真言宗霊雲寺派、真言宗智山派、真言宗豊山派とあります。 祖父が生きていた頃は「成田山」へお札をもらいに行ってました。 「成田山」は「真言宗智山派」と書いてありました。 今回、お墓の件で調べていたところ先祖代々のお寺さんが 「真言宗霊雲寺派」という事がわかりました。 お寺自体宗派が変わる事などあるのでしょうか? また、違いなどあるのでしょうか? よろしくお願いします。
先日母方の祖父が突然亡くなりました。病死ではなく、一般的に事故死と呼ばれる亡くなり方でした。 母方の祖父なので一緒に過ごした日々は少ないし、ここ近年は正月盆に顔を合わせても会話もないような関係でした。 でも訃報を聞いた今、悲しくて悲しくて涙が止まりません。泣いて泣いて気付けば朝です。 最近流行しているコロナとは無関係のためお葬式はできるそうですが、感染拡大防止のため、離れて暮らしている私は葬儀には出席できません。お別れが出来ないことが悲しいです。 そして、訃報を伝えるために電話してきた母の涙を押し殺したような声が忘れられません。母にとっては父親ですし、いずれ死の瞬間を傍で看取ることを考えていたのでしょうから、1人で逝ってしまった祖父の最期を嘆くのは当然だとおもいます。そんな苦しい心境であろう母の傍にいてあげられないことも辛いです。 突然すぎで私自身祖父の死をどう受け入れたらいいのかわかりません。漠然と悲しい気持ちだけがあって涙が止まらないです。遠方の祖父の死を受け入れるためにはどうしたらいいのでしょう。 また、私が離れた地で祖父や母にしてあげられることは何かあるのでしょうか。 混乱していてお見苦しい文章になっていると思われますが、ご回答頂けますと幸いです。
お恥ずかしながら、宗教のことに関してほぼ無知の状態でして、お力添えいただきますでしょうか。 先日、祖父のお葬式を終えたばかりで、その際、曹洞宗のお坊さんにお経を唱えていただきました。 けれども祖母は、京都の西本願寺の永代供養に納骨してほしいと希望しております。調べると西本願寺は曹洞宗ではありません。このような場合、西本願寺に納骨していただくことはできないのでしょうか。 宗教について知識のある方に伺うと、けしからないことと言われました。前もってきちんと調べておくことなのでしょうが、日々精一杯で至らずでした。 もし西本願寺で納骨できないのであれば、曹洞宗のお寺を探してお願いすれば納骨していただけるのでしょうか。 祖母は、ゆくゆくお墓の管理をする身内がいなくなることを考え、お寺での永代供養を希望しております。 よろしくお願いします。
昨年、父方の祖父を亡くしました。 先日、母方の祖父を亡くし、 葬儀を終えたところです。 今も悲しく辛いのですが、みなさま尽力してくださり、良い葬儀ができました。 今もそこで見守ってくれているような気がします。 おじいちゃんが大好きでした。 ずっと忘れたくありません。 お盆には必ずお墓参りをしますし、これからもそうします。 話は変わりますが、祖父たちの宗派をよく知らないのですが(無知ですみません。) 私も特定の信仰があるわけではありません(ごめんなさい) 私は死について考えるようになり、世界の考え方を少し調べました。 メキシコの死者の考え方がとても素敵だなと思い、 お盆には変わらずお墓参りはしますが、 11月も、写真を飾り祭壇を作り、祖父を思い出したいなと思いました。 そしたら年に2回祖父に会えるのでしょうか。 やはり、海外の考え方は、意味がないでしょうか。
お世話になっております。 突然ですが、明日、臨済宗のお寺に般若心経の写経体験、座禅体験をさせに行かせていただきます。 ただ事前準備にと思い、般若心経の入門書を購入したのですが、これが法相宗の本だったので、自分が持っているこの本と、明日のお寺様の解釈が異なっていたら、時間も限られているので、ちょっといやだなと思っています。 なのでここで、臨済宗、法相宗、あと、私の亡き祖父が住職をしていた曹洞宗等で般若心経の解釈が異なっているかどうかお聞きしたいのですがいかがでしょうか?
