侶は結婚するのか」 という質問をされました。 私の生半可な知識では到底答えられなかったのでhasunohaで見かけた意見などを紹介してみたのですが、いまいち質問の意図にそぐわない気がしました。 彼が訊ねていたのは妻帯を許されるようになった歴史とか、結婚したらしたなりの別の修行があるから、というようなことではなく、なんと言えばいいのか…もっと根本的なことのように思います。(と、いっても私の拙い英会話力での印象ですが) 会話の中では"不必要な結婚"(わざわざ戒律を破る不可解な行為)とも表現していました。 彼はインドで修行を開始し、その後"世捨て人"(なんと訳せば良いのかわかりませんが、英語ではrenunciantと呼んでいました。彼は家も(自認する)国籍も持たず、各地を放浪しながら乞食修行を行なっているようです)になったようです。不学なので詳しくはわからないのですが、インドでの仏教のあり方に最も共感しているようです。それ故、日本でのこの特殊な仏教のあり方に心底疑問を抱くようで、お寺が世襲制であることにも違和感を感じているようです。また、人によってそれぞれ適した修行方法があるし、だからこそ妻帯者には妻帯者なりの仏道修行があるのは認めた上で、それでも、最終的には乞食修行に行き着くのではないか、とも語っていました。 日本という国や仏教に関心を寄せる身として、「今後空海のような人が日本から出てくることはないだろう」とか、「日本のお坊さんは会社員と同じ(誰でも望めばなることができるし、ビジネスとしてやっている)」などと言われてしまうとなんだか悲しくなってしまいしたし、うまく答えられないことがとても悔しく感じました…。勿論、彼に日本を貶めようとかいう気が全くないことは重々承知の上ですが…。 長くなりましたが、hasunohaに集うお坊さま方は彼の質問"日本の僧侶はなぜ妻帯するのか"にどのようにお答えになりますか?是非皆様の智慧をお貸しください。 彼はまだしばらく近くに滞在しているので、会う機会があれば伝えたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。

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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 412
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障害のある子を授かる意味

前回の質問でも書きましたが、私には難病を持つ息子がいます。 息子は遺伝子の突然変異が原因といわれ、親自身には非はないとお医者さんに言われています。しかし最近思います。では、なぜ息子は障害を持って生まれてきたのか。私がどうしても女の子が欲しくて、3人目女の子授かるよう願ってしまったから?(結果男の子でしたが)これまでの行いや前世での行いが悪かったから? 私の周囲には、人を振り回したり悪口言ったりと人を傷つけたりしてる人がいます。でもその人は元気な子を産み、幸せに育てています。私も気づかぬうちに人を傷つけたりしてきたかと思いますが、悪口など言わないようにしているし、めちゃめちゃ悪いことをしてきたとは思えません。なのになぜ、私の元には元気な子を授かれなかったのでしょうか。 また、よく子供は天で親を選んで産まれてくるといいます。息子も私を選ばなければ丈夫な体で幸せになれたかもしれないし、もしかしたらあまりに私が子を願うあまり神様が無理に私のお腹に宿したのではなどいろいろ考えてしまいます。 障がいのある息子を宿したことは、私への罰なのでしょうか。それとも何か意味のある運命なのでしょうか。他の人ではなく、私が選ばれた差は何なのでしょうか。 お考えをお聞かせください。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 143
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2023/02/05

亡くなった母を思い出して悲しい

私が28歳の頃、母が半年ほど自宅で闘病した後、ガンで亡くなり、私は自分が自立していなかったこともあり、悲しいのと同時に、とても不安でした。 当時は、人間的にも他にはいないような、やさしい母、私のせいで、私がもっと何かできたのではないかということばかり考えていました。 ここ何年か、さも私や家族が悪いように言いながら、わがままを言ったり、私のためを思っているようで、ただ感情をぶつけていたのではないかと思えるような、母のみっともない面、いやな面を思い出すようになりました。 なにか遅れてきた反抗期のようでもありますし、母親を悪く言う、ひどいことを言うほど私は堕したのかなとも思えます。 母が死んだ年は、うつ状態になり、その後人生で起こることも悪いことが多く、今も引きずっているようなところもあります。 私の現状はいいとは言えず、そういったことも母を思い出すことと関係があるのかなとも思えます。ただ、直接には存じ上げませんが、幸運に恵まれなくても、不幸続きでも、良く生きている人はいるのだろうから、そういうことは理由にはならないのかなとも思います。 母が亡くなって10年以上経ちますが、今も悲しく、さびしいです。つらいです。人並み以上に母がみじめな思いをしたように思えたり、私自身もひどくみじめに思え、母と、なんというか、心のつながりがないように思えます。一方で、以前よりも痛切にさびしさを感じるようになりました。私の人間関係が母しかなかったこともあると思います。母の死が過去のことになっていきません。苦しいです。 なにかの本で読んだように、母のことを思い出し、自分は大丈夫と思えるようになりたいと思うのは、欲でしょうか。 どうして母のいやなことばかり思い出してしまうのでしょうか。 なにかお言葉をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 25
回答数回答 4

