お坊さんは自分らしく生きる生き方や楽に生きる方法を解いていらっしゃると思います。生きている上でおかしいとかなぜという疑問が湧いてくると思うのですが。そこを突き詰めるとどうしても悲観的な真実というかリアルに突き当たるのかと思いまして。そこは理解をもって寛容に生きていらっしゃるのですか。怒りが湧いたり疲れたりしませんか。そこも受け止めコントロールというか多少の忍耐ありきでらしく楽に生きていらっしゃいますか。
昨日、私の隣のお部屋の方がご病気か老衰によりお亡くなりになられました。 私は家賃7万弱の古いアパートに事務所を構えております。 お隣の方は「千葉」さんと言う物腰の柔らかい高齢の男性です。 死後1週間の発見だそうです。 こちらが簡単にはなりますが状況になります。 改めてご相談をさせて頂きます。 友人知人によると隣の部屋なら大家さんに言えば家賃は下がると言われました。 私は商売をしておりますので経費は下げられるのもならば下げたいと考えております。 但しそれをしてしまうと亡くなられた千葉さんが最終的に大家さんや私に迷惑をかけている事になるのではないかな?っと考えてしまいました。 千葉さんの生き方にケチを付けているようでなんだか申し訳ない思いもありますし、亡くなられた後にこのような行いをするのは人として如何なものなのかなっと。 まとめるとこんな形です。 ①経費削減の為に家賃は安く抑えたい。 ②亡くなられた方の尊厳も守りたい(とても好きな方でしたので) 人の死によって家賃を下げると言うのはいかがなものかと考えております。 自分なりに今までのままで良いのではないかなと分かっている所もありますが、お坊さんのお話が聞きたくて相談させて頂きました。先程友人には1万位下がれば良い方だから、もし亡くなった方を思うなら成仏を祈ってあげた方が良いんじゃないかな?その方が商売も上手くいくよ!っと気持ちよく言われました。まさにその通りだと思いました。 その方が良いですよね。 なんだか答えがわかっている変な相談ですみません。 お坊さんの意見も聞きたくて・・・お時間有りましたら宜しくお願いします
私の知り合いにたくさんヴェジタリアンがいますが、私は菜食とは言えない部類です。 インドをはじめ世界の菜食主義者は、もちろん宗教上の理由からくるひとがほとんどだと思いますし、まわりもそうなんですが、 菜食主義者の方に “肉というのはやっぱり血なんだ、牛でも豚でも、屠殺場というのは、それはそれは悲壮な声が響き渡っていて、 殺されるときに生き物は、涙を流しながらものすごく負のエネルギーを発する。 そうした肉を体内に入れるということは、そうした負のエネルギーをも取り込むことになるのだ。それに加え現在の牛、豚、鶏の飼育状態というのはおぞましいものがあり、せまい家畜小屋に押し込まれて、ただ肉となるために生まれ、そして死んで(殺されて)いくのだ” ということを聞いて以来、私の生活の糧になる為に殺されたんだと、なんとも言えない哀しい気分になってしまいます。 やはり、動物が殺されるときは、負のエネルギーを発し、食することでその負のエネルギーを取り込むということは本当にあるんでしょうか? お坊さんの中には、四つ脚の動物は食さない方もたくさんいらっしゃると聞いた事があるんですが、お肉は食されますか? また、人間の生活の糧になる為に殺されていく動物への感謝や供養の仕方はどうすればいいのでしょうか。 お忙しいと思いますがご回答いただければ幸いです。よろしくお願い致します。
1日のうちに、何回も「死にたい」と思い、本当に死のうと思うのですが、「生きたい」と思う瞬間もあります。 一昨日から調子が悪くて、我慢していたのですが、ダメです。 何でこんなことになっちゃったのかな。 人のために働きたい、役に立ちたいってずっと思ってたのに。 それどころか、家族のお荷物です。 こんなんじゃダメだって、ずーっと頭の中で聞こえるんです。 ダメ人間ってずーっと聞こえるんです。 黙らせたいのに、黙ってくれません。 私は壊れてしまったんでしょうか?
