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hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん 縁 」
検索結果: 1908件

ねむれないです。。

こんな夜中に投稿してる自分はなんだかなぁと思います。 ずっと婚活していて、今日は婚活支援をしてくれてるお寺に行ってきました。 小さなお寺で親身になってくれるのが良いなぁと思い、誘われるままにご住職やお寺の若いお坊さんと法話会の後にお食事してました。 最初は和やかな感じだったのですが、お酒も入って、、。 お坊さんの言ってること、仏教的なこととかって割と世間的にはただの綺麗事だよねって、弾かれちゃうのが多数派なんだよねみたいな話しになりました。 私はえーっ?って思って、たとえ少数派の綺麗事でも、多数派に揺さぶりかけた方がいいですって酔っぱらいながらも援護したらつもりでした。 なのに、ご住職さんに「主張が強すぎて彼氏できなそう」とか私が好きで良く坐禅を組んでいるお寺の宗派に対して「あの宗派偉そうなんだよね」など、あん?と思える発言ちらはら。 すみませんただの愚痴ですm(_ _)m 別にお坊さんだからどうとか、美化してないけど、なんで上から目線?とげっそり。 挙句にひとまわり以上歳下の婚約者とラブ雰囲気を醸すご住職。 4人の少数飲みでマジきつい、なんで自分呼ばれたのかな。。 婚活してると、たまに、超上から目線で色々言われます。 「今までさんざん好きなことをしてきたくせに」「子供を欲しい人は35以上の女性を選びませんよ」とか。 お寺じゃなくて普通に公共の機関でも言われました。 それらの説教質問の後に、どんな人がいいの?とか年収いくらがいい、とか聞かれても答える気になりません。。 わー、すみません、愚痴がスパークしてますm(_ _)m。。。 デリカシーないひと撲滅。。 おやすみなさい。。 お寺も仏教も坐禅も大好きなのに。

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金剛経「第五章 如現実見分」のヒントをお聞かせください。

いつもお世話になっています。「金剛経5章」の勝手な考察です。お坊さんからのヒントをお願いいたします。  我々凡夫は、如来であるとの確証を得た(=如来は凡夫にとって価値があるということを知った)後に、如来を探し出せるような特徴を必死に見つけ出します。如来(=価値がある存在)と確証する前は如来でも何でも無いので特徴など詮索しません。探す目で見ていないので特徴はあっても特徴は認識できないので特徴はありません。特徴があるとは、気づいた後に作り出すものであり前には特徴はありません。  誰かが発見する前から重力や浮力は存在していて誰もが目にしています。特徴などないので気づきません。発見した人が「万有引力」やら「浮力」などの名前をつけて特徴としています。  そもそも、あらゆるものに特徴などなかったのです。人間だけに利用価値や意味があるので特徴を見つけ出します。人間以外の動物に「偽札」の特徴など知る必要はなく、特徴などありません。  動物には「言葉」がないので、臭いとかまずいとかの概念はなく本能的な反応だと思われます。我々人間も味を「言葉」にして分けていますが、親に教えられて「にがい」という味覚と経験を記憶しているだけです。  特徴があると断じても、諸法は無我であるので縁によって以前の特徴がいつまでもあるわけではありません。宇宙空間での「音」の特徴は、空気という縁がないので音は振動として伝わらないので音の特徴などありません。人相の特徴ですら、三十年も経てば全く変わってしまい以前の特徴はなくなっているでしょう。  特徴がないと断じたとしても、人間が価値を認めれば特徴を必死に見つけて特徴を定義します。  「ぶどう」は房に実が鈴なりについていて、甘酸っぱくて黒や緑色をしているという特徴によって「ぶどう」と名付けられます。この共通認識によって、市場で果物として流通しています。「ぶどう」は「ぶどう」と名付けられる前から存在していました。「ぶどう」は「ぶどう」と呼ばれなくても「ぶどう」ですから、明日から「ぶどろ」と呼ばれてもいいのではないでしょうか。  特徴によって存在しているのではなく、存在に特徴をつけて勝手に思いつくままに適当な「名前」をつけているだけではないでしょうか。  結局、あらゆるものは概念と名前によって個別の存在として有るだけで本来は区別差別のない一体であると認識しました。

