質問させて頂きますハルソラと申します。 仏教の学びから、観音さまの慈悲の心に感銘を受け、慈悲の心を身に付けたいと思っています。 しかしながら現実の私の行動を鑑みるに、慈悲を実行できてるとは到底思えません。 それは慈悲に対して、概念的な理解だけにとどまり、エゴ(自己中心的な考え)を離れる事が出来ないためだと考えています。 とある座禅会に参加した際に、和尚さんにそれを質問したところ 「体験を通して学ぶことです」 という有り難いお言葉を頂きましたが、何をどう体験すれば良いのか分からず進歩がありません。 慈悲の心を身に付けるための体験とはなんでしょう。 また考え方の上の事でも構いません。慈悲を身に付けるためのご教授よろしくお願い致します。
正直と善行のどちらをまず取るべきなのか悩んでいます。 まず、善行とは誰か自分以外の人のためになることをすることだと思っています。これは同時に、自分以外の人を傷つけることはしてはならないということだと思います。 しかし善なる本心のついてこない善行は偽善に過ぎず、結局は背後にある虚無的思考や悪い意図が露呈して失敗するから、まずは自分の思いに正直であり、正直な状態で自然と善行を行うようになるまで待つべきなのではないか、というふうに考えることがあります。 一方で同時に、自分が正直にあると暗く冷たく幼く醜く、共感に乏しい人間にしかならないので、嘘でも善行を行なって本心がそれについてくるのを待つべきなのではないか、というふうに考えることもあります。 共感に乏しい自分の正直な本心では、善行を行うことはできないと思うので、正直であると同時に善行を行うというのは考え難いです。 仏教について何も勉強しておらず、要領を得ないうえ何の文脈も踏まえていない駄文となってしまったかもしれませんが、宜しければお知恵をお貸しください。お坊さんが何を善行と考えるかについても、もし宜しければお教えいただければ幸いです。
観音経と延命十句観音経の違いを詳しく教えてください。
最近、死についての質問をいくつかさせていただきましたが、今度は来世の不安が出てしまいました。 私としては、来世は親に会って子孫や世界を見守りたいですがそれは可能なのでしょうか。 もし、それが叶わないのであれば私は生まれ変わり、魚や犬、そして人などの違う命としてまた生きなければならないのでしょうか。 私は食べられる魚や牛などの生まれ変わりになることが怖くて仕方がありません、もちろん、このことが愚かで生命に対して無礼だと承知です。 ですがやはり不安で仕方がありません。このように考える私は外道なのでしょうか。長文で愚かな質問で申し訳ありません。ごめんなさい
私は昔から落ち着きがありません。 じっとしてるのが苦手で、 テストの時とか困りました。 中学の時 一人すごく落ち着きがない人がいるんだよね〜 カンニングみたいに見えちャうんだよね〜 本人は気づいていないみたいだけど〜 と、みんなの前で話されて 先生と目があったことが忘れられません。 私は昔から落ち着きがなくて いつも不安でたまりません。 ずっとこうなんじゃないかと思うと苦しいです。 悟って楽になりたいです。
お坊さんの煩悩とは何ですか? 煩悩が生じた時にそれをどう対処されますか? 失礼過ぎてすみません。
ご覧いただきまして、有難うございます。 早速、質問させていただきます。 私はご先祖様と亡くなったペットの御供養の為に読経をしたいと思っているのですが、どの宗派のお経を読めばいいのでしょうか? 私の両親はそれぞれ宗派が異なり、両親は離婚しています。 しかし、私は父親の苗字を名乗っています。 その場合、父親の宗派のお経を唱えた方が良いのでしょうか? 私は父方のご先祖様も、母方のご先祖様も御供養したいので、どちらの宗派のお経にすれば良いのか迷っております。 ちなみに最近は某現役僧侶の般若心経の本を読んでいるのですが、宗派に関係なく般若心経でも良いのですか? 今は読経なしで、毎朝お供え物と挨拶をして、毎晩仏壇の前で手を合わせご先祖様には『今日も1日有難うございました。安心して安らかにお眠りください…』、神様には『ご先祖様たちが安らかな気持ちで成仏されますように…』と心で唱えております。 その他、御供養にまつわる作法などございましたら、教えていただけますと幸いです。 宜しくお願い致します。
