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問答一覧
検索結果: 531件
2022/09/25

宗教と危険物は似ている。宗教よ、どこへ?

 いつもお世話になっております。先日、こちらで、「お寺で、私に だけあれこれ言ってくる怖い奥様」のご相談をしました。それの続きの ようになるのですが、近頃、思った事があります。 「宗教と危険物は、似ている」  適切な管理と用法用量を守れば人の助けになるけれど、盲信… つまり、管理方法や使い方を間違えれば、プシュー、ドカン。  その奥様は、博識で、元から教えたがりの性格のようです。 他の事を話すときは和やかに見えるのですが、仏事の事になると豹変、 「私の知っている事が正しい。私の知っている事を聞け」 といった感じの態度や表情になります。後からお坊様に尋ねると、 「ああいった作法やしきたりは、定めていないよ。そこまで、 こだわらなくてもいい」 と笑っています。もしかしたら、カルトなのかもしれませんが… 家に誘われたこともあるので。  宗教映画を手掛けた、カルト問題にも詳しいある映画監督さんが、 「宗教は、必要ではあるが、危険を伴う」 とおっしゃっていました。なるほどと思いました。  「いい」「悪い」の二極で言うと、宗教は、「いい」事を説いて いるものでしょう。ですが、先述の奥様のように、「私たちが一番 正しい、一番いい」と盲信し、儀式行為等に執着する、つまり、 用法用量や管理方法を間違えると、宗教は、たちまち、「薬」から 「毒」…はたまた、「化学兵器」にもなりえると思います。  この奥様の延長線上が、新興宗教や、海外のテロ組織でしょう。  こちらの問答でも、しばしば、先生方が質問者様に、 「独学は危険なので、お寺のお坊さんに教わってください」 とご助言なさっているのをお見掛けします。  私は、独学の結果か、親鸞上人のお歌にあるような、誤った認識を 持っているご信徒様が多いように感じており、憂慮しております。 「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめ つつ 卜占祭祀つとめとす」 拝む事だけ熱心で、何かが起きれば、全部「霊」や「神様、仏様」 のせい。祈りというより、たたり信仰。拝んでさえすればいい…  「薬」だったはずの宗教が、「毒」や「化学兵器」になりかけて しまっている印象です。  半分、私の愚痴でした。どうにかしたい、でも、できない。 先生方のご高見、賜りたく存じます。

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修行と信仰と座禅や念仏

先日私の具体性に欠ける、奥歯にものが詰まったような愚痴のような質問に応えて下さり、ずっと回答を考察してました。 その時々の私の見たてがどうであれ、自分目線で世界を見ていては、環境にフラつきいつまでたっても頼りにならない自分の世界で苦しむ ことになりますよと、言われたように思います。 自分を苦しめているのはあらゆる煩悩で「自我」(自己中)だとココhasunohaでも僧侶の方が口酸っぱく何度も言っておられ、私も何度も自我を手放す手立てを見聞きしてます。 しかし無我や手放すと言うと、主体性を放棄しているように思えてならなかったのですが、自分と言うのは条件次第で左右され頼りにならないから例えば「縁起」や「空」、この世界は常に変化し、お互いに影響を与え合う相互関係にある。 みんな繋がってるから、自分もみんなも尊い存在、軽んじちゃダメ!ピラミッドの頂点に人が(自分が)立ってるんじゃなくて網の目の一つで、人知を超えた自然の働きも誰かに想われてることも誰かに想われてることに気づけなくても繋がってる。 と言ったことついて言葉の上では理解しても、自分が騒がしいのは、禅の方(ザックリですみません)が座禅をして余計(自我)なものを手放すと言う事と、歎異抄の中で親鸞聖人が「何が善で何が悪なのかそのどちらも私はまったく知らない…」と言っておられるのは自分から見たら許せない又は自分が裁きたいと言う想いを手放して、「…この世はむなしくいつわりで真実と言えるものは何一つない、ただ念仏だけが真実(確かなもの)である」とおっしゃり、自己のはからいを捨て念仏し阿弥陀様にお任せすると言う事と同じで、だから座禅する、だから念仏すると言うことでしょうか? だから思考が暴れても身体(振舞い)を整えることができる修行(座禅や念仏)や信仰が必要と言うことでしょうか? いつも長くてすみません。

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悟りとあきらめは何が違うんでしょうか?

