とにかく生き疲れました。 うつ病の影響で仕事を辞め、2年近く働くどころか生きてる事に疲れました。 自分も50歳を越え、それでも嫁と娘の生活の為に再就職をしたものの、うつ病が治った訳では無いので、日々の生活に何の目標も意味も感じる事が出来ません。 正直、嫁と娘には何の愛情も無いです。おそらく、嫁も娘も私の事が嫌いでしょうし、自分のしたい事も無いです。 いつか自分の限界を超えた時の為にと自殺の準備も出来てます。 ただ自殺に踏み込め無いのは、愛情が無くても嫁と娘の生活を苦しくしたく無いようにとは思っているからだと思います。 誤解の無いよう補足すると、私が自殺をしたら、その後始末をさせる事や世間からの目が気なるのに後ろめたさがある事くらいでしょうか。 もしかしたら、それくらいはやるから死んでくれと思われてるかもしれませんね。 願わくは、私に目掛けて車が突っ込んでくれて即死が理想ですね。 そうすれば保険も全て出るし、世間体にも事故死なら自殺と違い周囲からの目も気にする事は無いでしょう。 鬱で身体が動かす事が出来ず、仕事を休んだり早退した時の嫁の冷めた目やいつまでも鬱のせいにすんなと言われる日々に何の希望を持てと言うのでしょうか。 誰でも良いから私を殺して欲しい。 今、唯一の望みです。 早くこの生きると言う苦しみから解放されたい。 自分で打った文章を読むと相談では無く愚痴や願望を並べただけですね。 無理に返答は求めません。 ただ、誰かに苦しみを聞いて欲しかっただけだと思います。
先祖供養についてお聞きしたいことがあります。 私の知人はとある新興宗教の教徒で、以前私を勧誘した際に私たちのご先祖様についてこのようなことを言っていました。曰く、私たちの先祖は供養してもらうために自分が受けた苦しみと同じ苦しみを与えるものであるそうです。 例えば、夫婦関係で悩んでる人ならばその人の先祖も夫婦関係で苦しんだ過去があり、自分を供養してもらいたくて子孫に悪い因縁をもたらすそうです。 この話を聞いたとき、私は先祖供養は自主的に行うものであり亡くなった先祖の霊が自分から要求するものでは無いのではと考えたため勧誘の件はお断りさせていただきました。 先祖供養についてこちらのお坊さんの方々のご意見を伺いたいのですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか?
幼少期に親が離婚した際に身についた癖で、嫌なことがあると脳をシャットダウンするように、しばらく思い出さないようにして忘れてしまいます。 『思い出しかけてしまった時は無心になる』を繰り返すと、何も無かったかのように忘れられます。 これが癖になってしまっていて、去年亡くした大好きな祖母を忘れてしまいそうなんです。 忘れたくないけど、思い出すととても苦しくてやはり考えないようにしてしまいます。 この思考のおかげで、葬儀や職場への復帰はスムーズでしたが、苦しみとちゃんと向かい合って、思い出を楽しく振り返ったりしたいです。 祖母を忘れてしまいそうなのが悲しくて辛いんです。
死とは苦しみからの旅たちなのですよね? 死んだら無になるのですか? 残された人は苦しみが増しますよね。 それは亡くなる人にとっても苦しみなのではないのですか? ということはやはり死ぬことは苦しいことなのではないですか?