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死に対する矛盾と疑問

私は家計的に仏教とは縁があり。 お坊さんの思想をとても信頼していまして、以前からこのサイトを自分自身の励みとしています。 まず私の人生を話しさせていただきます、以前縁あって地下アイドルをしていました、某AKBなんてメジャーな運営ではないので、日の目を見ることはほとんどありませんでした、それでも僅かなファンを大事にしてまいりました。 その活動の傍ら私は男になりたいう性同一性障害に苦しむようになりました、自分の求める容姿になれない、輪郭も骨格も、男になり切るには無理があると周りから言われても諦めず叶わぬ夢を追い、そのストレスの反動でたくさん親やメンバーに悪態を吐きました。 性別を変えるためには膨大な費用がかかり我が家の財産では到底無理でした、毎日苦い思いに泣く日々、鏡を割ったり死のうとするのは日常茶飯事でした。 学校もろくに行かずに3年程アイドルを続けて、そろそろ将来やべぇ、って思いました。 アイドルを辞めて、高校受験をしました、今では無事入学し、文学と生物学の勉強をしてそれなりに充実しております、見た目も男と女の中間だって、半端だってそれが自分なのだから受け入れよう、妥協したっていいじゃないかと思うようになりました。 そんなある日、何気なく死後について考えました。 死んだ後はどうなるんだろう。 思い出の服、大切な友達や家族との記憶、大好きな歌、憧れの人のことを全て忘れてしまうのかな。 やってきたこと全て無駄になるの?。 死にたくない、生きたい、ずっと生きたい。 あれだけ死ぬことばかり考えていたけれど、今度は生き続けるために画策しなければならないなんて、あぁ、なんて皮肉。 記憶は脳が作ってるから死んで脳が焼かれたらおしまい、あの世って考え方は死への恐怖をなくすための御伽話なのかな。 あの世があっても転生して魚や牛になって食われるのは勘弁だよ。 そのために今は自分なりの徳を積んでいます、散々私がいじめた親に恩返しをしています。 死への恐怖、なくなりますかね? あと人は死んだらどうなるのですか? 人格が変わってしまいました、興味と欲望と生きる気力がなくなりました、かと言って死にたくもないのでただ存在しています、死を気にしない溌剌とした自分に戻りたいです。 死という概念に囚われずに輝く同年代が少し羨ましく思えます。 今私が見えているものは灰色の世界です。

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実母と絶縁したい

結婚して一年以上たちました。東京から栃木に来ていろいろありましたが、それなりに幸せに暮らしています。 事の発端は去年私が出産し手伝いに来た時から始まりました。手伝いに来た事を知った義母か団地に来たのですが、実母と話をしていて、突然何を思ったのか「娘を結婚させなければよかった、バツイチと結婚して親戚中の笑いものだ!」とか「今、旦那(私の)が死んだら、ここでは生活できないでしょうね」など言い出しました。 旦那も義母も凍りつく発見でそれ依頼関係が崩れてしまいました。何度か私と旦那と実母と話しましたが、発見に対して詫びる事はなく、こちらも縁を切りたいと話しましたが理由をつけて被害者ぶった手紙を送ってきました。 旦那ももう連絡はいらない。関わりたくない。といってます。決定的だったのは今年2月に亡くなった私の祖母のお葬式等の連絡がなかったのでお線香のひとつもあげられなかったことです。 旦那はお坊さんです。こんな屈辱はありません。 今回孫の誕生日と言う事でお祝いを送ってきましたが、今まで何もしてくれなかったのに今更ですし、受けとりたくありません。旦那も送り返せ!といってます。 実母からの手紙も被害者ぶった内容で頭がお花畑状態でした。 ましてやこのお盆の最中に、赤のしを送ってきた事事態非常識だと思います。 まぁ、私を産んで育ててくれたことは感謝してますが、娘を離婚に追いやろう!わたしのてもとにもどしたい!そんな感じはかえって迷惑です。今後も悩むくらいなら縁を切りたいです。 孫の事は一切考えてないし、電話でも爺、ばあの権利は放棄するといってました。 娘は羽子板もお雛様も買ってもらえてません。 最近は義実家に年賀状もお中元もお歳暮もありません。

