私は現在主人と息子(3か月)の3人暮らしです。 初めての子育てで、わからない事ばかりで毎日奮闘しています。 私の幼い頃の家庭での思い出は辛い事ばかりでした。父親は定職につかず家でお酒を飲んで気に入らない事があると私に暴力を振るいました。 母には暴力をふるわなかったのですが、そんな父に怯え助けてくれず知らないふりをされていました。 私は両親に気に入ってもらおうと必死で何をされても笑顔で素直な自分を演技して生きてきました。 いつの間にか自分自身の事がわからなくなってしまい、突然不安におそわれたり、感情がシャットアウトしてしまいます。 そのためか、主人や子供との接し方がわからず混乱します。 今までは我慢や演技で乗り越えてこれたのに、子供が産まれてから何かがか変わったようで、 感情に抑えがきかず不安定です。 主人の優しさの受けとめかたがわからず傷つける事をしてしまいます。自分が嫌になります。 本当は幸せで暖かい家庭を築きたい気持ちは人一倍あるのに空回りしています。 家族や家庭の意味がもうわからない状態です。
助けてください。 一年半前に、突然、夫が仕事中に事故で死んでしまいました。その時私は妊婦でした。 結婚一周年を間近に迎えていたのですが…一緒に迎えられず、幸せな結婚生活が一年もせずに壊されてしまった。即死だったので死に目にも会えなかった。 本当に愛していたし、愛されていました。真面目に思いやりを持って過ごしてきたのに、こんな事が起こるなんて…神様、仏様さえ呪いました。 夫が死んでから、毎日が灰色で地獄のような日々を過ごし、後追いしようとしたり…泣いてばかりの日々でした。 毎日、あの日仕事に行かせた事を後悔して、死ぬまで後悔するのだと思います。 そんな中、無事に出産し、子供を産んでからは涙も封印しました。子供は愛しいし、責任をもって幸せにするつもりです。 もう、自殺しようなんて思いません。夫の分まで愛情も注ぎます。 その気持ちに偽りはないのに、早く夫のもとに行きたいと思ってしまう気持ちもあるのです。それから、轢いた犯人や夫の会社も憎くてどうしようもなくて。苦しいです。 夫の魂はどこにいるのでしょうか、死んだら又会えるのでしょうか?
初めての質問です。読んでくださっているお坊さん方、ありがとうございます。そして、よろしくお願いします。 私は人を助ける人になりたいと思っています。人であるのなら当然のことかもしれませんが、そういう風に考え生活しています。 上記の内容だけでは、良いことのように思えますが、どうしても悩んでしまうのです。 例えば重い荷物を持って運ぶのが大変そうなお年寄りを助けるとき、「自分は良い事をしたいと思ってした」と純粋な優しさなどではなく、ある意味欲求から為しているような気がしてならないのです。 少しニュアンスは変わりますが、「優等生アピールをしている」、もしくは自分の心の中で「自分は優しい人だ」と思い込ませているための手段になっている気がするのです。 純粋な気持ちで「良い事」は出来るのでしょうか?出来ないのであれば、どうしたらこの罪悪感を感じずに「良い事」ができるのでしょう?
宗教は自分の考えで選ぶ事が出来るのでしょうか? ある人から創価学会への入信を勧められています。 私の実家は禅宗です。違う宗派の家に嫁ぎましたが離婚しました。 この場合、実家の宗派に戻るのか?新しく自分で選ぶのか?判りません。その家に伝わる宗教は先祖と自分を繋ぐ絆のような気がするので新たに自分の代から変えるのは不安です。 自分で抱えきれないような悩みがある時,人はどうして乗り越えていくのでしょうか?
