最近こちらのサイトを知って登録し、はじめて投稿します。 私は20代の頃から日本的な(東洋的な)景観に惹かれ、お寺の建造物・庭園・造形物などに興味を持ち、趣味として仏閣めぐりをしているうちに、仏教に興味を持った者です。 これまでのQ&Aを拝見すると、お坊様方の回答の中に「縁」という言葉がよく出てきて、そういえば父方の祖父母(故人)がよく「縁」という言葉を使っていたのを思い出しました。 日本的で趣ある言葉とは思っておりましたが、もとは仏教用語なのでしょうか? ちょっと変わったうちの母が、曖昧な言い方が嫌いなのか、犬猿の仲の姑がよく使っていたからなのか、「縁」という言葉を毛嫌いしてまして・・・。 「縁なんてものはない!魅力のないモテない女が、モテないという事実を認めたくないがために、縁がなかったという言い方に逃げて、実在しない縁というものを捏造した!」という奇抜な主張をするんですよ~^^; 縁は男女の出会いだけではないし、第一、「良縁に恵まれました」を「私の魅力によって良い男つかまえました」と言っては印象良くないですし(苦笑) でも、そんな母はお寺さん・お坊さんを尊敬しているので、もしも仏教用語だったら、それを知らせたら毛嫌いしなくなるかなぁと思いまして。。。
敢えて元夫と書きましたが、10日後くらいに離婚届を出す予定です。理由は主人の繰り返す借金です。 彼は私に借金を口汚く責められたことが原因で精神病を患い、子供に愛情が持てず、再び多額の借金をしたと言い張っています。遊ぶ金欲しさに子供の貯金まで使い込んだのも、精神病が原因だそうで8月から仕事も休職しています。 現在実家に帰り、理解ある親兄弟の元で、就活や保活など忙しく毎日過ごしているのですが、ふとした時に元夫への怒りを思い出して「あのクズ野郎が生きてると思うと悔しい。苦しんで死ね。」と思ってしまいます。そしてそれが無意識に口からこぼれ落ちてしまいます。 両親には子供の前でそんなこと言うもんじゃないと怒られましたが、どうしても怒りが消えなくて隣の部屋に行って子供に聞こえないように服で口を押さえて叫ぶこともあります。 こんな気持ちでいることが辛いのですが、新生活への不安もあり、どうしても恨み怨みで心がいっぱいになってしまいます。本音を言えば母子で心穏やかに過ごしたいのですが、どうすればこんな不毛な怒りを納めることができるのでしょうか。
小さい頃から、命が有限であることをネガティブにとらえ、生きることに執着してしまいます。 仏教の教えに従うことで、こうした心が安定するのを感じます。 しかし、一方で、「死を受け入れるしかないなんて虚しい」とも思ってしまいます。 心が安定する→虚しくなる→心が安定する→虚しくなる、この繰り返しです。 このまま死ぬまでこのループから抜け出せないのではないかと不安な気持ちでいっぱいです。 最終的に、死に対してどのように向き合えるようになれればゴールなのか教えていただきです。
以前の投稿では表現が回りくどくてイマイチ聞きたいことが伝わっていない様でしたので簡潔な質問文にして投稿し直しました。 宜しければご回答お願い致します。 私の悩みの元に関してはプロフィールに記載しました。 『なぜ愛する女性の命を出産という危険に晒してまで子どもを望んだのですか?』
同棲して2年になる恋人がおります。 付き合いだしてから、彼の名前を一度も呼べないことに悩んでいます。 彼にいくつかあだ名を提案しましたが、結局は「呼ばれたことないのでしっくりこない」とやんわり拒否され、前妻・元彼女さんに呼ばれていたあだ名でしか返事をしにくい とのことです。 その言葉で私のほうは落胆してしまい、なかなか私から名前を呼ぶ気持ちにもなれず「ちょっと」「ねえ」などなど、ごまかし続けています。 私に対しては下の名前で呼んでもらっておりますが、彼の名前は発音し難いです。 今も上記の気持ちでいるのかはわかりませんが「いつになったら名前を呼んでくれるのか」と急かされています。 それ以外は、本当に仲良くしているのですが…。 やはり名前を呼べない不便も感じております。 軽い気持ちで呼んでみればいいことは頭で分かるのですが、喉まで出かかって、声が出なくなります。 この気持ちをあと一歩進められるよう、皆さまのお智慧をお借りしたいです。 ふと思ったのですが 仏教では「名前を呼ぶ」という行為にどのような意味があるのでしょうか…。
こんにちは。いつもお世話になっています。 去年から患っていたDIHS(薬剤性過敏症症候群)はいつか治ると思っていましたが、認識が甘く一生治らず、風邪薬や鎮痛剤や抗生物質なども服用してはいけないと言われました。風邪どころかインフルエンザや肺炎も寝て治すしかない状態です。 この先、薬のせいで死ぬか薬が飲めずに死ぬか、といったような死因がある程度見当がつくような状態になりました。笑い事ではありませんがもう笑うしかない状態になりました。 死ぬのは怖くはないのですが、周りに今後も薬剤性の発作を起こしたりして病気で迷惑をかけます。迷惑をかけながら死んでいくんだと思います。 誰もが誰にも迷惑をかけずに死んでいく訳がないのはわかっていますが、家族が気の毒です。 私の周りでは病気で亡くなった方はいませんし、接したことがありません。 病気で家族に迷惑をかけずに、せめて心に負担をかけずにするためにはどうしたらよいのでしょうか?