いつも読ませて頂いております。 いくつもいくつも聞きたいことがありますが、今度は自殺についてお訪ねします。 身近な人が、自殺しました。 あれから10年近く経ちますが、未だに時々思いだしては泣けてしまいます。 何故自殺したのか。 いくつか原因は思い当たることがあります。 あくまで想像になってしまいますが、体のこと、お金のことです。 何かしてあげられなかったのかなといまだに悔やまれます。 今更ですよね。 でも、ずっとずっと考えてしまいます。 自殺した人は、成仏できないと言いますよね。 この世で生きるというのは、修行だと。 それを自らの手で終わらせるというのは、仏教の考えでは罪になるのでしょうか。 また、自殺した人に対して私はどう考えていけば良いのでしょうか。 あの人が自殺したあの日あの時間から、時が止まっているように感じるときがあって、思い出したらその瞬間に引き戻されるような悲しみに襲われるときがあって、苦しいです。
凡夫の浅はかな疑問で有りますが、皆さんのお知恵を拝借させて頂いても宜しいでしょうか? 釈尊は「人間が認識出来る範囲の世界に於いては、一切が諸行無常であり、恒常不変なるアートマンは見当たら無い」 と仰られただけで、 人間には認識出来無い、凡そ形而上学的な範疇(死後の世界)に於けるアートマンを否定された訳ではない、 というのは本当なのでしょうか? 確かに釈尊は霊的な事物に関して肯定も否定もされておらず、さながらヴィトゲンシュタインのように 「語りえぬ物には沈黙を守る」という態度を一貫されていらっしゃいます。 その事も踏まえると、釈尊が「ātmanを肯定も否定もされていない。」と云う説には一理あるように思えるのです。 ここで一つの疑問が小生の頭に沸いて出てきたのであります。 後世の仏教(中観派)に於いては明確に「全てが無相であり、何処の世界にもātmanは存在しない。」と定義されております。 龍樹は「無我は釈尊の教えである」という前提に従って、 形而上学的な存在の実在を説いてきた仏教の各宗派をことごとく論破されていきました。 畏れ多い事でありますが、小生には龍樹が「語り得ぬものには沈黙を守る」という釈尊の態度に反しているように見えます。 もちろん形而上学的な不変の存在を仮定した当時の仏教は、なおさら釈尊の態度から逸脱しておりますが、 はたして龍樹の「中観思想」が釈尊の考えから逸脱しているのかどうかは、小生のような凡夫にとって図り難い問題であります。 そこで皆様に質問させて頂きます。 形而上学的な範囲におけるātmanに対して釈尊が不可知説の態度を取られていた場合、 形而上学的な範囲におけるātmanを否定された龍樹の思想は、果たして釈尊の教えから逸脱しているのでしょうか? それとも補完しているのでしょうか? 宜しくお願い致します。
仏教では生きることは苦しみであると説いていることは、自分なりに仏教を勉強して少しは分かっているつもりです。しかし、去年は私をかわいがってくれた祖母を亡くして愛別離苦の苦しみを味わい、数年前からは、会社の老害である人物に毎日顔を合わせて怨憎会苦の苦しみを味わい、仕事では待遇に見合わない責任を負わされ心労が絶えません。たまには、楽しいと思う事や、うれしいと思う事もあります。しかし、苦しいと感じる事のほうがはるかに多いと思います。ふと冷静になると、こんなに苦しいことばかりで生きていくのが苦痛で、自分のこれからの将来に絶望してしまうことがあります。まだまだ不勉強でわからないのですが、仏教(釈尊)はこういった悩みにどういった回答をされているのでしょうか。最近、年を取ったせいか(まだ31歳ですが)釈尊や阿弥陀如来様、地蔵菩薩様などのエピソードやそのお慈悲を知り、有難さに涙してしまうことがあります。人間の苦悩に真剣に向き合う宗教は仏教だけだと思っています。ご回答お願い致します。