初めまして。答えにくい微妙な質問だとは思いますが、どうか読んでいただけたらと思います。 私は10年ほど心の病で通院しております。基本的には安定していますが、時々今日みたいにとても気分が落ち込み、何もする気が起きない日があります。本当はベッドから起きたくもありません。 もちろん、そんな訳には行きませんし、起きないと余計に気分が悪化するのは分かっているので、なんとか出勤します。 そこでふと、お坊さんも人間ですし、心の病を持っている方や、そうでなくても「とにかく今日は辛い、落ち込んでいて何もしたくない」という日があるのでは?と思いました。(見当違いで失礼な事を言ってたら申し訳ありません...) もしよろしければ、差し支えない程度で、「自分の周りにはこういうお坊さんがいる」とか、「(具体的な解決方法がない理由で)落ち込んでいる時、こういう風な心の持ち方を心がけるようにしている」等といったご意見、その他どのようなものでも、よろしければ教えていただければと思います。 よろしくお願いします。
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。
コロナで自粛生活となり 息子も、高校3年になってから 長い自粛生活に入りました。 宿題が溜まっていたからなのか 久しぶりの投稿日の朝 部屋に起こしに行ったら 首を吊って、息絶えて居ました。 遺書もなく、理由が分かりません。 最初に発見した時の表情や様子が 頭から離れず、毎日苦しいです。 最期に声をかけたのは私でした。 朝方大きな音がしたので 部屋に向かって「大丈夫?大きな音がしたけど」と尋ねたら 「大丈夫。扇風機が倒れただけ」 そう言った声は落ち着いていて 私は納得して、また眠ってしまったのです。 あの時、何故ちゃんと顔を見て 話をしなかったのか…後悔でいっぱいです。 私と話したすぐ後に 息子は自死したみたいです。 息子は、私に助けて欲しかったんじゃないだろうか… 心配かけるからとか、色々考えて 私に言えない何かがあって 私はのほほんと 息子なら大丈夫だと甘えて居たんじゃ ないだろうか… 自粛中、ほとんど部屋で過ごしていて ご飯くらいしか降りて来ない時点で 鬱じゃないかと気付かなければ いけなかったんじゃないか… 色々な事が頭を巡り、自責の念で 苦しいです。 大好き大好きと、伝えて来ました。 何をやろうが、あなたのやりたいように やったらいいと、伝えて来ました。 それが、かえって息子を 追い込んだのでしょうか…。 本当に苦しいです。
師僧、信徒さんとの付き合い方に最近悩んでおります。 師僧とは血縁関係はありません。 寺院にて妻も含めて一緒に生活をおくるようになりました。 妻も私も師僧の寺院に入れてもらってまだ日が浅く、時には厳しく時には優しく日々様々なことを教えていただいてます。 ですが、一緒に生活を始めてから師僧が信徒さんのところで私たちの悪口、至らない点さらには私たちの両親の悪口を多々言っていると聞きました。 これまで信徒さんとお付き合いをしていく上で不安がありましたが、最近さらに不安が強くなりました。 これも修行と思い、乗り越えようとしていますが、私以上に妻が精神的に追いやられている現状です。 一僧侶として、お恥ずかしい現状ですがどこかで吐き出したいと思いここに相談させていただきました。 相談というよりも愚痴のようなものになり申し訳ありません。
嫁姑問題なのでしょうが…。自分にも大きな過失があります。 私のうちは小さな寺で、祖父も父も別の仕事を持ちながら住職として私たちを育ててくれました。10年前に父が倒れてから、私も仕事をしながら住職資格を取り、寺を継ぎました。 それから結婚もし、子供(長男)もできました。母と妻と子供と暮らしてきましたが、私の母の言動が妻にはストレスで、何をするにしても「母をイライラさせないように」、「母から文句言われないように」、とかなり細かいことにもかなり気を使っていました。子供も、母が務めていた地元の幼稚園にも入れないで自分の実家近くの幼稚園に入れることになりました。そして毎日自分の実家に連れて行っていました。 実の母なので私はあまり気にしていませんでしたが、妻に母の愚痴を言われたり、帰宅するとすぐに今日会ったいやなことを聞かされたりするのが嫌で、妻の訴えをちゃんと聞こうとしていませんでした。