私は過去に不注意で他人に怪我をさせてしまいました。 踏切を渡るときに親切心で閉じる棒を押さえようとしました。 その日は雨で押さえていた棒が滑って、相手の顔に当たってしまいました。 私は動転してしまい、その場から逃げてしまいました。 きちんとその場で謝れば良かったと思っています。 しばらく忘れていたのですが、20年以上経った突然思い出して罪悪感に苦しんでいます。 自分の中では心の中で謝罪して二度とこのような過ちをしないと誓って区切りをつけたつもりでした。 この苦しみから解放されたい、どう区切りをつけたらいいのかご回答よろしくお願いいたします。
昨年の夏に祖父が他界しました。余命宣告をされており、私と母は祖父がいい最期であってほしい、と自宅で介護に取り組みました。 特に母は看取りたいという希望を強く持っていましたが、祖父は私が仕事中、母が30分目を離した間に亡くなりました。 私は祖父と過ごした時間が「看取り」だと思うと母には伝えましたが、最期を看取れなかったことを大変悔やみ、自分を責めていました。 その祖父の亡くなり方に気になる事があります。 発見時は天井に両手を仰ぎ、目と口を開けて亡くなっていたそうです。 母は周りの人から「昔に亡くなった妻(私の祖母)が迎えに来たから手を仰いだんだね」と言われ、母も納得していました。 しかし、私は息が苦しくて助けてくれって手を出していたんじゃないかと今でも思っています。 亡くなる前日、痰を出す力もなく、呼吸がうまくできなくて苦しそうでした。 わたしは祖父の息苦しさ知っていたのに、手伝えば痰はほどほどに出せているな、と勝手に大丈夫だと思ってしまいました。 「じゃね!じいちゃん!また明日!」 と手を上げたら、「おう!」と笑顔で返されました。明日はじいちゃんに会えると確信しました。 そうしたら次の日亡くなりました。 たしかに息苦しさはあったけど、顎で息をするほどではありませんでした。しかし、痰は自力で出すには厳しいものがありました。 人は普通、息が苦しかったらもがきますよね。 仰がれた手は痰が苦しくてもがいた手だとしか思えませんでした。 今となっては事実はわかりません。 悔やんでも仕方ないこともわかります。 遺族はああすれば、こうすれば、と自分を責めることも知っています。 しかし、自分が一番苦しみに気づけて対応できた筈なのに、どうして大丈夫だと思ったんだろう、と後悔しています。 母へじいちゃんは苦しまないで幸せだったよ、と言った自分に嫌気がさします。 楽になれて良かったね、は遺族が故人は楽になれた、解放されたと思わないと辛いから出る言葉だと思います。私は、当の本人が苦しんで亡くなったらそれは苦しんで亡くなったのだと思います。 結局最後に祖父に苦しい思いをさせたかと思うと祖父に申し訳なく、亡くなった時の祖父の苦しみを思うと涙が出てきます。 どうしたら祖父への後悔から解放されますか? あと、こんな考え方は祖父に失礼でしょうか? こんな私にアドバイスをお願いします。
長くなってしまいますが、よろしくお願いします。 彼女の過去の経験がいやです。 彼女は、性的な事ですが、過去に本番はしていないそうですが、相手のものを口でさせられたり、さわられたりしていたそうです。 なぜ辛いかと言いますと、僕は、結婚相手以外とは性行為はしないと子供の頃からの考えがあります。なぜかと言いますと、自分の未来の奥さんを一番大切にするべきだと考えており、結婚しない相手とする事は奥さんを悲しませる事だと思うからです。 そのため、どうしても、同じことを求めてしまいます。 僕は今まで、自分では運がいいと思っており、また、カルマについて調べる前の小さい頃から、親に、「悪いことをしたら返ってくる。」と教えられていたので全くではないですが、できるだけ悪いことをしないように生きてきました。 そのため、なぜ、自分がここまで辛い状況に置かれているのか、納得できませんでした。 とても辛くて、スマホでいろいろ調べていたら、運良く(と、自分では思っています。)カルマのことを知ることができ、 自分が過去世で同じようなことをしたので、それが跳ね返ってきたのではないだろうかと考えました。 この仮説が正しいかどうかは誰にもわからないと思いますが、このような可能性もあるでしょうか? また、僕のカルマの解釈もあっていますでしょうか? 彼女のことは愛していますし、結婚もしたいと考えています。このことに比べれば、大した不満はありません。 しかし、一人になると、そのことばかり考えてしまい、一人で何十分も、何時間も考え込んでしまいます。 辛くなった時には、過去に自分がしたことだ。と考えて気持ちを抑えているのですが、自分ではどうしても、違うのではないかと不安になってしまうことがあります。そこで専門家の方の意見を聞かせていただきたく、質問しました。 自分では、こうであると信じたいです。 長くなりましたが、どうか、よろしくお願いします。