道元禅師様について書かれた本を読んでいました。 そこに「本来本法性 天然自性身」と教典にあるのに、なぜ修行をしなければならないのか、と道元禅師様は当初疑問に思っていたとありました。 その疑問から、如浄禅師の「坐禅はすべからく身心脱落なるべし」という言葉で解き放たれた。とありました。 そこで... ①なぜ修行をするのでしょうか ②修行とはなんでしょうか ③修行の目的はなんでしょうか ④なぜ道元禅師は如浄禅師のその言葉で、この疑問から解放されたのでしょうか。 曹洞宗の和尚様はもちろん、いろんな宗派の、いろんな方のご意見を聞いてみたいです。 私は強がっていますが、精神的に弱く、心が不安定になりやすいです。 いろんな方に支えられ、助けられて生きていると実感しています。 常に100%の心ではなくて、上下することの少ない、安定した心を持てるようになりたいです。
ここには沢山のお坊様がいると聞いたので見参しました よろしくお願いします では早速質問 仏教の基本の教えは釈迦様が説いた右でもない左でもない上でもない下でもない中道で その位置にこそ美しい琴の音を響かせる軸の位置があるという考えですよね でも仏教の教え自体が中道の位置からずれてる気がします たとえば教えの一つである因果関係とは良いことをすると良いものが返って来ることですよね でも本当に良いことをすると良いことが返って来るのか?答えYESだったりNOだと中道の位置の考えから右や左や上や下にずれてしまうのでは・・・ 同じように煩悩をなくして無になれば苦から逃れられるという教えも 本当に煩悩をなくして無になれば苦からのがれられるのか?答えYESだったりNOだと・・・ このように仏教の全ての教え自体がYESとNOに偏ってて釈迦様の基本の教えである中道の考えからずれてる気がします もしかしたら私自身が白痴であり中道の考えやお釈迦様の考えをよく理解してないのかもしれないかもしれません もしそうでしたら誰か教えてください
学生をしているものです。最近、「しっかりしている」と思われることに少しうんざりしています。 もちろん、自分の仕事がきちんと評価されているのだと思えば有難くもあることなのですが、過剰に評価されたり、しっかり者というイメージが先行し、期待が重いと感じることがままあります。 自分のキャパシティがすでにいっぱいいっぱいであったり、苦手な分野での頼み事をされたりした場合も、「時雨さんはしっかりしてるし大丈夫でしょ?」との反応が多く困ります。 実際は努力やこつこつと積み上げることが苦手で、日々の作業を適当にこなしている面もあり、しっかり者とは程遠いと思うのですが、周りにそう言っても謙遜と受け取られてしまいます。 それゆえ、このことを周囲に相談することもかないません。 ぜいたくな悩みとは思いつつも、キャパオーバーしてしまうのが怖くもあり、「実はしっかりしていない適当なわたし」を誰かに理解してほしいという気持ちもあり…… つまるところ、等身大の評価を得たいのだと思います。自分の努力や能力以上の評価をしてもらうことは心身ともに苦しいです。 頼られることはうれしいのですが、不当にプラス評価をしてもらうことは、不誠実なことのようで…… 実際、自分で抱えられる以上に頼みや相談を引き受けてしまい、にっちもさっちもいかなくなった思い出も一、二度あります。 わたし自身と周りのイメージの剥離を埋めることは可能でしょうか。 また、それが不可能であれば、ひとり歩きしているしっかり者のイメージとどのように付き合えばよいでしょうか。
