4回目の質問になります。 原因不明の病で入退院を繰り返していましたが、確定診断がつきました。症例の少ない難病で治る事はないそうです。 頼れる身内はいません。市役所では生活保護を強く勧められました。 働く事も出来ず、生活保護を受け、社会参加も困難。 薬を飲んで、ただ息をしているだけ。 まだ40代です。 先は長いでしょう。 治らないけれど死ぬ事もない。 この生活を続ける事に何の意味があるのでしょう。 食事して寝て過ごす生活。 外出も困難。 生きる意味は何ですか? 「頑張って生きて下さい」と言われますが、生きていて何の意味があるのか分かりません。
仏教と言ってもいろんな宗派があるようですが、それぞれどう違うのですか?難しいことはわからないので、一言で特徴を教えてください。 例えば浄土真宗だと「他力本願」ですか?
よろしくお願いします。 輪廻転生について教えてください。 輪廻転生とは生きていて、死んだら記憶を消されてまた新しく生を受けて死んだらまた記憶を消されて…の繰り返しということだと知りました。 なんだか、穴を掘って、埋めて、また穴を掘って、埋めての繰り返しの拷問のような気がします。 生きていて同じ日は二度とこない、大切に生きなければならないことは知っています。 でも、なんだかもう慣れたというか飽きてしまったというか、なんとも言えない気持ちでずっともやもやしています。 そんな風に考えると何のために自分は生かされているのだろう、なぜ生きているのだろう、ととても虚しくなり、毎日がとても苦しいです。 そうやっていつも一人で泣いています。 自分でも何をどうしたらいいのか見当が付きません。 自分は何に苦しんでいるのか、それすらもわからず苦しいです。 何かアドバイスを頂けないでしょうか。 よろしくお願いします。
昨年祖母が亡くなりました。 葬儀は密葬で行い、お寺を通さなかったので祖父や曾祖父母が入っているお墓に納骨しておりません。 当方は結婚して実家を出ている為、このお墓に今後入る予定はないのですが実の両親はこのお墓に入りたくないので祖母のお骨も入れていません。 両親がこのお墓に入りたくない理由としては祖父が他界した時(約20年前)このお寺から戒名代もかなりな高額で、その時の住職さんやお寺関係者の態度も傲慢だったのが父には我慢出来なかったそうです。 その後、事あるごとに実家にとって高額なお布施やとうば代を要求するお寺のやり方についていけないのもあり、お寺の方針を受け入れられないのです。 その為両親はお寺に不満が溜まり、祖母と話し合った結果、祖母のお骨は手元に置いておくという約束を生前の祖母としたみたいです。(当方は祖母から実際にこの話を聞いていないので両親が本音で話しているかは不明ですが…) しかしこの決断を受け入れられない叔父や親戚から「祖母をきちんとお墓に入れるべき・お金の問題ではない・祖母が可哀想」と言ってきます。 父は断固として叔父や親戚の意見を受け入れずにいます。 私は嫁に出た立場なので何も言えませんが、故人のお骨で家族や親戚がいざこざ起こすのは祖母が一番悲しむと思います。 私は今後どのようにしたら良いでしょうか? 私は祖母の意思を尊重してあげたいとも思うし、交友があった親戚が祖母をお参りしたい気持ちも分かります。 ただ喪主である父の意思が固すぎるので何を言っても父は受け入れてくれません。
御坊さまたちは、一般人と会話をする際にご自身のことを何と呼ぶのでしょうか? また御坊さま同士はどう呼び合うのでしょうか? そして、同じお寺に複数の御坊さまいらっしゃる場合、先輩後輩の別があると思うのですが、先輩後輩関係ではどう呼び合っているのでしょうか? 教えていただきたくお願い致します。
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
本願寺派の門徒です。真宗では弥陀一仏に帰依する立場から、神棚を祀ったり祈祷占い等を受けたりしない決まりごとのようです。 ですが、わたしは地元の神社のお祭りには氏子として協力しますし、正月には当然のように神社に初詣に行き1年の健康を祈願します。子供の成長を願って七五三詣にも行きました。 門徒としてはこういう態度はやはりよくないのでしょうか。
