最近気づいた事です 生きることそれ即ち失うこと。 それは仏教徒として修行を積んだお坊さんなら当たり前の道理かも知れません。 しかし、親や自分の大切な持ち物、愛する人、遂には自分の命さえも失い、最期は無になる人生に意味はあるのかと考えるとすごく怖くなります。 私は浄土真宗なので般若心経の事は良く分かりませんが、般若心経でも最期は無になる的な事を説いていましたよね? 仏様は無に帰す人生、人間の存在意義についてどう説いておられるのですか? お坊さんはどうお考えなのか教えてください。
生まれた時から親に愛され大切にされる人、親に虐待されて死んだり辛い思いをして過ごす人。 お金に恵まれお金で苦労せず一生過ごす人。生まれた時から貧乏だったりお金に恵まれず色んな事を我慢し、やりくりに苦悩しながら生きる人。 なぜ、そんな差があるのですか?後者のため死んでしまったり辛くてストレスで病気になってしまう人もいます。 前世が関係していて、カルマ、業があるからと言うのでしょうか?でも前世の記憶はありません。この世ではただ差があり辛いだけです。 なぜ、皆一緒で幸せではなのでしょうか? 色んな宗教では「人と比べない」と言われますが比べてしまいますよ。 子供に「なぜ不公平なの?差があるの?」と聞かれたらなんと答えればいいんでしょう? 人それぞれ違った人生があり、この世での学びがあるのだから人と比べても仕方ない。と答えたとしてもほとんどの子達はその後も人と比べて苦しんだりするでしょう。 もっと、ちゃんと人を救えないでしょうか? 自分より悪い状態や環境の人をみて、まだ私は良い方だ。上を見たら辛くなるから、辛くらない方を見て知って自分はまだ大いに恵まれている方で、世に中にはもっと大変で過酷な環境の中頑張って生きている人がいるんだから、不満や不足ばかりをみたり嘆いてはだめだ、感謝して生きよう。 それで、本当にいいんでしょうか? 上下、誰とも比べない。と言われてもそんな立派な人はそういません。比べて自分のこの世での位置を確認し差について色々思います、人間ですもの。 お金、親や配偶者の愛に恵まれているあの人も、悩みはあるものですよ。と言われても、その通りだと思います。人は皆、大なり小なり、多かれ少なかれ、悩みがあるものです。でも、大か中か小、多いか少ないか、の差があるのはどうしてなのでしょうか?あまりにもその差が大きすぎる様に思うのです。 この世は混浴界。なぜ、あえてそんなものを創ったのでしょうか?この世なんかなく、ただ光のままで、善、愛しかないのでよかったのではないでしょうか?苦しんだり、苦しめるくらいなら、無で、空で 皆が幸せで愛に包み込まれて一つのままでよかったのでは? 悲しむ人、苦しむ人は見たくないです。 出来るだけ多くの色んなお防様のご意見が頂けると幸いです。
ご相談させて頂きます。 母は今年誕生日を迎えると90歳、私はつい先日60になりました。一人暮らしの母が心配で、週に1,2回は様子を見に行き、通院の付き添いや買い物を代わりにしたりとできる範囲で力になっているつもりです。しっかりしていますが、物忘れだけが激しく、つい今しがたの会話や行動も忘れ気味で、そんな時私もついキツい物の言い方になってしまうことがあります。 言ってからすぐ反省し、フォローするのですが私も大人に成りきれずで何度も同じ過ちを繰り返してしまうのが現状です。 60の誕生日を迎えて、直接言えずにいた今までの感謝の気持ちを素直に手紙に書き、郵送しました。毎日朝と夕と安否確認も兼ねて電話をしますが、手紙が着いて数日たった頃、「迷惑ばかりかけて、こんなに長生きしちゃって本当に悪いね」ととても暗い雰囲気で言われました。 手紙には心からの感謝の気持ちを書いたつもりでしたが、ひと言「お母さんが忘れてしまうことにキツい言い方をしてしまい、ごめんね。いずれ自分も通る道なのにね」と書いてしまい、恐らくその一言に傷ついてしまったのかと考えられます。 電話口でも私は自分の口調を反省していることを伝えたのですが、母は長生きして迷惑ばかりかけていると言うばかりです。 手紙など書いたことを後悔しています。 足腰も弱くなり、自分の思うようにいかないことに母も辛いのだろうと、でも何を言っても逆効果になってしまうのかと自分もやりきれません。 この先、私は変わらず接していくつもりですが、この母にどのような言葉をかけていけばいいのか悩んでいます。 宜しくお願いいたします。
夫婦関係といいますか 夫婦生活の営みについてなのですが これは自分の考え方なのですが 最近、妻が閉経を迎えてそれ以来 妻の方が性欲が全くなくなったと言うか その気になれず、その行為をしても 感じなくなり、その行為そのものが苦痛に なってきたらしく夫婦の営みが出来なくなりました。 それ以来、私の性欲は自ずと外に向くようになりました。 これはあくまで個人的な思考なのですが 性欲は人間の一種の本能みたいなもんで それをパートナーと満たせない場合は 他で満たすのは悪い事ではないと思うのですが。 いわゆるセフレさんと言った関係は 必要なのではないかと思うのです。 それで夫婦関係がうまく行くなら これは、浮気や裏切りとは違う気がするのですが、御仏の教えではやはり許されることではないのでしょうか?