はじめまして!いつもハスノハでの相談をありがたく拝見しております。 私は現在大学4年で、葬祭業者として内定を1ついただいております。 しかし、転職のしにくさや、忌みに触れる仕事であることから、親や学校のキャリアセンターから葬祭業での就職に反対され、不安になる気持ちを抱えております。 もともと苦しんでいる人不安を抱えている人を助けたいと言う思いで就職活動をしており、葬祭業は私が大好きな祖父をなくしたときにきちんとお見送りできてよかったなぁと思ったことから志しました。ただ、親の期待に応えたい、もう少しお給料を良くしたいなどの思いもあり、同じ志を生かせる職業として病院での事務などを目指して就職活動を続けておりますが今回のコロナ禍の情勢もあり、なかなか他の内定が出ない状況にあります。 ハスノハのお坊様たちは実際に葬祭に深く関わるお仕事をなさっていると思います。その際周りに反対などされなかったか、不安はなかったか、葬祭に関するお仕事を日々どんなお気持ちでなさっているのか、また、必死に努力をしてもなかなか結果に結びつかない状況にどのように対処されているかなど伺いたいと思っています。 色々と質問して申し訳ありません。ぜひお答えをいただければありがたいと思います。
私は2年前、高校生1年生の時に性犯罪を犯してしまい、保護観察処分となりました。 その時はカウンセリングを受け、十分反省したつもりでいたのですが、また半年後に再犯してしまいました。 その際は、被害者の方が許して下さって警察沙汰にはならなかったのですが、私はどうしてこんなに駄目なのだろうと思うようになりました。 両親や被害者やその家族の方々、保護観察者の方への罪悪感で押しつぶされそうです。 今はもちろん再犯はせず(親に対する申し訳なさでそのような気持ちが出ない。)勉学に励んで第一志望の大学には合格できませんでしたが、一応大学に合格はいただくことはできました。 しかし、人を二度も傷つけてしまった私が大学生活を謳歌することなど許されないような気がします。 私は一体今後どのように生活をしていけばいいのでしょうか。 やってしまった罪を決して忘れることなく、押しつぶされそうな気持ちをなんとかしたいです。
はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。
以前夫のことで投稿させていただきました。今回は私の実父のことです。父は現在75歳で一人暮らしをしています。父は真面目に長年働いて元々優しくて礼儀に厳しい人でした。それが今から10年くらい前から様子が変わり、誰か知り合いの女性にお金を「貸す」という名目で渡し続けるようになりました。私と弟が気づいたときには貯金の残高もほとんどなくなっており、毎月の年金も支給されるとすぐに「頼まれた」といって貸しています。周りの者から見ると明らかに騙されてるのにも関わらず、「気の毒な人だから」「騙す人じゃない」「ちょっとずつでも返してくれてる」といって相手の人がどこの誰かも絶対に言おうとしません。貯金もなくなり年金もすぐに渡していては父自身の生活ができません。「今日食べるものもない」といって毎月のように私にお金を送ってほしいと言ってきていました。でも相手の人のことも言わないし、お金のことになると顔つきが変わり目の前にあれば私の財布も持っていこうとする父に腹が立ち、もう一切お金を援助することをやめました。 年金を全部持つと全額すぐに渡してしまうので、今は弟が管理していて少しずつ父へ送金していますが送金したらすぐに「また貸したから」と言って追加を依頼しています。弟は、父はその人にマインドコントロールされてるみたい、と言います。 子供のころの思い出など同時に思い返しますが、優しい父だったことを差し引いても今の父がイヤでたまりません。 親戚の叔父に弟のところに同居したら、と勧められたとき、「死んだほうがまし」と父は言いました。弟の嫁がその場にいなくて良かったと思い涙が出ました。 以前は母の法事もきちんとしていたのに、もうここ数年はお金がかかるから、と言って何もしなくなりました。先日も大変お世話になった親戚の人が亡くなったのに、一番に言ったことは「香典いるなぁ」でした。年金の管理を弟がしてることも、「取られた」と言います。 私も弟も父をもう信頼していませんし、戸籍上親だから、というだけで仕方なく関わっていますがこのような父にも親を思いやる気持ちを持たないといけないのでしょうか。
生の先に肉体の死があり、その先に輪廻転生があるならば、また生の前に戻り、その先に生がある。 ならば、肉体の死を自然に任せなくとも良いのではないでしょうか。 辛い生を送り続けるより、早く新しい先へ進んだ方が良い。 それが逃げであっても。
前回、好きで離婚した元旦那さんのことで相談させて頂きました。その元旦那さんにいつか本当の愛とはどういうことなのかということを話し合えたらなと思っており、真の愛について深く考えていました。 愛は憎しみに変わるとはよく耳にしていましたが、本当の愛は憎しみにはならないと最近知りました。変わるとしたら無関心。憎しみは執着からくるもので愛ではない、本当に愛していたのなら憎しみにはならないと。愛していると思ってても自己愛に過ぎないこともたくさんあるなと感じています。 人を本当に愛するとはどういうことだと思いますか?