最近も高校教論が子猫を生き埋めにした事件がありました。 世の中にはまだまだ遊び半分に酷い虐待に遭って殺される動物たちが沢山います。 犯人は悪びれもせず同じことを繰り返しています。 物言わぬ小さな命を弄びながら、肉や魚や植物の命を無駄に消費するのです。 そんな話を聞いてしまうたびに、可哀想で悲しくて心が狂おしく乱れます。 虐待される動物たちは、酷い目に遭うために生まれてきたのでしょうか? 仏教的には、彼らはそんな目に遭わされねばならない相応の業を持って生まれてきたということになるのでしょうか? 酷いことをする人間に出会ってしまうことは、動物たちの宿命だったのでしょうか? だとしたら本当に悲しすぎます。 怖い苦しい想いをしたであろう動物たちの魂は、死後ちゃんと救われるのでしょうか? せめて彼らの魂が仏様の元へ行って幸福になれるように祈っているのですが、どうしてもやりきれない想いがじくじくと心に膿みます。
(こちらの質問は編集部により一部編集しています) 婚家の宗教に、一度はなじもうとサイトを開いてみた。 しかし禁忌項目についていけません。般若心経はダメとのことですが私は 小学3年から読んできているお経。神棚もダメともことですがしっかりありま す。小学3年から敬神崇祖の教えを基本に生きてきましたが、神も祖先も 大事にしたい。他にも禁忌項目があるけどついていけず寝込んでしまいました。 主人に改宗を依頼してもいいでしょうか。お寺参りも趣味で主人が定年に なればいろいろ廻りたいですがそれもダメなようです・・・。実家は曹洞宗です。
私は最近、仏像が好きになりました。 そこで、仏像の理解を深めるためにも仏像サイドから少しづつ仏教に触れようとしてる初心者です༄ 質問ですが、タイトル通り、 「善い行いをしたい!というのは煩悩ですか??」 時々ムラムラっ!と性欲の様に善行がしたいと思う時があります。 他人から気遣いをいただいたりした時に、善い事をしたい、規律ある生活をしたい、と急激に思います。 これはいけない事なのでしょうか。
お坊さんは怒ったり、嫉妬したり、だれかを嫌いになったり、ぜんぶめんどくさくなったり、悲しくなったり、頑固になったりするのでしょうか。 私は時々、煩悩まみれの人間であることがいやになります。
今、日本霊異記と発心集をとても面白く読んでいます。その中で繰り返し法華経の功徳が説かれているのですが、どうも僕には法華経の凄さがわからないのです。 僕は浄土宗ではありますが、自分の宗派探しをして浄土宗に辿り着くまでに各宗派のだいたいの教えは勉強したので、例えば般若経の空の思想や密教の壮大さは素晴らしいと思えます。 法華経だけは角川ソフィア文庫の現代語訳を全部読んでも何が凄いのかよくわからない。法華経無内容説というのがあるそうですが僕もそれに加担しそうです。日本霊異記や発心集の時代の人々は法華経のどこにそこまでの尊さを見出したのでしょうか。 法華経を大事にしている方にとっては失礼に感じる質問かもしれませんが、法華経をこき下ろしたいのではなく先人たちの感じた素晴らしさを理解したいと思っての質問ですのでご容赦ください。
お坊さんは幸せですか?
以前、心が怖いで投稿した者です。 心がブラックホールのようという回答でブラックホールは自分が作り出したものと気づけました。 しかし、心というのは虚無でその虚無で考えたり、思ったりする僕は何なのか? この考えや思いはどこから来るのか?自分がわからなくなりました。 僕は僕なんですか? 僕自身で判断などしてるのか、別の誰かが判断して行動や思いを起こさせているのか。 考えたらわけがわからなくなって怖くなってしまいました。 何を言ってるんだ?って思われるかもしれませんがよろしくお願いします。