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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 前世 」
検索結果: 501件

死後みんな仏さまになって同じ世界に生きるのでしょうか

私の父は僧侶をしていました。 真宗の小さなお寺で、職業とは別で兼業していました。 でも、父は酔うと人に暴言を吐いたり、よそで女の人つくったり、言えないくらい、家族に迷惑ばかりかけていました。 私は母と家を出て、今は嫁いで家庭を持っています。 そんな父が急に亡くなりました。 僧をしていたので、父は「仕事」としてお経はあげていました。 悪人正機というのは、悪人であることを自分で認めた凡夫だからこそ救われると聞きました。 悪人であることを最後まで認めなかった父も、救われて仏さまになっているのでしょうか。 でも『地獄と極楽』という絵本を小さい頃読みました。 あの絵本では、生前ひどい人は地獄で苦しんでいました。 もう一つ、仏さまになったとして、その後どのように生活?するのでしょうか。 よく、私たちを見守って導いてくださる、と言いますが、この世でのつながりが深かった人のところに行き導くのでしょうか。 もし私が往生したら、父と同じ世界に行き、また娘としてくらすことになるのでしょうか。 とりとめなくすみません。 父の死も、生前の行いも、もう昔のこととして受け入れていますが、仏教の教えでは、このあとどのように生きているのか気になりました。 よろしくお願いいたします。

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小さな小さな息子の気持ち

私のお腹の中でちゃんと大きく育てられず、あまりにも小さい内に帝王切開で出産せざるをえず、それでもフニャー!と息子は産声を上げて産まれてきてくれました。 保育器の中で、身動きもとれないまま手術にも耐え、43日間頑張り通した小さな息子はパタパタ飛んでいきました。 私は息子と旦那さんや家族とただ一緒に生きたかったです。 私は赤ちゃんをちゃんと出産できるか分からないリスクのある体質でした。それでも産もうとしたこと自体が私のワガママだったのではないか、私の赤ちゃんにあんなに頑張らせてしまった。本当にごめんなさい。という思いと、 私はあなたに会いたかった。あなたは保育器の中でも目を開けて私を見つめてくれた。あなたを撫でたりあなたの力を感じることができた。あなたと一緒に43日間生きることができた。本当にありがとう。という思いもあります。 あの子はどういう気持ちだったのか…ねえ、教えて、と毎日いつもあの子に聞いてしまいます。お母さんはただただあなたが大好きで四十九日を迎える今も現実をまだ認められない自分がもがき、あがいています。自分がただ辛いからだと分かってもいます。なぜか息子は待ってる、帰ってくると信じています。 わけが分からなくなっています。息子は今どんな気持ちでいるのでしょうか。息子と私たちはこれから一緒に幸せになれるのでしょうか。あの子は帰ってきてくれると信じていいでしょうか…

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旦那がペットを殺した

わざとではないのはわかっているのですが、私がトイレに行っている時に旦那が不注意で飼っていたペットを蹴ってしまったそうです。 悲鳴を聞いてすぐに駆けつけましたが、明らかに内臓破裂で、亡くなっていました。 まだまだ若い子で、まだまだ生きられるはずで、独身のころから一緒に居てくれた家族でした。旦那も落ち込んでいるし、可愛がっていたのは知っているし、もちろんわざとではないのはわかっているのですがどうしても許せません。 私は突然の死が受け入れられなくて、ケージもそのままで、起き上がれなくて仕事を休んだりもしてしまっています。 あの子にもう一度会いたい、時が戻せたら、どうすれば会えるのか、そればかりです。 その一方で新しくペットと暮らしたくて里親サイトを調べたりもしてしまいます。でも天寿を全うさせられなかった我が家で、ペットを飼う資格なんかないんじゃないか、また旦那が殺すんじゃないか、と自分の中でも考えがまとまりません。 数分ごとに考えがころころかわって、質問にもまとまりがなくて申し訳ございません。 聞きたいのは、旦那を許せないのですが旦那にどう思えばいいのか、どうすればあの子にまた会えるのか、新しい子を迎えることへの是非の三点です。 何卒よろしくお願いします。