お坊さま、お正月をお忙しく過ごされていることと思います。 このメールをお読みいただき有難うございます。 寂しい、です。 自分が選択してきた道が、うまくゆきませんでした。 もし、あのとき、別の選択をしていたら・・・と百万回くらい悔みました。 だいぶ落ち着いてきたところだったのですが、 このお正月の休みで、またグルグルと考えが回ってしまいそうです。 過去は変えられないと、何人もの方々から言われました。 ごもっともです。 ですが、だからこそ、つらいのです。 受け止めきれていないのでしょうね。 失ったものより、もっているものに目を向けましょう。 これも、頭では分かっています。 でも、すぱっとは切り替えられないものですね。 時が薬になる、とも聞きます。 そうかもしれません。 2年前にくらべれば、少しよくなりました。 気持ちが沈まないように、することを見つけて工夫もしているのですが、気が付けば、過去に自分がした選択を悔いる気持ちに占領されます。 自分が選択した道が、生き甲斐だったのです。 でも、うまくゆかずに、生き甲斐を失いました。 心に穴が開き、ぽつんとしております。 私に残ったものは、なんだったのでしょう。 読んでくださってありがとうございます。
こんにちは。 ずっと気にしながらも改善できていないことがあります。 それは感情の起伏です。感情の起伏が激しく、怒りや悲しみの感情をコントロールできません。それで、余計な事を言ってしまったり、必要以上に落ち込むのです。 数日経ってから、良くはないけど、そこまで腹を立てる程でもなかったと後悔することも多く、自分でもそんな自分に嫌気がさし、結果疲れてしまいます。 私は自分を好きになりたいのです。自分に嫌気がさすようでは、それもかないません。短気は損気と申します。 どうやればマイナスの感情の起伏を我慢できるのでしょうか。 アドバイス、頂ければ幸いです。
お世話になっています 皆様の質問と回答を参考にさせてもらっています 自分について考えてみたのですが私は子供の頃から死恐怖症なのかもしれません 子供の頃から死を連想させる物が苦手で避けてきました お葬式や法事だけでなく歴史の授業や空や海も死を感じさせるせいか嫌いでした 知り合いに赤ちゃんが産まれたと言われた時ですら嫌な気持ちになりました 子供の頃から色々な物が怖かったです 時間が経つ事そのものが怖いです 若い頃は嫌な気持ちになっても音楽や映画など好きな事して何とか若さで誤魔化せていたのですが、最近は今まで好きだった趣味などにも興味が無くなってきて誤魔化せなくなってきました 何を見聞きしても頭の中が嫌な気持ちや恐怖心でいっぱいになってしまい生活しているだけで疲れます 孤独感も感じます こんな自分を変えて死恐怖症を克服したいです 穏やかに歳を取って死にたいです どうすれば良いと思いますか よろしくお願いいたします
半年前に、長年付き合った元彼と別れてから、新しい恋ができません。いろんな人に会っても、好きだと思えません。悪いところばかり見つけてしまいますし、そもそも信用できず、好きとかそういう判断の前に、生理的に無理だと思ってしまい、信用できて好きだと思えるほどの長期間関わることができません。 周りはみんな結婚していて、私は好きな人もできずに悩んでいるのに、子供の話や家を買う話をしていて、取り残されたと思ってしまい辛くなります。GWも、みんなと会えて嬉しいのに、人生の段階が違いすぎて辛くなり、もう会わない方がいいのかもしれないとも思ってしまいました。そんなことを考える自分も嫌になります。 すぐ恋人ができる人はすごいなと思います。結婚できる人はもっとすごいなと思います。もっと頑張って、元彼となんとか結婚しておけばよかったとも思ってしまいます。 周りの仲のいい男の人にはみんな結婚前提の彼女がいて、その彼女を心底羨ましいと思ってしまいます。自分は売れ残りで、完全に婚期を逃した、失敗で、人間として出来損ないだとばかり考えてしまいます。 この先、また人を好きになって、向こうも私のことが好きで、幸せに結婚できる未来が全く見えません。人を好きになったのも元彼と付き合う前なので7,8年も前だし、付き合い方もわかりません。勉強とか、趣味の上達とかを頑張る方法はわかるのに、恋愛の頑張り方がわかりません。人の心は動かせませんし、人に好きになってもらえるほど自分に魅力があるとも思えません。だって、28歳で結婚もできていない、彼氏もいない売れ残りなんですもの。同じように、男の人で、いい人はみんな結婚していると思ってしまいます。こんなことばかり考えているからダメだということもわかっています。でも、どうしても考えてしまいます。 どうしたら条件など抜きで、人を好きになれますか?人のいいところを見つけられますか?自分のことも好きになりたいです。