初めて質問させていただきます。 家事、仕事にと自分の時間など取れない位に忙しく、疲れ果てました。 疲れていつも不機嫌な私を見て、家族は皆呆れています。 唯一の楽しみはお酒を飲む事でしたが 日に日に量は増え、飲んで荒れるので、アル中だと思います。 こんな自分が情けないし、生きていても家族に害だと思うようになりました。 どうすればいいのですか? 死んだら全て終わりなのはわかっています。
先日「失敗する事は悪いこと?」という質問を投稿させていただきました。 あれから、子供の自信に繋がったらよいな、と、言葉かけや遊びの中での褒め方やフォローのしかたなど、試行錯誤しながら、その中で娘の成長を色々な方向から感じながら過ごしています。 今回は、対子供、ではなく、対自分への、失敗に対する自身の気持ちについて、気付きと悩みが生まれて、再投稿させていただきました。 自分も、失敗が怖いのです。慌ただしい育児の中であまり自分に目を向けてこなかったような気がしますが、自分自身も、失敗した(or周りが失敗と思ってなくても、自分自身で納得できなかった)時の、気持ちの処理がうまく行かず、切り替えに時間がかかってしまっている事が、育児を通して見えてきたように思うのです。他人には見せないように取り繕っているのですが、1人になった時に苦しくなります。 ここ最近、うまくいかない、失敗した…といった事が多くあるのですが、娘の感じている「もう最初からやり直したい」や「失敗!どうしよう」といった気持ちが堂々巡りしてしまいます。 娘と違う点は、自身は大人だから、人にどう思われるか、や、幻滅されないか、といった気持ちも混雑している事だと思います。 人の目が気になるから失敗も怖いし、このような気持ちを周囲に知られないようにしているのだと思います。 よく考えれば何て自分勝手な気持ちなんだ、と思います。 幻滅されないか、と思うのも、実際幻滅されているか否かは関係なく、自分が自分でそのように思ってしまっている、幻滅しているのは自分が自分に、では?と、この事が余計に何ともいえない気持ちを生みます。 起きてしまった事は仕方ないし、次を見なければいけないのに、やってしまった、という気持ちが先に立ってしまうのです。 失敗する事、人の目が過剰に気になる事、どうすれば気持ちの切り替えがしやすくなるでしょうか。 この気持ちへの対処が、娘への関わりにもプラスになるように思い、再投稿させていただきました。
今、目の前にあることを大事に生きる。 生きることは、常に死と隣り合わせだと気付かされました。 でも明日の予定、来週の予定、1年後の予定…など、あるかどうかわからない先の日々に対して準備もします。 すごく矛盾していると感じます。 特に、子育てに関することでこの矛盾を感じます。 どのように考えれば、今と未来が両立するのでしょうか。
どうもこんばんは。 いつも皆様には質問をお答えいただき感謝しております。 今回は大乗仏教の三宝について質問があります。 ブッダ入滅後の原始仏教や上座部仏教での三宝は、 仏=釈迦牟尼(ブッダ) 法=ブッダの教え(ダンマ) 僧=僧団(サンガ) と思います。 大乗仏教の三宝では、 仏=本尊 法=ブッダまたは本尊や宗祖(または高祖や太祖)の説いた教え 僧=僧侶(ここは色々と議論の余地はありますが) であると認識しています。 今回の質問はご本尊についてですが、ニュアンス的に本尊は『仏』ではなくて『法』に思えるのですがいかがでしょうか。 例えば、大雑把に言うと 阿弥陀如来(アミターユスとアミターバ) それぞれ無限の光と無限の寿命の体現 大日如来・毘盧遮那仏(マハーヴィローチャナ・ヴィローチャナ) 宇宙の真理の体現 内容から見ると大覚者というよりは真理そのものではないかなと考えてしまいます。 大乗のマハーパリニッバーナスッタンタ(大般涅槃経)では三宝一体常住不変説があるから、『仏』で良いのだというのは理解が難しいです。 どういう流れでご本尊は三宝の『法』ではなくて『仏』なのでしょうか。 マハーヤーナ(大きな乗り物=大乗)に掛けて、木造の手漕ぎの小舟しか知らない人が大型豪華客船(鉄船)を見ても船と『認識』しませんが、変化の過程を理解すると鉄でも浮いて自動で走るのが理解できるかと思います。 ここは私の知識欲だけの話で、問題が解決してもしなくても自分の苦を滅することには関係いたしませんが、どうかご教授の程宜しくお願い致します。