「身体」と「精神」に障害を持つ者です。 昨日の相模原市の障害者施設での殺人事件で動揺しています。 健常者はやはり本音の部分で「障害者なんて死んでしまえばいい」と 思っているのでしょうか。 子供のころから実際に言われているので、「やはりそうなのか。」 と思ってしまいます。 負けずに戦えばいいのでしょうか。聞き流せばいいのでしょうか。
昔から宗教に興味があったので、キリスト系・仏教系問わず、新興宗教でも縁があった時は、資料を受け取ったり、話を聴いたりしていました。 しかし、いずれの宗派も絶対的な確信を持つことは出来ないので、入信することはありませんでした。 その中で、昔からの友人が「あなたを救いたい、あなたのために24時間勤行をする」などと親切心で熱心に勧誘しています。「その気は無い」と断りつつも20年になります。(最近は年に数回程度ですが) そして、数年前、主人の余命宣告を受けた時、私としては人生の中で一番宗教を求めていました。しかしながら、その数ヵ月間はまったく連絡がありませんでした。 その事から、最近は「私が一番必要としていた時期に縁が無かったのだから、あなたの宗教に入ることは絶対にあり得ない。」と明確に何度も伝えています。 「勧誘であれば、話をすることは無い。勧誘の話は聞きたくない。勧誘の電話はしないで」ということも何度も伝えています。 それでも、「そろそろわかってくれた?入信する気になった?」と連絡して来ます。 その友人と同じ仲間が他に数人いますが、熱心に勧誘されているのは私だけです。他の友人たちは最初の頃に断っているためにその後は勧誘していないようです。 できることならば、他の友人のように勧誘を止めてくれたならば、その友人が企画する同窓会にも参加したいのですが、私の顔を見れば執拗に勧誘をするので参加できませんし、他の友人たちとも疎遠になってしまってます。 今まで「宗教に興味がある」という態度をしていた私の責任でもありますが、20年かかりましたが、「入信しない」という結論が出たので、それで納得して欲しいのです。 20年分の期待感があるので、宗教抜きの友人関係は無理なのでしょうか? その子が中心の他の仲間たちとの関係も含めて、バッサリと縁を切るべきなのでしょうか?
お世話になります 出家というのに興味を持ちまして いくつか検索したのですが 私は瀬戸内寂聴さんのことを 詳しく知りませんでした かなりドロドロの恋愛(不倫?)等を されたというの知って、正直ひいてしまいました 好きになれなくなりました 肉も食べているとか書き込みを見ました お坊さんはお肉を食べたらだめなのですか? あまり詳しい所は知りませんm( )m お坊さんから見て 『 瀬戸内寂聴さん 』をどう思われますか? また、出家すればとても辛い修行が待っているそうですが どうゆう所がとても辛い修行になりますか? 興味があるので教えて下さいm( )m どうぞよろしくお願い致します
先日、台湾の友人にこのような質問をされました。 「台湾の僧侶は肉は食べない、酒も飲まない、女性との関係も持たない、そうやって厳しい修行をしているから尊敬されている。 日本の僧侶は肉も食べ酒も飲み女性との関係も持つ、どうしてそれで尊敬されるのか?一般人と同じじゃないか?」 わたしは仏教に詳しくなく、戸惑ってしまい、彼の質問にうまく答えることができませんでした。 「日本のお坊さんも修行はしていると思うし……それにお酒と肉と女性をやってなければ偉いっていうのも違うと思うし……うーん……」 というような曖昧な返答になってしまいました。 もし、お坊さん自身がこのような質問をされた場合、どのようにお答えになるでしょうか。 ご不快な思いをさせてしまっているかもしれませんが、どうかお答えいただければ幸いです。
一休さんはとんちが得意なのですが、お坊さんはみんなとんちが得意なのですか? どうやって磨くのですか?とんちが得意になりたいです。
妻がいて、数か月後には子供も産まれます。 それなのに、他の女性に恋心を抱いてしまいました。 俗に言う、両想いです。 いけないと頭では理解しているのですが、どうしても気持ちに逆らえません。 どうしたら良いでしょうか??? もちろん妻のことも好きで、産まれてくる子供のことも嬉しく思っています。
今日 日経平均の下落に賭けるお寺、京都の青蓮院門跡が日経平均レバレッジETFを6億円空売りしました。 株とは、人の雇用であり将来 値上がりを期待し投資します。株価は、経済先行指数といい、株が上がれば景気がよくなる兆しとなります。 しかしながら空売りとは、値下がりを期待したもの、大口でしかければ、それだけで、値段は動いたりします。 つい最近も18億円を 高野山真言宗、お布施を外国債などで資産運用し失敗してます。 質問は、財テクがお坊さんの中で流行っているんでしょうか? お寺の維持には 檀家だけでは なかなか回らないんでしょうか?