 悟りって結局、あきらめなんじゃないでしょうか?  昨今の悟りブームで「今ここ」「ありのままの自分」を許容することが悟りであるとよく色んな本で言われていますし、釈迦も「むさぼるな、足るを知れ」なんておっしゃっておりますよね。  でも、これって結局、あきらめなんじゃないでしょうか?  釈迦が「むさぼるな、欲望とは空しいものである」なんて言えたのは釈迦が貴族に生まれて若いころに金だの酒だの女だのって遊びつくしたからこそ気づけたものですよね?  贅をつくしたことがある人が、贅をつくしたことがない人に欲望とはむなしいと言っても伝わらないと思うのですが・・・。そりゃあ、誰だって金だの酒だの女だのって遊び尽くせば、つまらなくはなるでしょうって感じです。  よって、欲望はつきることはないので今の自分を許容しましょうというのはただ単に、  お前は金がないんだから、あきらめろ  お前はブスだから結婚できない、あきらめろ  お前なんかに将来は見込めない、あきらめろ  ということを、ものすごくきれいな言葉で言っているようにしか聞こえません。  確かに今の自分や状況を受け入れてしまえば、一時だけは「このままでいいんだ!」なんて楽になりますが、後から反動で満ち足りた人とは違う惨めな自分にフォーカスがいき、ネガティブの渦に巻き込まれてしまいます。  結局、悟りなんてものは、上手く自分の不幸な状況から脳をだませた状態、きれいにあきらめた状態というものではないでしょうか?  乱雑な長文を失礼しました。たくさんの回答をお待ちしております。

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2022/01/27

自殺したら、地獄に行きますか?

一年前に自殺未遂をしました。意識はあったので、自分でロープを外しました。 その事が原因だと思うのですが、失語症になってしまいました。 相手が何を言ってるのかは、わかるのですが、こちらからは、あまり喋れません。頭の中に単語がほとんど無いので、話しかける事も難しいです。 テレビ、ラジオ、本などは、私が喋る事が出来ない単語がほとんどなので辛くなり駄目になってしまいました。 楽しめるものが何もありません。 家族とも、相槌ばかりで輪の中に入れません。元々が人と喋る事が好きだったので、毎日が地獄です。 いろいろな病院に行ったり、言語のリハビリをオンラインでしたり、自分で英単語を覚えるみたいに単語を覚えようとしたのですが 、治りません。絶望して死のうと思っています。 ですが、自殺したら地獄に行ってしまうと聞きました。 自分の自殺未遂でこの様に障害が出て、それを苦に自殺したら私は、地獄に行ってしまいますか? 行かない方法を教えてください。また、お恥ずかしいのですが、私は主人が大好きです。 生まれ変わっても、結婚したいと思っています。どうか、教えて下さい、よろしくお願いします。

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生きる意味がわからない

最近、どうしてここまでして生きなければならないのかわからなくなりました。 イジメで同級生に家畜以下の扱いをされ存在否定され、病気になってもなかなか周りからの理解を得られず、苦しみながらそれでも生きてきました。 ハッキリ『あぁ、私は周りにとって家畜以下なんだ』と実感したのはレイプされてからです。親は私をひどい言葉でセカンドレイプしましたし医療関係者からもひどい言葉や行動をされました。 最近まで通っていた心療内科の医師は私を半ば人体実験していたとさえ思います。きちんとしたインフォームドコンセントもなく、診断も下されたこともない重篤疾患と同じ量の薬すら出されていました。 周りの私への対応、メインは親と医師ですが、彼らから感じるのは私の存在が如何に迷惑か、不幸にしているかを痛感させられています。 親は私にことあるごとに『私だって辛い、貴女が世界一辛いと勘違いしないで』と言われました。私からすると理解もされず一人で苦しんできた部分はたくさんあります。その上で不妊治療で体調を崩した母に必死に元気になってもらいたいと学校での辛さ孤独さを全て隠して笑顔でその時は接してきました。私のその努力はとても力不足だったかもしれませんが、私も私なりに苦しみながら生きてきました。その後も私からすればいつも私は色んな愚痴聞く役で私はそんな愚痴をいう母を心配させまいとずっと辛いこともこっそり涙してきました。でも両親は私の愚痴をいつも聞いていた、と思っているみたいでしょっちゅうメールでやり取りを私に内緒でしています。何度もその内容は見ました。母が携帯が疎くしばしば私が操作を頼まれるからです。今日も私の愚痴のやり取りしていました。 もう私の存在価値はないことも十分承知していますし、所詮家畜以下扱いを受けるに等しい、人権も保証されなくて当たり前だと言うのも承知しております。それなのにどうして死ねないのでしょうか?