はじめまして、まめと申します。 相談をさせてください。 私は自己嫌悪がとても激しく、 特に夜中になると他人と比べて劣等感を感じたり、 過去にしてしまったことについて、すごく罪悪感を感じます。 そのせいで色々考えてしまい眠りにつくことが出来ず、 日常生活に支障をきたすこともあります。 また、自己嫌悪のせいで鏡で自分の顔を見るたび 吐きそうになるほどです。 友人や家族からも自己を貶すことは良くないと言われますし、 私自身、前向きにに生きること、 自分を肯定することはとても良いことだと思います。 人と比べても仕方が無く、 過去の過ちは背負っていかなければいけないと、 わかっているつもりなのに、 なかなか前向きに考えることが出来ません。 前向きになるためにはどうすれば良いのでしょうか。 どういったことから始めればいいのでしょうか。 お言葉をいただけたら幸いです。
僕は、自閉症スペクトラム障害、難治性肺気胸、うつ病を持っています。16歳の頃に中退して、10年間引きこもっています。顔は正直不細工だし、太っています。障害年金と親の金だけで暮らしているので貧乏です。今は気胸が再発していて息苦しいのでそう思ってしまうのかもしれませんが、世の中は平等じゃないです。みんな違って、みんないい、とか言いながら、僕みたいな本当に終わっている人間のことは、誰も相手にしないし、軽蔑して当然と思っています。被害妄想ではなく、家族にもそういう態度をとられますし、ネットでも「税金泥棒」「自分がその立場なら自殺する」など数えきれないほど言われてきました。多様性というのは綺麗ごとだと思います。「みんな違ってみんないい」の中の「みんな」には僕は入っていません。LGBTのような人たちが差別を受けなくなるのは当然いいことなのですが、そういった記事を見るたびに「なんで僕は差別されるのだろう」と思ってしまいます。恐らく顔の良い女の子だったり、健常者だったりすれば「可哀想だ」と思ってもらえるんでしょうが、顔がキモくて金がないおじさんなので、誰も同情すらしてくれません。「死んだほうが世の中のためになる」と散々言われました。 僕は、誹謗中傷されるのは全然構わないです。ただ、「多様性」という言葉が大嫌いです。
先日、アメリカのサーカス団が閉まるというニュースを見ました。動物愛護団体からの訴えにより動物の出演が困難になり、利益が出なくなったそうです。愛護団体の中には人間に屠殺される家畜、つまるところ動物に対する念から菜食主義をしている方もいることを知りました。世の中にはいろんな考えの人がいますね。 私はそこから、 何かを創り出すことは何かを奪い壊すことなのではないかと思いました。命は他の命を奪って創られます。紙は木の命を壊して作られます。そう考えるとなにをするにも、自分が誰かにとっての犯罪者のように思えてしかたがないのです。 食べるという行為は生きるために必要なことで、そのために他の命を頂戴しているのだと考えています。これは生きるという最終目標に意味がある。だから過程の「殺す」という行為にある意味で目をつぶれている?きがします。過程に罪の意識を持ち、快楽を感じなければ批難されない。 今の研究では動物を殺さずに細胞を培養して食そうとする試みもあるそうです。細胞の命を奪うことにはなるかもしれないけれど、未来では今の過程の罪が無くなるかもしれません。そうなったら、昔の人々は野蛮だという烙印を押されるのでしょうか?私の今生きている世の中は、生きている私は、野蛮で愚かで間違った行為をした低俗な人間になるのでしょうか? そう思うと晩御飯を美味しいと感じる己が悪人に思えます。 趣味はもっと悪いことの様に思えます。動物や植物、石、あらゆるモノの命を破壊して、加工し楽しんで快楽を得ているのですから。しかも、趣味にはこだわりがあって選り好みするし、いいなと思うものが増えるだけ、消費する量も増えます。しまいには、造る、加工する趣味は「過程」に快楽を感じています。絵を描いている時は描いている時が楽しい、編み物も編んでいる時が楽しい。完成品も誇らしいけれど、私は過程が楽しくないと続けられません。魚を捌くことも好きです。包丁を入れて身に刃が綺麗に入っていくのが気持ちいいのです。魚にとってみたら恐ろしい人です。生きるための枷ではないものを楽しいと感じる己がひどい人に思えて仕方ありません。 罪悪感に飲まれ何をしても苦しいです。結局また、今を生きれていません。不甲斐ないです。早く変わっていく価値観に取り残されて行きそうです。とっても恐いです。私はどうすればいいですか?
