こんにちは 何度か「死への恐怖」について質問させていただいてます。 あれから自分でも哲学書を読んだり宗教やオカルト、脳科学、神経科学などを調べてみましたが、自我や意識、記憶についてますますわからなくなって来ました。 死んで自我や意識が失われることが一番怖いです。 海外では死後蘇生のため遺体の冷凍保存や意識をネットワーク上にアップロードして不死を得るような試みがされています。 ただ、神経科学的には肉体と精神は不可分であり、死ねば意識が失われ、その意識自体も個体を生存させるための幻という説が出ています。 私はますます怖くなってしまいました。 「自分」というものを失いたくないです。日々変容していますが、確かにここに存在しているのです。死にたくない、滅びたくない、眠るのがこわい、と思ってしまいます。 病院で不安障害と診断されましたが、治ればそんなことを思わなくなるのでしょうか? 何度もしょうもない質問をしてしまってすみません。ただ、怖くて仕方がないのです。
初めまして。 先日、人生初の写経(般若心経)を体験させていただきました。 そのとき、「執着」からの解放について法話をいただきました。 加減が大事、だとは思うのですが執着しないことで得られる自由な心・発想・幸福感に納得すると同時に、たとえば学生のときなど、100点満点や資格合格にひたすら執着し諦められずに必死に向き合って努力し、手にした達成感や自信などもあることを思い出し、そこで「執着」についてうまい解釈が自分のなかでできずにいます。 実際今恋愛に関しても、気になっている方に粘り強く振り向いてもらえるように頑張ってみようかな?という思いと、もう、5回ほど会って相手と何も進展がないならば、執着しないで次へ向かうぞ!と思うべきか?と葛藤中でもあり、「執着」についての解釈についてもう少し、お坊さん的アドバイスをいただけると有難く存じます。 よろしくお願いいたします!
みなさまには基本的かと思われる質問ですが、お許しください。 仏教で言われる三昧とはなんでしょうか?詳しく教えてください。 その定義はあるのでしょうか?条件とか? また、それに至るための修行がありますか? 修行があるならばそれはどういったことをするのですか?
もちろん、自分も含めての話なのですが、人間って愚かだと思われませんか? 自分たちの欲望を満たすために、地球の限りある資源を好きなように使い倒し、環境を破壊している現実。 地球の命が永遠のものとでも思っているのでしょうか? 地球こそ、人間を産み出した母、言うなれば神だと思います。 その地球(母)の苦悩など全く考えず、欲望の思うままに行動し、うまく行かないと、苦しみ、嘆き、悲しむ。 本当に、お釈迦様は、そんな愚かな人間を助けるために、仏教の教えを広めたのでしょうか? 授かった命を、自から捨てることは良くないことだと判っていますが、極端かもしれませんが、視点を変えると、死を選ぶことは、自分が使う予定であった、地球の資源を別の人に捧げることになり、これこそ、究極の人の為とは成らないのでしょうか? 火葬もおかしな習慣の様に思います。人間が死んだら土葬にし、地球に戻すべきではないのでしょうか? それこそが、本当の輪廻転生じゃないのでしょうか? 人の命は大切ですが、それ以上に、地球の命は大切なものだと思います。 宗教の違いや、国家の違いだけで、争っている場合では、無いと思います。 最近の自然災害の多さは、地球からの警告だとしか、思えないです。 皆様は、どの様に思われますでしょうか?
