前回のご相談のその後、 中期中絶をしました。降りてきてくれた子は女の子でした。とても小さな子でしたが、顔立ちも整った立派で愛らしい赤ちゃんでした。 赤ちゃんと最後の時間を過ごし、思い出作りをしました。週明けには最後のお別れをします。 パートナーと私に、無償の愛と沢山の事を身をもって教えてくれ2人に希望を残してくれた事から 希愛(まな)と名付けました。 分骨をし、希愛を想い、決して忘れない様、2人成長して生きます。思い出の品とお骨を小さな祭壇に置き自宅での供養をと思っていますが、やはりお寺さんで供養して貰うべきでしょうか? パートナーのご両親から婚約不履行、猛反対をされての現状ですので、お相手のご両親に内緒でお付き合いは継続している状態ですが、 パートナーも私も、気持ちの整理が出来ておらず、今後のお付き合いの果てに再度、結婚、妊娠という未来は絶望的な事、私の持病を完治に近い状態まで持っていき、認め、支え、尊敬できる存在になったら結婚したいと言ってくれていますが、パートナーのご両親に理解して頂く事は難しいとも考えています。相手は何れご両親の近くに住み移る事になるとも思いますし、私はご両親と上手くやっていける自信がないです。 中絶という結果と度重なる話し合いでパートナーのご両親に対して不快感しか抱く事が出来ず、二度と関わりたくありません。 時間が経てばまた違った考え方も出来るようになるかと思いますが、どの様な気持ちで過ごしていけば良いでしょうか。
1年以上前に当時20歳だった幼馴染を亡くしました。時が経てば辛さも徐々に薄らぐか、と思っていましたが全然どうにもなりません。 夢で会っては「やっぱり生きてた。死んだのは嘘だったんだ。」と思い、喜び嬉しくなり、目が覚め、現実に戻り辛くしんどくなります。 これから先いつまでこのようなことが続くのか、と思うと心がやられそうになります。どうすれば辛さや悲しさが和らぎますか?また、どうすれば会いたい気持ちを抑えられますか?
日本では葬儀のほぼ全てが火葬で行われていると聞きます。 その由来はお釈迦様に由来すると言われていますが、私はなんとも残酷だなと言う思いが抜けないのです。 火葬の意味と言いますか、なぜ人を火葬するという行為で見送る事になっているのでしょうか? 子供のような質問で大変申し訳ないのですがご教授いただけませんでしょうか
タイトルの通り、先祖の墓を探しています。 父方の先祖の墓の場所が分かりません。正確には、あるのかないのかもわかりません。 簡単に状況を説明させていただきます。 私の父は20年程前、母は数年前に他界しています。 父方の先祖の墓があるのかないのか、そもそもその話をした事は一度も無いままです。 父は全く興味なかった様ですが、母は創価学会に入信しており、その影響もあってか(と疑っています)、墓参りというものに連れていってもらった事がありません。 私自身は創価学会には興味はなく、現在特定の宗派を信心しているという事もありません。 ※疑っているというのは、上記宗派は他の宗教を一切認めない、というと聞いているからです。 簡単に言ってしまえば、父方の墓に関する情報は全く無い状況です。 親戚にもある程度あたってみましたが、有力な情報は無しでした。 情報としてあるのは、父の母の母はなぜか大石寺(静岡県)に納骨されている、という情報と、父の父は戦死しており靖国神社に祀られている(墓とは関係無いですが)という情報だけです。 ご回答いただきたいのは…以下二点です。 ・精神的な悩みというより一般的な質問になってしまうかも分かりませんが、全く情報が無い状況で墓を探す事は出来るでしょうか? ・見つけることが難しい場合、私自身が死んでしまった場合の墓はどうすれば良いのでしょうか?前述の通り特定の信心は私は行っておりません。適当に用意するものでも無く、かと言って無理から何らか信仰するのも違う様に思えます。 私自身はともかく、家族(妻・子供)もこのままの状況では困ってしまうと危惧しています。 ちなみに特定の信心は行っていませんが、先祖を敬う気持ちは持っているつもりです。
