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私は恐がりの癖に暇な時間怪談話などの朗読動画をよく聞いていました。 ある日聴いた内容が目が見えない霊なのでその霊知ってる人間だけを探し殺しにくると言った内容でした。 その朗読を載せた人は次は自分のばんだと思い少しでも生存率をあげるためにのせたと言っていていつその霊が私の前に来るのかと思うと怖くて怖くてたまらないのです。 成人までに髪伸ばしたら?と親に言われたのですが、その霊は後ろ髪をのばしてると掴まれるといったことで女なので剃ることはできないのでショートカットです。 聴かなければよかったと後悔しても遅いしどうすればよいのでしょうか。 本当に、霊が殺しにくるなどのことはあるのでしょうか? ここ毎日そのことが怖くて怖くてずっと考えてしまいます。
よろしくお願いします。 輪廻転生について教えてください。 輪廻転生とは生きていて、死んだら記憶を消されてまた新しく生を受けて死んだらまた記憶を消されて…の繰り返しということだと知りました。 なんだか、穴を掘って、埋めて、また穴を掘って、埋めての繰り返しの拷問のような気がします。 生きていて同じ日は二度とこない、大切に生きなければならないことは知っています。 でも、なんだかもう慣れたというか飽きてしまったというか、なんとも言えない気持ちでずっともやもやしています。 そんな風に考えると何のために自分は生かされているのだろう、なぜ生きているのだろう、ととても虚しくなり、毎日がとても苦しいです。 そうやっていつも一人で泣いています。 自分でも何をどうしたらいいのか見当が付きません。 自分は何に苦しんでいるのか、それすらもわからず苦しいです。 何かアドバイスを頂けないでしょうか。 よろしくお願いします。
お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?
カテゴリーをなににするか少し悩みました(カテ違いだったらすみません) 悩みが多くて質問がぐちゃぐちゃかもしれないです… 私は高校3年生で大学に行くために色々やってましたが、無理だなと諦めました。今から就職も無理なので今の高校を卒業してからはフリーターになると思います。 大学に行きたい気持ちはあったのですが、ひたすら無気力で心の奥底では生きたくない気持ちすらあります。そんなので受かる訳がないですし入学しても大学生活を続けられないし就職しても多分同じだったと思います。 正直もう死んでしまおうかと思っていて自殺の準備をしました。あとは決行するだけの状態です。 けど家族に申し訳ないのでフリーターになることを親に話して、フリーターでも生きてみようかなとも思ってます。 フリーターが嫌なわけではなくて、フリーターの生活も続かなかったらと思うと怖いです。 フリーターからの就職も厳しいですしこれからの全てに耐えられる気がしません もし生きるなら親にフリーターになることを打ち明け、これからのことを話し合いたいです。 けど親に対する後ろめたさがあり勇気もありません。 臆病で無気力でやる気も出さない甘えた人間性の自分は生きている価値もないと思うのでさっさと死んでしまいたいです。 質問になっていないですがお坊さんの考えやアドバイスを聞きたいと思ってます。よろしくお願いします。
はじめまして。 タイトルの通りなのですが、世の中がすごくせっかちです。 みんな、暇を毛嫌いするかのごとく、常にどこか行ったり何かしたりしています。 そして混んでいることに腹をたてたり、マナーを守らない他人に腹をたてたりしています。 休み明けの仕事がしんどいほど、体力を消耗していて、週明けから文句ばかり。 人間関係でも少し間があると、沈黙は悪といわんばかりなムードがあります。 さらに、世の中ではテンポよく簡潔にオチをつけて話すことが要求されており、 じっくり考えて言葉を選んで話すことは、他人をイライラさせるのです。 仕事もそうです。 時間いっぱいにぎゅうぎゅうと予定をつめこんで、みんなが時間に追われてイライラしています。 表向きはキレイなことを言いますが、実際はお客様どころか自分のことさえも大切にせず、お金の利益を上げなければいけないことに神経をすり減らしているように見えます。 空気を読まないといけないせいで、みんな自分を大切にしなくなった気がします。 その空気だって、直接聞いたわけでもない、誰の人格でもない謎のものです。 自分の時間を誰かのために使って、それでみんなが幸せになるなら良いのですが、 自分の時間をすり減らして、心を病んで、今の世の中はどこに向かっているのですか? もっと、空を眺めたり、風を感じたり、自然を見つめたり、ボーッとしたり、 そういうゆったりした時間があって、初めて人に優しくしたり、じっくり人の話に耳を傾けたり出来るのではないでしょうか。 けれど、そういう時間が作り出せない社会になっています。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
なぜ在家得度はこんなに難しいんですか?たらい回しです
