一休さんはとんちが得意なのですが、お坊さんはみんなとんちが得意なのですか? どうやって磨くのですか?とんちが得意になりたいです。
先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。
こんにちは。以前も二度ほど質問させていただいたものです。 まずは自分の状況についてお話いたします。 自分は重度の身体障害者でトランス男性(肉体:女性/心:男性)です。4ヶ月近く前に母が一緒に住んでた家で自死しました。 母が亡くなった当初より、絶望感は薄れましたが、それでも自分が母を追い詰めたんじゃなかろうかとか、唯一と言っても過言ではないほど心の支えだった母を失ったことに対する喪失感。自分の心と体の性の不一致に関する葛藤。健常者よりも人の手を借りなければ生きていけない現実。 いろんなものに押しつぶされそうで、なかなか気持ちが厳しいです。そこで、すがるものが欲しいです。 新興宗教は玉石混交な感じがするし、俗に言う"アブラハムの宗教"はLGBTQ+に厳しいと聞きましたし、神道もどちらかといえば日本の伝統的で保守的な価値観を大切にしていると聞きました。 ならば、身近な仏教かと思いましたが、体が不自由ゆえ、望むところに行くのにも一苦労でお坊さんの説法を聞きにいくなどのことはなかなかできません。 信徒や門徒になろうにも財施もする余裕がありません。 こんなんでは信仰心があるとはやはり認められませんか? また、なるべくお金をかけずに仏教の宗派や考え方を学ぶ方法はありませんか? 長い文章で申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。
お坊さん、ご覧いただきありがとうございます。 水子兄弟についてお聞きしたいです。 先日、水子になった兄弟の夢を見ました。 私の母は私の上と下に1人ずつ流産を経験しているのですが、最近そのような話をした訳でも突然思い出した訳でもありません。 しかし先日、夢に知らない兄と弟が出てきて、夢の中で彼らは水子兄弟だとハッキリ認識できたのです。 兄を「お兄ちゃん」と呼んだり、初対面のような素振りもお互い見せず、他愛もない会話をしたり一緒に外出するという夢でした。 性別も知らないし、ましてや年齢相応の姿だったのでほぼ初対面の人だったのですが、確実に水子兄弟だと思います。(自分でもなぜそう確信できるのかは分かりませんが…) それ以来、彼らの存在が気になってなりません。 夢の中での彼らの姿や会話をぼんやり覚えていることもあり、また会いたいとすら思っています。 これは何かのメッセージなのでしょうか? 母方の家系は浄土真宗なので、そもそも水子供養という概念がないと存じているのですが、このことに関する原因はあるのでしょうか。 (正直、私自身熱心に浄土真宗を信仰しているわけではありませんので…) 私の水子兄弟には、天国で幸せに過ごしてもらいたいと思いますが、もし現世で私の家族の周辺にいたいと思っているのであれば、そうできるように整えてあげたいです。 夢の中での彼らが良い人たちだったので、なおさらそう思います。 もし、私が彼らや母にできることがあれば教えていただきたいです。 さまざまな宗派の方にご教示いただければ幸いです。 よろしくお願いします。
先月、父が他界し、遺言で、お坊さんも呼ばず、火葬葬で済ませてほしいとのことだったので、葬儀を行ったのですが、火葬をする前に納骨の件で、父が姉のために70年近く前に買った墓(現在は母も納骨されています。)の住職に連絡すると、「戒名もつけず、お経も上げないのであれば、納骨は出来ない」と言われ、現在も、納骨できないでいます。戒名もつけず、お経も上げないと自分の家の墓に入れることができないのですか。前の住職の時に頼まれて墓を購入し、その際、戒名もつけず、お経も上げなくても、他の宗派の人でも構わない。お布施も気持ちで良い。と言われ、頼まれて買ったと父が言っていましたが」と聞くと、永代供養であり、所有権はなく、登記などもしていない。何か言いたいのであれば、沖縄で住職 もしている顧問弁護士から内容証明を送る。過去同じようなことがあったが、一切認めていない。前の住職はでたらめなことをしていた。」と言われました。姉や母の際は、戒名もつけ、お経も上げたのですが、今回は故人の意思に従い、しなかった為、納骨出来ない状態です。購入した時の条家もないですし、現在の住職になってからも見たことがありません。真言宗の寺です。良い助言お願い致します。