気持ちの整理について

はじめまして。 しらいこうじと申します。 悩みを相談したいのです。 くだらないと、お思いになるのかもしれませんが、ご意見をたまわれればうれしいです。 私は広島の田舎の出身で、鉄道会社への就職で大阪に出てきました。 大学を卒業し、新卒で就職したので今の会社には9年くらい勤めています。 最近、駅員から車掌の試験に合格できまして、今は研修中の身分です。 駅員時代より休憩時間が増える、出世ではありませんが出世への足がかりとなるということで、ありがたいことなのですが、どうも気分がすぐれません。 どうにも仕事に対する情熱が持てないのです。 それは駅員時代から同じことでした。 なんだか面白くないのです。 向上心が持てず、人間関係にもなじめず、なんとなく不快なのです。 うまく言葉にできませんが、四六時中、不快なのです。 他にやりたい仕事もないので、続けていくつもりなのですが、今の気持ちは落ち込んでしまって、何もしたくないのです。 何も考えたくないのです。 生産性のない人間であると、歳をとるたびに思うのです。 20代と違い、30になると周りの人間もいろいろな物を背負って変わってくるのですが、イキイキしている周りと違い、ただただくたびれてしまった気がします。 どうしたらいいでしょうか? でも今は、何もしたくないのです。

有り難し有り難し 66
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2025/11/14

うつ病の母親との付き合い方について

関東在住の30代です。母親は50代、関西にいます。2年前母が腰の手術を受けましたが、後遺症で身体が一部不自由になり、ショックでうつ病も患いました。 現在体は少し良くなっているようですが、心の方が厄介で、私が疲れてしまっています。 母の手術と私の出産の時期が重なったのですが、産後ぼろぼろな中、母のことを最優先にしてきました。うつ病が酷い時は自殺を仄めかす電話が毎日かかってきて、その都度長時間電話に付き合ったり、実家に飛んで帰りました。実家では気丈に母を励ましていますが、家に帰ると泣いたり夫に当たったりしてしまいます。夫には私も心療内科に行った方が良いと言われましたが、母からいつ電話があるかも分からず、行けていません。夫には「お母さんとは連絡を取らないで欲しい」と言われることもあります。 最近も嫌がる夫を説得して、3週間子どもを連れて実家に滞在しました。その時、1年前は「そんなの無理」と大泣きされた親子3代での散歩ができました。母が好きな場所に、電車で移動をした上でです。 私はつい、母が「生きてて良かった」と思うことを期待してしまいました。しかし、そのような感動は一切無かったようで、むしろ翌日母が口にしたのは「この先1人ではどこにも行かないだろう」といった内容でした。 身体が少し不自由なこともありますが、うつ病で引き篭もったことにより見た目が老けたことを気にしているようです。 私は怒り狂いそうになりました。 これまでどれだけ私と私の家族が母のために人生を犠牲にしてきたのか全く分かっていないし、どれだけ支えても、きっとこの人は自分が1番不幸だと思い続けるのだと、察してしまったのです。 母に「あなたは健康で楽しそうでいいね」と言われないようにおしゃれをすることも控えてきたのに、母が今生きているのは家族のおかげなのに、何も分かっていない。 見返りを求めるのは間違っていますが、この先のことを考えると、さっさと死んでくれた方が私が自由になれると思ってしまいます。実際はそんなことないのに、地獄にいるような顔をして、恨めしそうにいられると、私が何もやる気になれないのです。 思えばうつ病になる前から、母の後ろ髪を引いてくる性格が嫌で家を出たのですが… 家族なので支えるのは当然な気もしますが、支えてもらって当然とも思われたくないです。 私は母とどのように付き合っていくべきなのでしょうか。