お忙しいところお聞きいただきありがとうございます。 先日、テレビ番組で世界のあまり豊かでない地域の幼い子供が、本当は学校に行きたいけれどその日食べる物を手に入れる為に 、涙を流しながらも一生懸命働いているドキュメンタリーを見て、何か役に立ちたい、幸せになって欲しいと思い毎月支援団体に寄付をする事にしました。 その事について、夫に他愛無い会話のひとつとして話をしたのですが、「そんな余裕があるなら、もっと将来の為に貯金して欲しい。自分は節約して貯金しようとしている」「将来そのお金で子供が出来た時、その子に対してできることがあるかもしれないのに」と批判を受けました。 我が家の生活費は、お互い共働きをしており、家賃、食費…などの担当を決めて出し合い、その他のお金は自由に使える事にしています。 最近、夫は将来の事が気になるらしく、自発的に自由に使える分のお金から貯金をしようとしているようです。 その為、私が家庭の事を考えずに他所に寄付しようとしていることが気に入らないのかな、と思いました。 批判された時、お金の使い方に関しては、私自身が自由に使えるところから出しているので、その事自体はおかしいと感じました。 しかし、それよりも「家族を一番に大切に考えなくてはいけない」と、私自身が大切にしたい事や価値観を否定された気になり、とてもショックを受けました。 夫は将来子供のいる家庭を築きたいと希望していて、幸せな家庭を作る事を生きがいに感じているようです。 ただ、私は幸せな家庭を持つ事には賛成なのですが、他にもやってみたい事や、好きな事が沢山あり、自分の事も大切に感じています。 そのため、家庭のことを生きがいとして夫と同じように一番の幸せと考える事は、出来ないように感じています。 もちろん、夫のことは愛しており大切にしたいと考えています。しかし、家庭の事を一番に考えられない私は、そもそも結婚などするべきではなかったのでしょうか。 考えれば考えるほど、自分自身が無責任で最低な人間に思えてきて、どうしたら良いのかわかりません。 長文且つ分かりにくい文章で大変申し訳ないのですが、お導きいただけますと幸いです。
今年の1月8日息子が亡くなり、まだ中陰の期間です。 1月5日の日に、お父さんと2人で旅行楽しんでおいでと送り出してくれて、その時に僕も考えたいことがあるから、ゆっくり考えると言っていました。 旅行最終日の早朝に息子が自分の部屋で亡くなっていると母から連絡を受け、現地からどのように帰ってきたもかも記憶にありません。 警察署の安置場に迎えに行った時には、息子の名前を呼び家に帰るよ!って思わず言ってしまいました。 いろいろ、息子の事を考え、ネットで調べると自死は、亡くなったその場から離れられず、永遠に同じ行動を繰り返していると知りました。 息子の為にも、みんなで仲良く生活をしようと思っても。息子の部屋では、目に見えない、感じられないけど、息子が苦しみ続けているのかと思うと、胸が詰まり、なかなか前向きになれません。 遺書には、学業や私と実母の確執の間に挟まれ思い悩むことがあり、これ以上生きていくのは難しいと考え、自分の意思で死にますと書いてありました。先の約束もいっぱいしていたのに、何で?という気持ちでいっぱいです。 毎日毎日、霊前でお経を読み、御逮夜には、それぞれの本地のご本尊がある御寺をお参りして何とか暖かい世界に向かってくれるように拝んでいます。 人として生まれ、やってはいけない事をしてしまった息子が苦しんでいないか?もし苦しんでいるなら、私には今何をしてやれるのかを教えて頂きたくて投稿いたします。
くだらない内容で申し訳ありませんが 少し気になったので質問させていただきます 昔小学生の頃、お寺でお坊さんと母達が話しているときに 「この子は蓮の花を持っている」と私にむけて言われたそうです 私はその時の事を覚えてないので なんて話してたのか忘れてしまったのですが…… 蓮の花を持っている、とはどんな意味なんでしょうか? こんな質問で本当にすいません、 暇な時にでもご回答お願いします。