4回目の質問になります。 原因不明の病で入退院を繰り返していましたが、確定診断がつきました。症例の少ない難病で治る事はないそうです。 頼れる身内はいません。市役所では生活保護を強く勧められました。 働く事も出来ず、生活保護を受け、社会参加も困難。 薬を飲んで、ただ息をしているだけ。 まだ40代です。 先は長いでしょう。 治らないけれど死ぬ事もない。 この生活を続ける事に何の意味があるのでしょう。 食事して寝て過ごす生活。 外出も困難。 生きる意味は何ですか? 「頑張って生きて下さい」と言われますが、生きていて何の意味があるのか分かりません。
ここで一度お世話になり、仏門に興味が湧き 元々、下手なりにも書道を趣味としていたのもあって 写経を始めてみようかと思っていました そうした話を友人、知人に話していたら タイトル名のようなことを言われました 知人によると、お経と言うものは修行を積み 徳を重ねた人が唱えることに意味があるのであって 素人がむやみやたらと、お坊さんの真似をするのはやめた方がいい まして写経なんて、なにかおかしなことがあってもおかしく無い程の やってはいけない行為だと言われました 書店では、初めての写経と書かれた本もたくさん見かけます 宗派によって考え方が違うのでしょうか 私の家は曹洞宗のようですが 自分自身、仏教徒ではあると思います。 と言うより、それしか知りません キリスト様より、お地蔵さんの方が気軽に挨拶できます 写経って、やはり辞めておいたほうが良いことでしょうか
簡単に言うと、“考え方や本当に思い込めばその通りになる”ということらしいです。 量子物理学的に「思考は現実化する」という学者もいたりします。 言葉に発するなどはできるのですが、心に思い込むというのはなかなか難しいですし、どうしても悪いことや嫌な事、嫌なニュースに怒りを覚えたり、他人を妬んだりうらやんだり。マインドコントロールでもしない限りそんな人にはなれない気がします。 プラス思考は大事だと思いますが、そんな四六時中プラス思考になることなんてできるのでしょうか。嫌なことから目をそむけ、ある意味思考を停止して単純思考にならないと難しいと考えます。 量子物理学、プラス思考、コントロールとなるとなんとなく胡散臭く感じてしまいます。 そもそも“引き寄せの法則”という考え方は仏教にはあったりしますでしょうか? 教えて! お坊さん!
お世話になります。 未だ一人娘の死が受け入れられずにいて、胸が苦しいです。 私はシングルで、19歳まで育ててきた娘を事故で失いましたが、1年経った今も毎日涙が止まりません。 この先ずっとひとりで、辛く悲しい人生を歩いて行かなくてはならないと思うと重い十字架を背負わされて、耐えろ!耐えろ!と神様に言われてるような気がして…まるで生き地獄です。 私の生きる意味がよく分かりません。 どうして、神様は不幸ばかり与えてくるのでしょう。 人に意地悪などしないで、今まで一生懸命真面目に生きてきたのに… どうして、たった一人の宝物をなぜ奪うのでしょう… 何をしても何を食べても、楽しい、美味しい、と思わなくなりました。 趣味のドライブに一人で出かけても、今まで娘を横に乗せ走らせてた楽しい思い出だけが蘇ってきて、運転中も涙が出てきます。 この辛く、長いトンネルは私の命が消えるまで続くんでしょうか…。 最期、人は何を思って死んでいくのでしょうか?
半僧半俗な生活をしている日本の僧侶。 本山が本社で末寺はフランチャイズ店のような仕組みも 理解できません。 日本の仏教って名ばかりだな。と思うことが多々あります。 お寺の息子や娘に生まれ落ちて各宗派の大学を出て ちょっと修行して資格を持ち、家を継ぐ。そしてそれだけで人々から拝まれ、敬われるのって・・・ 何か違う気がします。 たいして苦労もしていないお坊ちゃま僧侶に偉そうな事を言われても何も説得力もありません。 お坊さん自信はこういった日本の僧侶の状況を どう思っているのでしょうか?
仏の教えを感じさせる日本の歌(JPopでも童謡でも演歌でも構いません)ってありますでしょうか? 歌のタイトル、アーティスト名、できればその歌を象徴する仏語を教えていただけますと聴く際の参考になります。
先日、仏教についての本を読んで疑問に思ってもやもやしたので質問させていただきました 空である世の中で、お坊さんは空をどのように認識して、認識してその結果、何をしようとしているのですか?どうして今の行動をしているのですか? 僕は全ては認識であり、認識や表現(言葉など)を利用して認識しているみたいな解釈しました 拙い文章ですみません、よろしくお願いします
来年度から社会人になる大学生です。 ありがたいことに内定を頂きましたが、入社予定の会社はいわゆる"ブラック企業"です。 朝は8時から終電まで働かされ、体調を崩して退職する人が後を絶たないそうです。 いまさらもう一度就職活動をしても内定をとれる気がせず、この会社に入社すると決めてはいますが将来が不安です。 死ぬほど働いても何になるのでしょうか。 守るべき家族も持たず、自分の余暇を楽しむことができない人生に意味があるのでしょうか。 かといってフリーターになる度胸もありません。 自分でも何をどうすれば分からない状況です。 住職様、何かお知恵をお借りできませんか?
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?