先日大好きな妻が亡くなりました。妻は本当に僕の全てで大事な大事な宝物でした。 子供もおらず、独りぼっちになってしまい、今は絶望しています。生きる目的、意味が全く無くなりました。 僕の唯一つの願いは最愛の妻の魂にずっとずっとすぐそばにいてもらい(お骨も手元に)、自分が亡くなるときに一緒のお墓に一緒に納骨してもらい、そしてあの世でまた会えることだけです。 質問なのですが、49日に審判され遠くへ行ってしまい最終的に極楽浄土を目指すという理解をしているのですが、疑問があります。 白木の御位牌から本位牌となり、魂を入れて頂くと思うのですが、位牌に魂が宿るとするならば、極楽浄土などに魂は向かうのに、魂はいったいどこにいるのでしょうか? 魂は分割され2か所にいるのでしょうか? また、お盆には年に一回戻って来るという話しも子供の頃から聞いており、迎え火で迎え送り火で送り帰って行くということでした。帰ってしまったらいないということなのでしょうか? 極楽浄土等、御位牌、お盆、魂の居場所をわかりやすくご説明頂けますと幸いです。 僕は妻にずっとそばにいて欲しい、遠くへ行って欲しくないと考えております、魂の居場所によっては仏教と考えが合わないのでしょうか? 実はそのように悩んでいる間に49日が過ぎてしまいました、49日の法要は過ぎては良くないと聞きますが今から行って頂くことは難しいのでしょうか? どうぞ宜しくお願い致します。
初めまして、ハルネと申します。 皆様が日々心を落ち着けたり精神を高めるために、 どのようにルーティンを行ったり、毎日を過ごされているのか気になり、質問させていただきました。 といいますのも、私は日頃精神のバイオリズムが激し目のタイプで、 これを落ち着かせたい、気持ちを高く良い位置で維持したいと考えており、 その為にはルーティンのような、日々の自分の精度を上げるための習慣のようなものが効果的ではないかと考えている為です。 実際、そういえばお寺のお坊さんは朝のお勤めなどでお経を読まれたり掃除を毎日していた気がする…と思い、 見様見真似で真似をしてみたところ、 気持ちが安定してきたという成果があったので、 よりお坊さんの日頃の過ごし方やルーティンのようなものに興味が湧いたという次第です。 宗派や人によって日々の習慣や朝のお勤めの仕方、ルーティンは違うかと存じます。 できるだけ多くの方の、心を落ち着けるため、己を高める為の習慣的行為を教えていただけたらと思います。 ぜひ勉強させてください。 何卒よろしくお願い致します。
どうかお知恵をください。お願いいたします。 先日、親友が亡くなりました。 あまりにも突然の別れに心の整理がつきません。 親友を思うと、涙が溢れて止まりません 。 苦労も多いのに顔に出さず、我慢強く太陽の様に明るく、心優しい女性でした。 私は彼女の笑顔にたくさん救われました。 大好きな彼女の笑顔は私の人生の宝物です。 お聞きしたい事があります。 これからの大切な日も親友と共にしたく、親友の写真を入れてメッセージを彫ったロケットペンダントを作りたいと思っています。 彼女は寂しがり屋です。 友達と過ごす時間も大切にしてくれる私だけではなく、私達仲間の大切な存在です。 年に数回ある友人達との集まりや、今年ある友人の結婚式など、親友が生きていれば一緒に参加する予定だった行事へ着けて行きたい思っております。 そして、ペンダントはこれからも私達仲間との特別な日に着けたいと思っております。 でも、その事が親友の成仏の妨げにならないかと不安になり質問しました。 親友の葬儀は曹洞宗でした。 曹洞宗について知識がない為、インターネットなどで色々と調べたのですが、仏壇へ写真を飾る事は大丈夫と記載がありましたが、ペンダントについての情報がありませんでした。 とても大切な大好きな親友です。 彼女が安らかである事を一番に考えたいです。 どうかお知恵をください。 お願いします。
私の母が車の免許の更新のため、コンビニにある証明写真機で証明写真を撮りました。でも、そこのコンビニは以前、車の事故などがあった場所で、少し不安になりました。大丈夫とは思うのですが、気持ちがモヤモヤするので、どうにか免許センターで撮り直してもらおうかなと思うのですが、考えすぎでしょうか?また、実際に撮り直したとして、コンビニで撮ってしまった写真は破棄してしまって大丈夫でしょうか?