はじめまして。できるだけわかりやすく書くようにいたしますが、途中文章がおかしな所があるかもしれませんがお許しください。 私の父方の祖父は、私が2才の時にがんで亡くなりました。姉達は憶えているそうですが、私は幼かった事もあり祖父の記憶が全くありません。祖母の部屋に飾ってある写真を見て、『あのおじさん誰?』と言ってしまった事があります。 それから私は大人になり、実家を出たので一年に一回は祖父のお墓詣りには行っておりました。昨年子供も生まれ、お互いの祖母や親戚に我が子が可愛がられている様子を見て、これまで祖父の死を意識した事がなかったのに急に祖父に会いたくなりました。一番はやはり、祖父にひ孫を抱っこしてほしいという思いからかもしれません。 それからというものの、今まで知ろうとしなかった祖父の事を父に聞いたり、写真をもらって持ち帰り家に飾っています。その写真を見るたびに寂しくなり、会っていっぱい話したい、聞きたい事がたくさんある、どうして早くに死んでしまったの?という様々な感情を抱きながら日々をすごすようになりました。 祖父からすれば、あのおじさん誰?と言われたし、20年以上時が経ち今更写真をもらって飾ったりして、ひ孫をきっかけに思い出して悲しんでいるなんてとても都合がいいなとあの世で怒っているのでしょうか? そして、日々祖父に会いたいという気持ちが大きくなるばかりです。 この気持ちはどう整理すればよいでしょうか。よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。以前に恩を受けた人から今度は 洗脳に遭いそうになった、と質問しましたが実は続きがあります。 ちょうど1年経ったのでいつもの祈願寺でお札を受け直しました。 数珠と輪袈裟を外して帰ろうとすると、参道から鳶の行列が 纏を振りながら高らかな声で木遣りを歌いながら歩いて来ました。 私の家は代々鳶職を営んでおり、祖父の代でやめてしまいました が、何かお寺等で行事のあるごとに祖父も赤い模様の入った 印半纏(わかります…?)を来てお勤めに出ていました。 ちなみにやはり頭でした。 前夜、私はショックのあまり布団の中で 「クソジジイがとっとと阿弥陀様の腕引っ張って迎えに来いよ、 バーカ!!」と泣き叫んでいたので、本当に心配して見に来て くれたのかと思って輪袈裟と数珠を引っ張り出して着け、 纏に手を合わせて泣きました。 思えば、祖父は祖母の歪んだ教育に真っ向から反論してくれて いました。私が誰かを指差して囁けば、ぶっ飛ばされました。 病院の帰りにレストランでご飯を食べ、夏休みは必ず外へ 連れ出されました。 「ばあちゃんは間違ってる、間違いなく俺より先に逝くから、 そしたら一緒に色々な所に行こう」と言っていました。 ある夏の日、珍しく自分の管理しているマンションの掃除を 手伝わされてから、祖父は差別的な事を一切言わなくなりました。 それも思い出して仕事中に雑巾絞りながら泣きました。 くそ坊主とその一家が怖くて墓参りもできません。 祈願寺は宗派こそ違いますが、お墓に行けない人のために 「供養小塔婆」なるものがあります。月命日等には祈願寺で それを上げ、自分で念仏で回向しようと思っています。 問題ないでしょうか? 最近は、「会いたい、声が聞きたい」とすら思います。 ご意見をお待ちしております。
今年の2月に母が亡くなり、私は嫁いだ身ですが 私の家に母の位牌と仏壇があります。 (父と兄と主人に頼み、快諾してもらいました) 父は2年前に老人ホームに入居して、母が一人で住んでいました。 母が亡くなり、今実家は誰も住んでいません。 私が1日おきに実家に行き、掃除など風を通しています。 実家には祖父の位牌と祖父の先祖代々の位牌があります。 祖父は真言宗です。 (父方の祖父母は、父が10代の頃に離婚しており、 その後は全く音信不通でしたので、 母も兄も私も、お棺の中の祖父が初対面でした。) 母は浄土宗です。 初盆供養に来て下さるお坊さんに相談させて頂き、 祖父と先祖代々の位牌を私の家に持って来て、先祖供養もして頂きました。 祖父にこのまま私の家に居て貰おうかなと思っていますが、 仏壇には阿弥陀様がいらっしゃいます。 祖父の御本尊はどうすれば良いのでしょうか? そのまま実家の仏壇に居て頂いても良いのでしょうか? 祖父は来年三十三回忌です。 来年閉眼供養をして頂くつもりですが、せめてその時まで 誰もいない実家よりは私の家の方が良いのかなと思っているのですが、 孫とはいえ、生前会った事もない私の家じゃ居心地悪いかなとも思い どうするべきか考えています。
