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hasunoha 問答検索結果 : 「 供養 好き」
検索結果: 578件

結局仏教は人間が作ったマヤカシですよね?

ある仏教は、踊って念仏を唱えれば極楽往生ができるとかなんとか。 ある仏教を考えた人は苦行をするなといってるのに、ある人達は千日回峰◯をやり。 ある仏教を考えた人は欲を断念してこのクソ(この世界はクソです死も欲も病も苦しみも弱肉強食というルールもうえつけたクソな存在が作ったクソな世界)にまみれた世界から逃れようと考えた。 しかし今いる仏教の人達は、結婚もして死んだ人にお経を唱え、大金をもらい。 そして無知な人達は、それをありがたいと思い仏教をますます勘違いさせる。 仏教は政治に使われ、金儲けに使われ。 ナンジャコリャって感じ。 いや仏教道を貫いたとして、この世界の理をわかる仏教の偉い人はいないし、みんなを幸福にしてくれたり教えたりする仏教の人もいません。 例えば、説教みたいな形で君は考えが甘いとか言われてしまいます。その甘い考え(脳や思考回路の伝達物質やらなんやら)を作ったのはその仏様じゃね?と思うのです。 またじゃあ知能が低くて仏教すらわかんない存在に生まれた健常者って苦しむだけ?人間界に生まれたのに解脱できずに苦しむの?って感じです。 私は仏がもし存在するのなら私の全存在をかけて恨み通します。それだけ極悪非道な存在だと思います。 結局仏教って、一部の恵まれた人しか心理には辿り着けず、一部の生まれてきた親が仏教系の人が金儲けのために仏教を難しいことにして他人を説教して世の中のおかしな所をみてる若者に対して考えが甘いとかいって批判するのが仏教?

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生きながらえている意味が見出せません

生きながらえている、とは書きましたが大病をしたわけではありません。 ただ、この死因にあふれた世の中で運よく日々を生きてこれてしまったわけですが、いつまでものらりくらりと生きていていいものか疑問に思います。 なぜこのように考えるようになったか順を追いますと、私は昔から他人の期待に添うように行動してきました。 親や学校の先生、友達、赤の他人… そうしているうちに、突然、「私ってなんだ?」という疑問が降ってきたのです 「いい子だね」という言葉に惑わされ、へらへら笑っているうちに本来の自分をどこかにおいてきたのではないか? そのことに気づいてからはちょいちょい心の健康を損ないました。 いくら疑問を抱いても、長年しみついてしまった「いい子であること」はそうそうやめられません。 何度か死にたいと思うこともありました、そのたびに「実際そんなに死にたくないな」と思って先延ばしにしていました。 直近のことです、就活が始まる年なので、インターンシップなどを調べていた時のことでした。 「働いてまで、お金を得てまでしたいことってなくないか?」 ということに気が付いてしまったのです。 これまで、つらいことがあったら「あと○年頑張れば自分でお金が稼げる」と思って心の支えにしてきたのですが、よくよく考えてしたいことって? そもそも今も研究室に朝から晩まで拘束されてほかのことなんてろくにできず いつキレるかもわからない教授たちにおびえ、六に教えてもらえないまま実験をし… 書いていておなかが痛くなってきたので尻切れとんぼになりますが、私はどのように考え方を改めたら、どのように日々を受け止めるようにしたらいいのでしょうか。 まとまらない長い文章をすみません、よろしくおねがいします。

有り難し有り難し 52
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友達の死から1年経っても苦しいままです

1年前、高校3年生のとき友達が亡くなりました。原因は、わかりません。それが関係して、1年経っても苦しくて、どのくらいこの状況が続くのか、どうすべきか教えていただきたいです。 友達の死を聞いたときに私よりも仲が良かった人がすごく辛そうにして、私に色々相談をしてくるので、全力で彼女の欲しい言葉を探して答えていました。 彼女を見てるとどうしても私よりも苦しんでいると思って、彼女の為にできることをしようと思いました。 ただ、通学路で亡くなった友達の家を通る度に、その友達からの手紙やプレゼント、写真を見る度にどうしようもなく悲しくなって、学校の先生に相談しました。 そのとき、先生は一緒に泣いてくれました。 しかし、「あなたは教師になりたいんだよね?教え子を亡くさずに教師人生を終えることはとても幸せなことで、教師は感情労働だから我慢しなきゃいけないことが沢山ある」と言われました。 冷たい気がしましたが、私の中では確かにそうだと思いました。 自分の中で完結したと思ってましたが、夜になると亡くなったと聞いたときの場面や楽しかった場面を思い出して寝られなくなったりもしています。 何度も誰かに相談したいと思っても、実際相談して何か変わるのか、もし相談したとして、相手に重荷を背負わせてしまうのではないか、これを話したとして今後、その相手との関係が変わってしまうのではと、様々に考えて自分の中で解決することが最善だという結論に至りました。 その友達が亡くなってから1年が経ちました。 それでも悲しくなったり、寝れなくなったり、死について敏感になってたりと、1年前から自分の中では何も変わってないと感じています。 他の友達といるときは心から楽しいと思えるし、笑うこともできます。ただ、暗いところに1人でいると考え込んでしまいます。 一年経っても変わらないことから、これからずっと悩んでいくのか、死がまとわりついているのか、不安になって、相談させていただきました。 長文失礼いたしました。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 37
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仏教について知りたいです

