「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」 これが第二のキーフレーズです。 「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。 横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。 従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。 「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。 ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。 では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。 「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。 「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。 同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。 「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界 乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」 「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。 以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。 明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。
一般素人がお経唱えても大丈夫ですか? 前にどこかで、般若心経を一般素人が唱えると幽霊が寄ってきて危険。みたいなのを聞いたんですが、本当ですか? また、除霊効果のあるお経や、霊感上げる効果のあるお経ってあるんですか? よろしくお願いします
仏師になろうと思い、本日届いた般若心経と金剛般若経の本を読みました。 そして私なりの解釈をしたのですが、間違った解釈をするといけないと思い、専門家の方々に聞こうと思いました。 私は赤子に戻って本を読んで思ったのは、「全ては空である。」です。 空とは無であり無限であることだと思います。 人間は苦しみを持ちますが、それはあると思うからあるのです。 本当はそんなものはありません。 さらに言えば自分というものさえありません。 とはいえ、世界が無なのではありません。 その逆に世界は無限です。 何故ならば、個がないのだから、他者も自分、万物も自分だからです。 全ての人々が他者も自分と思えば世界から苦しみがなくなります。 般若心経が呪文で終わっていたのが印象的でした。 頭でっかちになりがちな現代人に対する大変効果的な修行です。 金剛般若心経の「○○といったから○○ではない。それ故に○○である」の部分も興味深かったです。 確かに空となったらそうなります。 他者との視点と自分の視点の事象を、空としてとらえると面白い論理になると思いました。 総じて懐かしい感じがしました。 不思議なことに以前から知っていたような気がします。 人は誰しも生まれる前に仏の説法を聞いて生まれてくるのかもしれません。 私の般若心経の解釈はあっていますか?
はじめまして。 6月に母親の十三回忌で命日前にお墓参りに行くのですがその時に知人がお墓で般若心経を唱えると言っているのですが私的には少し悩んでいます。 母のお墓は田んぼの中にあるお墓でお寺の檀家になっている訳ではないのですが納骨の時顕本法華宗のお寺にお願いしました。詳しくは分からないのですが母が亡くなって私が仏壇を引き継いでいるのですがお線香立てに日蓮正宗の鶴のマークがあります。父もすでに他界しており兄に相談したら身内でもお坊さんでもなく覚えたての般若心経を知人が母のお墓で般若心経を唱えるのを良くは思っておりません。元々法事はやっておらずお墓参りだけにしてました。宗派に関係なくお墓で般若心経を唱えても問題ないのでしょうか?
いつも丁寧に回答していただきまして、ありがとうございます。 私は小学生の頃6年間毎週お寺に通っていました。日曜学校と呼んでいました。友達と一緒にお経を唱えたり座禅をしたり和尚さんの話を聞いたりととても楽しい時間でした。 日曜学校に通っていたことで般若心経などのお経を唱えることができます。 質問なのですが、 年に1.2回ふとした時になぜか般若心経を唱えたくなります。 どうしてなのでしょうか? そして何もないのに家で1人で般若心経を唱えても良いものでしょうか?