そういうことが原因で夫婦喧嘩も何度もしました。 妻もとうとう夫も味方になってくれないと思い、体調を崩し、子供を連れて実家に帰っていきました。その後妻と、そして母とも話し合い、私たち家族3人が寺を出て、母と別居することになりました。母は、妻が自分のことをそれほどまで嫌に思っていたのか…と、ショックを受け、謝りたい、戻ってきてほしい、家も住みやすいように直せば…と思っているようです。しかし、妻は今後も戻る気はあまりないようです。うちの親戚とも会いたくないようです。 私が通って寺の仕事をすればいいのかもしれませんが、本当にこれでよかったのか、と考えてしまいます。家族みんなが仲良く暮らせるために自分が妻と母に配慮することを怠ってきたから、このようなことになってしまったのに…と、自己嫌悪・自己否定の毎日で気が抜けてしまっています。 今後私がとるべき態度・行動の指針をお与えください。
何十年も前に受けた性暴力の記憶が今もよみがえって苦しいです。 私の身体は不浄だという思いにとらわれます。 もう人生も半分以上過ぎているはず。このままこの記憶に苦しめられるのは辛いです。 記憶を消したい。
深夜1時過ぎ息ができない肺が痛いということで救急車を呼んでほしい」と訴えて来たので119番してそのまま救急病院へ。 速攻入院ICUに入りました 検査は続いていて、一旦家に帰るように言われました。朝8時前に家に着き、一息つく暇もなく病院から、「すぐ来てください」私は病院へ 無菌室で彼は力なく、痛みに耐えていました。会話はできるということでお話をしました。 「いい病院に来れてよかったね(私)」 「(息子)治りに来たのに痛いのと呼吸できないの取れないよ」 「きっと治るよ!(私)」 かなり辛そう呼吸が苦しそう。欲しいものは?ときいたら、お水が欲しいということでペットボトルを3本渡す。面会時間限られているので 「また来るね」 2日目の昼呼吸器を付けるのですぐ来てくださいといわれたが、着いた時にはもう装着して、眠っていました。 眠っている我が子の手やおでこに手をやる、足が出ていたので足の裏をさする「治りますように!」 3日目の朝 「すぐ来てください!」 着いた時には、もう眠っていました。 医師が「死亡確認をします」 信じられなくて突然すぎて。。もっと早く大きな病院になぜ行かせなかったのか?後悔ばかりです。「治るために来たのに苦しいの治まらない」と最後まで言ってた息子です。 病気で辛かった時かかりつけの医者以外に行っていれば、 悪化しなかったかもしれない! 発熱に耐えて、仕事などに行かさないでもっと早くやすめるように会社に言えなかったのか!? してやれなかった後悔が後から後からあふれてきます。 救急車呼んだ時間から夜明けまで、息子の事で一杯で寝れません。 電話の音も怖いです。 私がいま息子のために、してあげることは何でしょうか? 息子の魂はどこにいまいるんでしょうか? 助けてください。幸せになってほしかった息子が喘息と肺炎の悪化で若くして死んでしまいました
夫とはいろいろあって愛情はまったくありません。家庭内別居状態です。 子供は成人し、子育ても終わり、空の巣症候群で空虚な毎日でした。 そんな時、会社の若い男性に優しくされ、好きになってしまいました。 歳も離れていて、恋愛感情で誘ってくれているのではないと頭ではわかってますが、食事や映画に誘われ、女性として扱われて、依存してしまったんだと思います。 彼にはもうすぐ結婚する彼女がいるのも分かっていますが、その話を聞くたびに嫉妬で苦しいのです。いい歳して情けなくなります。 忘れたいのですが、毎日会社で会うのでなかなか難しいです。 周りの人は、みんな恋人がいたり夫婦仲が良かったりで、自分だけが誰からも愛されていない気がして寂しくて虚しい毎日です。 ただただ、その彼と会社でしゃべったり、食事に行ったりだけが楽しみですが、私から誘うことはできないので、ひたすら誘ってくれるのを待って、また苦しくなります。いい歳をしたおばさんなのに彼の言動に一喜一憂してしまう自分が情けなくて嫌になります。 何にも依存しない強い心になりたいです。 以前、仏教では「依存すると苦しいですよ」という教えがあると聞いたことがあります。 では、依存しない心になるには、どのように暮らせばいいのでしょうか 一人でも強く何事にも動じることなく生きていきたいのです。 具体的な考え方を教えてください 漠然とした悩みですが、よろしくお願いいたします。