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こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?

いつもお世話になっております。 ゆうりです。 お坊さんの、一言というのは、何故こうも、身に染みるのか。 お坊さんは、話上手です。(この言い方は怒られてしまうでしょうか?すみません。) 気になりました。 タイトルは、以前の質問で頂いた、今、大切にしている言葉です。 私は、将来研究者になるにしても、農業高校の先生になるにしても、(ノンプロで噺家、漫才師、芸人になるにしても)喋るという行為は、不可欠で欠かせません。 特に先生というのは、人間をつくる(あえてひらがなです。)職業であり、また農業を通じて命を慈しむ力を育んでもらわないとなりません。 さらに、私が噺家もを目指すの理由というのも、弱い奴に立ち上がってほしいからです。社会の皺寄せは弱者に来ます。そういう人に、立ち上がってほしいからです。 さて、「こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?」 この「心」という部分があるから、「周りの友達」ではなく「hasunoha」に救いを求めるのだと最近思いました。私もその一人です。 その熱い「心」はお坊さんの場合は、「修行」によって培われているのは言うまでもありません。 (私の場合は、理由が異端なだけに、「信念の強さ」で解決出来てしまうかもしれませんが・・・) しかし、私たち質問者は、どのようにそれを鍛錬すればよいのでしょうか? その「心」どうしたら磨かれるでしょうか? 自分磨きというものは「自分が自分をするのみ。」「自分が自分の行を行うのみ」 精神的な強さを得るためには、「自分が自分を学んでいくこと。」 そう、以前にお言葉を仰ぎました。 これの継続によって得られるものなのでしょうか? また、これだとまだ何か、足りないでしょうか? お手数をおかけしますが、お手おすきの時間がありましたら、回答の方を宜しくお願いします。

有り難し有り難し 72
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修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

有り難し有り難し 86
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「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか?

例えば浄土宗の檀家で、普段は念仏を唱えているけれど、ときどき座禅や阿字観に参加したり、お護摩に参加する。 そう言う人が知人に居ます。 私の場合、浄土宗で冠婚葬祭も勤行も、阿弥陀様メインではありますが、同時にお不動様と大黒天様に惹かれ、こちらも勤行しています。 (浄土宗のお寺にも多くは無いですがお不動様をお祀りしている所があるので、大きな軋轢は無いだろうと思いました) 最近、一般向けの仏教の啓蒙書でも、そうした「宗派にこだわらない」立ち居地から仏教を紹介している本も少なくないように思います。 私も、とある有名な仏教解説者の影響を受けて、こうした立ち居地が、個人的に合うように思い、そうしてきました。 ただ、色々と仏教を勉強していると、「そうした信仰はよくない、宗派は1つに絞るべき」と言う意見にも、しばしばぶつかります。 最近では、浄土宗の檀家の私が、護摩に参加するぐらいならともかく、結縁灌頂まで受けるのはやり過ぎかな? と悩んだりもしています。 お坊様は「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか? この質問は聞きずらいですし、お坊様がたもお答えしずらいかもしれませんが、「宗派にこだわらない」一般仏教啓蒙の影響を受けた者には、けっこう切実な悩みです。 よろしければ、ご意見を伺えたら幸いです。

有り難し有り難し 136
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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
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