最近楽しいことを考えようとするとマイナスのイメージが浮かんできます。家族が死ぬことなど悲しいことを考えてるうちに死が怖くなってしまいました。あとどれくらいいられるかばかり考えていてとても苦しいですどうすればいいのでしょう。死について前向きになれたらいいのに
先日の俳優さんの死で、どちらかと言うと好きな芸能人の1人というだけだったはずなのに何故かすごく悲しくて、毎日何もやる気になれません。 お会いしてみたかったという気持ちがなぜかすごく湧いてきて、他の好きな芸能人が亡くなった時とは比べ物にならないくらい悲しくて、身内が亡くなった体験の次に辛いです。 身内にはいつか自分が死んだら会える、それまでは時々見守ってもらえていると思って頑張れるのですが、会ったこともない方には自分が死んだ後に会いに行くことは出来ないのですか? なぜ関わりのないそこまで大好きだったというわけでもない方なのにこんなに辛くて頭から離れないのでしょうか? また、その方は私が目指している世界で成功していた憧れの人(たくさんいます)の1人でした。そんな方がこんなに苦しんで自ら死を選んだということが衝撃的で、ただでさえ険しい道なのにそこを突破しても苦しむことになるのかと思うと怖くなります。そこまで行けなくても苦しいし、でも諦めて安定の道を選んでも後悔しそうで、生きることが億劫になってきました。アドバイスよろしくお願いいたします。
昨年、夫が自死しました。突然でした。兆候もありませんでした。 可愛い子供を残し、彼は去っていきました。どうしてこうなってしまったのかと後悔だけが残りますが、色々調べる中で彼の二面性が浮き彫りになりました。 49日までは、義父母の指示通りに従いました。何故なら、夫は跡取りでしたし、嫁の立場で余計なことは言うべきではないと判断したからです。でも、二転三転された挙句風当たりは酷いものでした。 当然のことと判断し対応するも、そう長くは続かず結局今では縁切り状態。百か日は欠席し、自分の身内のみでお墓参りをしました。 また、彼が眠るお墓は分家で、本家も同じお寺にあります。よくわかりませんが、昔からお寺さんとは親しくされていただいているようで、本来与えてもらえない戒名の階級?を「特別」つけてあげたと、御葬儀で何度も住職さんから繰り返されました。 ありがたいお話ではありますが、子供がいる御葬儀です。あの時は辛さでしかありませんでした。 納骨も済ませ、お位牌は義父母宅です。今後どのように私は夫を供養してあげたらよいのでしょうか。お墓参りは月に数回行けてますが、お経をお願いしたり相談する住職さんがいません。 また、お位牌に手を合わせることもできないので、夫に申し訳ない気持ちです。加えて、義父母と絶縁状態になってしまい、これもまた夫に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
お世話になっております。 先週、とても愛していた彼女が亡くなりました。昨日で一連の葬儀も終わりました。 死因が自死ということもありとてもショックで、今日の午前中までは喪失感から胸が痛み、彼女のことを思い出すと涙が溢れ、とても仕事ができる状態ではないながらも出勤してきました。 しかし、今日の午後から何も感じず、悲しいという感情も起きなくなってしまいました。まるで機械のようです。 悲しいと感じないからと言って、彼女を喪う前のように笑ったり、趣味を楽しもうという気も起きません。でもあれだけ胸いっぱいだった罪悪感や喪失感が感じられず、なんというか無の状態です。 私はこんなにも薄情者ということでしょうか。それとも何かが壊れてしまったのでしょうか。 彼女を愛していたという感情も嘘だったのでしょうか。 大切な方と死別してしまった方のお話を拝見すると、長年その喪失感に苦しんでいらっしゃる方が大半なようです(当然ですが) 私はサイコパスなのでしょうか。悲しいという感情だけではなく、すべての感情が消えてしまったような感覚です。 今日の朝までは男のくせにわんわん泣いていたのに… 突然悲しみが消えてしまった理由に心当たりがあれば教えてください。 ※抗うつ剤等の薬は服用していません