前回のお返事もしていないうちから、質問を立ててすみません。 実はずーっと疑問に思っていたことがあって、上手く説明出来るか自信が無いのですが、もしもご存知でしたら教えてください。 あと、バカバカしいって思われると思います。 私もバカバカしいなと思いつつも、楽しみにしているんです。 私は、死んだら光になって、光の速度で他の光の形を観察したり、宇宙に行って、何億光年も先に存在している星々を観察したいなぁと思っています。 宇宙飛行士や衛星では行けない、宇宙の果てがどうなっているのかとかを自分の目で確かめてみたいと思っているんです。(死んじゃってるんですけど・・・) 死後の楽しみってやつですね。 肉体が滅んで、死後の世界でどんな姿を持ち、どういうものかはもちろん分かりませんが、今生きてるこの瞬間よりかは可能な夢に近づくんじゃないかなーと思っているんです。 仏教の輪廻転生の中に光はあるんでしょうか。 誰かの愛猫にもなってみたいし、光にもなってみたい。 来世に楽しみを持ちすぎだなと苦笑してしまうんですが、どうなんだろうと疑問を持ちました。 よろしくお願いします。
初めて質問します。 こどもの頃から1つの理想がありました。家族がいて、持ち家があり、仕事をしている自分がいる。誰に言われたわけでもなく、ただ強い意志を持ってそこを目指してきました。 ありがたいことに、20代後半で叶いました。同じような価値観を持った幼なじみがいるのですが、私たちが思い描いた理想を叶えることの難しさ(特に結婚・出産関連)について話すことも多いです。思ったより早くに実現できたなと思いつつ、簡単だったとは思いません。結構大変でした。 問題はここからです。 理想を目指して生きてきました。そしてそれが叶いました。でも、この後どうしたらいいのかわからず困っています。正確には、毎日本当になんとなく生きています。これまで理想を目指して生きてきた身としては、この「なんとなく生きる」ということが非常に後ろめたいです。理想を掲げて生きている人たちのことを羨み・妬んでいます。 何か新しい理想を見つけられればと思いますが、見つかりません。では見つからないまま何となく生きていけばいいのではと思いましたが、そんな選択をする自分も嫌です。結局、ただ時間を浪費をする毎日です。 人生に満足した後、どう生きていくのがよいのでしょうか。 何卒宜しくお願い致します。
こんにちは 初めまして タイトルの通りなのですが、頭が良すぎてツラいです 哲学書や宗教書を独学で3000冊ぐらい読んだのと、IQが高いからだと思います 僕は中卒なのですが、恋人は東大生で、恋人がいうには東大主席よりはるかに頭が良いそうです 恋人には頭の回転が速く本質が分かっていると言われます 幼い頃から周りの人間がバカに見えて仕方がなく、私的には思春期特有の万能感かなと思っていたのですが、恋人曰く、本当に並ぶ人がいないそうです インターネットで通話をするのが好きで、今まで恐らく3000人ぐらいの方と話しましたが、失礼ながら自分よりキレるなと思った方はいません 仏教ではこういうのを慢と言うと思います。僕もそう思います。他人と自分を比べないほうが生きやすいと思います。そう言った意味で仏教的に言えば無明の塊です。 けれど世俗的な意味で、いろいろな本質が分かって、しかも言語化がうまく的確なので、正直物凄く頭がいいと思います 本を3000冊読んだ結果、何も分からないので、今は阿弥陀仏に帰依しています。僕は何も分かりません。ただ念仏するしかないです どうやら、本当に自分より賢い人はいないようで、悲しいというか、寂しいです。同年代は話が合わないので、お年寄りの方とばかり話しています。お年寄りの方は、やはり経験が深く、自分には持っていないものを持っているなと思わされます 傲慢かと思われるかもしれませんが、本当にいないらしいんです。他人がバカに見えてしょうがなく、ツラいです 大海を知れ、ぐらいしか言うことないと思いますが、すみません、半分愚痴です
仏教に生きる道を探しています。大学は仏教系で少しかじってはいます。たまにお寺にいったりする段階から、仏教に生きる道を探し、人生の悩みの解決を仏教に見いだしたいと思っています。 考え方や道筋を教えていただきたいです。自分の解決から家族などの悩みの解決に結び付けばと思います。 よろしくお願いいたします。
仏教のことを知ってみたいとは思いますが、インターネットとかで少し調べてみても、なんだかすごく難しくてお手上げになってしまいます。 たまたまテレビでみたり、直接お坊さんから話を聞いたりしたら、噛み砕いてくれてるので、分かりやすく興味を持ちますが…。 結局、たぶんざっくりいうと仏様が一番偉い人(人ではないけれど)だろうなぁ。じゃあ、阿弥陀様って誰?2番目くらいに偉い人?ってレベルでよく分かりません。 こんな私の場合、お馬鹿すぎて知識を深めるのは無理ですか?