初めて質問させていただきます。 プロフィールにものせてますが、わたしはひとりっこ、親族は今は高齢の父のみです。 父は信心深く、お仏壇には毎日お線香を焚いて、手を合わせておりました。そんな父の背中を見て育った私は、仏教について何の知識もなく、毎日の日課として、父と同じようにしてきました。 そんな父が難病にかかり、また高齢でもあるため寝たきりとなり、今入院しています。父の代わりに私を務めていますが、それも私の代で終わるわけです。 また数年前母が他界したときに墓地を購入しました。父もいずれ母と入りたいと思っているのでしょう。それは娘として叶えてあげたいとは思いますが、問題はそのあとです。 私もいずれは後に続くわけですが、私を弔ってくれる人がいません。 (そんなご家庭は珍しくないと思いますが) 他人様の手を煩わせるのも申し訳ないので、自分で自分の死後のことはきちんとしておきたいと思うのですが、まず何から始めたら良いのでしょうか。 心構えについても会わせて御教授いただけたらと思います。 今日は母の命日です。そんな日にこちらのサイトを見つけたのも不思議なご縁だなと思いつつ、乱文ではありますが、御回答頂けたら幸いです。
お忙しい中、いつも素晴らしいお言葉を頂き、ありがとうございます。 何度も申し訳ありませんが、再び質問をさせてください。 今から約3ヶ月前に母を亡くしました。 まさか亡くなるとは思っておらず、急なことで今も心の整理がついていないのが正直な感情です。 自分には父の他に兄が二人おります。 当初は兄たちも悲しみに暮れて落ち込んだり、涙を流したりもしていましたが、 その後、1ヶ月以上が経過し始めた辺りから兄たちは気持ちを切り替えたのか、普段通りの生活に戻りました。 ですが、自分は気持ちの切り替えが難しく、正直まだ立ち直れていません。 それどころか、母の面影を追いすぎた余り、心の病を患って入院もしました。 周りからは『自分と兄たちとでは母と過ごした時間や思い入れがそれぞれ違うから感情に違いがあっても仕方がない』とも言われました。 確かに自分は母と同居していたので世話はもちろん、最期まで看取りました。 それでも、同じ兄弟でもこんなに温度差があるのか…と戸惑いが生じていることも事実です。 一人の兄からは『気持ちを切り替えれたからもう涙は出ない』とあっさりした感じで言われました。 年月が経過しているならまだしも短期間であっさりと気持ちを切り替えられるものなのでしょうか? そんなつもりはないと思いますが、母が忘れられたような気がしてとても寂しく感じてしまいました。 メンタルが弱いと言ってしまえばそれまでですし、単に自分が引きずり過ぎているだけかもしれませんが… もしよろしければご意見を頂きたいと思い、投稿させて頂きました。 お忙しい中、申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。
主人が亡くなった時に、永大供養のお墓を探して購入しました。 その後、子供もいなかったので結婚前の旧姓に戻して実家の近くで1人暮らしです。 先々、私が亡くなった際は、実家を継いでいる兄家族が喪主になると思います。 そこで質問ですが、実家には仏壇があり、お世話になっているお寺もあります。実家の両親の葬儀や納骨などは、すべて実家の縁があるお寺にお世話になると思いますが、私の場合はどうすべきなのでしょうか? 実家の方は、まだ亡くなった者はいませんが、高齢な父が最近、仏壇だけは購入しました。その際に初めてお坊さんに来ていただきました。 実家の家族も、私自身も、信心深い方ではなくお寺に行く、お坊さんに来てもらうという習慣はありません。実家の母だけが神棚にお供えするように仏壇にもお供えをしなければならないって気にしている程度です。 そんな感じで、実家のお寺ともお墓のお寺とも、深いご縁を頂いているという意識もなく、お逢いする機会もほとんど無い状況です。 通夜・葬儀などは、実家のお寺にお願いして、納骨の時だけ私のお墓があるお寺にお願いするのでしょうか? それとも、通夜・葬儀から、お墓のお寺にお願いすべきなのでしょうか? ちなみに、両方の寺ともに同じ宗派です。実家の寺は自転車で10分、お墓のお寺は車で40分位の距離です。