お父様が長期のパーキンソン病で床に伏してから、先日誤嚥性肺炎を起こし、もうあまり長くはないでしょうという事で先日から家族で入院先に行きました。 私の大好きなお父様は、もう微動だにせず反応が全くなく目を大きく見開き瞬きもせず…という状態で見ていて切ない気持ち、何とも深く深く考えさせられる状態でした。 お父様は、ご自身の身を持って初めて人の死を直面するであろう私の息子達、孫達に死という姿を見せているのだろうか。子供は素直に「なんで?」と悲しみと戦っています。私は、「おじいちゃんは、この世の修行がやっと終わるんだよ。悲しい事では無いんだよ。神様が辛い修行はもう終わりだよ。って言ってるんだよ。」と話しました。 話しながら、自分で不思議な気分になります。一体「人間の死」とは?最期の姿を見せるというのは、凄い大事なメッセージがあるのでは?果たして何? 申し訳ございませんが、今の私はお父様の姿を前に少し気持ちが沈んでいます。今の私にでも、理解できるようご回答があれば嬉しく思います。どうぞ、よろしくお願い致します。
最近、祖父母の姿がだんだんと小さくなっているを見てとてつもない虚無感と恐怖に襲われます。 私はまだ身近な人の死というものを体験したことがなく、誰かが死ぬのが怖いです。 死が怖いというよりは、永遠に失ってしまう事。顔や声、温もりをもう感じることが出来ない事が嫌なんだと思います。 私が一日を過ごすと、祖父母と過ごせる時間が短くなっているのがとても悲しいです。あと何年一緒にいられるのだろう。今まで生きてきた時間もあっという間だったのに、確実に今生きてきた人生よりもこれから一緒にいられる時間の方が短い。 もう、時間が止まって欲しいです。私から時間を取らないで欲しい。 私は今を生きて時間が過ぎていく事が怖いです。どうすればいいですか。
タイトル、不躾に失礼します。 私は20代前半に一人、最近また一人と二人の親友と勝手に呼んでいた友人を亡くしました。 最初の一人は自宅で孤独死、死後数日経っていた為死因は不明。 もう一人はニュースにもなりましたが、同居する彼氏に睡眠中に殺されました。 当然の事ながらショックでした。 どちらの二人も何となく連絡が途絶えていたからです。(後者は何年もですが) ですが…あまり他人には話せることではないのですが、彼女達は自分で決めてきた死去の日を迎え、また現世での問題はクリアされたから去っていったのでは…とも考えるのです。 実際、前者の友人の死を聞いたときは直感的に『これで良かったんだ、頑張ったよね』と思いました。 彼女は病気を抱えていましたがお互い特にそれについて話すことも何故かありませんでした。 私自身は死後の世界は知りません。 でも生まれて生きて、苦しいことを乗り越えるまで同じ問題にぶつかるのには意味があるんだと思います。 じゃあその山積みの問題をクリアできたら…?? そう考えると、彼女達の残された家族の事を考えたら私のこの考えは不謹慎な気がして…。 正直、この考えがある意味本当なら彼女達を羨ましく思ってしまう自分が近くにいるのです。 もしかしたらそう考えるのはある種の逃避なのか、とも。 うまく説明が出来ないのですが、この世から旅立った友人達の死は悲しいです。 だけど羨ましい。 けど死ねばこの世の苦しみから逃れられるとは思わない。 自分の課題が見つけられないからの嫉妬なのか何なのか…。 不謹慎過ぎて深く話が出来ないのでこちらで質問させて頂きます。 まとまりがなくて本当に申し訳ないのですが…。