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
お忙しいところ閲覧してくださり、ありがとうございます。 常日頃から不思議に思うことがあります。 現代でも崇められている、お釈迦さま、空海さま、キリストさま… のような存在は、現代では新規に現れることはないのでしょうか? 例えば空海さまは、1000年以上も21日に「お大師さまの日」として 民間でも催しが行われたりしますよね。 平成生まれの方だと馴染みが薄れてきているのかも知れませんが、 30代後半の私の祖父母や親の年代の方を見ていると、 まだまだ大衆的に馴染みがあるのかな、と思います。 そのように、一般的にも認知度が高く偉大な存在が、 明治、大正、昭和、平成の世に現れていない?ような気がします。 (無知なだけでしたら申し訳ありません。) ・現代では一般人の信仰心や目に見えないものを 信じる心?が失われてしまったため、現れなくなったのか? ・決め打ち(摂理や何某かの力により)なのでもう現れることはない? ・たまたまここ数百年現れていないだけ? などと考えを巡らせています。 長文失礼いたしました。 また、もし失礼にあたる質問でしたら申し訳ありません。。
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
先日は、罪悪感についての質問に回答頂き、本当にありがとうございました。 これからは周囲に対して尊重の心を忘れず、謙虚に優しい気持ちを持って接しようと心がけています。 悔い改め、幸せを広げることが出来る人間になれるように努力したいとおもっています。 しかしながら、今までの自分の行動や考え方自体が全て間違っていたと気がついた今、自分のことを信用できません。 今、自分で罪悪感を感じている悪行は最近になるまでは、気付くことが出来ませんでした。 ですので、テレビ等で悲しくなるニュースや不祥事、こんな酷いことをした人がいる、などの会話を聞くと 私自身もそんなことをしていた可能性があるかも知れないと過去の自分に思い、 未来の自分もそんなことをしてしまう可能性があるのではないかと、とても不安になります。 どのようにしたら、まっとうな人間となることができるのでしょうか。 そして自分のことを怖がらず信じていけるようになるのでしょうか。 ご助言ください。よろしくおねがいいたします。
こちらで質問していい内容ではないかもしれませんが、相談できる人が周囲におらずこちらに書かせて頂きました。 神道式で葬儀をあげた母の50日祭が迫っていまいす。 母が亡くなり、良く考えもせず母の親が神道式で葬儀をあげていたため同じように神道式で葬儀を行いました。 しかし生前の母のことを思い出すと、特に信仰していたわけではありませんが、仏教の教えやお寺の雰囲気に母は惹かれているところがありました。 このことは生前母と一番会話をしていた私だから知っていたことですが、母が亡くなった直後は呆然としてしまい葬儀のことを他の家族に任せっきりにしてしまいました。 今となっては母はお釈迦様のもとに行きたかったのではないかと思い、これで本当に良かったのかと思い悩んでいます。 また、神道では故人は家神になると言われていることを知り、それも母を家に縛り付けてしまうようで抵抗を感じています。 神道を悪く思っているわけでは決してありません。 ただ、母は本当は成仏したかったのではないかと思うと心が苦しいです。 母はお釈迦様のもとには行けないのでしょうか?