私は、高校生の時に父の母(日本のお祖母ちゃん)のお墓参りをしたいと思い立ち、バイトで旅費を貯め、産まれて始めて国内一人旅をしました。 それまで、キリスト教の母親の母国で生活をしていたため日本の文化や風習など、わからない事がいっぱいありました。日本に帰国したのは私が中学三年になったばかりの頃で、帰国子女で日系人だったこともあり、イジメの的になりました。そこから私は明るさと本当の笑顔を失いました。鏡や写真に映る自分を見るのが嫌になりました。自分の話す日本語にも不安を覚えてしまい、黙り込むようになりました。 あるとき、父親から日本のお祖母ちゃんはお寺の娘さんだった事を知り、お祖母ちゃんのお墓参りをしたくなりました。 そして、父親が教えてくれたお寺を目指して京都の福知山市にまで行きました。道中、兵庫県の無人駅で降りてしまい、徒歩で京都の県境まで歩くなどいろいろありました。三時間以上歩き続けてやっとの事でお寺に着きました。そしてお寺の方が自分の遠い親戚にあたることを知りビックリしました。いままで、日本の親族に会ったこともなかったのですごく嬉しくなりました。 しかし、残念ながらお祖母ちゃんのお墓が松江市と千葉県に分骨してあると知りお墓参り出来ませんでした。 私がお寺に行った事によって、その後は父親の家族(7人兄弟)から連絡が来るようになり、絶縁だった父親の兄弟の和を復縁させるきっかけになりました。そして、半年後にお祖母ちゃんのお墓参りができました。 私が仏教に関する事に触れると、なにか良いことが起きるみたいに感じます。もっと仏教について知りたいです。こんな私でも、仏教について学んでもいいでしょうか? あと、ひとつだけずっと気になる事があります。 当時お寺に行って一晩だけお寺に泊めてもらえました。その翌朝お手洗いに行く途中、足の指先を蜂に刺されました。これは何かしらのお告げだったのでしょうか? 長文になり申し訳ありませんが回答の方をよろしくお願いします。日本語間違っていたらすみません。

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母と会いたいです。中々立ち直れません。

先月母が癌で亡くなりました。 私は学生で一人暮らしのため、両親とは離れ離れで過ごしていました。 母の病気については夏の帰省でおおまかに知らされており、「頑張って治すから勉強頑張ってね」と言われその言葉を信じてました。でも年末年始や2月の帰省と日が経つにつれ、母の状態が悪くなってるのは多少私も気付いていました。でも母は私の前では一切キツそうな姿は見せず、いつも笑顔で振る舞っていました。 そして3月下旬に父から「長くないかもしれないから帰ってきて欲しい」と言われすぐ地元に帰ると母は入院しており、いままでの姿とは変わり、とても辛そうでした。 それでも治ることを母も私達家族も信じていました。そして数日が経ち、いつも通り面会時間ギリギリまで一緒にいて「また明日ねーっ!」と笑顔で大きな声でハイタッチしてくれました。しかし、その数時間後に母は息を引き取りました。 母は、いつも私と姉のことを心配してくれて、私達のことをとても大切にしてくれました。そのため末っ子でまだまだ未熟である私には病気のことをあまりくわしく話さず、心配かけまいと母はしてくれていたと後日聞きました。医師から聞いた母の病も 自分が想像してた以上でした。それらを聞いて以降私はとても後悔して毎日涙が止まりません。ごめんねやありがとうも言えず、何にもしてあげれなかったし、ひとり暮らしで迷惑ばかりをかけて、ましてや母が病気と闘っているのに自分勝手になってしまい母の気持ちを傷つけたときもありました。 可能なら過去に時間が戻って、ずっと母と過ごしたいです。 泣いてばかりでたくさんの迷惑をかけたので母に合わせる顔が無いかもしれませんが、また会って笑顔でお話したいです。

有り難し有り難し 96
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祖母のお骨についてアドバイスお願いします。