縁があって相談できることをありがたく思います、結婚して18年です、子供は3人、結婚して、親になってわかる、親心、子供ができて、分かる、この心、わかっている、14年前に父方のお父さん、私にとってはおじいちゃんが亡くなりこの死が、私の心を大きな傷となり、今も思い出すとおえつが出るくらい悲しみが心を支配する、身内の死がこれほど悲しくて辛いのは十分わかる、 わかっていながら、自分の子供、主人には平気で死んでしまえとか、汚い言葉、毎日のように、放つ自分、 毎日寝る前手を合わせ毎日反省、わかっているのに、なんでか、自分がすごく汚い心だから、週末はなるべく、神社や、パワースポットと言われる所へ足を運び、感謝する、お線香の匂いに癒され、嫌なこと忘れる事ができる、父が病気になり、すぐは死なないけど、死と向き合う父をみていると、さらに死に恐怖、自分も死ぬんじゃないかの恐怖、不安、でも、築地本願寺に行ったとき、お線香の匂いでその恐怖や、不安が、一気に吹き飛んだ、だから、神社、パワースポットに足を運ぶのは、感謝の為、わかっている、 長女は16歳になり、日に日に反抗がすごい、薬やお酒に、興味持ち始めて、毎日怒鳴り、死んでしまえと思います、私自身反抗期、親に対する口の利き方、ちゃんとしていたから、長女が私に対する口の利き方や、態度が、ゆるせない、尊敬や、優しさが感じられない、毎日怒鳴り、汚い言葉をぶつける、誰一人私をいたわり、優しい言葉かけてくれない、有難う、あたりまえだけど、言われたい、心と、吐き出す言葉が正反対で苦しい
婚約者を亡くして5ヶ月が経とうとしています。 仕事も再開し、元の生活に戻りつつありますが、家に帰った後や休みの時など、無性にさみしさがこみあげます。 仕事が忙しい上に結婚のことでさらに無理をさせてしまったのかもしれない、子供がほしいと私が言ったばかりに高血圧の薬を飲まずにいてしまったのかもしれない、などと私と出会わなかったら彼は生きていたのかもしれないと考えてしまいます。 結婚の話を伝えていた友人にも彼の死を伝えられていません。 まだ自分で伝える勇気がないということと、友人たちに私がかわいそうだと思われたくないという気持ちがあります。結婚の話をしていたとても幸せな私のままの記憶でいてほしいという、私のただのわがままです。 どうしようもない位悲しくて大泣きをする日もあれば、泣かずにいられる日もあります。 いつになれば、この悲しい出来事にきちんと向き合えて、気持ちにブレがなく考えられるのでしょうか。 質問にまとまりがなく申し訳ありません。 愛する人を亡くしたものへ、生きるための力をいただけたらと思います。 よろしくお願いいたします。
度々いろんなお坊様のいろんなご意見を読んでは参考にさせていただいています。 一つ最初に私はあまり信心深くなく、こんな時だけお坊様や仏様の慈悲にすがる浅ましさをお許しください。 かれこれ15年、「死ぬのが怖い」発作に苦しんでいます。 きっかけは祖母の死でした。 当時中学生になりたての絶賛反抗期で、親ともうまくいかず、勉強もうまくできず、何をやってもむなしい、いいことも何もないし死にたいと思っている最中の出来事でした。 自分がいかに死を簡単に考えていたかを身に沁みて理解しました。 悲しみよりもずっと大きく、死んだらどうなるのかという恐怖と、自分が自分でなくなり消えていく恐怖が襲いました。 悲しみよりも我が身の可愛さが先に来た自分が情けなく思いましたが、その恐怖は今もなお私を苦しめます。 必死にその恐怖を押し込めて、忘れ去ろうとすることしかできません。 親には相談できませんでした。 当時の憔悴しきった様子から、自分が何か心配をかけるような真似はできないと思いました。反抗する回数も少し減ったと思います。 その時に適切に恐怖心を処理しなかった代償か、今もふとした瞬間に目の前が真っ暗になり、足元からさーっと冷気が這い上がるような恐怖で吐き気がすることがあります。 お風呂に入っているときが一番その発作が起こりやすく、全くお風呂が安らげる場ではなくなってしまいました。 かといって人間皆いずれは死ぬのに、怖がっていることが恥ずかしく、心療内科の先生(以前適応障害を患い通っていました)にもカウンセリングの先生にもうまく伝えることができませんでした。 とにかく自分が自分でなくなり、何もわからない世界に行ってしまうことが怖くてたまりません。 そして私がいなくなった後も永遠に時間が続き、地球が滅び、宇宙が滅んでいくと考えると、手足の先が氷のように冷たくなって正気を保てなくなります。 お坊様達のご意見が聞きたいです。 お坊様達の世界の捉え方、仏様の世界を知れば、この恐怖から解放され、無事に死んでいけるのでしょうか。 親(二人とも60前後でまだ元気ですが、)が死ぬことも最近は毎日のように頭をよぎり、人間が物言わぬモノになっていくことが悲しく苦しくてたまりません。 身勝手な相談で申し訳ありませんが、どうか少しでも死ぬまでに心やすらかに人生を送れるようなヒントを頂けますと幸いです。