色々と仏事についてお教え頂き、ありがとうございます。 先日、以前からご相談させていただいていますお寺様より、施餓鬼供養のお知らせが届きました。 護摩供養と塔婆供養があり、護摩供養の方が一層ねんごろな供養となるため、新仏を出す家は護摩供養をおすすめしますとのことでした。 ちなみに、護摩供養は一霊5千円、塔婆供養は一霊3000円とのことでした。 ところで、我が家は真言宗ですが、どこのお寺様でも施餓鬼供養されているのですか? 我が家は、ご先祖様、祖父母、と父、そして母が新仏となります。ねんごろな供養と言われると護摩供養をしてあげたいともおもいますが、1度に2万5千円となります。 お盆のお参りにも来て頂くことにしたので、当然お布施もします。 気持ちと言えば気持ちですし、今まできちんとお坊様のお経を頂くことのなかったご先祖様や祖父母の供養もきちんとしてあげたいし、父も長らくお経を頂戴していないので、ねんごろな供養をとおもいます。当然、新仏の母も。 しかし、金額的にどうかと思います。 例えば、ご先祖と祖父は塔婆で、両親は護摩供養と差を付けても良いものなのでしょうか? お寺様に伺おうかと思いましたが、当然大切に思うのですがあれば、護摩供養で。お気持ちです。と言われるであろうと思います。 ですので、こちらでお教え頂きたいと思います。 よろしくお願い致します。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
私が仏教の入門書で最初に目にしたのは「仏教の目的は輪廻転生からの解脱である」ということでした。 外国の仏教では輪廻転生が信じられていますが、日本の仏教ではその話は殆どおこなわれていません。 その理由を知りたいです。死に対する最も重要な事項だからです。
こんにちは。 自殺しようか悩んでいるものです。 辛くて辛くてたまりません。 でも自殺してもなにも終わらないのですか? 仏様は罰としてわたしを地獄に送るのですか? 死後の世界が怖くてたまりません。 死んだおばあちゃんのところにはいけないのですか? 教えて下さい。
以前悩みを相談させて頂き、解決に至りました事、お礼を申し上げます。本当にありがとうございました。 相談の内容は全く変わるのですが、今回の質問は「人には持って生まれた運勢があるのか。パワーストーンは本当に効き目があるものなのか。」という事です。 先日知人によく効くと評判で自分に合ったパワーストーンを、姓名判断・生年月日出生時間・生まれた県・現住所等から占い(風水的な考え方から)選んでくれるというお店に連れて行ってもらいました。 占いの結果「運には大きく分けて5つの運があり、貴方には持って生まれた素の運の内、これとこれの運はありますがこの運がありません」「正し素の運は変わらないがそれにプラスして1年ごとと、大きな転換としては10年ごとに運気が変わる」「貴方の持っている運のうち、持ってはいるが少なくて、他の強く持っている運とのバランスが悪くなってしまうのを補う為のオススメのパワーストーンはこれです。」等と説明を受けました。 そういえば、お寺さんや神社にも数珠やパワーストーンを置いている所があるなと思いましてして、疑問に思ったのでお尋ねしたいです。 元々八百万の神様等はいたら楽しいなと思い信じているのですが、人が持って生まれた運等もやっぱりあるのでしょうか? お店の説明では、そのお守りとしてパワーストーンがあるとの事ですが、あまり物を増やしたり、依存したくありません。 運に本当に影響があるなら、お守りとして信じて一個購入してもいいかもしれないとは思いましたが、 例えば人間関係の運を上げたいと思っても元々その運が無い人が人間関係が上昇する石を持っても意味が無いそうで、元の持って生まれた運をもうちょっと上げたい時に手助けするのがパワーストーンだと言うので、なんかそれだとあまり夢が無い気がして悲しくなりました。 お坊さんの腕にもパワーストーン(数珠)をつけている方をよく見かけますが、それは自分が好きな石をつけているのか、それともこんな運が上がれば良いな~と意味を調べて身につけているのか、若しくはお寺で僧侶はこの石を身につけるとよいされている石があるのかも気になります。 是非教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。