子供の習い事で一緒のお母さん達とたまたま出ていた不満を、あるお母さんが指導者へ「こんなやり取りをしている」と打ち明け、事件に発展しました。 指導者は激怒で私達を叱責。 メールでのやり取り等を見せていたようで…。 関係の無い保護者の前でそのメールの内容を明らかにし出しました。 勿論、不平不満を抱き、話した私達がいけなかったかもしれませんが、関係の無い外へはそれは漏らしたわけでない為、それくらいはと思っていたのですが、その行為をよく思わなかったのでしょう、一人が指導者と言う強い立場の人間へ話しました。 誰がどんな事をするのかもう分からなくなり、信用が出来ません。 不平不満は絶対に人間は言ってはいけないのでしょうか。不満に思ったことはどうしたら良いのでしょう。教えて下さい。
はじめまして。 私は長い間、それこそ中学生の頃から、生きる事について自分なりに考えて参りました。 幼い頃は、生きるとは正しく(簡単にいうと道徳で習うような基本的なこと)在るよう努め、幸せになる事と思っておりました。 しかし、今までを振り返ると、正しさは私の人生において、幸せになる事とは異なる存在でした。 なぜ嘘をつくのか、なぜ陰口をいうのか、なぜ優しくしないのか、なぜ相手の立場に立って話をしないのか、なぜ傷付け傷つけられるのか… これらのある種意味のない疑問を持ち考え続けたことで、大切な人達にも息苦しい思いや悲しい思いをさせてきことがあると思います。実際に、そこまで正しく生きれない、お前を見てると辛いと言われてしまったことがあります… また、私自身も、正しさに執着し過ぎている為か、怒り悲しみを抑え込み、何よりも叶えたい強い望みも、他者の悲しみの上でしか成立しないと思うと何もできず、消化出来ない感情や気持ちとの矛盾で頭と心が度々悲鳴をあげます。 (勿論、抑えきれないない時もあります。その時は自己嫌悪で悲鳴をあげております…) そんな時にであったのが「人は苦しむためにこの世を生きる。現世で苦しみカルマをかることで、生まれ変わりの輪から抜け出すために人は生きている。」という一文でした。 おかしな話ですが、とても救われたきがしました。幸せにならなくて良い、正しさを求め苦しむことは、間違いではない、と言われた気が致しました。 ただ(だいぶ長い前説となってしまいましたが…)本当に根本的な事なのですが、正直、ここまで考えて生きる必要があるのか、疑問に思う自身もおります。 身近な人たちにこの様な話をすると、そこ迄考えなくて良いと言われてしまいます。 私は…考えすぎなのでしょうか? もう少し気楽に、幸せを求める方が健全なのでしょうか… (ただ、私は現在も決して不幸ではなく、むしろ感謝がつきない日々を送っておりますので、幸せと言う言葉には少し語弊があるかもしれませんが…) 長文の割りにあまり意図が伝わりにくい内容となってしまい申し訳ありません。なるべく素直に頭の中の言葉を書き出させて頂きました。 ご意見をお聞かせ頂けましたら幸いです。 どうぞよろしくお願い致します。
質問んが多い中、既出の質問でしたら申し訳ございません。 さて、人は死後あの世というところに行くそうで、そこにはすでに亡くなった方々がいると聞きます。 しかし、一方人は死後49日で再度生まれ変わる輪廻を繰り返すとも聞きます。 いったいこれはどう受け取ればいいのでしょうか? 私はおそらくだいぶ先とは思いますが死んだあと、尊敬し心の支えとしている亡父にあの世で再開し、“良く頑張ったな”と褒めてもらうこと、その他既に亡き人々に再開できることを本心から楽しみに(それ頃心の支えとし)、苦しい時を乗り切っているので、上の疑問を持った次第です。 亡くなった方々はあの世で待っていてくださるのでしょうか、ご回答をどうぞよろしくお願いいたします。
最近、お浄土にはたくさんの種類があると知りました。 私の家系は浄土真宗なので、阿弥陀様の極楽浄土に生まれ変わらせていただくことになると思います。 ということは、生前に阿弥陀如来様を信仰していた人と、死後に極楽浄土で再会できるということでしょうか? また、たとえば薬師如来様を御本尊として信仰している人が往生した場合、東方浄瑠璃浄土というお浄土に行きますよね? そうした場合、私はその人とは会えなくなってしまうのですか? 仏教初心者なので、どこか間違っていたら申し訳ありません。 いろんな宗派のお坊様から回答をいただけたらありがたく思います。 よろしくお願いいたします。