先程の質問で頂いた回答の一部が、ツボにはまってかなり笑い続けています。まだ眠れません。 そこで新たに質問で聞いてみたくなったので、よろしくお願いいたします。 私がはじめて般若心経を読んだ本では、ぎゃーていぎゃーていの部分は『往き往きて』と書かれていました。何年か後、別の何かで『行こう行こう』と書いてあったと思います。 最近は知らないですが、行こう行こうなのかな?と思います。 ところで私は、日本語訳と原文の英語があった場合、もちろん日本語の方が分かりやすいのですが、英語は英語で元の感触というか、日本語訳との違いを感じ、英語の方が元々伝えたかった感じをよく伝えてるだろう気がしたりします。ネイティブはまた私と違う感じで書いてるかもしれませんが、日本語訳も合ってるのに違いがある気がするって面白いなと思ったりします。ぎゃーていのサンスクリットの感じって、日本語で読んだときと違うなって思った方はおられますか? 私は『ぎゃーていぎゃーてい』と『往き往きて』では、ぎゃーていが分からなさ過ぎて違いがありません。 行こう行こう、と言ってる言葉自体が邪魔なのかな、と思いましたが、サンスクリット語を私が語学として言語を知っていたら「ぎゃーていは必要だよ!」と思ったりするのかな、と聞いてみたくなりました。
人への悪口や批判的な事が自分の中に浮かぶとき、自分の事は棚に上げて、とか何様なんだ、などと自問自答が起きることがあります。 悪口を言いたい瞬間というのはありますが、言う事や言っている自分にやや抵抗を覚えます。 なんだか醜い事をしているような、後ろめたい感情を含んでしまいます。 出来るならばあまり悪口を言わないように、と一応心がけています。 とはいえ、世の中は悪口、愚痴を平気でいう人が多くいるように感じます。 その人達は多少なりともそういった後ろめたさのようなものは感じないのか、と不思議に思います。 そこでお聞きしてみたいのですが お坊さんも他人への悪口を言いますか? また、仏教やお坊さんの立場から見て、悪口、他人を悪く言う事はするべきでないことなのでしょうか?
どういう状態(たとえばこころの状態など)で生きていれば仏道を歩んでいることになりますか? また、結婚したほうが仏道を歩める場合ってありますか?それとも、仏道を歩みたいなら、結婚は望まない、しないほうがやっぱりいいですか?
こんにちは。 初めてメールします。 人付き合いは良い方で、友達が昔はいっぱいいたり、結婚式を誰かが挙げたら、必ず歌ってくれ、友人代表のスピーチしてくれ、等々どれだけやったかわかりません。 でも、プロフィールの通り、周りの皆が結婚し 子供ができ、忙しくなると、簡単に、本当に簡単に、人を切る。 ヤクザみたいな人にからまれて、助けを乞うために必死で向かった場所も友達の勤め先で、その時友達が電話の受話器上げて、営業妨害だからと、警察に連絡しようとしたので、帰りました。 僕にはもう友達は一人しか居ません。 一生続けていきたいですが、20年、30年付き合っても簡単に消えちゃう人も居るので、いつか、消えてしまうと怖い所もある。 私は未年で、別れた両親の父親方の方に遊びに行った時、大日如来のカード?みたいな金色のカード状のモノをずっと10年近く財布に入れてます。 で、やっと質問なんですが、自傷行為をずっと続けて来たので、そんなのは知れてる。 守り神?の大日如来を背中に入れました。 痛かったです、ものすごく。 今後、何があっても耐えれる気がします。 でも、誰にもこの事は言えません。 人は必ずいつか死ぬ。 それは、今日ではダメでしょうか?
先日、知人から鮮やかに色づいた美しいアジサイをいただいたので、花瓶に生けながら様々な事を感じていたら、自分が寂しいような哀しいような複雑な笑みを浮かべているのに気がつきました。(変なスイッチが入っていたんです。) それはまぁいいとして、近頃ずっとhasunohaを読んでいた影響なのか、昔、疑問だった拈華微笑の話を久しぶりに思い出しました。 確か、ニッコリと微笑んだのだとか。 未だに何を表しているお話なのか分かりません。改めてネットで調べてみても、やはりサッパリです。 ニッコリ(?)微笑んだのは何故でしょうか?何が伝わったのでしょうか? よろしくお願いします。