とにかく死にたくて苦しいです。 希死念慮はずっとありましたが、特にここ2年ほど、発作のように強い希死念慮が湧いてきて、のたうち回るような苦しみを感じます。 以前は医療職で働いていましたが、いろいろな事情からその職を手放し、現在電話での受付業務で働いているのですが、元々人と話すのが苦手な人間なので、電話業務は苦痛でしかありません。うまく対応できずお叱りを受けることもしばしばあります。しかしこういう働き方がしたいと探した結果、うまく条件に合った職場だったので、なんとか頑張って勤めています。パート勤務で、生活はギリギリです。 幼少期からずっと人間関係は上手くいかず、社会生活にも苦痛を感じていて、それでもどうにかこの先生きていく光は見えないのかと思ってきました。20年近く心理学、心理セラピー、瞑想等いろいろお金と時間を費やしましたが、現実は死にたい苦しみに襲われる日々です。 友達作り、趣味作り、婚活のようなこともしたことがありますが、現在独身で親しい友人すらおらず、家族とも疎遠で、現在在宅勤務のため雑談一つする相手もいない環境です。(通勤していたときも孤立していましたが) 診断を受けたことはありませんが、幼少期の自分と周りの環境を振り返り、おそらくシゾイド系の人格障害の傾向があるのだろうと感じています。医療職で働いていた経験から、薬を飲む気にはなれず、病院に行くという選択肢は今のところありません。 自傷行為はしたことがなく、自殺は最もしてはいけないことだと思っているところがあり、おそらく私は自殺することはないだろうと思います。 ただ、この苦しみに襲われたとき、何か希望となるようなお話をいただけませんでしょうか。
29歳の女です。”結婚”“妊娠””出産”という言葉を耳にするだけで病的なくらいにビクビクして、落ち込み、鬱になってしまいます。 発端は妹が結婚したこと、私と同じくらいの年齢の親戚の出産ラッシュ、母親からの結婚への圧力、でした。 そもそも私は幼い頃から人付き合いが苦手で、青春を謳歌すべき年頃に、 友達と遊んだり、彼氏を作ったり、ということをせずにあっという間に29になっていました。 そのせいか、実年齢は29でも、気持ちの上ではまだ10代後半という感覚があり、今までちゃんと遊べなかった分、今になって友達と遊んだりしたいと思うようになりました。なのに、私の周囲は、結婚、妊娠、出産で、とてもじゃないけど10代後半のように遊ぶ状況ではなくなっていました。自分はまだ10代後半の感覚で、結婚なんてイメージできない子供なのに、周りは結婚していき、母からは「あなたも結婚しなさい」と言われ…、実年齢と、心の年齢との間にひずみができ、苦しいのだと思います。 また、結婚、出産という話を聞くと、「許せない」という怒りの気持ちも湧いてきます。「一生お互い独身でいようね」と国民全員と約束したわけでもないのに、約束を裏切られた気持ちになってしまいます。重症なのは、自分とは関係のない芸能人の結婚報道であっても「許せない」という気持ちになってしまいます。 今は少子化と言われているのに、 街中を歩くたびに「お腹に赤ちゃんがいます」というキーホルダーをつけてる人をすごくよく見かけるので、「話しが違うじゃん。全然少子化じゃないじゃん」とすごく嫌な気持ちになります。 結婚、出産した人は、皆、私を裏切って、私をひとりぼっりにした、という感覚になるのです。 今まで友達や恋人もいなく、集団生活の中でひとりぼっちのことが多かったため、より、そういう感情になるのだと思います。 結婚し、子供を産んだ人は、この先、旦那さんや子供がいて孤独じゃないけど、 私は親が死ねばひとりぼっちの孤独になる。そう思うと、みんな結婚しなければ、私と同じ孤独になってくれるのに…とまで考えてしまいます。 私も結婚すれば、そういう風には考えなくなるのかもしれませんが、今までそういう相手と巡り合わなかったのに、この先出会える保障はどこにもありません。 一生この苦しみが続く気がしています。どうすればこの苦しみから逃れることができるのでしょうか?
