死は存在しない
もう10年以上も前になりますが、母の命日が近付くと、色々と考えます。
不治の病を宣告された母。いわゆる「手かざし系宗教」の信者である叔母(母の妹)から勧誘され、藁にもすがる思いで行った本山で「あなたには助からない相が出ている」などと訳知り顔で告げられた母。
同行した父親も勧誘されましたが、断ったとの事。
(父も母も、元々は徹底した無宗教、無神論の人でした)
母は闘病中も死の間際も、「私が死んだら○○を宜しく」
なんて言葉は一言も言いませんでした。
私は、人の思考は死を思う為には出来ていないと考えます。
脳はあくまで、身体を効率よく動かし合理的に生き延びる為に、進化の過程で生物が獲得した器官であり、「死」なんて抽象的な思考を弄ぶ為のものではないと思うんです。
死んで肉体の機能が停止すれば、感覚器官(眼や耳、肌など)も停止し、仮に死後が存在するにしても、想像を絶する世界を見て、感じるはずです。軽々と「死後の世界」なんて言えるはずが無いです。
生物の脳も身体も、ひたすら生きる為に作られています。死ぬためにつくられてる訳じゃないです。だからこの脳、この身体で死について考えること自体ナンセンスで、飛ぶ為に作られていない私の手で、鳥のように空を飛ぼうとするようなものです。
お釈迦さまが死後を無記とした真意は…
私は、死後が浄土であれ輪廻であれ、あるいは本当に恐ろしい事ですが正真正銘の「無」であっても、仏教の救いに変わりはないと言う事ではないかと考えます。
人は死なないです。死の間際でも、風邪をひいたように、一晩明ければケロリと治ってると心の奥底では信じて最後の日まで生き続けるのではないでしょうか。
母は死の間際まで死を考えませんでした。少なくとも、口には全く出しませんでした。何かを悟っていたのか、一片の悟りもなく生にしがみついていたのか今では分かりません。
ただ、母の姿を思うと私も生の続く限り全力で生きたいと思うばかりです。
「生きてる時は死んでいない、死んだら生は無い、だから死は存在しない。死を恐れず、生を全うせよ」と言ったギリシアの哲人に、私は賛成です。
こーゆー考えもまた、妄想でしょうか?
「これだけ問答を重ねて、君はまだ何も分かってない」とお叱りは覚悟の上です。
日々、人の死と向き合っているお坊様方の実感を聞かせて頂ければ嬉しいです。
有り難し 12
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