お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。 宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。 宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。 今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。 我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。 「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。 「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。 各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。
最近、仏教に興味を持ちはじめ、 自分なりに様々な本を読んだり、知識を深め始めています。 そして、私の心の支えになっています。 仏教を学ぶにつれ、 「仏教徒になりたい」という思いや 「お寺さんと繋がりたい」という思いが湧いてきています。 私が現在住んでいるのは、 古くから住んでいる人が多い、いわゆる「田舎」の地域です。 私は、夫の仕事の都合でこの地域に引っ越してきたため、 地縁などもなく、つながりのあるお寺が全くありません。 お寺はありますが、檀家さんは皆、何代も前からのお付き合いのようだし、 「写経の会」などの対外的に開かれているイベントなども特別実施されていないようなので、 興味はあるものの、 「完全なよそ者が訪れても受け入れてもらえるだろうか」 と、不安になってしまい、敷居が高く感じられ、一歩踏み出せずにいます。 また、まだ特定の宗派を信仰する、 というところにまでは至っていないため、 そのような状態で、檀家寺さんを訪れるのも もしかしたら迷惑になってしまうのかな・・・とも考えてしまいます。 昔からの檀家さんばかりのお寺に、 私のような、仏教初心者が訪れるというのは、 お坊さんの本音として、いかがなものでしょうか? 都市部に足を延ばせば、 私のように、仏教に興味を持ち始めた人でも 気軽に参加できるイベントなどが行われているお寺があるようなので 遠いけれど、そういうものに参加した方が良いのかな・・・とも感じます。
私は、物事に対して、悪いほうに考えてしまいがちです。 電話をして相手が出ないと「嫌われているから出てもらえない」と考えたり、メールの返信が ないと「嫌われているから返信が無い」と考えたりしてしまいます。 実際、掛け直そうと思ったけど忘れてた、や、返信内容を考えていて返信が遅れてしまったという答えだった事がほとんどでした。 昔、友達の考え方を聞いた事がありました。とりあえず悪い方に考えておいて、結果として良かった時、その差を考えて嬉しく思いたい、みたいな…。それを自分にも当てはめてしまっているのかもしれません。 今も、とある事で返信が無い人がいます。良い人と言える方なので、返信内容を考えている途中なのだろうなと思う反面、怒っているから返信が無いのかなとも考えてしまっています。 返答をしてくださっているお坊さんの皆様にどう思われてしまうかわかりませんが、私はよく、とある仏教のサイトを見ます。宗派は内緒ですが、迷ったり辛くなった心が癒される気がしています。 今回もそのサイトを見て、きっと大丈夫と思ったりしますが、やっぱり暗く沈んでしまいます。思いの高低差があります。 何故私はこんなに、悪い方に考えてしまいがちなのでしょうか。物事を良くとらえられるようになるにはどうしたら良いのでしょうか。
三年前に自死した長男(享年23歳)を納骨しないで 長男の使ってた部屋で手元供養という形をとってます。 お墓は、目と鼻の先にあり、金銭的な理由で 納骨できないという 状況ではありません。 先日 近所に住む義母から、もう三年経ったのだから いい加減 納骨したらどうかと言われました。 どういった宗派のお坊さんなのか分りませんが、 「納骨しないと、魂は迷い 人に霊が憑りつくから 三年も経ったのだから 納骨しなければならない」 と言われたらしいです。 義母は、「人に憑りつくから」を繰り返して言ってきて とても傷つけられました。 私は はっきりと「納骨しないし 手放さない」と伝えました。 夫も同じ考えでいます。 義母は、自分たちの考えが正しいと思い込めば あらゆる人を使って 自分の思いを通そうというところがあります。 私たちは こうしたい いう事があっても まぁ~ 親だから言うことを聞いておくか・・・と 今までは、尊重してきました。 ですが、この納骨しなさいということだけは 絶対に聞けません。 実家と 現在も 浄土真宗ですが どちらのお寺のご住職も、納骨しないのは 悪いことではないと 言ってくださいます。 本人を目の前にして 非常識と言えなくて 本当のところ 私は非常識なことをしているのですか? まず一番 大切な息子のためにならないことをしているのですか? どうか ご意見 お願いいたします。