個人の行いは社会の行いに通じる、逆も然り自殺の原因は苦しみがほぼだろう、詳しい原因はそれぞれだが、周りが与える影響が、その人の行いを左右するのは事実であろう。 故に他の人の自死は大小あれ社会全体に影響を与える(水滴と水槽の理論)ので我々は自殺者をなるべく減らす様に行動しなければならない。自死が増える→社会が病む→苦しみが増える→自死が増えるのループこのループの最初は社会が病むかもしれない。 とはいえ、実際に追い詰められている人は周りの事など考える余裕などないであろう。よってその様な場合は理論構築よりも寄り添いや共感で心の余裕をつくる必要がある。 以下、理論構築精神的に余裕のある時に参照 ケース1 自分なんか 何らかのの理由で自己肯定感が低下した場合、これは方っておくとなぜ自分だけ→恨みに変化する。 原因となる自己肯定感の低下を解決できればいいがそれが不可能なケースも存在するはず。自分の価値観を変える、若しくは多角的な視点を持つ必要がある。恐らく実物的な苦しみは消えないが生きがいは生まれる事になるので恨みには発展しにくく自死まで考え辛くなる可能性がある ケース2 環境による攻撃等 この場合は自身が疲弊していくため特に正常な判断がし辛くなるのでは。一番はその環境から離れる事だかそういう訳にもいかないパターンも存在するであろう。この場合は自分自身と周りから距離を取り休息が必要になるだろう。何もかも疲れたは限界のサインなのですぐ自分を危険から守れる安全な場所を探すべきなのだろう。動けるうちにどれだけ安全な場所を探し回復できるかが鍵になりそうだ。 ケース3 理想への解離 このケースは自分が思い描いていた理想とのギャップに苦しみケース1と同じように自己肯定感の低下に繋がる。いろいろな状態が考えられるが手っ取り早い解決法は今に満足する事であると考える。今この瞬間をマイナスではなくスタートと考えてこれから進めばいいし進めず後退しても意外とどうにでもなる(社会保障等を使うなど)と気楽に考えるのもありかもしれない。仮に未来への絶望があったとしても今スタートラインに立てているので(少なくとも死んでいない)この状態から自分にとってプラスになる可能性の行動をすればすぐに今より好転。 ケース4 恋愛関係の悩み よくわからん がアイツの意見なんですがどうなんでしょう 長くてすみません
城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略 (私見) 釈尊の説教にしては珍しく、修行者であった過去の苦労を述懐しています。 輪廻転生は既に先達が確認しているので、終始その出離を模索していたことになります。 生があれば自然の摂理で老病死は免れず、仏教とて救うことは出来ません。 死後は苦が無くなるので、仏教は救う必要はありません。 再生を断ち切ることだけが、仏教の救いです。 仏教はその目的以外何もないのです。 「生」については、心が永続するとなれば誕生の仕組みが常識と大幅に変わります。 渡哲也の病状に関して、一時テレビに出演した臨死体験者の新堂のぶ子氏は、講演会で「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」と述べています。 また「子は授かりもの」とも言います。 またある宗教学者が、多分「大縁経(広縁経?)」に「意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と伝えています。 このことから想像すると、総てが自分の意思で生まれたのだということになります。 親は唯この世で生きるために身体を作ってくれたのです。従って「生老病死」は自己責任です。 因みに、浄土宗ではお説教の初めに三帰衣文を唱和するそうですね? その内容は「この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」だそうですね。 「度する」は多分般若心経の結論である、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の「度」ですから 正に「仏教の目的」そのものです。
ここ最近、大事な親友を亡くしました。 自殺でした。 親友は精神疾患を患っており 私が死んだら、とか つらい、死にたい、などなど よく口にしていました。 未遂もよくしていたので 今回も周りは、またか、程度に 思ったと思います。 親友からはよく相談されましたが その度に、ごめんねありがとうと 言われました。 ごめんねと言われると 何もしてあげられなくて 申し訳ない気持ちになり 胸が苦しくなりました。 多分、一番近くにいた親友は 私だと思います。 だからこそ、救えなくて 本当に後悔しています。 訃報を知ったときはものすごく ショックで悲しくて泣きました。 毎日毎日、親友のことを想っては 泣いてばかりいます。 親友は苦しみから解散されたでしょうか。 今は楽になったのでしょうか。 それだけが気になります・・・。