祖父が10年前に亡くなった時、母が記憶の中のお葬式の話をして、葬儀屋さんが浄土宗でしょうとなり、お坊さんを手配して、戒名を付けていただきました。 後になって浄土真宗だった事が分かり、お骨は祖父の住まいから近い浄土真宗のお寺に預かっていただいてます。 再婚相手の方がお墓は自分では持つ意思がなく、お位牌もお骨もこちらに渡されたので、そのまま同じお寺にお位牌とお骨を管理していただいています。 10年経つので、永代供養・・・・・・と考えているのですが、宗派をこだわった方が良いのか、戒名は宗派が違うままで良いのか分かりません。 両親もこれから先、遠くに移動が出来なくなってくるので、こちらの近くのお寺にと考えています。
いつもお世話になってます。 私の家は代々仏教を信仰しており、浄土宗だったと記憶しています(法事などで呼ぶお坊さんがそういうお寺だったはずで…)。 そして、私の父方の祖父が、お寺、という形でしっかりとした場所を持っている訳では無いのですが、僧侶の資格を持っており、資格をとる際には天台宗で学んでいます。 私を含め同居する家族などが、命ある人間ですから、いずれは亡くなることもあるかと思うのですが、こういった時って、浄土宗と天台宗と、どちらの宗派に則って葬儀などは行うべきなのでしょうか? また、そもそも宗派によって葬儀などの際のお経などや葬儀の方法など何か違いがあるものなのでしょうか? ふと疑問に思ったので質問させていただきました。 よろしければご回答よろしくお願いします。
祖父が現在危篤状態で、医師から伝えられた余命を過ぎても、奇跡的に生きている状態です。 祖父は昔ながらの仕立て職人で、孫の私に多くのことを残してくれています。 愛する祖父に院号をつけてやりたくて、ご相談です。 祖父が墓を建てたのですが、院号や大姉が多く、墓を建てた祖父に院号がついてないのはやはり気になってしまいます。 祖父が事前に申し込んだ葬儀のセットには、院号の料金は含まれておらず追加の支払いが必要です。 ①いつお坊さんに院号をつけて欲しいとお伝えすべきでしょうか? お坊さんにあってすぐにお願いすべきなのか、戒名をつける前なのか、戒名をつけた後なのかがわからなくて。 ②自分で自分の戒名をつける講習会などや、修行があると聞きました。 意識のない祖父に変わって、孫の私が代わりに参加することで、祖父に院号をつけることはできないのでしょうか? 祖父自身は、負担をかけたくないから院号はいらない!といっていました。 ホームページなどを見ると50万-100万ほどで院号をつけていただけると書いてありました。 学費のために貯めたお金を充てればなんとか工面してやれます。 私の進学を応援していてくれた祖父なので、自分のために貯金を切り崩すとなると、祖父への負担になるのではないかと心配しています。 そのため、なにか別の手が打てないかと考えています。 自分勝手な質問であると思いますが、お知恵をお貸しください。
初めまして、こんにちは。初めての悩み相談ですが、よろしくお願いします。 実は今月の8日に祖父が亡くなりまして、祖父はとある宗派の元住職でして、私たちが檀家になっているお寺の方でひっそりとお葬式を挙げさせていただきました。ところが、その次の日に、担当して下さったお寺の住職様からいきなり、「檀家とお寺の付き合いをやめさせて頂きたい」と言われまして、狼狽していたところ、周囲の人々に私たちの悪口を言っていると耳に入りました。 仕方が無いので、母が祖父の末弟(こちらもお寺の住職をされている)に相談したところ、先回りされたのか、ここの息子さんに「あの人はヤクザと一緒にいるから気をつけた方がいいよ」って言われたらしく、息子さんが信じてしまって、話を聞いてくれない状態です。 ちなみに「ヤクザ」呼ばわりされている方は、母の知り合いの方で、祖父の最期を一緒に看取ってくれたり、葬式のことも手伝ってくれた方です。 ということがあって、檀家を追い出される状態になってしまいました。私は、祖父から墓守を任された以上、何とかしたいと思っているのですが、どうすればこの問題を解決出来るでしょうか。 長文になってしまいましたが、どうかよろしくお願いします。