実父が今年1月、手術の為の入院中、容態が急変し家族に見守られることなく病室で亡くなりました。その後の葬儀は、父に信仰心がなく無宗派、生前から戒名もお坊さんも必要ないと兄に話していたこともあり、本当に家族のみで祭壇を囲みお別れをしました。私の中にモヤモヤする物はありましたが、兄が簡素ながらも葬儀を取り仕切り、母は憔悴し兄に一任していたので、嫁いだ私は黙っていました。 落ち着いた頃母は「やっぱり気持ち的にねぇ…」と言い、小さな仏壇を購入し、入魂などはせずに位牌が無いので写真とお花を飾り、普通に毎日線香を立てて御りんを鳴らしています。自分でお経を読む練習もしていたり。供養は気持ち…と私も思いますが、このような形でいいものなのかと今も考えます。 今年初盆ですが、来年春まで納骨はせず、仏壇横に安置しています。初盆も提灯を飾ってあげたいと購入しました。誠に都合良し…ではありますが、普段の供養は仏式風に小さな孫達も気持ちを込めて手を合わせています。 母が納得していれば、このような形でも父への供養になっているのでしょうか。非常に苦しい闘病の中、一人で旅立たせてしまった父は成仏できているのでしょうか…。 兄は良く言えば、形ではなく気持ちの問題と考えているようです。 ご回答よろしくお願いいたします。
お寺に嫁ぎます 宗派が違うところに嫁ぎますし、今までも熱心に信仰してきたわけでもありません、 寺の嫁としてやっていけるのか不安です 嫁ぎ先の寺は、旦那さまの養父さまのお寺になります 養父さまとは一度しか会っていません。旦那さまと養父さまはビジネスパートナーという形で家族になっているようなので、 特殊な感じがしますし そこに情や家族愛が生まれるのか、とても不安です
父が亡くなり、戒名と法名についてのご相談です。 4年前に兄を亡くし、現在は父の故郷に父が購入した浄土真宗の納骨堂にお骨を納めております。 そして、そちらのお寺さんで法名をいただいております。 つい最近、父が亡くなりました。 父は我が家に近い納骨堂を私が購入し、納骨する予定です。 父が生前、娘の近くが良い…と言っていた為、つい最近、我が家に近い納骨堂を購入したばかりでした。 こちらの納骨堂は宗派問わずですが、管理をされているお寺さんが真言宗です。 葬儀の際は家族葬にした為、葬儀屋さんに手配していただいた真言宗のお坊さまに火葬場でお経を読んでいただき、戒名や法名はいただきませんでした。 やはり戒名や法名は今後、いただいた方がよろしいでしょうか? 四十九日法要の後、納骨する予定です。 その際に、納骨堂を管理しているお寺のお坊さまに四十九日開眼納骨法要をしていただこうと考えております。 そこで戒名をいただくか…。 俗名のままにするか迷っています。 いずれ兄のお骨も分骨して、こちらの納骨堂へも持ってきたいと考えています。 その場合、法名の入った過去帳を入れても良いものでしょうか? 過去帳には私の祖父母の名前も入っています。 それとも、兄も分骨の際に戒名をまたいただいた方がよろしいのでしょうか? 何が良い方法なのかご教示いただけると幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。
実家の位牌についてお聞かせください。 実家の宗派は曹洞宗です。今私は臨月になる妊婦です。 実家は亡き祖父の代からの分家で、祖父母の仏壇があり、祖父母のお位牌もまつられています。 しかし、今は使われていない祖父母の部屋におそらく曾祖父母と思われるお位牌も置いてあり、お世話もしていないと思われます。 (曽祖父母の仏壇やお位牌は、本家で管理しています) 昨晩、自分でもよくわかりませんが、曽祖父母のお位牌を使われていない祖父母の部屋から移動させなきゃと思い、目が覚めました。 質問です。 私は嫁に出た身なので、夢を見たから曽祖父母のお位牌を祖父母の仏壇に移動させてほしい。とは、なかなか言いづらいです。 ですが、どうも気になります。 この場合、祖父母のために新しく作った仏壇に曽祖父母のお位牌を移してもいいのでしょうか?それとも本家が供養管理しているので、現状のままでいいのでしょうか?お位牌の扱い方がわかりません。 嫁に出た身なので、どのように言えばいいのか分かりませんし、お位牌について何が正解なのかが分かりません。 申し訳ございませんが、よろしくご教授ください。