人と比べないことが大事だと多くの人が言っているが、世の中の多くの人は人と人とを比べ、優秀な人を会社に採用したり、奨励したりしている。 自分は自分のペースでやるべきことに取り組みたいが、とにかく周りに比べてペースが遅いので、会社に採用されたりと言った競争には弱い自信がある。 そう考えると、周りと比較して自分も頑張らないとと思うが、正直いえば頑張りたくない。自分のペースで、生きていて苦じゃないペースで物事に取り組みたい。競争はしたくない。人と比べたくないし、比べられたくない。 どのように考えれば、この苦しみから逃れられるでしょうか。
いつもお世話になっています。 長くなってしまいますがお付き合い下さい。 昨年の夏頃、仕事の都合で会社泊をした際に自社の社長(妻子持ち)に手を出され 仕事の事を考えると拒否できずに関係を持ってしまいました。(当時私はアルバイトで15歳差) きっかけはそんな始まり方で本当にただ性欲の吐け口となるような関係が何度か続き 今年に入ってからはただご飯を食べたり一緒にいるだけの時間も増えました。 そして私が社員に上がり、接する機会や相手の人間性をより知る機会も増え 他の社員の臀を拭ったり仕事が大変な時に支え合ったり、仕事やプライベートも含めて沢山色々な話をして共に過ごす時間が濃密になる内に恋愛感情が芽生え 手放し難い存在にまでなってしまいました。 元々お相手は火遊びが多く、それこそ最初は他の女性とも遊んでいたりしたのですが 私がそれに耐えられず終わりを告げた時 やり直す機会が欲しいと土下座までされて、不倫ではありながらもお互いを拠り所にするようになって行きました。 こちらが本気になった時にお相手の家庭が円満であれば身を引くのが正解だったのでしょうが 元来の火遊びが元で離婚届けにも互いに捺印していつでも出せる状態だけど子供が小学生だから耐えてるだとか 嫁さんからは「外で女でも作って。金され入れればアンタ自体はいらない」とまで言われ自分の事(炊事洗濯)は全部自分でやり 家庭内に居場所もなく会話も無いだとか言っていて、自業自得だと本人も言っていましたが本当に孤独な方でした。 知らない人から見ればよく居るクズにしか見えませんし私からみてもまぁまぁのクズだとは思いますけれど 付き合っていくうちに見えた彼の根っこは本来であれば子煩悩で愛情深く、少し寂しがり屋なだけの人なんだと思います。 前置きが長くなりましたが、昨日彼から「離婚決まった。けどこちらも終わりにしよう」と告げられました。 二兎追うものは一兎も得ずと以前私が言った皮肉が離れず、どちらかを取るのはどちらにも悪いと思い二兎追わないことにしたそうです。 私自身は終わりたくないし好きなまま会社に残るのも辛いので、現在は管理職ですが転職も考えました。 然し恋人の私は諦めるけど会社には残って欲しいと言われ 「自分だって好きだよ。嫌いだから別れるんじゃない」とまで言われる始末。 この苦しみを昇華するにはどんな考え方を知れば良いのでしょうか。
皆様からの、たくさんの真心のこもったご回答に助けられ、心の苦しみを除く方法を少しずつ理解し実践できるようになったような気がします。本当に感謝しております。 皆様のご厚意に甘えすぎているようで申し訳ないのですが、またご相談させて頂きたいと思います。 望むべきではないと分かっていても、つい望んでしまう事があります。いわゆる「無いものねだり」です。努力で手に入る物は別です。しかし、たとえ喉から手が出るほど欲しくても、諦めなければならない事はあると思います。 それを手に入れている他人が羨ましくなるたびに、「自分には縁が無かったんだよ」とか「私には分不相応なんだよ」と自分を戒めるのですが、私もなかなか欲深い人間で困ったものです、、、。 欲しいものへの執着を捨てて、きちんと諦めるために、どのように心を向ければ良いのでしょうか。
職場での人間関係で心が動揺する事多く、体調を崩しては治る、また崩すを繰り返していると出勤日数も怪しいです。どこへいっても同じ様に悩んでは体調崩すをしてしまい嫌われます。病院は通院しています。 集団で仲間外れにされるのは辛いとずっと思っていました。その気持ちは消えていないし顔をみるのも恐いです。でも最近は一つ疑問に思ってしまいます。私が休むのは迷惑かけて申し訳ないけれど、私もわざと好んで病気になっておらず、その背景では苦しみ治療して、また仕事をして休むという快感を味わいたいしなど色々な気持ち抱えています。それなのに周りの人達に病気する私をまるで悪人の様に扱われたりし、それに対してびくびくしている自分や、萎縮する自分に最近は怒りがわきました。 自分のことまで自分で否定しているみたいだと。確かに周りへ迷惑をかけてますが誠意を持って感謝のお気持ちを伝えるなどしてますし、責められてもどうしようもないので、本当に相手にできないよと思ってしまってます。