母が突然死しました。 数日前までとても元気に食事をし、健康診断も主治医から太鼓判を頂いたと喜んで報告してくれたので、しばらく信じられない気持ちでした。 きっと母自身も突然この世を去り驚いているだろうし、無念だったのではないかと気がかりでした。 母の死後、四十九日を待たずに地元で有名な霊能者の方にいろいろ視て頂きました。 信じる信じないは別として、ポッカリ空いた心を穴を埋めて欲しくて伺いました。 先生からの第一声が、母の生き方が素晴らしいとの事でした。 確かに母は誰にでも平等で優しく、穏やかな人でした。 しかし苦労が絶えず、娘の私から見ても果たして幸せな人生だったのか、そして誰にも看取られる事なく逝ってしまった最後が悲しすぎて後悔ばかりしておりました。 しかし、母は四十九日を待たずに天界へ登っているとの事でした。 すでに成仏しているとの事です。 例えて言うなら普通の方が徒歩で一歩ずつ天界へ登る所を、母はエレベーターで上がっていったようだとの事です。 今は6年前に亡くなった父よりも少し高い場所にいるとの事でした。 仏教は詳しくありませんが、人は亡くなってから四十九日間をかけて世話になった方等に挨拶周りをしてあの世への旅立つと祖母から教えてもらいました。 霊能者を疑ってるわけではありません。 それがでたらめでも心が救われたのは事実です。 そのまま胸に止めて生きていこうと思いましたが、ふとお坊様ならどうおっしゃるのだろうと気になりましたので質問させて頂きたいのです。 生前の生き方と言うのは成仏の仕方にも影響があるのでしょうか? 悪事を行えば地獄、良い行いをすれば天国。 それは子供の頃から頭の片隅に何となくありましたが、天国への上がり方にも生き方は反映するのでしょうか? 心が清らかな母だからそうなれたのでしょうか? そんな事って本当にあり得る事なのでしょうか? 母は悲しい最後で旅立ちましたが、人間、死に方ではなく生き方が全てと言う霊能者の言葉を信じても良いのでしょうか? 否定されても信じて行くつもりですが、仏様にお仕えするお立場からのご意見をお願い致します。
残務整理で実家の父の葬儀費用の話しになりました。跡継ぎはいずれ姉の息子です。(父の遺言書により。)私の家は正直、貧乏です。毎月私の医療費がかかってしまうので家計は苦しいです。 実家の父の葬儀については私に事前に何の説明もなく私の目から見て、物凄く豪華すぎる内容のように思いました。既に姉と母が仕切り私は葬儀社を何処に頼んだのかすら知りませんでした。頭にきたのは出棺前の最後のお別れの時に私はあんな酷い父だったけれど、自然に涙が出ました。泣いている私の足を隣にいた姉がばんばん叩きつづけていた事です。理由はわかりません。義理の兄は葬儀のあとの食事の時に私と私の夫に対して大声で怒鳴る。お酒は飲んでいませんでした。夫の父の趣味(ハワイアンのウクレレを弾く)を大笑いしながら「ウクレレだってぇ~」とバカにしていつまでも笑っていました。夫の父と母もその場にいました。私はキレそうになりましたが「今日は葬儀だから心静かに」と思い、我慢しました。 母と姉が勝手に決めた派手な葬儀と私の夫の父をバカにした義理の兄、姉の暴力、我が家の貧乏が理由で私は葬儀費用を分担する事を拒否しま した。弁護士立ち会いのもと。 母は「ムカつく」と言って、姉と手を取り合ってその場を去って行きました。 お坊様に質問なのですが、私の実家の父の供養は葬儀費用を分担しなくても、お盆、お彼岸、一周忌法要、三回忌法要、などに参加してしっかりと手を合わせて南無阿弥陀仏をおとなえすれば良いでしょうか?