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梵字を習うことについて

梵字を習うことに関して質問いたします。 先日ご縁があって児玉義隆師の著書「梵字入門」を手にする機会に恵まれました。それをきっかけに悉曇文字、サンスクリット語を学びたいと思っています。 しかしこのまま自ら書いて習ってよいものかと思い始めました。 私は在家で、在家である自分が梵字を書き、習うことは越法に当たるのではないかという疑問が湧いたのです。 実家の菩提寺などご縁があるお寺やお坊さんに聞いてみましたが、別宗門なので詳しくはわからないとのことでした。 また現在海外住まいのため、直接真言宗や真言律宗のお寺に伺うこともできず、こちらで質問いたしました。 大雑把に、梵字を書くことの在家への制限は越三昧耶罪にあり、その根拠は大日経疏にあると薄い知識ながら理解しているのですが、根拠となる原典を知る機会はありません。 しかし一方で、日本全国で僧侶の方による梵字教室が一般向けに開かれている現状もあり、僧籍を持たれる高野山大学の名誉教授が在家者に梵字の教本と自習を推奨されてもいます。 児玉師の教本には、お袈裟・衣をつけずに梵字を書いてはならないとの心構えの解説がありました。 これを僧侶の方への訓戒と受け取るべきなのか「在家には梵字を書くこと自体許されない」ととるべきなのか判断がつきません。ましてその解説が一般向けの教本に書かれているのですからますますわかりません。 そういったことで、在家でありながら悉曇文字あるいはサンスクリット語を学びまた書くことは功徳になるのか、密教の戒律に詳しい僧侶のかたにご意見を伺いたく思っております。 教条主義的になるのも良くないのでしょうが、独りよがりになることを避けたく、ご意見を賜りたくご連絡いたしました。 もし知識のあるかたから見て問題がなければ、日本に伝わっている素晴らしい文化ですし、悉曇文字を勉強したいと思っています。 僧侶の皆様、お忙しい中見ず知らずの者から長々と恐れ入ります。ご教授いただければ大変幸いです。

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「苦」によって仏道を志すのでしょうか

いつもお世話になっています。 日々のご回答に感謝いたします。 質問者の方々が励まされ心情に変化をもたらし心が好転していることが伺えます。仏道を志す者としても嬉しい限りです。 在家ですが、日々坐禅を行って心の清浄に努めています。 多くの質問者は、他人の質問を読むことでも勉強になっていると思います。 「苦」を観察しました。  我々は見るものであると同時に見られるものです。我々は現象を観察するものであると同時に観察される現象そのものです。  いつも主体と客体という目線でしか観察できていませんでしたが、己を客体として観察すると、己は他人(=現象を見ている主体)から見れば「客体」であって、見られる現象そのものです。  現象は諸行無常であり縁によって起こっています。この世は、全てが縁によって起こっているので恒常不変の「我」など無いので無我であり管理や制御のできない世界に生きています。  現象は常に未知であり無常であり無我であるゆえに実体のない蜃気楼か幻想のような実体のない「空・無」です。この身体や五感も現象であって、無常です。この世は、一時的な現れの現象が連続で展開されているだけでしかありません。  己に視点を移すと、我々は未知なる一瞬一瞬の刹那を体験してるだけです。この幻想の「世界」では掴むことのできない「空・無」を一生懸命につかもうとしています。しかし、己の頭の中では「現実」として展開されていて掴めるものと思い込んでいます。できもしないのになんとか掴み取ろうともがき苦しんでいます。しかし、叶わないので「苦」となっていると思います。  存在していない仮想の「わたし=無我」を使って、掴むことのできない世界で掴もうとする「渇愛」がありつづけます。「渇愛」を消すこともできずに「苦」のままに生かされています。  我々は、楽で「苦」をカバーしきれなくなり、「苦」に耐えきれなくなるようです。やり場のない怒りや憤りが募り、仏道に拠り所を求めるようになっているのでしょうか。「苦」を認識することによって仏道に入っていくなら、「苦」は避けるものではなく直視しなければなりません。「苦」は消滅できると証明されたのがお釈迦さまでありその道が仏道であると日々感じています。  お坊さんのますますの活躍をお願いいたします。

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自分がわからない

いつもご回答頂きましてありがとうございます。 まだ少し気分のムラがあるものの、平穏な日々を暮らしています。 では、本題に入ります。 9月ごろから長いオンライン授業期間が終わり、大学での友達も増え、仲良く大学生活を満喫してます。お恥ずかしい限りですが、友人としてですが小中高では縁がなかった女性との付き合いもあります。人それぞれに色んな価値観があり、色んな人と話すのがとても楽しいです。しかし、そういう日々を過ごしている間に悩みが出てきてしまいました。 「自分」というのがよくわからなくなってきたのです。私には具体的にこうしたい、こういう人生を送りたいというのがありません。その場その場でこの人にとってどういう人間でありたいかを考え、少し演技をしてしまうのです。中身が無く、はっきりとした自分の意思や考えがわからなくなってしまいました。恐らく、以前の経験から周りの反応を過剰に気にする性格のせいであるかもしれません。 hasunohaでの一つ前の質問、長続きしないという問題の本質もそこにあるのではないかと思います。 とにかく一つのことに対しての考えにまとまりがなく、自分の中の意見がころっと変わってしまいます。 お坊さんはこのような悩みに対して、どのように解決されますか? ご回答の程、よろしくお願い致します。

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浄土真宗で唱えるお経 般若心経はダメ?