こんばんは!いつもありがとうございます。 今までたくさんの質問に答えてくださり、ありがとうございます。 分からない事があって考え込んでしまいそうな時、hasunohaのお坊様方にきいてみよう!って思い頼ってしまうことをお許しください。 今回は長年の付き合いのある友人の事についてですが、昔は感じたことがなかったのですが私の態度にたいして、直ぐにイライラするのを感じるようになりました。 それも自分の聞き間違いなどで判断して強い口調で私に言ってきます。 短気になってるよ!とは言いましたが… 私からしたらたいした内容じゃないと思うのですが顔をひきつらせて言ってきます。 本当のこと言って、偉そうで凄く嫌です。 もう仲良くしたくないって思ってしまいます。 普通、友達にそんな言い方しないと思います。 友達は今、頑張っている宗教?があって 最近、魂が入れ替わったと言っていました。 魂が入れ替わって私の事を馬鹿にする魂になったのかな?とも思ってしまいます。 私からしたら、友達はそんなに偉いことはない!って思いますが… 今まで仲良くしてきたし、出かけるのも一緒だったし我慢して付き合おうかと思う事もありますが、友達からそんなに私は馬鹿にされるような人間ではないと思うし一緒に出かけたら もう今度からは付き合わない!って思う事が度々です。 友達なら我慢して仲良くしたがいいでしょうか?しばらくしたら、元の友達に戻りますか? そんな考えをもったらどんどん友人が減っていって寂しくなりそうで…どうしたらいいでしょうか?
会社の欲望のために、働いてきました。脱税に利権争いの手伝いなど、精神的に疲れました。会社は利益を追求することは判りますが、一部の人間の欲望のために不正に権力を翳すのは、労働意欲を欠かせることだと思います。 そんな現実を見せ付けられる度に、お寺にお参りをし、気持ちをしっかりと持ちこたえるように念じて帰ります。30年以上社会に身をおいてみて来た現実の世界です。現在は、精神的に病んだので離職し、休職中です。 伝教大師のお言葉で、己を忘れて、他を利するは、慈悲の極みなり。とあり、この言葉に心打たれ、世の中もこのようにあって欲しいと思いますが、社会復帰する勇気が持てません。良い教えは、私の心を励ましてくれます。しかし、長年見てきた世の中に、不安を感じてしかたありません。 寝ても覚めても、不安感に襲われます。 気持ちを強く持ち、活力を維持するために、何をどうすれば良いのでしょう?よろしく御願い致します。
なぜ人間は存在するんでしょうか。 過去に忘れたいほど嫌な記憶があったり、嫌な日があったらなんで地球はでき、人間がいるんだろうと考えます。 人間が存在しなければこんな辛い思いしなかったのでは?ってついつい考えてしまいます。 毎日なんだかんだ言って学校に通っていますが、学校でもよく考えています。 最近そのことばかり考えて授業にあまり集中できてないので、教えて欲しいです。 そして、とても仲の良い友達がコソコソ話してる時があるととても気になります。 何を話しているんかな~って思い、もし自分の悪口だったらどうしようと思うのです。 友達関係は良好で信頼をとてもしています。 そういうのはつきものなのでしょうか? 私には忘れたい過去があります。 できることならやり直したいと。 心に残った傷は全く治りません。 すこしづつでもいいから、傷が治ることはできないのでしょうか? 私はいま生きてることがわけんからず、なぜ存在しているのか全くわかりません。 どうか教えて欲しいです。
第一子を迎えました。息子は産声をあげることなく、生まれてきました。同意の上での中絶でした。 私が殺しました。唯一の母なのに、守ってあげることが出来ませんでした。分娩で3日陣痛に耐えました。息子はもっと苦しく辛い思いをしながら亡くなったと思うと、後悔が絶えません。 私が、殺したのです。自ら診察台に行き、逃げることも出来たのに 薬を入れたのです。最後まで息子は生きたいと願っていました。亡くなる前日に初めて胎動を感じました。母である私に最後まで助けを求めていました。 とても小さな息子は、天国まで行けるのでしょうか。まだ何も出来ない息子は1人でも大丈夫なのでしょうか。