家の前のマンションが事故物件かもしれないという話しを知り気になり仕方ないです。何も知らずに6年住んでいますが先日ふとした事で知りました。もう7年も前ですが,事故は本当にあったみたいですが,その方が助かったのかお亡くなりになったのかは分からないのに勝手に色々と想像して辛くなってしまっています。 玄関の目の前のマンションなので,出かける時など目にする度に上記の事が頭をよぎり,嫌な気持ちになり辛いです。 引越す事もできないのでこの先何十年もこの嫌な気持ちを毎日するのかと思うと気持ちが沈んでしまいます。 私の性格なのか,悲しいニュースや辛いニュースなどを見たりした時にその話から色々と想像して辛くなってしまい自分自身を追いつめてしまっています。 今回の件も事故があったのは事実ですがそれ以上の事は分からないのに勝手に想像して怯えたり嫌な気持ちになる自分の思考にも本当に嫌気がします。 どうしたら気持ちを切り替えて過ごせるでしょうか。アドバイス頂けますと助かります。どうぞよろしくお願いします。
先日 主人を亡くしました。 私は精神的に参っていたのと、義母との関係が悪く、義母のキツイ言葉に堪えられる状況ではなかったため、葬儀には出られませんでした。 その後、主人の両親、兄弟からは、これ以上かかわらないで欲しいと絶縁されました。 主人の両親・兄弟と話もできません。お墓も場所もわかりません。 位牌もなければ、戒名もわかりません。 ですが、主人の供養はしたいと思い、家に、遺影だけは飾りました。 今後、どのように、供養したらいいのかわかりません。 主人の実家から絶縁され、葬式にもでなかった私が、 主人の事を思い続けていいのでしょうか?
両親の離婚後長年会っていなかった父が孤独死しました。 死後、親戚の方と改めて関わっていく中で 私の幼少期の写真を見て泣いていたこと、 保険金の受取を最初から私にしていたこと、 養育費を払ってくれていたこと、 自分が死んだ時に私に渡せるようにと貯金してくれていたことを知りました。 高校生の時に会いに行って不在で帰ってきて以来、私はコンタクトを取ろうともしなかったことを悔いています。 私はもう大人になり結婚し子どもも生まれたので、孫を見せてあげられたらよかったなとも思います。 離婚の理由は父親が原因だったのですが、そこも含めて赦し、仲良くなれていれば…。 父親に自分はもう忘れられていると思っていたので、 私のことを考えてくれていたことを知り 驚きと嬉しさと、会いにきてくれればよかったのにとも思いました。 訃報を聞いてから 父親の晩年は幸せだったのか 苦しくなかったか 亡くなってまだ四九日経っていないけど私を見てくれているのか とぐるぐると考えてしまいます。 (電気がチカチカするのを勝手に、父がいるのでは?と思い込んでいます) また死自体が怖いと思ったり 漠然といなくなってしまいたくなったりと 死について極端に考えてもしまいます。 家族が亡くなるのが初めてで 自分の気持ちの持って生き方、 父は死後どうなっているのかをお坊さん目線で分かることがあれば教えて欲しいです。 よろしくお願いいたします。
仏教では 宗派が違うとあの世で別れ別れ 霊になっても生き別れになる と言う解釈になるのですか? 私は歴史小説などを読むのが好きです そこで出てきた話ですが 徳川家康が亡くなる前、病床で藤堂高虎(伊勢国津藩主)に対して 「宗派が違うからあの世では会うこともできない、今が名残惜しい」 のようなことを言い 藤堂高虎が 徳川家康と同じ宗派に改宗した と言う話があります。 これは 仏教では当たり前の考え方ですか? もし仏教ではなく、結婚や養子縁組などで 相手の宗派だけでなく宗教そのものまで違っていた場合 あの世ではもう会えないという考え方が一般的なのですか? ちなみに 徳川将軍家の菩提寺は 増上寺と寛永寺があったと思うのですが 宗派は違います。 どちらに葬られるかはそれぞれの将軍が遺言を残していたと思うのですが 先代将軍と違う寺に葬ってほしいと遺言した場合は 父親、兄、養父などには会えないで構わないという気持ちだったのでしょうか? そうなると 徳川家の血筋で かつ 江戸時代後期は 養子縁組を繰り返した 会津藩の場合は 代々仏教ではなく 神道でしたが 養子に出る→死後は親に会えない と言う覚悟が必要でしたか?
