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hasunoha 問答検索結果 : 「各宗派の違い」
検索結果: 68件

宗派にこだわるべきでしょうか?

お世話になります。 先月父が亡くなりました。 父の実家は真言宗のお寺の檀家ですが、父は長男ではなくまた飛行機の距離に住んでおり、お寺との関わりはほとんどありません。 そのため今の住まいの周辺でお墓を探すことになりました。 母と姉と姉家族、そして私で近所の民間霊園と寺院霊園(浄土宗)の見学に行きました。 私たちは寺院霊園の印象が良く、そちらに決めようとしました。 しかし管理寺院の住職の方に「焦らなくても良い」と熟慮することを薦められ、契約には至っておりません。 そんな中母がやはり今後の法要のことを考えて、真言宗ではない寺院霊園は止めるべきでは、と悩み始めました。 ちなみに母の実家は浄土真宗の檀家だったため、あまり熱心ではありませんが「南無阿弥陀仏」が落ち着くと言っております。 寺院霊園は宗派は問わない、檀家になる必要はない、但し寺院で法要等を行う場合は他宗派では行わない、とのことでした。 このような状況ですので私としては寺院霊園が良いと思っているのですが、母の気持ちを考えると押し切るのは良くないと思います。 ただ生前の父はお経を唱えることもなくまた初詣やお祭りくらいにしかお寺に足を運ばなかったため、信仰や宗派にこだわっているようには見えませんでした。(一度尋ねたことがありますが、こだわっていないとの回答でした。) そのため真言宗にこだわって民間霊園にしようという母の意向に従えない思いもあります。 真言宗にこだわるべきか? 気にしなくても良いのか? 出来れば心の持ち方の御指南をいただきたくお願いいたします。

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茶碗割りと仏壇に供えるお花について

度々此方でお世話になっております。 数年前、父が急逝し、葬儀などを終え、当時大学の試験も数日に迫っておりましたので、ここで単位を落としては折角苦労して大学に進めてくれたのに父に申し訳が立たぬ、と一時地元を離れ試験を無事終えて再度地元に帰った際のことです。 食事を作った際にあったはずの父のお茶碗が見当たらなかった為、親戚に聞いてみた所「茶碗は○○(私の弟)に割らせた」と返ってきてショックを受けました。 何やら「亡くなった人のお茶碗は双方共に未練を残さないために割らねばならない」と教えられ、寡聞にして知らなかったのでネットで検索し、出棺の際に作法慣習として存在することと改めて認識しました。 ですが、私としては追々気持ちの整理が着いてから供養なりして処分をと考えていたので勝手に割られたことに悲しさが拭えません。 元々父があまり物を持たない人なので、父関連のものが少なく、お茶碗も私にとっては大切な父との思い出の品でした。 いくら慣習とはいえ、父のお茶碗を割られた行為が父の物を酷く粗末に扱われたような思いがしました。また、それを当時小学生だった弟にさせたということにもなんて残酷なことを、と思ってしまいました。 数年経ってもまだモヤモヤしているので、どうか振り切るためのお言葉を頂きたく思います。 あともう一つ。普段仏壇に供えるお花はプリザーブドフラワーなどの加工花ではいけないのでしょうか。 盆・彼岸・正月など季節の節目はきちんと生花を供えているのですが、慣習や仏壇事に厳しい親戚からは「生花でないと駄目だ」と叱られます。 勿論供養としては生花の方がいいと思ってはいるのですが、生活ギリギリであまり余裕がなく、お花の値段や日持ちを考えても常に生花を供えるのは厳しいです。 お坊様方の考えはどうなのか気になったのでお聞かせ願えればと思います。 質問が複数で申し訳ないのですが、よろしくお願い致します。

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真言宗なのに法華経好き。(久遠実成と大日如来について)

こんにちは。 私は、家の宗派は真言宗なんですが、実は法華経も好きです。 先日、鴨川に出掛ける機会があり、縁あって日蓮宗の 誕生寺にお参りさせて頂きました。 参拝時は流儀に従い「南無妙法蓮華経」とお唱えし、 法華経について色々と考えさせられるきっかけとなりました。 「観音経」として知られる二十五品や有名な「自我偈」を含む十六品など、 どれも素晴らしいのですが、私が特に好きなのは 仏の命が永遠と知って全世界(全宇宙?)の菩薩が歓喜し、 曼荼羅華が降り注ぎ、天には妙なる音色が響くと言う、 壮麗な仏国土が現前する十七品(分別功徳品)です。 「如是等衆生・聞仏寿長遠・得無量無漏・清浄之果報」 の所が特に好きで、正直この部分を紙に書いて お守りとして身につけたいくらいです。 この世の誰をも救ってあげよう!って大らかさとパワフルさが 法華経の魅力だと思うし、そんな法華経の魅力が結実している 一文だと考えてます。 で、ふと思ったんですが法華経の十六品や十七品で言及されてる 久遠実成は、永遠性や普遍性といった性格が大日如来と共通している のではないでしょうか? 上述の十七品は「仏国土は遠い彼方にあるものではなく、仏の永遠性を 信じれば、この現世こそが仏国土と知れる。」 と主張してるように思えますが、これは大日如来を中心とする 密教の思想にも通じていると感じるのですが如何でしょうか? 私にとって仏様と言えば、実家の仏壇に鎮座する、 きらびやかな衣装をまとった大日如来様です。 子供の時から手を合わせている大日如来様が、 法華経の久遠実成と相通じているなら 何と素晴らしい事か、と考えてしまいます。 厳密な意味での同体ではないにしても、 根底で通じているのではないでしょうか? 少なくとも相反するものではないと思うのですが如何でしょうか? ご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。

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