父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。

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本地垂迹(本地仏)について学びたいです!

 いつもお世話になっております。タイトル通り、本地垂迹 について教えていただきたく存じます。    なぜいきなり?と思われると存じますが、神身離脱(救いを 求める神様たち)と言う言葉を聞いたのと、  私がまだ幼かった時に一生懸命世話を焼いてくれた恩師 (お坊様がた、プロフご参照願います)の家の氏神が稲荷神 であると知り、祈願寺にも荼枳尼天様のご真言で供養する 稲荷社が存在します。お眷属は🦊きつねさん🦊、 私の旧家でもキツネ顔の柴犬を飼っていました。  さらに、さすがにもうお会いする機会はないだろうと思って いた矢先、元日初詣で寺と神社3軒回った帰り、まさかまさか 私の自宅近くのスーパーで恩師とバッタリ再会!!(!?) 奥様とお子様にも御礼のご挨拶をすることが叶いました。  こんな感じで深い感動とご縁を感じたためです。  八幡神=阿弥陀如来(僧形八幡)、稲荷大明神=荼枳尼天 これは祈願寺のお坊さんの話などなどで理解できたのですが、  他の天満宮様、天照大御神様などのご本地がわかりません。  ネットで調べようかとも思いましたが、なんだか内容が内容 だけに胡散臭い情報が出てきかねないとも思いました。  宗教の違い上、神社で神職さんに聞くのもちょっと…。  そこで、どこでこう言ったことを学べるか、もしくは 信頼できるネットページや著書などありましたらお教え いただきたく存じます。  よろしくお願いいたします。

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ブッダの髪形と仏像の歴史

回転寿司が好きで、毎週のように回転寿司を食べています。 最近は回転寿司を食べ終わってふと、身体はもとより思考も縁で結ばれて諸法は無我だなと感じます。 それはおいといて、今回の質問は、お坊さんに質問するより、学者さんに質問した方が良い内容ですが、分かられる方がいらっしゃれば教えてください。 史実のブッダ(ゴータマ・シッダールタ)は、80歳の坊主頭の年相応のお爺さんでしょうか。 もともと当時のブッディストの比丘や沙門が髪を剃る理由としては、世俗との決別や、当時の罪人を模して、髪形を気にするのが煩わしいから、など色々な理由があります。だからというわけではありませんが、ブッダも出家してからは生涯剃髪をしていたのでしょうか。 仏像の螺髪は仏相の一つですが、もともとは仏教が紀元前後に北伝の途中、ガンダーラに行ったときに、当時流行りの貴族階級の男性の髪形を参考に、団子頭の仏像を作り、それがマトゥーラで螺髪になったという説があります。 今回はトリビアとして人に話せたらな、というところと、 (あの螺髪や水かき等を含めた仏相は)生物的に考えて人間ではなれないな。 という二つの疑問からの質問でした。

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大殿説教行けなくなった。なんで私なの!

いつもお世話になっております。 やっぱりもう、お説教会には行かれそうにありません。詳細は大変お手数でございますが、 私の前の質問を見ていただきたく存じます。 ✳︎ 他のご本山等(末寺だと入れなさそう)で定期説教会を開いていないか調べようとおもいますが、いつかは私の本山に戻りたいです。 ✳︎ お坊様方からの注意が届いた様子はなく、この前などは再び近くに座らされそうになりました。 当初お坊様に相談した時は言う勇気がなかったのですが、通りすがりに下半身を擦り付けられたこともあります。ちなみに謝罪なし。 ✳︎ 台下(本山ですので)にお手紙しようとも思いましたが、やはり踏ん切りがつきません。 セクハラに関しては私の被害ですが、もうかなり時間が経ってしまっています。3ヶ月くらい。 横領?と押しかけクレクレに関しては、非親告は通用しないでしょう。 ある布教師さんが言うには、この方の行動のせいでお寺と縁が切れてしまったご信徒様も現にいらっしゃるそうです。 ✳︎ 私は、あのお山が好きです。お坊さんも、堂塔伽藍も仏様も、大好きです。 日曜朝のお念仏は、私の何よりの楽しみでした。そして阿弥陀様のお話をいっぱい聞いて… 上人様のユーモアに喜んで。 ✳︎ 悲しいし、悔しいです。 このままでは他のご信徒様にも害が及びかねません。その方はホームレスで、石段の下で毎日寝ているという情報も入りました。 ✳︎ 私たちのオアシスを取り戻すには、どうすればいいのでしょうか。今日はせっかくお説教を聞きにお寺まで行きましたが、 その人に話しかけられて怖くてお寺をでました。 どうかお知恵をお貸しください。 お願い申し上げます。

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劣等感と上手く付き合うには?