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願い致します。 私は祖父が昨年亡くなってから祖父の信じる仏教の宗派を知り その本山のお寺について知りました。 それから私はそのお寺に御参りに行きたいという思いが 生まれたのですが 御参り行けば何か祖父について 感じられることがあるのではないか という気持ちや祖父にしてあげられなかったことの後悔が どうにかなってくれるのではないかという気持ちがあります。 そういう自分勝手な気持ちでお寺に行っても失礼に なりませんでしょうか。 浄土真宗本願寺派なのですが本山は京都の 西本願寺で行けることができるのは来年になってしまうとは 思うのですが。。 何ともあいまいな質問で申し訳ございませんが お答えいただければ幸いです。
見つけてくださってありがとうございます。お恥ずかしい話です。 祖父の命日も三回忌もすっかり忘れてしまいました。そして、菩提寺不明、故人と私は違う宗派な状態ですが、宗派が違うお寺さんに拝んでもらってもいいのでしょうか。 私は、臨済宗妙心寺派の宗派です。 私の父方の祖父(故人)は、私と同居しておらず、おじ夫婦と一緒に暮らしていました。元々おじ夫婦は、私と同じ宗派だったのですが、おじが仏教系の新興宗教に入りました。祖父はわけもわからないまま、その新興宗教に入っています。 おじの新興宗教入会(?)がきっかけで、おじと他の兄弟で分裂し、音信不通です。 時間がたつにつれ、私の父は故人に、兄弟達は病気に、で、動けるのが私だけとなりました。 おじは新興宗教(先祖供養を大切にしている、とネットに書いてありました)に一生懸命な人なので、もしかすると、法事をしたのかもしれません。宗派によってはしないのかもしれません。しかし、歴代の同じ宗派の先祖の法事をやらなかったことを考えると、祖父も…と考えてしまいます。 三回忌も命日も忘れ、どうしようと悩んでいます。 三回忌に間に合っていないのに法事をしてもいいのでしょうか。 位牌もなにもない、菩提寺もわからないですし、宗派が違うのですが、お寺さんにお願いしてもよいのでしょうか。 唯一わかるのは、お墓です。 よろしくお願いします。
初めて質問をするものです。 3日前に祖父が突然他界しました。祖父は金物の職人で、趣味は仕事と車でした。性格は優しくて、誠実。堅物ですが、家族を何よりも1番に考えている人物でした。 突然死で亡くなる前日に祖父と普通に会話をし、亡くなる直前まで仕事をしていました。そして、好きな車の中で亡くなりました。 急なことで驚きが強かったですが、現在は少し落ち着いて祖父の死を受け入れつつあります。 そんな時に思うのが、10年前に病死した祖母のことです。 祖父と祖母はあの世で出会えているのか心配です。 私の家の宗派は浄土宗です。あまり宗教に詳しくないので極楽浄土がどんな所か想像が出来ません。 祖父は祖母が亡くなってから寂しかったと思うので、出会っていて、楽しく過ごして欲しいのが私の願いです。 あの世や極楽浄土があるなら祖父と祖母は出会えているのでしょうか? そして、私や他の家族が死んだ時、また家族みんな出会うことが出来るのでしょうか? お答えして頂けると嬉しいです。
こんにちは。今回、正信偈についてお伺いしたいことがあり、質問させていただきます。 先月亡くなった祖父のことが何かにつけて思い出されるのですが、自分なりの方法で供養をしてあげたいと思っていたところ、祖父自身が「両親(私から見て曾祖父母)の供養のため」として正信偈を書写していたことを思い出しました。15年ほど前のことになります。生前に書き残したものによると、長年交友のあった知人の方から書写を勧められたとのことです。 こうした祖父のおこないに自分自身を重複させることで、祖父の旅立ちが安らかなものになるようにしたいと思っています。同じ浄土真宗でも唱え方は宗派によって少し異なるようですが、書写に際して気をつけるべきことがありましたら教えていただきたいです。本当は法要でお経を上げてくださったお坊さんにお尋ねするべきなのですが、孫の私が聞くのも差し出がましい気がして、この場で質問してみようと思いました。 正信偈のなかで説かれている教えについてもこれから勉強していかなければならないような段階ですが、何卒よろしくお願いいたします。
先日、祖父の葬儀を終えて以来仏教に興味が湧いてきたので勉強したいと考えたのですが、まずどこから何の知識を得たらいいのかわかりません...。 宗派などもよくわかっていませんし...。 仏教初心者はどこから学ぶべきでしょうか??