有り難し有り難し 36
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友達の相談に素直に乗れません

ある親友がいて、頻繁に会っては互いに話しをするんですが、 どちらかというと私は聞き役で、話を聞いたり、よく相談にのる側です。 はじめはちゃんと聞いていたんです。 ですが、私の悩みに比べたら、どうしてそんなことがつらいの?と どうしても思ってしまうようになってしまいました。 誰の方がつらいってことはないし、その友達の話も真剣に聞いてあげたいんです。今までちゃんと聞いてあげていたつもりでした。 ですが私も色々な出来事があって、精神的にもつらいときがあって そんな時に、その子の話を聞いてると、 何がつらいの?とか たいした事ないじゃない、とか そういう感情がうかんでしまって、、、 その子には直接そんな言葉は言いませんが、 返す言葉が適当になってしまったりして 今はあまり話をしてません。 どうしても比べてしまうんです。。。 私はそんな自分が嫌で仕方ないです。 それこそ、SNSなどでその子がつらい、とか だれか話聞いて、とか書くんですが どうせたいしたことない、とか 何度聞けばいいんだ、とか 醜いことばかり考えてしまいます。 その度に、自分で苦しくなります。 本当はどうしたの?と聞いてあげたいのですが、 また軽くみてしまいそうで、何も反応しないでいます。 今は自分の悩みで頭がいっぱいで、 そんな時どういう気持ちで接したらいいのかわからないでいます。 どうか教えてください。

有り難し有り難し 58
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後悔の毎日

色々と書き込みばかりですみません。 毎日、後悔、喪失感、悲しみに苛まれています。 以前の質問で何度も書かせてもらいましたが、昨年10月に母をなくしました、年齢的にはそういう年になっていますが、勝手にまだまだ先の話と思っていました。十数年前に父が他界し、すぐに母が脳梗塞で倒れました。幸いにも身体に障害はなく、私が引き取りました。 それ以後二人暮しで、ある夜、頭が痛いといい、救急車で病院へ運び、しばらく入院ということで、私は明日入院の用意をして来るよう帰されました。明日またくるからねと、軽く肩を叩きましたが、母はこっちを見ていたが返事はしませんでした。今考えるともう物が言えない状態だったのかと。その時の表情は今も忘れられません。 次の朝、病院から電話で、容態が変わったので来てくれと。行くともう意識はなく、血圧や脈を測るモニターやチューブに繋がれ、点滴されていました。 延命治療の確認をされ、長く苦しむよりはと断りました。以来、高熱が続き、時々苦しそうでした。食事もできず、チューブで胃に流し込み、時々嘔吐。一週間後、洗濯に帰っている間に呼吸がとまり、死に際にも付いていてやれませんでした。 以後、私も病で長期休職し家にいますが、冬がこんなに寒く、夏がこんなに暑い、段差だらけで年寄りには過酷な環境、部屋で、家事をしてくれ、一人で通院し、家族に看取られずに逝きました。 しかも延命治療を断り、死なせ、殺しました。 最後にありがとうも、ごめんも何も伝えられませんでした。悲しみ、喪失感、後悔の毎日です。よく日にち薬とか、医者や知り合いには、そんなことで母は喜ばない、悲しんでいたら故人が浮かばれないといわれます。頭では分かっています。 たとえ一日に一回でも食事をすることに罪悪感も感じます。 ここで教えていただいて、毎日、日中と夕方の二回、お勤めしています。亡くなってからでは何もかも遅い、何度か死にたいと思いましたが、勇気も無く、気力もなく、生きながらえている自分が情けなく苛立ちます。正直、母がいなければと思ったこともありました、けれども今、こんな情けない自分。 自分でも何の質問なのかも分かりません、ただただ自分の気持ちをぶつける場所が欲しかっただけかも知れません。 特にご回答は結構です。申し訳ありませんでした、長々と大変失礼しました。

有り難し有り難し 228
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お寺がただの一般家庭にしか見えません

ものすごく残念なお話を聞いたので、質問させてください。 とある外国人観光客の方が、日本のお寺に立ち寄って軒先を借りて休んでいたら、その寺の奥さんに警察に通報されてしまったというものです。 わたしは、この話を聞いて日本の仏教って何なんだろう、と真剣に考えました。軒先で休む人を、不審者として通報する、そんなお寺に誰が救いを求めたいですか? わたしはすべての元凶は、お寺の坊主さんが普通に結婚し、もはやお寺が宗教施設ではなく、「本堂がくっついた家に暮らす一般家庭」に成り下がっているせいと思えてなりません。 そりゃあ、普通の家の奥さんで自宅に子供もいたら、知らない人が勝手に軒先辺りに徘徊していたら怖いですよ。 だから、先のような宗教施設としては信じがたい通報のようなことも起こってしまうのだと納得ができます。 わたしは、正直日本の仏教に将来はないと思っています。 妻帯し、魚肉を平気で食らい、ブランド服や高級車に乗ることも是とする、そんな人に神聖さなど微塵も感じません。 一般家庭になってしまった寺院へは、気軽に脚を運んで苦しさを吐露しようなどと、私は絶対に思えません。 軒先で休む人を通報する、そんな寺がこの先も増えるのでしょうか。 寺が一般家庭であることを、お寺の当事者のみなさんはどう思われているのですか? 日本人の仏教離れの一員が、お坊さんの俗世化にあるとは思われませんか?

有り難し有り難し 75
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