離婚を機に 落ち込んでいたり 将来の不安になっていたんですが、朝の説法という番組で救われて 仏教に興味を持ち出しまして一年 坐禅やったり 護摩滝行やったり 読経したり 写経したり と毎週 どこかの寺院にいっては色々とやっているんです。ただ ここで少し疑問におもったんですが、滝や護摩は真言宗 坐禅は曹洞宗 臨済宗と 宗派も違えば お寺も7つぐらいを グルグルまわっているんです。(私の地元の青梅は古い寺院がとっても多いんです) 多分 私は仏教が好きでお寺が好き 尚且つ好奇心旺盛で一つに決められないんです。ただこの一年 振り返ってみて荒行やったり色々とあったが 果たして私は どこと深く付き合ってきたんだろうか?どの宗派の教えが自分のあったものか?などなど 色々と自分自身に疑問をもちました。みなさん宗派を決めたりした理由はなんでしょうか?私はミーハーなんで 空海って映画 禅って映画で この二つの宗派を特に力いれてます。あとこんなにあっちこっち行きまくっている人を住職はよくおもわないですよね?なにもいってこないんですけど
皆様からの、たくさんの真心のこもったご回答に助けられ、心の苦しみを除く方法を少しずつ理解し実践できるようになったような気がします。本当に感謝しております。 皆様のご厚意に甘えすぎているようで申し訳ないのですが、またご相談させて頂きたいと思います。 望むべきではないと分かっていても、つい望んでしまう事があります。いわゆる「無いものねだり」です。努力で手に入る物は別です。しかし、たとえ喉から手が出るほど欲しくても、諦めなければならない事はあると思います。 それを手に入れている他人が羨ましくなるたびに、「自分には縁が無かったんだよ」とか「私には分不相応なんだよ」と自分を戒めるのですが、私もなかなか欲深い人間で困ったものです、、、。 欲しいものへの執着を捨てて、きちんと諦めるために、どのように心を向ければ良いのでしょうか。
こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。 私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。 しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。 なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。 浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。 お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。
質問させて頂きます。 不思議な夢を見ました。最近、近親の者が亡くなり、悲しみに沈んでおりました。 しばらくしたある夜、夢の中に三叉仏と名乗る仏様がいらっしゃいましたが、何も仰せにならずにそのまま去って往かれました。仏教に詳しくないので、一体どういった仏様であろうかと、いろいろな仏教の本を読みましたが該当する仏様を探し当てることはできませんでした。 それからしばらくしますと、また、夢の中に仏様がいらっしゃいました。そして、『現在、過去、未来、すべての生命の幸福を祈りなさい、そうすれば、貴方に幸せが訪れますよ』と仰いました。1~2カ月くらい前の話です。 夢での話があってから、仕事の合間など、時間を見つけ、そういった祈りを行うようになりました。 昨日の夜も、そうやってお祈りしながら就寝致しておりますと、夢の中の空中庭園の様なところに仏様がいらっしゃいまして、『貴方の誓願は確かに聞き届けましたよ』と仰いました。 仏様に願いを聞いて貰いましたら、私の体は地面の上に立っておりました。しばらくすると、自分の体は、地面の上を飛ぶように走りだしました。地面の上には村の様な町の様な景色が広がっており、その間を、時速20km、40km、100 km、200kmと段々加速して飛んで行きました。 およそ200 kmになってもさらに加速し、音ぐらいの速さにまで加速しました。これ以上加速できないくらいになりますと空中に大きな白い光が現れまして、自分の体の中にこれまで味わったことがないような言葉では言い表せないような多幸感が全身を駆け巡りました。白い光は空半面を覆うぐらいの光になり、そこで目が覚めました。 この夢はいったい何なのでしょうか?これからどうすればいいのでしょうか?初めてこういった不思議な体験をして非常にびっくりしております。三叉仏とは一体どんな仏様なのか、実在の仏様なのか?教えて頂けませんでしょうか?宜しくお願い致します。私の家の宗派は真言宗です。