お世話になっております。 先月に初めてこちらで相談をさせていただき、辛くなる度に頂戴したご回答に助けていただきました。ありがとうございます。 転職活動で路頭に迷いながらも、ご縁があった企業にて明日から社会復帰する事となりました。不安もありますが、頑張ります。 改めてお坊さんにお聞きしたいのですが、仏教では劣等感とうまく付き合う考え方というものはございますでしょうか?(劣等感も煩悩になるのでしょうか) 私は大学を出ていないこと、非正規雇用で働いてきた事にコンプレックスがあります。 20代も終わりを迎え、転職回数も4回を超えてしまいました。やりたいことは諦め、できることを仕事に選んでいます。 私なりに真面目に働いてきたつもりですが、人から否定的な事を言われたり、就業先で非正規雇用であるが故の差別を受けたこともある為、年月を重ねて自分の働き方に自信が持てなくなってしまいました。 学歴があり、正規雇用でバリバリと働き企業に長く必要とされる方を前にすると、自分には無いものばかりで苦しくなります。 特別な資格も持っていない為、更に歳を重ねた時に何も残らない事が怖いです。 新たな就業先も非正規雇用となるのですが、こういった劣等感と上手く付き合いながら、胸を張って働きたいです。 長くなり申し訳ありません。 仏教の考え方で新たな角度から物事を見られるようになりたく、ご助言をいただけますと幸いです。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 11
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真言宗に興味をもちました

最近仕事で行き詰まり、休職中に仏教に興味を持ち始めました。 仏教の基本的なところから、宗派の特徴など見て、なんとなくですが真言宗にひかれ、信仰してみたいなあと思うようになりました。 ですが、実家は地方で、現在の私の家には仏壇も無く、近くでお世話になっているお寺さんもありません。私自身全く宗教に関わってきませんでした。 そこで疑問に思ったことなのですが、 ①真言宗を信じている一般の方はおうちで何をしますか?お坊さんほどの修行をされない一般の方は、おうちでするのはお経を読むくらいなのでしょうか。(日々のおつとめ?というのでしょうか。教えてください。)また、それは一日何回ですか? ②家に仏壇が無く、またスペースも収入も無いので購入も難しいです。おつとめする時は何もない場所でやっても大丈夫ですか?また、かわりにこういう物でも良いよというのがあれば教えてください。 ③お寺さんとはどうご縁を結べばいいのでしょうか。電車で1時間で成田山に行けるのですが、頻繁には行けません。近所に真言宗のお寺がないので、行けそうなときに成田山に行く、でもかまわないでしょうか。 初めての質問なので読みづらかったらすみません。 よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 12
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2024/10/30

娘の名づけにもやもやしてしまいます

娘の名づけについて、これでよかったのかと毎日もやもやしてしまいます。 プロフィールに記載の通りの名前なのですが、あまり人名としてふさわしくない意味があります。(日本ではそこまで馴染みがなく、連想する人も少ないとは思いますが、検索するとすぐに出てきます。) プロフィールにある通りの経緯に加えて、込めたいイメージや音の響きはいきいきとして惹かれるものがあったこと、良い意味にとれる解釈もできそうに思えたこと、ネットで調べると20代以下の世代にはこの名前の人もいるようだということなどから、名前が決まらない焦りもあり、(外国語で変な意味になる名前はままあるもので、気にしすぎではないかと自分に言い聞かせつつ)ここが落としどころかと思い、今の名前に決めました。 しかし、後になってやはり懸念していた点が気になってきてしまい、意味におかしなところのない元の候補から選んであげればよかった、この語の意味を知っている人からは無教養な名づけだと思われるのではないか、産後はいいなと感じていた響きも、冷静になると一般的な組み合わせではないために違和感があり、聞き取りづらいように思われ、(夫と二人で決めたので)もっと周りの人に相談して意見を求めればよかったなどと、誰かに何かを言われたわけではないのですが、もやもやとしてきてしまいます。 それでも、娘の顔を見ると、やはりこの名前の響きやイメージが合っているようにも思われ、この子に縁があった名前なのだと考えるようにして、同名で活躍されている方がいないか、この語が名前と同じ読みで使われている日本語の詩歌がないかを探したりして、延々と過ごしてしまいます。 この名前について、お坊さん方はどのように思われますか。前向きな気持ちになれる考え方や、名前についての解釈があれば教えていただきたいです。

有り難し有り難し 6
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