浄土真宗に限ったことになってしまい申し訳ありませんが… 祖父が先月23日に亡くなり、5月中旬手前ごろに七七忌を行います。 それよりも前になってしまいますが、すでに仏壇を購入し、5月3日に入仏法要の予定です。 お坊さんの視点で教えていただきたいのですが、この際のお布施の表書き、金額はどういった感じになりますでしょうか?? また、無知で申し訳ないのですが、ほかの宗派でもこういったことはあるのでしょうか? (興味があります。) よろしくお願いします。
今朝祖母が亡くなりました 2日前に体調を崩して入院し、あっというまの出来事でした。 幸い私は1度面会ができ、本日も看取ることができました。 祖母は急に亡くなってしまったのですが実は祖父が1年前から危ない状態が続いていました(現在入院中) 祖母は生前「おじいちゃんが心配だよ」「おじいちゃんが家にいないから寂しいよ」と言っていました。 亡くなる1週間前には「おじいちゃんと面会したとき寝てたけどギュッと手を握ってくれた。そのときに「ありがとう」って言葉が出なかったんだよなぁ…おじいちゃんにありがとうって伝えたいなぁ…」と呟いてました。 世話焼きの祖母と末っ子長男の祖父。 祖母は最期まで祖父のことを気にしていたと思います。息を引き取る際に「おじいちゃんのことは任せてね」と伝えることはできました。 3日後に葬儀を控えてます。 孫としてしてあげられること、祖母が祖父のことを気にせずあちらへいけるか、どのように送り出してあげるのが良いのでしょうか。 ちなみに宗派は天台宗です。 近しい身内が亡くなることが初めてなのでご教授いただければ幸いです。
3年前に父が亡くなり、うつ病となってから、自分の心を整理するために宗教・哲学・心理学など様々な本を読みました。 その中でも自分の腑に落ちたのは仏教の教えです。釈尊が説かれた「諸行無常」「諸法無我」の教えは、抑うつ症状に苦しむ中での支えとなっています。 しかし、一方で仏教を学ぶにつれて迷いが出てきたこともあります。それは、我が家の宗派である浄土宗の教えについてです。 我が家は祖父も父も信仰に厚い人だったこともあり、私も毎日遺影の前で念仏を唱えて回向することが日課になっています。しかし、自分なりに様々な宗派の教えを学んでいく中で、法然上人の説かれた「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」という教えにある種の苦しさを感じるようになってしまいました。 日によって体調が安定せず、中々快方に向かわない現状が続く中、「阿弥陀様におすがりする」という考え方が、自分の中で上手く飲み込めないように感じてしまっています。 最近ではむしろ「それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。」という弘法大師の言葉のように、「自分の心と向き合う」ことに考えが向いているところがあります。 自分の心の問題は時間をかけて解決していけば良いとしても、今悩んでいるのは毎日の回向についてです。上記のような迷いを抱えたまま、念仏を唱えることは問題ではないでしょうか。やはり心が伴っていなければ回向に意味はないのでしょうか。父の祥月命日がもうすぐという中で、悩みが深まっています。 家族にも医師にもカウンセラーにも相談できない中で、「ハスノハ」さんを見つけました。お答えをいただけますと幸いです。