仏教では動物の殺生は禁止されていますよね。 私も殺生するのは心が痛みますし、好みません。実際、つい最近までヴィーガンでした。 ですが、 「私達が殺して食べる動物も他の動物を殺して食べている。自然界じゃ楽にとか優しく殺したりなんかしない。私が殺生を拒否するという事は、生を尊んでいるようで、実は生を拒否しているんじゃないか。生死から目を背けて、向き合っていないんじゃないのか。」 と、ふと思いました。 いくらヴィーガンであろうとも、歩くとアリは殺しますし、洗濯するとダニは死にます。 もっと言うなら、植物だって生きているのに、それは良い事だと言って食べます。 革製品を使わないにしても、ポリエステルや綿や麻だって、科学薬品やゴミ処理によって環境を汚しています。それが巡り巡って、多くの生き物を殺しています。 詰まるところ、ヴィーガンもミートイーターも、何かを殺して生きている事には変わりないと思います。 ヴィーガンを経験して考え至った事は、 「自分の為に殺された命に対して感謝と尊敬を忘れず、謝罪は絶対にしてはいけない。自分の為に死ぬ生き物に対して、自分が殺す覚悟を持てないなら、自分が殺されても文句も言えない。」 と痛感しました。 凄く詰まるところ言うと、人も動物も植物も命の重さは一緒であり、人を殺して食べても、動物を殺して食べても、同じ事だと思います。 法律で赦される事でも、何かの命を奪った事実は同じだと思うんです。 だからといってむやみやたらに命を奪いたくはありません。自分の手で助けられる命は救いたいし、環境だって少しでも良くなるように努力したいです。 ちょっと話が逸れますが、アメリカのスキープレーヤーのガスケンウォーシーという方は、平昌五輪の時、韓国の食用犬の牧場を買い取り、ワンちゃん達をアメリカで里親に出したそうです。 エゴだと言う方もいますが、彼は勇気ある人だと思います。 これらは全て私の考えであり、いち意見です。 誰かに強制する気もないし、否定もしません。 ついさっき、少し思う事があったので、自分以外の方のご意見を聞いてみたいと思い、ご相談しました。 殺生について、皆様のご意見ご回答お待ちしております。どうぞよろしくお願い致します。
はじめまして この度、早産で子供を亡くしたのを期に、義父と夫とでお墓を建立する事になりました。 義父母は遠方に住んでおりまして墓は私達世帯の近く(都内)に建立したく探しています。 義父の実家(本家)のお墓は曹洞宗のお寺にありますが、今回候補に挙がっているお寺は天台宗です。 私の実母は、霊園でなく寺墓地なら同じ曹洞宗にしたほうがいいと言い、私もそれはそう思うのですが、義父母は全く信心がないので、私と母の意見に耳を傾けてくれません。もし、改宗するのであれば、何か儀礼的な事をすれば良いのでしょうか? 紆余曲折してようやく話が纏まりかけているので、早く納骨をしてやりたいと思います。 お忙しいところ恐縮ですが、アドバイスいただければ幸いです。
十方諸国土に三世諸仏様、 数多の菩薩様や天部の神様がいらっしゃいますが、 特定のお寺に檀家に入っている意識も薄く、 仏像様も身近にない 在家の者は 自分が集中して拝む仏様というのは、 どうやって選ぶのですか。 別に選ばなくても良いのですか。
私は就職活動中の25歳大学院生です。 就職する時に大切なことは5年後、10年後の計画や目標を立てる ことだということを何度も人から言われるのですが そもそも自分のやりたいことがない私には将来的な計画や目標を 立てるのが難しいのですがどうすればいいのでしょうか? また、仕事をしてから初めて自分のやりたいことがわかるという 意見もあるようですが今の自由に職業選択ができ、職業を自分で取捨選択し、その責任を自分で取らなければならない時代にはあまりこの意見はつじつまが合わないような感じがするんですがどういう風に 考えていくのがいいんでしょうか? なにかアドバイスいただけたら幸いです。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。