先日、年忌法要の為に帰省したのですが、そこで受けた説法が今も引っ掛かっています。 その説法とは『身内葬で済ますのは不幸なこと』『親族の傲慢』といった内容で、 (忘れようとしているのか)細部まで記憶していませんが、とある事情から恥ずかしながら非常に怒りを覚えました。 その事情とは、年忌の前日に別の親族が亡くなり、事情から親族だけの葬儀にしていたからです。 つまり、その説法と亡くなられた親族が被ってしまい、 『なんて身勝手なことを言うのだろうか』という怒りがあったのだと愚考します。 ただ、親族の代表として向かった手前、怒りを堪えたものの、未だにお坊さんが唱えられた話が引っ掛かっています。 身内だけの葬儀は悪いことでしょうか?確かに親族や友人、知人を呼んで大きく葬式を行うのが一般的でしょう。とはいえ、それが絶対かというと腑に落ちません。 また、説法を行ったお坊さんとは今後も顔を合わせることになるでしょう。 その時にどう顔を合わせたものかと思うと、辛いものを感じます。 (今は説法に対する怒りの感情というより、疑問が凝り固まっているような状態です。) 不躾な文ではありますが、ご教示願えればと存じます。 余談ですが、出来れば浄土真宗本願寺派のお坊さんのアドバイスを頂ければ幸いです。 もちろん他宗の方のお話もお聞きしたいです。
以前、仏教とは?と質問させていただいたものです。沢山の回答がありまして、その中に仏教とは善い行いをするためにする事とあったので、善い行いを心がけてますが、毎日仕事をしていて、雑草を抜いたり、害虫を殺したりしています。お客様や職場の人は喜びますが、これって仏様からみたら善い行いなんでしょうか?また、私の友人の住職は善い行いをするのではなく慈悲の心でする事瞑想をとうして、仏様が私の心になる。とおっしゃっていました。心が瞑想すると第4図という好き嫌いの心から、慈悲の心になるそうで、例えば誰かに刺されたとしても心は穏やかなままになるそうです。その方は曹洞宗です。友人にさそわれ私が信仰していた日蓮宗系なので、お経を毎日あげる事で先祖が喜んで力をかしてくれるという教えでした。わたしは今はお金がかからないので曹洞宗のお寺に行ってますが、日蓮宗が間違えではないと思うので、曹洞宗のお坊さんが読んでる般若心経を譲ってもらったのでそれを毎日よんでます。日蓮宗が間違ってるとは言わないですが、その団体の独自の解釈で抜粋されたお経はスッタニパータ読む限りではずれているので。本物の日蓮宗のお坊さんとは出会った事がないので、自動的に私は曹洞宗になってしまったというか檀家なのでお墓は曹洞宗のお寺なので、わざわざ、変える必要もないというか、遠くてお墓参りにいけないんならいくら日蓮宗のお寺さんにしたいといっても先祖も自分も喜ばないと思います。うちの近くの曹洞宗のお坊さんいいかたですが、日中ずーっと瞑想して座ってるだけの日もあるんそうなんですが、日蓮宗系のお坊さんからしたらお経も読まないで何してんだ感じだろうけど、そのプロセスの違いだけなんだと思います。何を信じたらいいかわからなくなる時もありますが、慈悲の心になればいいし、先祖も大切に生きていきたいです。
はじめまして。 何年か前に結婚したのですが、私の実家は浄土真宗だったのですが、嫁いだ先は曹洞宗でした。 私の地元が浄土真宗と縁のある場所だったこともあり、個人的には浄土真宗に親しみを感じていました。 ここで質問なのですが、結婚したらやはり、改宗するのが一般的なのですかね。 義祖母のお葬式の際にお経も全く違い、もし私のお葬式で曹洞宗のお坊さんだったら違和感があるな。と思ってしまいました。 年齢的にも考えるにはまだ早い気もするのですが、義父義母の手前、私だけ浄土真宗で。というのも申し訳ないし普通はどうなんだろうと思っております。 ご回答のほどお願いします。
祖父が亡くなった際にお仏壇を購入しました。 それからお坊さんに来て頂いて、性根を入れて頂きました。 また位牌にも同じように性根を入れて頂きました。 その時にはそういうものだと特に疑問を持っていませんでしたが、今は性根をいれるってどういう意味だろうと考えています。 親に聞いてもよく分からないようです。 お坊さんに入れて頂いた性根というのはどういうものでしょうか?
母の四十九日をするべきか悩んでおります。 急に田舎で一人暮らしの母が亡くなりました。 母子家庭で一人っ子親戚付き合いもなく お金も無かったので葬儀も親戚数人でひっそりと済ませました。 今、母のお骨は私のアパートにありますがお墓もなく恥ずかしながら費用の事もあり当分は納骨出来ません。 叔父の伝で葬儀に来て頂いたお寺に四十九日をお願いしようとも思いましたが檀家でもありませんし田舎に帰るつむりもないので今後の事を考えると億劫になってしまいます。 ネットでお坊さんにお願いしようと思いましたが 料金はわかりやすいものの 狭いアパート暮らしで仏壇も祭壇もありませんし用意するものもわかりません。 お金がかけられれば良いのでしょうが事情があり日々の生活で精一杯で余裕がありません。 相談する人もおりませんし 人並みに最後くらいは親孝行をしてあげたいと思うのですがどうしたら良いでしょうか。
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?