死に向かう病を患っています。あまり先は長くなさそうです。 子供達は20歳前後。親は高齢で自分が生活の面倒を見ています。 この先、病気が進行すれば子供達にも親にも悲しい思いをさせるばかり。ならば今まだ体の動くうちに死んでしまいたいという気持ちが、湧き上がってきます。その考えは逃げだということもわかっています。ただ、周りがつらい思いをするのを見るのが耐えられない気持ちなのです。また、病気が進行して苦しい思いをし、見苦しい姿を皆にさらすのも耐え難いです。 死への気持ちを止めて、前向きに死ぬまで生きるためのご助言をお願い致します。 ちなみに現状は心療内科に行っていますが、薬を処方されるだけで心のケアはしてもらえていません。主人は頼もしく励ましてくれますが、自死には大変反対しています。
ここ最近亡くなった祖父母のことを思い出していて疑問に思ったことがあるので、お坊さんの意見を聞きたくて質問しました。 私の祖母は生前、「友達もみんな死んでしまった。早くお迎えが来てほしい。」とよく言っていました。 しかし、それと同時に毎月大量の健康食品を買っていました。 82歳で亡くなったので長生きした方だと思いますが、やはりお年寄りでも死ぬのが怖いのでしょうか。 私はまだ16歳なので、やりたいこともたくさんあるし、死ぬのが怖いです。 でも、80歳にもなれば自分の死を悟ってくるものだと思っていました。 父は、「歳をとると、ある程度悟ってくるもんだ。」と言っていましたが、 母は、「そんなこと考えたことない。」と驚いていました。 お年寄りがよく「お迎えに来てほしい」と言うのは、どういう心境で言っているのでしょうか。
はじめまして。 母親が入院しています。 腎臓が悪く透析をはじめ、そして先日、子宮に癌がみつかり摘出しました。その後、腹痛が続き再度入院しました。今度は腸に穴が空いている可能性があり、癌が他に転移しているのではないかとのことです。 母親はまだ旅行も美味しいものも食べたいだろうに。そして私の家族に新しい命が秋に誕生することもあり、まだまだ生きたいと思うのですが 今日の説明で最悪はどうしようもなく、骨に転移していたら痛みを伴うと。。。 悲しくて、悲しくてたまりません。 まだそのことを知らない母親がかわいそうで、最初は1週間くらいの入院でしたので、5月には帰れるかな、、一回帰りたいなとつぶやくので、泣きそうなります。 いや、もしかしたら気付いているのかもしれません。それを一人で背負っているのかもと思うと切なくて。 今はコロナ感染の影響で会いに行くことも叶いません。 人の死とは必ず来るものだと思いますが、悲しいですね。 どのように接してあげるのが良いかなど、とても悩みます。不安を少しでも拭ってあげたいです。 まだ身内の死を見たのは祖父の時だけです。一番身近で一緒に生きてきた母親がいなくなるのはやはり嫌です。なんとか少しでも生き延びて欲しい思いと、病気で苦しむなら早く逝かせてあげたい気もしますが、まだまだ気持ちの整理がつきません。 祖父の時は少しでも長生きできないかと、咄嗟に祖父が好きな仏像を病室に届けてしまいました。非常識なのでしょうが、何かできないかと言う思いです。 死を覚悟しないといけないのはわかります。でもどうかなんとか、、、という思いで相談しました。よろしくお願いします。
従兄弟の娘が亡くなりました。 もうすぐ2歳になる女の子でした。4歳のお兄ちゃんもいます。 明後日お葬式があるのですが、自分の息子たち(4歳男、3歳女)を参列させるべきか迷っています。 私の両親は無理に参列させなくてもいいのでは、と言っていますが、あまりに突然の死で、絶望の淵に立っているであろう当人達のことを考えると、子供達と一緒に悲しんであげたほうがいいのでは、と私は考えています。 これは私のエゴなのでしょうか?