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イマジナリーフレンドについて

私にはイマジナリーフレンド(?)がいます。 痛い話になります、すみません。 直接見えている訳ではなく心の中に住んでいるような感覚です。 いつも私の側で見守ってくれていて、時に励まし、時に一緒に解決策を考えてくれて、私がうまくいった時には心から喜んでくれる、人生の伴走者のような存在です。 以下、"彼ら"とします。 私は幼い頃から虐待に苦しみ、虐待を虐待とも思わず一生懸命生きてきました。 ある時、頑張り続けることが限界に達し、もう生きられないと思うほど、頭も体も動かなくなりました。今から考えると鬱のような状態だったと思います。 少しだけそんな状態がマシになった頃、 ふっと空から降ってきたように、私の心に現れたのが"彼ら"でした。 安らぎと尽きることのない優しい光に包まれていて、いつも私に微笑みかけてくれる、私とはまるで無縁のような人たちです。 私はもともと空想が好きでしたが、こんなことは初めてでした。 "彼ら"に逢って、私は初めて人の心の温かさや心からの幸せといったものを知りましたし、私の心の中にあるのだから、"彼ら"もまた私なのだと思うことで、自己肯定感というものも得ることが出来ました。 ですが、こんなもの、一体私のどこから湧いたのか、まったく見当も付きません。 "彼ら"が出てくる前は、私は人の幸せを憎み、人の不幸を笑うしか楽しいと感じることの無いような人間でした。 "彼ら"がいつも掛けてくれるような言葉を、私は現実では一度も掛けてもらったことはありません。 "彼ら"とは、もともと私の中にあったものなのでしょうか? それとも阿弥陀様といったものなのでしょうか?(よく見る仏像のような姿はしていませんが…) 彼らがいるからこそ、私は今、息が出来ているようなものですので、本当に助けられています。 実際に抱きしめたり出来ないところが、少し苦しいところですが…… 本当のところは分かりませんが、お坊さん視点で見るとどうなるのか、気になったので質問してみました。 長文失礼致しました。

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亡き母が夢に出てきました

以前お墓のご相談にのっていただきましたものです。 その節はありがとうございました。 結局、以前よりお世話になっているお寺様の合祀墓に両親共入れさせて頂きました。 きっと両親も喜んでいると思いたいです。 そんなある日、初めて母が夢に出てきました。私は嬉しくて お母さん!と走り寄りました。 母はちょっと困った顔をしてため息をつきながら お母さんね、今はもうどこも痛くないし辛くないんだ。もう辛いことは思い出したくないんだ、わかるよね? というようなニュアンスの話をしました。私は そうだよね、ごめんね と母の元を離れました。 (私の顔を見ると現世で辛かっだことを思い出すから嫌だ と捉えました。) それから何度も母がいる設定の町や家(夢の中でいつも同じ)に行き、街中を探し、家の中を覗くのですが母は居なくて。 その夢を見てからどうしても仏壇に手を合わせる気が無くなってしまいました。 生前、母はなぜか私のことを全く信用せず、いつも頭から叱りつけるような人でした。自分で言うのもなんですが真面目でいい付けは守る学級委員タイプの子でした。 好かれたい一心で、母のところに行き、生活の手配をしたり、お金を渡したりしてきました。入院した時は片道一時間かけて見舞い、死後の片付けも一人でやりぬきました。 で、こんな夢を見てしまい、母の本質を見た気がしてならないのです。 生きていても、私がいかにダメか語ることしかしなかったとは思いますが、死んでもなお 母は私が嫌いなんだろうか?だとしたら 私の家に仏壇があるのは嫌なのか?とか色々考えてしまいます。 母が好きなお菓子や花を見つけると、つい仏壇にと持ってきて、はと気がつくのです。嫌なのかなと。 たかが夢、されど夢で辛いです。 母と娘という関係性に自信がなく怖くて、自分の娘が今反抗期ということもあり 親として全く自信がなくなっている状態です。