高校生です。よろしくお願いします。 最近般若心経というものに出会いました。意味を考えながら唱えると、嬉しい訳でも悲しい訳でも、苦しい訳でも無いのに、ただ涙を流して泣いてしまいます。 不思議な感じがして、よくわからないです。これは、どうしてでしょうか。私は、般若心経が伝えたかったことを理解できたということでしょうか。 よろしくお願いいたします。
空とはなんですか? 私たちは存在しないと書いてある本もありました。確かに昨日今日では変わりはわからないと思います。それが10年なら変化もわかるし、もしかしたらこの世にいないかもしれません。 でも、諸行無常と言うように毎日移ろい変わっているんですよね。同じように見えて同じ毎日はないんですよね。だから一日一日を大切にしなければならないのに、その有り難みがなかなか解らないんですよね。
先日、亡き主人が幼少の頃からとてもお世話になっていた近所のおばさんが御参りに来てくださいました。 その方は般若心経を唱えていらしてました。おそらく全て唱えていたと思います。 凄い!とその時は素直に思ったのですが、後になって少し疑問が・・・ 我が家は真宗大谷派。般若心経は確か別の宗派。 いいのかな?悪いことはないやろうけど、教えが違うと伝わらないとかないのかな?と思ったのです。 それ言ったらキリスト教の人なんか御参り行かれへんやん、とも思ったのですが(((^^;) お坊さんはどのようにお考えなのか知りたく質問させていただきました。 くだらない質問ですがよろしくお願いしますm(_ _)m
般若心経を素人が唱えると、成仏出来ない霊が寄って来る、取り付かれると聞きましたが本当ですか? 後、寝る前に聞いたり唱えたりすると悪夢を見るとも聞きました、、 写経や坐禅に興味があるのですがこの事を聞いて恐くなり始める勇気がありません。
教えてください。 般若心経読んでみました。 つまり般若心経は。 リラックスしようよ。 あなたが思っているようなことは 何も起こらないよ。 感情は浮かんでは消え川のように流れ、 大海に流れていく。 そして、 あなたは大海そのものだから、 決して溺れることも沈むこともない。 だから身を委ねてマントラ?を唱えましょう。 みたいなことですよね? 全てはひとつ。(ワンネス) と言っていても、 色と空は一つにできない って書いてありますよね。 そこらへんがわからない。 色と空がさっぱりなんですが、 そんなに深く考えなくてもいいところでしょうか?
大学生です。 最近心が不安になったときなどに、般若心経を唱えています。なぜ般若心経なのかというと、むかし母とお仏壇に向かって唱えていたので、覚えていたからです。特に宗派などはありません。 何度も唱えているので暗唱はできるようになったのですが、意味を特に理解しながらは唱えられていません(調べてもすぐ忘れてしまいます)。 そこで質問なのですが、お経というのは意味を理解しながら信念を持って唱えないと意味を成さないものなのでしょうか。 長い間気になっていたので、教えていただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
般若心経をの訳を読んでもモヤッと書かれていてよくわかりませんでした。 苦しいことは永遠に続かないよ、としたら幸せも永遠に続かないよ、と解釈したのですが幸せを維持するために頑張るのは当たり前だけどそれが壊れるのを恐れちゃいけないよって考えてOKでしょうか? てことはどうしても湧いてくる恐れはどうしたらなくなるの?とかぐるぐる考えてしまいます。 般若心経を分かりやすく教えて頂きたいです。もしくは分かりやすい訳が載っている本を教えて頂きたいです。 よろしくお願いいたします。
大乗仏教の在り方と般若心経の空の境地は矛盾していませんか? 救済される信仰(救うものとしての菩薩・仏などの存在)と、一元の世界との矛盾で混乱しています。
若いころから仏教に興味があり、5年ほど前から毎朝仏壇に向かいお経をあげています。(40分程度) ところが、ある生き神様(仏教系の霊能者)から「般若心経くらいにしときなさい」と言われましたので、いかがなものなのかお尋ねいたします。 我が家は浄土真宗ですが、真言宗に魅かれて四国八十八か所巡礼の際唱える、 「開経偈・懺悔文・三帰・三竟・十善戒・発菩提心真言・三摩耶戒真言・般若心経・光明真言・御宝号・回向」。 加えて「十三仏真言・観音経」を読誦しています。 ところが、生き神様が「それらは何のお経?」と言われましたので、 「遍路の際各お寺で上げるお経」と言いましたところ、あまりご存じなかったようです。 さらに「巡礼の経験もなくして、それらを上げるのは順序が間違っている。まったくムダです」と言われました。 家族や親族への日々の御守護に感謝し、これらのお経をあげているのですが、いけないのでしょうか。
こんにちは。質問を見てくださりありがとうござます。 般若心経では全ては実態がないとしますね。実態がないからこそ苦しいこととか悩みも全部自分の思い込みなんだって思えます。では楽しい思い出や感動した思い出はどう解釈すればいいのでしょうか。 私は以前諸行無常と楽しい思い出について質問させていただきました。その時は、楽しい思い出も諸行無常だからこそ美しいのだしその時を楽しめばいい、それに執着がなくなるとの回答をいただきました。 楽しい思い出や感動した思い出が嘘だなんて思いたくないです。どのように解釈できるでしょうか。
主人の両親は御墓参りなどにとても熱心です。 週に一度は御墓参りをしています。 私は育った環境が複雑で祖父母も分かりませし、ご先祖様のお墓も知りません。 親戚なども会ったことがないので御墓参りをした経験がありません。 義理の両親が熱心ですし、私の子供達には御墓参りをと思いよく一緒に行っています。とても晴れやかな気持ちになれます。 が、行っても月1多くて月2回くらいしかいけません。でも、私の感覚や周りの感覚でも多い方だとは思うんですが。。。 色々思うところがあり義理母から「毎朝温かいお茶を入れて北向きに手を合わせてご先祖様(嫁いだ先の)の成仏を唱えるとよい」とアドバイスを受けもぉずっとやっております。 般若心経も完璧ですし幼い子供達まで唱えられる程です。 ですが。。唱える間、雑念が半端ないです。今日の晩御飯や。。。今日の予定。。お腹すいたなぁ。。とか。 無になろうとするほど雑念の嵐です。 こんな感じで唱えてて大丈夫でしょうか? 失礼極まりないのでしょうか?