2ヶ月くらい前に相談させてもらいました。体調は以前より良くなり仕事も復帰しました。 最近は半年前に結婚した旦那の事で体調不良だと思いはじめました。もともと、なんとなく結婚してしまい旦那のいい所はとても優しい所です。私の連れ子にも優しく接してくれます。でも旦那の顔が今は見るのもイヤなくらいです。子供も学校の行事に旦那が来るのをイヤがります。顔がとにかく怖いんです。度々、嘘もついて結婚する前に借金をしてた事もわかり、わかっていれば結婚しなかったのに。と後悔しています。私がなぜ旦那に対しイライラするのか、それは私が母子家庭で8年間働いて新築の家を買ったからです。苦労して買った家にバッグ一つ持ってきた旦那が今になってイライラして体調悪くなってしまいます。もちろん夜の相手もしませんし寝る部屋は別です。夜の事でケンカになる事もありますが旦那がおれてくれます。こんな生活が息苦しいのと、また体調悪くなって仕事を休む事になったら。と考えると、どうしたらいいのかわかりません。いいアドバイスお願いします。
幼い頃から、何かあるたびに「そんなんじゃ、変われないよ」と言われて育ちました。 内向的で、誰から見ても大人しく、あまり喋らない子でした。 元気に明るく振る舞うよう努めてきましたが…本当に明るくて穏やかな人を前にすると、萎縮してしまいます。 私は偽物だから、本物には敵わない。 ぼんやりした劣等感を持ったまま大人になり、その劣等感が、いつからか自分の一部になってしまったようです。 そもそも、どこをどう変えるべきだったのか、今になっても分からずにいます。 ただ、今の自分では駄目なのだと思わされる出来事があまりにも多かったからか、自然とその言葉を受け入れていました。 以前にも相談させていただいた、男性からの心ない態度について…最近思うのは、あの人たちは本当は見る目のある人なのではないかということです。 私が中身のない人間であると見抜き、関わりを拒んだのであれば、凄いことです。 改めるべきは、彼らではなく私なのかもしれません。 hasunohaに出会う随分前、堪らなく苦しくなったときの相談相手が占い師でした。 占いを完全に信じきっていたわけではありませんでした(当たればいいのに…と思った部分はいくつかありましたが)。 「出掛けなければ、出会いはないよ」と言われ、その言葉が今でも頭に残っています。 外に出ることで、なにかが変わるかもしれない。そう思って、外出の機会を増やしました。 しかし、外には楽しそうなグループや幸せそうなカップル。同年代の子供連れの夫婦。 また、劣等感です。 肩身の狭い、ただのお出掛けで終わってしまう事が殆どです。 家に籠っていれば良かった!と後悔したことはもう、数えきれません。 劣等感は、いつか消えて無くなるものなのですか?
最近仏教関連の事柄を勉強しています。 大抵のことには首肯でき、今までの自分にない発想に心が洗われるような気持ちになりますが、イマイチ納得出来ない部分もあります。 それについてはまた別の質問で書かせていただきたいと思いますが、今回は、ここにいらっしゃるお坊さん達が、仏教の教えの中で、今の世相に合わないのではないかと思った部分、疑問を持っている部分などについて聞かせていただきたいと思います。 なぜこのような質問をしたいかと言いますと、例えばイスラム教では豚肉を食べてはいけないという教えがありますが、由来としては「乾燥した地域で、牧草でなく穀物を食べてしまう豚が忌避されたから」「伝染病の蔓延や寄生虫による被害の元になるから」などの説があり、この教えは現代ではほとんど有用性がないといえます。このような、現代社会に合わない教えというものが仏教にもあるのではないかと思ったからです。 なんだか衝突を巻き起こしそうな質問で申し訳ありません。 「ない」という回答でも結構です。 よろしくお願い致します。
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。