3回目の相談です。 前回までは、元夫の孤独死について相談させていただきました。多額の借金から逃げ、満足な医療を受けられず、おそらく自暴自棄になり、セルフネグレクトの結果の死だと私は理解しています。 元夫の父、義父も自死しています。会社を起こし一時はかなり業績も良かったそうですが、大きな負債を抱え自身の生命保険で補填したのだと聞いています。元夫は、ぎふを義父をとても尊敬していました。家族を守るために命を犠牲にしたと言っていました。 私は生前、元夫に義父のような最期を迎えないで欲しいと言いました。遺された家族の悲しみや苦しみは、あなたが一番知っているはずだと。私は離婚していましたが、子供に同じ苦しみを残さないて欲しいから、生き抜いてほしいとお願いしました。しかしその言葉は届きませんでした。私は今でも彼を見殺しにしたのではないかと悔やんでいます。 今でも元夫の死は悲しくて辛くてたまりませんが、もしかして子供も同じ道を選ぶ可能性があるのではないかと、それがとても怖いです。私は命に関わる病気をし、大変な治療を受け今は健康を取り戻しました。それは私自身が健康になりたいというだけだなく、子供のためにも生きていたいと願ったからです。 元夫は、借金や様々な苦しみから逃げられて楽になれたかもしれません。でも遺された子供と私は様な後始末を今でもしています。 そう考えると、元夫は大きな悲しみと苦しみを残して逝ったのです。 悲しいけど恨む気持ちも生まれました。これから子供と供養はしていきたいでが、子供の未来に陰を落とすならば許せない気持ちでいっぱいです。
はじめまして、突然の相談、失礼いたします。 自分は子どもの頃、暴力を受けて育ちました。 死ね、生まれてこなければよかった、早くいなくなれ、と何度も言われてきました。 事故の後遺症で片耳がほとんど聞こえません。 早く自立したくて高校、専門学校は奨学金で行き、アルバイトで生活費も入れていました。 社会人になってからはずっとあたたかい家族に憧れていて、今の彼女に出会いました。 付き合っている彼女は耳の聞こえないことも虐待を受けていたことも受け入れてくれたのですが、精神的に不安定で、すぐにカッとなります。 カッとなると暴言(死ね、聞こえないくせに、早く死ね、お前なんかいらない、気持ち悪い、ウザい、死んで、必要ない、存在が迷惑、親にも愛されなかったくせに...など)を吐き、殴る蹴る、つねる、引っ掻く、噛み付くなどの暴力もふるいます。 時間が経って気持ちが落ち着くと泣きながら謝ってくるのですが、同じことを繰り返すばかりです。 必要とされたい気持ちが強いのか、自分がもういいとわかってもらうことを諦めるとお前のせいで死んでやる、死んでやる、お前のせいだと喚きます。 ご家族や友人に傷つけられたことが彼女の中で残っているのだと思います。 ですが、正直辛いです。 なぜここまでされなければいけないのだろう、どうしてここまで言われなきゃいけなかったんだろう、なにが悪いんだろう、と悔しくて悲しい気持ちで眠れなくなります。 きちんと嫌なことを伝え、仲直りしても、ふとしたときに踏みつけられた悔しさや怒りが湧いてきて苦しいです。 向き合って、受け止めて、乗り越えるにはどうしたらいいでしょうか? 精神的に不安定なところも含めて、彼女を愛しています。 彼女の心を苦しみから解放するには何ができるでしょうか?
旦那が1年ほど、社内の派遣社員と不倫していました。 発覚後、泣いて謝罪してきました。 “○○(不倫相手)が1番好き。俺の表も裏も知ってるのは○○だけ。俺の性癖も見せられるのは○○だけ” とLINEしていました。 旦那はLINEの内容は、“相手に良く思われたかった。ただ、モテたかった。遊んでみたかった”と反省した様子で話してくれました。 旦那と高校の頃からの知り合いですが、今まで女遊びなどしたことがなく、彼女ができれば長く付き合い、私で2人目の彼女でそのまま結婚しました。 なので、遊んでみたかったという彼の言うことは真実だと思います。 子どもも3人おり、決して完璧な父親ではありませんが、離婚はせず、再構築することにしました。 不倫相手はシングルマザー。幼稚園児が1人いるようで、慰謝料は取らず、もう二度と連絡しないと約束させました。 しかし、相手は会社を辞めることなく、そのまま居続けるようで、私は落ち着きません。もう片耳も聞こえません。 旦那ももう連絡しないと誓いました。 やはり、相手から慰謝料を取って、金銭的にだけでも解決させるべきだったのか、このまま会社で同じフロアにいる2人を考えないように、時間の解決を待つのか。 ただただ、私は相手が許せない。もちろん、旦那の事も許せてはいませんが、再構築すると決めたからには許さなければ自分が辛いだけなんです。毎日苦しく泣いている状態です。 どうすれば、この苦しみから解放されるのか、もう助けてほしいです。
生きてるのがしんどい。 というか生きること含めて何もかもがめんどくさい。 でも死ぬ時感じるであろう恐怖、痛み、苦しみの方が圧倒的に嫌だから仕方なく生きてる。 そして「何もかもがめんどくさい」と言いながらこの文章を打ってる自分がいる。 痛みも苦しみも恐怖もなく、さらには輪廻転生なんてものも無く、死後の世界もなければすぐにでも楽になれるのになーと思いました。