お世話になります。 救われるや、救われたいなど、それは どういう状態なのでしょう。 私が救われた状態って、どんな状態? 今の苦しみは、逝ってしまった娘の事。 もし、目の前に現れてくれたら もし、あの日の続きができたなら だけど、その「もし」はありません。 私が死ぬまでありませんよね。では、生きてるうちは救われないのでしょうか。 時々惨いニュースを見ると、もしあの日 娘の自死を思い止める事ができていたなら、それは、娘を救った事になったのだろうか。 こんな生きにくい世の中で、生きたくないと願った娘を、無理やりこの世に留めることは、娘を苦しめただけ。生きて欲しいと願うのは、私のエゴだったのかもと思えるのです。 私はこれまでに、病気や事故に合いそうになり、回避できたことを、ラッキーだと思っていました。私って運がいいって、感謝していました。 でも、あの時死んでいれば、こんな辛い思いをしなくてすんだのにと、悔やんでしまいます。 動物や草花のように、生きる意味とか、理由とか考えないで、その日その時が来るまで、自分のできることをして、過ごせたらなあと思います。そう思うのに、この頭はごちゃごちゃ、考えて苦しんでしまうのです。 生きてるうちに、楽になる方法。 娘に会えなくても、悲しくない方法。 何かないですか?
今年の1月に実母が病気で亡くなりました。 もうすぐ亡くなって1年がたつのですが、今でも病室で苦しそうにしていた母の様子を思いだし、悲しくなってしまいます。 病室にお見舞いに行く度に、衰弱してゆく母の様子を見るのは辛かったです。 きっと母は、そんな辛い病気の時のことよりも、楽しい想い出を思い出して欲しいのではないかなと、勝手に思っているのですが、 夜中に目が覚めてしまった時などに、いつも病室の苦しそうな母を思い出してしまいます。 時々、今でもとても悲しくなってしまいます。 私はどう過ごせば良いのでしょうか? よろしくお願いします。
10年前 私が20代半ばの頃です。約2年半程 交際していた方が自ら命を絶ちました。当時は 悲嘆に暮れ 絶望感と今までに経験したことのない喪失感でいっぱいでした。 私の言動や行動が 彼を追いつめたのではないかと思い自責の念にも苛まれました。 彼に対して 『何故、どうして?』という気持ちがいっぱいで溢れそうになり 時にはそれが『なぜ私をこんなに悲しませるの』と、怒りになることもありました。 彼がいなくなってからも 私の日常は変わらずにあり 泣いてばかりもいられませんでした。半年も経てば 彼がいない生活にも慣れてしまいました。亡くなってからの一年間は 周りに心配をかけまいと 必死に毎日を過ごしていたように思います。楽しいことがあれば普通に笑えたし、その一方では 死にたいと考えてしまう自分がいたり。今思えば、 常に両極端な緊張感の中にいるようでした。結果 糸がプッつり切れてしまい休職するに至りました。 『時間が経てば癒される』と よく言いますが、三回忌を過ぎた頃からは 彼がいないことに対して寂しくて泣くことは少なくなりました。あんなに毎日の様に彼のことを考えていたのに 自分のやるべきことに追われ忙しい日常にいると すっかり彼のことは忘れていましたし、それでいいのだとも思っていました。しかし そう簡単に割り切れる訳もなく、 少し疲れていたりすると 決まって彼のことを思い出しては悔やんでいる自分がいたのも確かです。 