毎回相談させていただくたびにありがたいご回答を賜り、本当に本当に感謝しております。 毎日夫とともに朝晩仏壇に向き般若心経を唱えています。 私はお経を唱えるとき、精神というか意識が100%完全にお経に集中できていません。 夫が般若心経を読む脇で手を会わせるのがいつものかたちですが、私は亡き娘を思いながらなので生前の娘のあれこれが頭に浮かんで、 娘との面白おかしかったことを思い出したり、仏前に備えてある供花に目がいけば、花がいたんでるから取り替えなきゃいけない→どこの花屋にいこうかな→そういえばいつもいくあの花屋は…などといろいろなことが頭に浮かんできてしまい、 そうしている瞬間は、仏様に気持ちを向ける大事な時であるのはわかっているに、集中できていないということで、 これでは仏様に失礼で供養になっていないのでしょうか。正しく向き合う姿勢はどのようにあるのでしょうか。ご教示いただき改めたいと思います。
私は今日、般若心経を学びたいと思いました。 ですが、私は無知なのでどうやって学べばよいのかわかりません。 ひとまず本を買おうと思ったのですが、般若心経に関する本が多くてどれを読めばいいのかわかりません。 それで専門家であられるお坊様方にお聞きしたいと思いました。 般若心経を学ぶにはどうすればいいのでしょうか? 本で学ぶ場合、どの本がおすすめでしょうか? お答えを頂ければ幸せです。
お世話になっております。 突然ですが、明日、臨済宗のお寺に般若心経の写経体験、座禅体験をさせに行かせていただきます。 ただ事前準備にと思い、般若心経の入門書を購入したのですが、これが法相宗の本だったので、自分が持っているこの本と、明日のお寺様の解釈が異なっていたら、時間も限られているので、ちょっといやだなと思っています。 なのでここで、臨済宗、法相宗、あと、私の亡き祖父が住職をしていた曹洞宗等で般若心経の解釈が異なっているかどうかお聞きしたいのですがいかがでしょうか?
昨年より般若心経を覚えようと、無理のない努力…しいて言うならば覚える過程を楽しみとして過ごしていました。 意味と漢字を意識しながら、通勤途中に「今日はここまで覚えれると良いな」とぼんやりとした目標を決め 仕事中に集中力が切れた際などは、覚えている箇所までを思い出しながら空想にふけり、頭のなかだけで気分転換の世界に入れる為ある意味生活のツールとしても勝手に役立てておりました。 「空」や宇宙のこと、そして色んな事に縛られない、とらわれないという事が仕事等の失敗を小さく感じさせてくれ、非常に日々のストレスを和らげてくれました。 しかしながら、順調に楽しく覚えていったのは良いものの どうしても引っかかるというか覚えられない、身につかない箇所があります。 無有恐怖 から 即説呪曰までがどうしても覚えられないのです。 冒頭から「無罣礙故」までは気が向いた日、時に楽しく覚えていたので1ヶ月半程でおぼえられたのですが、その後が詰まってからそろそろ1年が経過しようとしています。 その部分の意味の内容が自分にとって感銘を受ける度合いが低いのか、はたまた(自分の中で)読みのテンポの雰囲気が変わるからかは解りませんが 何か良い覚え方、考え方はないでしょうか? こんな事にとらわれている事自体がそもそも苦を産んでいるのかもしれませんが…