昨年祖母が亡くなりました。 葬儀は密葬で行い、お寺を通さなかったので祖父や曾祖父母が入っているお墓に納骨しておりません。 当方は結婚して実家を出ている為、このお墓に今後入る予定はないのですが実の両親はこのお墓に入りたくないので祖母のお骨も入れていません。 両親がこのお墓に入りたくない理由としては祖父が他界した時(約20年前)このお寺から戒名代もかなりな高額で、その時の住職さんやお寺関係者の態度も傲慢だったのが父には我慢出来なかったそうです。 その後、事あるごとに実家にとって高額なお布施やとうば代を要求するお寺のやり方についていけないのもあり、お寺の方針を受け入れられないのです。 その為両親はお寺に不満が溜まり、祖母と話し合った結果、祖母のお骨は手元に置いておくという約束を生前の祖母としたみたいです。(当方は祖母から実際にこの話を聞いていないので両親が本音で話しているかは不明ですが…) しかしこの決断を受け入れられない叔父や親戚から「祖母をきちんとお墓に入れるべき・お金の問題ではない・祖母が可哀想」と言ってきます。 父は断固として叔父や親戚の意見を受け入れずにいます。 私は嫁に出た立場なので何も言えませんが、故人のお骨で家族や親戚がいざこざ起こすのは祖母が一番悲しむと思います。 私は今後どのようにしたら良いでしょうか? 私は祖母の意思を尊重してあげたいとも思うし、交友があった親戚が祖母をお参りしたい気持ちも分かります。 ただ喪主である父の意思が固すぎるので何を言っても父は受け入れてくれません。 

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2023/02/05

亡くなった母を思い出して悲しい

私が28歳の頃、母が半年ほど自宅で闘病した後、ガンで亡くなり、私は自分が自立していなかったこともあり、悲しいのと同時に、とても不安でした。 当時は、人間的にも他にはいないような、やさしい母、私のせいで、私がもっと何かできたのではないかということばかり考えていました。 ここ何年か、さも私や家族が悪いように言いながら、わがままを言ったり、私のためを思っているようで、ただ感情をぶつけていたのではないかと思えるような、母のみっともない面、いやな面を思い出すようになりました。 なにか遅れてきた反抗期のようでもありますし、母親を悪く言う、ひどいことを言うほど私は堕したのかなとも思えます。 母が死んだ年は、うつ状態になり、その後人生で起こることも悪いことが多く、今も引きずっているようなところもあります。 私の現状はいいとは言えず、そういったことも母を思い出すことと関係があるのかなとも思えます。ただ、直接には存じ上げませんが、幸運に恵まれなくても、不幸続きでも、良く生きている人はいるのだろうから、そういうことは理由にはならないのかなとも思います。 母が亡くなって10年以上経ちますが、今も悲しく、さびしいです。つらいです。人並み以上に母がみじめな思いをしたように思えたり、私自身もひどくみじめに思え、母と、なんというか、心のつながりがないように思えます。一方で、以前よりも痛切にさびしさを感じるようになりました。私の人間関係が母しかなかったこともあると思います。母の死が過去のことになっていきません。苦しいです。 なにかの本で読んだように、母のことを思い出し、自分は大丈夫と思えるようになりたいと思うのは、欲でしょうか。 どうして母のいやなことばかり思い出してしまうのでしょうか。 なにかお言葉をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 25
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「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか?

例えば浄土宗の檀家で、普段は念仏を唱えているけれど、ときどき座禅や阿字観に参加したり、お護摩に参加する。 そう言う人が知人に居ます。 私の場合、浄土宗で冠婚葬祭も勤行も、阿弥陀様メインではありますが、同時にお不動様と大黒天様に惹かれ、こちらも勤行しています。 (浄土宗のお寺にも多くは無いですがお不動様をお祀りしている所があるので、大きな軋轢は無いだろうと思いました) 最近、一般向けの仏教の啓蒙書でも、そうした「宗派にこだわらない」立ち居地から仏教を紹介している本も少なくないように思います。 私も、とある有名な仏教解説者の影響を受けて、こうした立ち居地が、個人的に合うように思い、そうしてきました。 ただ、色々と仏教を勉強していると、「そうした信仰はよくない、宗派は1つに絞るべき」と言う意見にも、しばしばぶつかります。 最近では、浄土宗の檀家の私が、護摩に参加するぐらいならともかく、結縁灌頂まで受けるのはやり過ぎかな? と悩んだりもしています。 お坊様は「宗派にこだわらない信仰」についてどう思われますか? この質問は聞きずらいですし、お坊様がたもお答えしずらいかもしれませんが、「宗派にこだわらない」一般仏教啓蒙の影響を受けた者には、けっこう切実な悩みです。 よろしければ、ご意見を伺えたら幸いです。

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死後の世界観

 初めまして。  私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。  私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。  ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。  仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。  私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。  先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。  もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。  人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。  こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。

有り難し有り難し 78
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