祖母が亡くなってから半年が過ぎました。未だなお立ち直れておらず、ふとした時に悲しみや絶望に苛まれます。 わたしはおじいちゃんとおばあちゃんが昔から大好きでした。とてもよくしてもらいました。とても可愛がってもらいました。10年以上前におじいちゃんが亡くなったときも大変つらいおもいをし、泣いてばかりの日々が続きましたが、おばあちゃんを支えないとという気持ちもあり立ち直れたような気がします。しかしおばあちゃんも亡くなった今、生きる希望がありません。わたしをあんなに可愛がってくれる人はもういません。わたしももう良い歳なのに、はやくわたしも死んでおじいちゃんとおばあちゃんに会いたいという気持ちばかりです。おじいちゃんとおばあちゃんがこの世にいないなら死にたいです。思えば、小学生の頃でしょうか。死というものを知ってから、わたしがこの世で最も恐れていたのはいつかくるであろう祖父母の死でした。寝る前に手を合わせて祖父母と家族の健康を祈ることが日課となっていました。それほど恐れていた祖父母の死を経験した今、もう怖いものはなくなりました。ひたすら祖父母に会いたいという気持ちしかありません。このまま生きていても二度とおじいちゃんと話せないしおばあちゃんのおにぎりと卵焼きも食べられない、二度とふたりに会うことができないことをふとしたときに思い出し、絶望し打ちのめされます。思い出の場所や外食した店、買い物した店など日常を過ごす中でふとしたときにも思い出がたくさん甦ってきて悲しくなったり泣いてしまったりします。仕事は頑張って行っています。趣味も楽しめてはいます。でもやっぱり祖父母に会いたいと思ってしまいます。仕事帰りにお墓に行き、ひたすら泣いて疲れて帰るという日もあります。夢にも出て来てくれるときもあります。 この気持ちは日にちが経てば落ち着き、癒えるのでしょうか。亡くなって少し経った頃、地元のお寺さんに供養に行った際に教えていただいたのは、悲しむのは悪いことではない泣いていいということでした。とても救われました。しかし半年も経ったのにまだまだ悲しく苦しいです。 わたしはどういう気持ちやおもいで日々を生きていけばよいのでしょうか。わたしはどうしたらよいのでしょうか。
2年前に、友人が病気で亡くなりました。 他の友人も交えて仲が良かったので、友人(以下A氏)が友人が亡くなった(亡くなった友人はB氏)3ヶ月後位に、B氏の母親に電話で、「B氏にお線香をあげたい」と言ったら、B氏の母親は「辛いので来ないで欲しい」と言われました。 A氏と2人でやり取りして、B氏の母親にお花とB氏が元気だった頃の写真と寄せ書きを送りました。 B氏の母親は喜んで「ありがとうございます。B氏の横(納骨していなかったので骨壷)に置いておきます」という電話を頂きました。 それからB氏の母親と寒中お見舞いなどでやり取りするようになり、今年になって「B氏のお墓まいりに一緒に行きましょう(一周忌でお墓に納骨した)」という手紙を頂きました。 B氏が亡くなって2年経って、B氏の母親とお墓まいりに行きました。 墓石にはB氏の名前が書いてあり、B氏の母親は「B氏はここにいるよ。今日はお友達が来てくれたよ」と話しかけていました。 私よりも先に、B氏の母親とお墓まいりに来たA氏は「A氏はまだ居ると思ったけど、お墓を見て死んだと実感した」とB氏の母親に言ったそうです。 私はお墓を見ても、B氏の死を実感出来ず、B氏の母親からA氏の言ったことを聞いて、ただ涙が出ました。 お墓を見れば、B氏の死を実感すると思っていましたが、実感するどころか、死を信じられず、「この中には別の人がいるのではないか」とも思いました。 お墓を見ても、その方の死を実感出来ないというのは、まだB氏の死を受け入れていないのかも知れません。 このような気持ちでお墓まいりをしたことは、B氏やB氏の母親にとって、失礼になりますか? 宗教について知識不足ですが、お坊さんの視点からお答え頂けると幸いです。
お恥ずかしながら、宗教のことに関してほぼ無知の状態でして、お力添えいただきますでしょうか。 昨年、母が他界しました。 京都に住む私は浄土真宗であると教えられ育ってきました。母方の父母、そして叔母も大谷本廟(西大谷)に喉仏や髪の毛があるということで命日にはお参りに行っていました。 私と母の二人暮らしで親戚もおらず、所属寺院などもわからない為、小さいお葬式というところで葬儀をしていただき法名もつけていただきました。 年が明け一回忌も近づき納骨をしたいと考えているのですが、大谷本廟(西大谷)のホームページを確認したところ、所属寺院証明書なるものが必要のようで… この場合は大谷本廟に納骨はしていただけないのでしょうか?