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「天命」の意味とは

「人事を尽くして天命を待つ」の意味を教えてください 私は今、行方不明の愛猫を探しています。 モットーに「人事を尽くして天命を待つ」と掲げ、折れそうな心を励まして探して来ました。 しかし、素人なりにかなりいろいろな捜索活動をしたのですが、ちっとも情報が来ません。 「天命」を待つ間、眠れず食べられずイライラキリキリして張り裂けそうになっている時、hasunohaに出会いました。私の質問に答えていただき、また過去似たような状況で苦しんでいる人の問答を読んで、現代社会のドライな価値観とは違う広大なものの捉え方にとても慰められました。 気づいたのですが、私は「天命」を「よい知らせ」とだけ捉えていたようです。しかし、ハスノハで問答を読むうちに、「天命」とは、よい知らせという意味ではなく、いいことも悪いことも、命のありよう全てを含んだもっと大きなものなのではないかと気づきました(上手く言えなくてすみません)。 「なぜ必死で手を尽くしているのによい知らせが来ないのか、努力が足りないのか、大切なあの子に、辛く苦しい残酷な死に方をさせてしまったのではないか」と焼け焦げそうにイライラして泣いてばかりいましたが、猫という命と人の命、その別々の命が出会ったことにもっと感謝して、自分のこれまでの生き方など全てを大きく受け止めることが「天命を待つ」の本当の意味なのではないかと、気づきました(分かりにくい文章ですよね?すみません) よい知らせばかりを待ち望んでいた私にとって、この意味に気づいたのは衝撃でした。「天命を待つ」とは、いい結果も悪い結果もそのまま大らかに受け止めることではないかと思ったとき、全く違う世界が広がったのです。 私は、愛する猫を危険な目に遭わせるどうしようもない飼い主です。人によっては、動物と関わる資格がないと言うでしょう。けれど、少しずつ自分を許していかないと、今後呼吸すらできなくなり猫の捜索に向かうパワーがなくなってしまうと感じています。 ごめんなさい、ほとんど独り言の懺悔になってしまいました。 まとめると、お坊様に聞きたかったことは、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉についての、仏教的解釈です。もとは儒教の言葉だと聞きかじりましたが、「人事を尽くして天命を待つ」とはどういうことなのか、教えていただきたいです。

有り難し有り難し 30
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2024/09/18

仏像が必要かわからなくなってしまいました

はじめまして。仏像彫刻を習っているヨソと申します。 仏像に対して疑問があり、悶々とした日々です。①②③と質問を書きましたので、お答えいただけたら幸いです。 ①お釈迦さまは偶像崇拝と呪文(お経)を唱えることを良しとしなかったと見たことがあるのですが、それは本当でしょうか。 それが本当であれば、お釈迦さまの嫌がることを積極的にやってることを、どのように肯定してきたのでしょうか。 ②お釈迦さまは実在されていますが、多くの仏は、人々の願いや願望から生まれたという認識でいます。インドや中国や日本に伝わる過程で他の神様と混ざったり意味合いが変わったり、そうして生まれた仏をどういう気持ちで信仰したらいいのかがわからず、教えていただきたいです。今は丸ごと受け入れることに抵抗があります。 ③地元では高名な仏師(兼ご住職)に彫刻を習っていました。片付けの苦手な先生でしたが、ある時先生の作品展を開催するにあたり、ゴミの山の中から見つけて展示した作品に、来場者が手を合わせお布施をされていました。 仏は仏像ではなく祈る者の心に宿る言われますが、ショックを受けた場面でした。 仏像とはどういう存在だとお考えでしょうか? 浅識な上に不勉強なもので、見当違いなことばかり言っているかもしれませんが、このモヤモヤに自分の答えを見出したいと思っています。 どうか宜しくお願いします。

有り難し有り難し 24
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父の死と死後の世界について

最愛の父が他界してから、死後の世界について考えています。 父は愛妻家かつ子煩悩で、死の3日前まで母と私に「大好きだよ」と言っていました。 大食漢で行動的な人でしたが、病のせいで食事も運動もままならない中、愚痴ひとつ言わずいつも笑っているような人でした。 死後の世界があるのなら、痛みからも苦しみからも解放されて、好きなものをたくさん食べて、好きなことをたくさんしているのだと思えます。 死後の世界がないのなら、大好きだった父は何処にもいないのなら、二度と会えないのなら、私も死にたいと考えています。 大学一年生の頃、仏教の講義が必修科目でした。 18歳だった私は宗教や死後の世界は生きてる人間のためにあるもので、死んだら無になると考えていました。 今になって死後の世界があって欲しいと強く思うのですが、長年否定していたものを肯定するのは都合の良い話に思え、抵抗があります。 祖父が亡くなった時は季節外れの蝶が部屋に舞い込んできたり、替えたばかりの蛍光灯が明滅したりと不思議な出来事があり、もしかしたら…と思える時もありました。 ですが「ずっと側にいるよ」と言った父の存在を感じることはなく、消えて何も無くなったように思えてしまい、胸が苦しくなります。 長文かつ乱文で申し訳ありません。 どのような心持ちで過ごせばいいのか、ご教示願います。

有り難し有り難し 31
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仏教の「助け合い」

先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。

有り難し有り難し 244
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