「身体」と「精神」に障害を持つ者です。 昨日の相模原市の障害者施設での殺人事件で動揺しています。 健常者はやはり本音の部分で「障害者なんて死んでしまえばいい」と 思っているのでしょうか。 子供のころから実際に言われているので、「やはりそうなのか。」 と思ってしまいます。 負けずに戦えばいいのでしょうか。聞き流せばいいのでしょうか。
初めてこちらで質問させていただきます。よろしくお願いします。 私は現在、大学院で社会学を専攻しているのですが、同時に仏教に対しても強い関心を持っております。今後の人生は仏道を中心に据えて歩んでいきたいと思っております。 現代の日本の政情を私なりに研究した結果、日本の将来には期待できるものがほとんどないという結論に至りました。日本の政治・経済・文化における凋落は民主主義・資本主義体制が崩壊するまで続くだろうと予測しております。 この現状を踏まえて、私が歩むべき道は仏道以外に見出せないと思いました。しかし、日本仏教を信仰するにはいくつかの問題点があるとも感じております。 まず、第一に宗派があまりにも多くどの宗派を信仰して良いか分かりません。様々な宗派の本を読んでは見ましたが、どの教えにも深く納得することができず、悩み続けている状況です。(最近では、禅とテーラワーダ仏教の教えに惹かれております。) 第二に、日本仏教はもはやその求心力を失ってしまっているのではないかという問題です。鎌倉時代など、社会状況が大きく変化した時代には仏教は多大な求心力を持っていましたが、現代では賞味期限が切れた宗派もいくつか存在していると思うのです。(例えば、私の家の宗旨は浄土真宗ですが、個人的には信仰することに困難を覚えます。もちろん、歎異抄などの著作には深い感動を覚えます。)それが、さまざまな新興宗教を生み出す原因になっていると思うのです。 これらの点を踏まえて、私は禅かテーラワーダの教えを学んでいきたいと考えているのですが、同時に躊躇もあります。その教えに賭けて救われなかった時のことが怖いのです。ここに非常な葛藤があります。 結局、私がお尋ねしたいのは「私はどう生きるべきか?どの宗派を信仰すればよいか?」ということです。何かアドバイスがありましたら、どうかご回答下さい。よろしくお願いします。
お世話になります。じゅんちです。 15歳の娘の突然の死から8ヶ月が過ぎました。まだまだ涙が乾く日はありません。 月命日には友達が相変わらず来てくれて賑やかにしてくれます。 寂しい、会いたい、いろんな気持ちにもちろんなります、二女が姉の服を着たり同じような仕草をしたり、行事があるたびに思いだし二女の姿を見ながら同じような事が起きやしないかとたまらなく不安になったりの繰り返しです。 私自身が楽しい時間を過ごすことに罪悪感を覚えます。 友達に会ったり、笑う時間もありますがそれがふとたまらなくなるのです。 長女にも楽しい時間がたくさんあったはずだと。 長女は空から私が笑ってるのを見たいはずだよねと思うのですが、気持ちが頭がバラバラです。 どんな思いでいたらいいのか整理がつかず辛いです。 お言葉をいただきたいです。宜しくお願い致します。
私は大学四年生です。 北海道の大学で生活をしながら地元の消防士になるために勉強しています。 先日出身地の熊本で地震が起き、いまも多くのひとが余震、避難所生活、二次災害に怯えながら生活しています。 そんな中私は消防士の勉強をやって1年でも早く熊本の消防士になりたいと思っているのですが熊本の様子が心配で勉強に集中することができません。 一体私はどーすればよいのでしょうか。 私は意志の低い人間なのでしょうか。