私はまだ何もできていないのです。息子にまだ、何もしてやれてないのです。母として、最後までついていてあげたいのです。ずっと一緒に居たいのです。お地蔵様が親代わりとなって…と話を聞きました。しかし息子の母は私しかいないのです。私がたった一人の唯一の母なのです。 どうしたら一緒に天国へ行けるのでしょうか。息子を殺したのに天国へ行きたいのです。ずっと一緒にいてやりたいのです。 彼も私の母も生きていることが供養だと言います。私はそうは思えないのです。自分を殺した人に生きていてほしくないと思うのです。幸せになってほしくないと思うのです。息子に唯一出来る私なりの償いだと思うのです。共に生きてあげることは出来ませんでしたが、共に逝ってあげることはできるのです。私ができる唯一の母らしい事だと思うのです。 最後まで最低な母でしたが、やっと息子のために出来ることを見つけられた気がしました。 まだ小さな息子にできる、母として唯一の事だと思うのです。
過去に自分がした過ちの罪悪感で苦しくて押しつぶされそうです。 今は深く反省し、2度と同じことを繰り返さないよう生活しています。 でも親や友人と関わるたびに、「私はあんなことをしたのに優しくしてくれるなんて」と罪悪感で苦しくなってしまいます。 私の友人や両親、恩師はとても優しくて温かい人達です。今でも私を助けてくれます。ですがそれは私の過ちを知らないからなのです。知ったら絶対軽蔑されます。それが怖くてくるしくて、もうどうしたらいいのか分かりません。 私は穢らわしい人間なのです。そんな優しい人達とかかわってはいけないのです。涙が出てきます。 この気持ちと向き合っていくには、どうしたらいいでしょうか。アドバイスが欲しいです。
幸せとはどのような状態なのでしょうか? 宜しくお願い致します。
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
初めて質問します。 カテゴリーをどこに当てはめたらいいか迷ったので一応"その他"にしました。 内容はタイトルの通りです。 人間がなぜ、何のために存在するのか、仏教やお坊さんの視点ではどう捉えられているのか知りたいです。 生まれてから今まで色んな人たちと出会い、関わってきましたが、その中で人間の欲深い所、醜い所を嫌と言うほど見てきました。 男も女も年齢も関係ありません、本当に人は救いがないなと感じます。 ニュースでも戦争とか暴力とか犯罪とか、見てるだけで心が痛くなるような残虐な行為を平然とやってる人達にも恐怖を覚えます。 そして私も、醜い所を沢山持っている自覚があるのでそんな自分も恐ろしくて仕方ありません。 もっと綺麗な人(外見ではなく精神的な意味で)でいたかったし、優しい人でいたかったし、強い人でいたかったです。 でも、私もたくさん人を傷つけました。 私も良い人間にはなれませんでした。 まともな人間なんて自分含めて誰ひとりとしていないんだ、人間という生き物そのものが穢れた存在なんだなと思うようになりました。 だからこそ疑問なんです。 どうして人間はこんなにも醜い感情を抱くように作られているのですか。 人間が存在する事で得をする存在がいるのでしょうか。 こんなに醜い存在なら人間なんて別にいなくてもいいのではと思ってしまいます…。 もし人間が存在するちゃんとした理由が仏教の中にあるのなら、それを聞いて自分の中で納得したいです。 拙い文章で分かりにくかったら申し訳ありません。 よろしくお願いします。
いつも丁寧なご対応ありがとうございます。以前にもこれに近い質問はしたのですが、まだ自分のなかで答えがでないのでまた質問させてください。 私は小さい頃から、人と比べて人より優っていないと自分に存在価値がないというような考えを持っていました。この考えかたは私の人生をものすごく生きづらくしました。けれどもなかなか直すことができず今に至っています。こういう考えがこびりついているので、他者の、私にはない優れた一面や私が享受できずにいる幸せを手にいれている様子がわかると、嫉妬してしまいます。また、比較してじぶんがどんどん価値のない人間に思えて辛くなります。 どうしたら人と比べずに自分に価値を見いだせるようになるでしょうか。