七回忌が終わった頃には 私自身も 歳を重ね 彼の自殺の原因を考えるより 彼が亡くなった意味に想いを巡らせる様になりました。 歳月が流れて 私の気持ちにも沢山の変化がありました。時間はかかってしまいましたが 私なりには彼の自死を消化してきたつもりです。しかし、10年が経とうという今でも あの当時の喪失感だけは拭えません。新しい誰かと未だに向き合えない自分がいます。 また、物にも あまり執着しないようになり、とにかく身軽でいたいと年々 思うようになりました。彼以外にも この数年に大切な家族を立て続けに亡くしたことも かなり堪えています。 すっかり 自分の進むべき道を見失ってしまいました。生きることに執着がない自分自身にも とても不安になります。何か新しく手に入れたり 出会いが生まれれば、そこから貪欲になれるのでしょうか?
約2年前、まだ2歳の愛犬を一時的な感情で殺してしまいました。 父母や友人には突然死したということにして火葬をしお骨を持って、家に一緒に帰ってきました。 殺してしまった理由は、愛おしかったはずの愛犬の存在がいつの間にか自分の人生で邪魔な存在として捉えるようになり、もう育てきれないと感じていたので里親に出すことも考えましたが、家族に反対されたため、もうどうしたらいいかわからずパニックになったからです。 私がイライラして愛犬に何度当たっても、いつも全力で私の存在を喜び、尻尾を振り構って構って、と近づいてくる子でした。 亡くなったとわかったとき、自分でしたことなのに、愛おしかった存在の死に悲しくてこの世の終わりのようで、涙が止まらずなぜあんなことをしてしまったのか後悔という言葉では片付けられないほどで、一日中泣きわめきました。 これから一生かけて償っていきます。 愛犬に恨まれることもわかっています。 この先の人生、私に殺された愛犬と同じ苦しみ、それ以上の苦しみや痛みを感じて生きていくことも覚悟しています。 私はこれからどう生きていくべきでしょうか。
死とは苦しみからの旅たちなのですよね? 死んだら無になるのですか? 残された人は苦しみが増しますよね。 それは亡くなる人にとっても苦しみなのではないのですか? ということはやはり死ぬことは苦しいことなのではないですか?
医療福祉の仕事をしています 仕事柄お看取りの場も幾度となく経験してきました。 また お看取りの場には立ち会わなくても「また明日」が通用しない方々と多数接してきました。 通夜葬儀に参列する機会も同年代異職種の友人達よりは遥かに多い現状です。 いつからとも無く、どれ程深く関わっていた方であっても「死」という状態に接した時悲しい、寂しいという感情を失ったような気がします。 同僚等は通夜葬儀で涙を流して遺族の方と話をしています。 私にはそれが全く出来ないのです。 仕事で関わった方に対してだけなのかとも思っていましたが、親族のその場でも全く悲しい寂しいという感覚が沸かなくなっていた自分がいました。 居なくなること、いなくなったことに対して虚無感喪失感はそれとなく覚えるのですが、何故だか感情が何一つ湧いてこないのです。 感情が無くなったのか、それとも「死」というものに慣れすぎたのか。 通夜葬儀の場に行くたび、泣くことの出来ない自分に嫌気がさします。 こんな私でも仏前に手を合わせる資格はあるのでしょうか