先月母が亡くなりました。 父から葬儀の事に関して、丸投げされていたので、私が葬儀屋さんに電話し、喪主を勤めました。 葬儀屋さんと打ち合わせ中に、お寺のお坊さんがいつ葬儀に来てくれるか電話するように言われました。 お坊さんに電話したら、“枕行に行きたい“と言われました。 今朝母が亡くなった事で気持ちが動転していて、葬儀屋さんとプランの話し中だったことで、また後で電話すると言って電話を切りましたが、私は電話をするのをすっかり忘れていました。 それから2〜3時間後にお坊さんから連絡があり、お坊さんを怒らせてしまいました。 母の戒名を考えるために明日、寺に来るのかと言われましたが、私は逆ギレしてしまい、上から目線だとお坊さんに言ってしまいました。 うちにはお金も無いと伝えました。 私のほうからお坊さんに用事があって電話したのに、逆ギレしてしまうほど、まともでは無く、冷静ではありませんした。 葬儀の日に待合室で、“待てど暮らせど電話がなかった。自分から連絡してきて、あの態度は何だ。枕行をやらなかったのは初めてだ。“ともっともな事を言っていました。 今日は母の49日でした。 お経を詠んでもらい、お話しを聞いていましたが、お坊さんは私とは目を合わせませんでした。 お話が終わると、お坊さんさんは烈火の如く怒り始めました。 “何故遺骨を持ってこない?こんな事は初めてだ。“ “何故49日の打ち合わせに来ない?今日は来ないかと思っていた“ “枕行をやらなかったのは初めてだ“ “お父さんは萎縮してしまって、あなたに何も言えない“ “自分のやりたい事だけをやって、周りに迷惑をかけている“ “枕行しに行きましょうかと言った日は、もっと若い女性が悩んでいるのかと思ったら、36歳だったなんて!“ “あなたがした事で、お父さんは謝っているのを知っているか?“ “葬儀の時にお布施5万、御膳料5千円、御車代5千円の6万だったけど、0が一個足りねぇよ“ と親族の目の前で言われました。 お坊さんの大きな声で何故何故といわれて私は何も言い返すことができませんでした。 私の実家はこの先墓じまいになります。 母の遺骨はそこには入れたくありません。 お骨は私の家にあります。 来年の一周忌、3回忌、七回忌…毎回このお坊さんに会うと考えると気が重くなります。
質問が2つあります ①仏教では輪廻転生と言う考え方で生まれ変わると言われていますが 人口の増減についてはどう考えているのでしょうか? 今の日本の人口は1億人を超えていますが 奈良時代 大宝律令ができたころは310万人~320万人ほどだったようです。 日本史の教科書では 昭和初期の満州事変が始まった頃のことを 日本は中国人4億5千万人を敵に回すことになった と書かれていますが 今は中国の人口は軽く10億人を超えています 同じ国籍だけに輪廻転生するとは限らない 世界規模で考えるべきとしても 現在世界の人口は70億人程度いるようですが 1世紀に前に比べても数倍になっています もっと言うなら 数万年前の ~~原人 とかいたころはどうなのか? とか いろいろ説明がつかないことばかりです。 昔の 江原啓之さんが出てくるような心霊番組はテレビでやらなくなりましたが (便乗した霊感商法 悪徳商法がはびこるようになるとか、輪廻転生を信じた人が人生をやり直すために自殺するケースが出たなどの理由で弁護士などがテレビ局に抗議したそうですが) 当時の番組では江原さんは輪廻転生を言っていて 「あなたの前世は~」と言う話になると 全て人間であり、他の動物だったケースは見たことがありません。 しかし 全ての人間が また人間に輪廻転生をするとすると 個体数の関係で辻褄が合わないことになります。 これは仏教ではどう考えているのでしょうか? ②私は亡くなったら全て「無」に帰す 霊魂も輪廻転生もないインチキだ と言う考え方は好きではありません。 それは 大切な肉親を亡くし時点で「永遠の絶縁」を意味するからです。 死ぬことは怖いとは思いませんが、肉親と未来永劫絶縁になると想像するほうが怖いです。 霊魂や輪廻転生を完全否定する宗教家の方もいるようですが、肉親を亡くしたら情なんて捨てろ と考えているのでしょうか?
新宿での焼身自殺、首相官邸での抗議デモなど、最近の「集団的自衛権」を巡っての抗議が行われています。 仏教的には、「流れに逆らわない」というイメージがあるのですが、今の現状の流れが戦争につながるかもしれない政治家の側にあるのか、戦争反対への自殺・デモなどの側にあるのか、もしくは大多数であろう「傍観者」なのか、疑問に思ってしまいます。 かつて、太平洋戦争が始まった頃ともしかしたら今は同じ状況なのかもしれないという気がしています。 太平洋戦争の頃の宗教家の言動などを踏まえて、今現在の宗教家の方々はどのように考えて、どのような行動を取っているのでしょうか? 大局に囚われず、右往左往するのではなく、今自分の眼の前にある日常生活を淡々と過ごすことが大切なのでしょうか?